The moral sense of the books becomes confused in the film.
For example: Arren's murder of his father in the film is unmotivated, arbitrary:
the explanation of it as committed by a dark shadow or alter-ego comes late, and is not convincing.
Why is the boy split in two? We have no clue.
The idea is taken from A Wizard of Earthsea, but in that book
we know how Ged came to have a shadow following him,
and we know why, and in the end, we know who that shadow is.
The darkness within us can't be done away with by swinging a magic sword.
But in the film, evil has been comfortably externalized in a villain,
the wizard Kumo/Cob, who can simply be killed, thus solving all problems.映画においては、原作にあった倫理的な寓意もあやふやなものになってしまっています。
たとえば、アレンが父親を殺害したところ。動機がわからず、気まぐれな行為になってしまっています。
「影」ないしもう一つの自分がそれをなさしめたのだ、という説明が後になって
入るのですが、説得力をもったものではありません。
なぜ少年は2つに分裂するのでしょう? これでは全然わかりません。
このテーマは実は『影との戦い』に由来したものです。
その作品では、ゲドがいかに、またなぜ「影」をもつにいたったか、わかるようになっていますし、
最後のところでは「影」の正体もわかるようになっています。
私たちの中に存在する「影」は魔法の剣を振り回して取り除けるようなものではないのです。
にもかかわらず映画では、「悪」の存在は魔法使いのKumo/Cobというならず者として
具象化され、彼を殺せばそれですべて片がつくということになってしまっています。
In modern fantasy (literary or governmental), killing people is the usual solution
to the so-called war between good and evil.
My books are not conceived in terms of such a war,
and offer no simple answers to simplistic questions.現代のファンタジー(文学/政治を問わず)は、いわゆる善と悪との戦いを
人々の殺害によって解決するのが通例です。
『ゲド戦記』はそのような戦争をコンセプトとしたものではありませんし、
単純化された問題への単純な解決を提示するものではないのです。
現代のファンタジー(文学/政治を問わず)は、いわゆる善と悪との戦いを
人々の殺害によって解決するのが通例です。
『ゲド戦記』はそのような戦争をコンセプトとしたものではありませんし、
単純化された問題への単純な解決を提示するものではないのです。
エイサップとリュクスだけは、サコミズを鎮めるために戦場を駆けるのだった。
魂鎮めの話になるとはな。
戦後60年間、老いることなく戦没者の魂で出来た翼の魔力で生き続けた王の心を、姫と騎士が救うなんて!富野神話素晴らしいな。俺の中で、ロード・ダンセイニとトミノは同格。というと誉めすぎ?
宮崎駿監督はナウシカをテレビでやればいいのに。あれもある意味魂鎮めだったなあ。クシャナ様をちゃんと描いて欲しい。