玖足手帖-アニメブログ-

富野由悠季監督、出崎統監督、ガンダム作品を中心に、アニメ感想を書くブログです。

当サイトはGoogleアドセンス、グーグルアナリティクス、Amazonアソシエイトを利用しています

フィクション最強の敵は親

http://d.hatena.ne.jp/kanabow/20070718/p2
それはボクもすごい思っていて、トミノ講演会で直接聞こうかと思ったくらいでした。(別の事を聞きましたが)
で、他の講演とかインタビューを見ると、最近の富野監督は子育てを終えたからか、「親はなくとも子は育つので、親の一番の仕事は子供の邪魔をしないことだ」という感じです。
でも、やっぱり作劇上親って邪魔ですよね。
親がいるとなんか飛べないんですよね。
だから、主人公と同じ道を行くとか主人公を肯定する理想的な人として出すか、最初から死んでるか、敵として死ぬとかになっちゃう。
それか、友達親子みたいな。
もっと現実の親って言うのは中途半端に割り切れないうっとおしさを持ってると思うんですけどね。


親を超えるでもなく、親の尻拭いをするでもなく、親の後を追うのでもなく、普通に親の存在を容認しながら親とは違う道を歩むような自由な主人公を描きたいと思うのですが、難しいです。
ダンバインのショウはよかったけど、ああ言う風にはっきり親を捨ててしまうのも、作為的だよなあ。


だから、脳内妹は僕の妹ですけど、僕の親を名乗る人の子ではありません。



作品の気持ちよさを追求すると、親って言うのはフィクションを見ている人に現実を思い出させてしまうので、気持ちよくならない.



つーか、若年層むけフィクションに熱狂する人は親なんか嫌いなのかもしれませんな。親と上手くいってたらアニメなんか見ないでスポーツしたりとかするんじゃないのかという、、、恨みが。
いや、それでも俺はアニメを見る!



まーふつーに、話に絡まないけど主人公とは強いかかわりのある人を出すと話がこんがらがるからじゃないですかねえ。
スラムダンクおおきく振りかぶっての違いはここらへんかなー。

こういう風にフィクションの構造に付いて疑問を抱く主人公はミヒャエル・エンデはてしない物語のバスチアンなんですが。
これも親の話でもあったですね。
バスチアンの親はどうだったかなー。息子の冒険は知らないが、息子を肯定してやる、と言うスタンスだったよーな。
日本の親は管理運営しすぎなのかもな。