玖足手帖-アニメブログ-

富野由悠季監督、出崎統監督、ガンダム作品を中心に、アニメ感想を書くブログです。

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赤木智弘と宇野常寛を批判する!!私は病原体になりたい

前のエントリを参照してくだちぃ
玖足手帖-アニメ&創作-

つまり、僕はそういう気分だって言う事。
そういうわけで、必死こいて働いてたりしたわけですが、僕はまだまだ恵まれてるんですよね。
僕が必死こいてバイトしたのは、働いたら働いた分だけボーナスや残業手当がつくのが面白かったわけだし。
でも、僕の友人では残業代が出ない人がいる。
半分公的な福祉施設で働いているんだが、タイムカードを5時に押させられた後10時まで働かされるのって、どんだけぇ〜ッつうか、犯罪だろ。
でも、ほかに行き場が無いからやめないのかなあ?
他にも、たまに同窓会とかに出かけると20代の友人のほとんどは社会人5〜3年目なのだが。(僕は留年しまくりの引きこもり)
半分以上が辞めてる。
辞めてない人も辞めたいし仕事が嫌で嫌でタマランという。体と心が壊れるってサ。
はははは。



働きたくないでござる!!!絶対に働きたくないでござる!!!
http://zmock022.blog19.fc2.com/blog-entry-929.html
ほんと、この国はどうなって行くんでしょうかね?
まあ、どうなろうとなるようにしかならんのだが。
それにしても、普通に人々が生活していくためには普通に犯罪行為をしないと経済的な帳尻が合わないんだよね。
第3世界から資源や食料を超廉価で輸入するのも。
僕はコンビニでバイトしている時に「空き缶と生ゴミを混ぜて捨てろ」と店長に言われて、仕事を辞めたくらい労働意欲が無い。


働きたくないでござる!!!絶対に働きたくないでござる!!!


何でこういう世の中になってしまったのか。
日常はちっとも退屈じゃないよ。嫌なイベントが目白押しだよ。


ここで、話題を変える。
世の中には、3種類の生物しかねえ。
動物と植物と菌類だ。
植物的な人は価値を作る。例えば、ガンダムを作ってる人とか農家とか。
こういう人が作った価値を、動物的な人がパイを奪い合って生きるわけだ。サラリーマンとか株長者とか政治家だな。
んで、そういう人類どもが作った廃棄物(子どもとか老人とか)をボクの友人の残業代が出ない人で面倒見るっていうわけ。これは菌類の仕事だな。
菌類の仕事は見向きもされません。
だって、菌だから。
そういう人は残業代も出なくて当然というのが今の社会なんだよね。
本当は、こういう人が居ないと世界は汚物でまみれてしまうんだけど、こういう人は尊敬だけで無く賃金も低いよね。
昔は部落制度とかがあって、社会の枠組みからはみ出した不法者と言う所で、屠殺業者とかが一定の権力を持つ地域が合ったのかもしれないが、よく知らないし、現代は平等という建前上、そういう反則もなく、汚れ仕事をする人はひたすら隠される。
本当はこういう人が必要なんだけどなあ。
曹達泉 格差社会考2

赤木のようなフリーターは経済が要求するところにより生産されている。彼のようなマイノリティは社会が構造的に生み出しているのである。だが増えすぎたフリーターニートは社会のお荷物である。引き取り手のいないお荷物となった彼ら(いや、我々か)を、社会はリサイクルすることよりもゴミとして捨ててしまうことを選んだ。利用価値のないゴミとなったのは我々の努力不足が主因である、というのが、奴らの主張である。
 もし、彼らが「君たちにはすまないけれど、我々の老後と若い世代のために死んでくれ」と言うのならば、我々の世代の苦痛はいくらか和らいだかもしれない。我々の痛みに対し、ねぎらいといたわりの言葉があったのならば、社会の犠牲となって「戦死」することにも意味を見いだすことは可能だ。しかし彼らは我々の犠牲は「自業自得」だと言う。

社会って言うのは汚れ役を必要とする。穢多、非人は職業や親の犯罪歴などから決まっていたわけだが、現代は平等という建前理論が浸透したので、自己責任が新たな差別の理由付けとなる。原因はどうでも良くて、汚れ役を引き受けるものがいればいいんですよね。



で、なぜか動物的な人が金を多く手に入れる。
当たり前だ。動物は奪う事で素早く動き、それによってまた奪う。植物や菌類は自分の手の届く物に作用するが、動物は際限が無い。
現代はそういう動物的な思想に支配されていると思うんだ。
「丸山眞男」をひっぱたきたい
深夜のシマネコBlog

国民全員が苦しむ平等を
 佐藤俊樹氏は『不平等社会日本 さよなら総中流』の中で、ホワイトカラーとブルーカラーの世代間移動について、戦後の高度経済成長で一時的に開放性が大きくなったものの、団塊世代の時点ですでに開放性は戦前のレベルにまで小さくなったと考察している。すなわち、戦争が流動性を押し広げ、社会が安定するにつれて流動性は失われていった。
 それでも、経済が右肩上がりの時代は問題がなかった。流動性がなくとも、経済さえ右肩上がりであれば、給料は増え続けたのだ。給料が上がるということを通して、すべての労働者が報われていた。
 三種の神器(白黒テレビ、洗濯機、冷蔵庫)や3C(カラーテレビ、クーラー、自家用車)、それに持ち家や結婚・出産などの家族関係の構築、おまけに憧れのハワイ航路もつけておこう。こうした「庶民の夢」と呼ばれたものを、この時代の人たちは手にすることができたのだ。格差は確かに存在したものの、それは「アイツは3ナンバーに乗っているのに、俺は普通車だ」というレベルのものであり、現在のような、人間が生活するうえで致命的な格差ではなかった。
 私たちだって右肩上がりの時代ならば「今はフリーターでも、いつか正社員になって妻や子どもを養う」という夢ぐらいは持てたのかもしれない。だが、給料が増えず、平和なままの流動性なき今の日本では、我々はいつまでたっても貧困から抜け出すことはできない。
 我々が低賃金労働者として社会に放り出されてから、もう10年以上たった。それなのに社会は我々に何も救いの手を差し出さないどころか、GDPを押し下げるだの、やる気がないだのと、罵倒を続けている。平和が続けばこのような不平等が一生続くのだ。そうした閉塞状態を打破し、流動性を生み出してくれるかもしれない何か――。その可能性のひとつが、戦争である。
 識者たちは若者の右傾化を、「大いなるものと結びつきたい欲求」であり、現実逃避の表れであると結論づける。しかし、私たちが欲しているのは、そのような非現実的なものではない。私のような経済弱者は、窮状から脱し、社会的な地位を得て、家族を養い、一人前の人間としての尊厳を得られる可能性のある社会を求めているのだ。それはとても現実的な、そして人間として当然の欲求だろう。
 そのために、戦争という手段を用いなければならないのは、非常に残念なことではあるが、そうした手段を望まなければならないほどに、社会の格差は大きく、かつ揺るぎないものになっているのだ。
 戦争は悲惨だ。
 しかし、その悲惨さは「持つ者が何かを失う」から悲惨なのであって、「何も持っていない」私からすれば、戦争は悲惨でも何でもなく、むしろチャンスとなる。
 もちろん、戦時においては前線や銃後を問わず、死と隣り合わせではあるものの、それは国民のほぼすべてが同様である。国民全体に降り注ぐ生と死のギャンブルである戦争状態と、一部の弱者だけが屈辱を味わう平和。そのどちらが弱者にとって望ましいかなど、考えるまでもない。
 持つ者は戦争によってそれを失うことにおびえを抱くが、持たざる者は戦争によって何かを得ることを望む。持つ者と持たざる者がハッキリと分かれ、そこに流動性が存在しない格差社会においては、もはや戦争はタブーではない。それどころか、反戦平和というスローガンこそが、我々を一生貧困の中に押しとどめる「持つ者」の傲慢であると受け止められるのである。
 苅部直氏の『丸山眞男――リベラリストの肖像』に興味深い記述がある。1944年3月、当時30歳の丸山眞男召集令状が届く。かつて思想犯としての逮捕歴があった丸山は、陸軍二等兵として平壌へと送られた。そこで丸山は中学にも進んでいないであろう一等兵に執拗にイジメ抜かれたのだという。
 戦争による徴兵は丸山にとってみれば、確かに不幸なことではあっただろう。しかし、それとは逆にその中学にも進んでいない一等兵にとっては、東大のエリートをイジメることができる機会など、戦争が起こらない限りはありえなかった。
 丸山は「陸軍は海軍に比べ『擬似デモクラティック』だった」として、兵士の階級のみが序列を決めていたと述べているが、それは我々が暮らしている現状も同様ではないか。
 社会に出た時期が人間の序列を決める擬似デモクラティックな社会の中で、一方的にイジメ抜かれる私たちにとっての戦争とは、現状をひっくり返して、「丸山眞男」の横っ面をひっぱたける立場にたてるかもしれないという、まさに希望の光なのだ。
 しかし、それでも、と思う。
 それでもやはり見ず知らずの他人であっても、我々を見下す連中であっても、彼らが戦争に苦しむさまを見たくはない。だからこうして訴えている。私を戦争に向かわせないでほしいと。
 しかし、それでも社会が平和の名の下に、私に対して弱者であることを強制しつづけ、私のささやかな幸せへの願望を嘲笑いつづけるのだとしたら、そのとき私は、「国民全員が苦しみつづける平等」を望み、それを選択することに躊躇しないだろう。

赤木智弘
朝日新聞社 「論座 2007年1月号」

まー、戦争になってもダメな奴(俺とかカテジナ)はダメだし、イケてる奴(ウッソ君)はいけてると思う。Vガンダムを見る限り。


つーか、戦時下では思想犯と小卒では平等になるけど、政治家と庶民は平等じゃないよねえ。
まあ、それよりも僕がこの論文で問題視すべきなところは、

 しかし、その悲惨さは「持つ者が何かを失う」から悲惨なのであって、「何も持っていない」私からすれば、戦争は悲惨でも何でもなく、むしろチャンスとなる。
 もちろん、戦時においては前線や銃後を問わず、死と隣り合わせではあるものの、それは国民のほぼすべてが同様である。国民全体に降り注ぐ生と死のギャンブルである戦争状態と、一部の弱者だけが屈辱を味わう平和。そのどちらが弱者にとって望ましいかなど、考えるまでもない。
 持つ者は戦争によってそれを失うことにおびえを抱くが、持たざる者は戦争によって何かを得ることを望む。持つ者と持たざる者がハッキリと分かれ、そこに流動性が存在しない格差社会においては、もはや戦争はタブーではない。それどころか、反戦平和というスローガンこそが、我々を一生貧困の中に押しとどめる「持つ者」の傲慢であると受け止められるのである。

ここ。
ここに流れるのは正しく動物的な価値観であり、「価値は有限であって作り出せず、誰かから奪わなくてはいけない」という思想。
これは赤木氏だけの問題ではなく、「民主党が勝ったらGDPが下がるからダメ」とか日経に書いてある。


404 Blog Not Found:書評 - 若者を食い物にし続ける社会
勝ったのは無党派・リベラルか労組・マスコミか - アンカテ

参議院選挙は民主大勝に終わったわけだけど、勝ったのは無党派・リベラルなのか労組・マスコミなのか。
まだ選挙権のない子供たちだ。


2007参議院選挙特集 - 投票に役立つマニフェスト - 分野別マニフェスト概要・年金
このマニフェストの中で、若者を向いているものは、一つもないのだ。

そもそも、「若者政策」という項目すらない。各政党が誰に対して媚を売っているかはあまりに明らかだ。民主党案は若者の視点から行けば一番マシなように思えるが、それでも「消費税は全額年金財源に充当する」というのは、若者には明らかにマイナスだろう。どの党を選ぼうが、誰に投票しようが、候補者の目が今日の票田を向いている限り、彼らに勝利はないのだ。

ジジババが自分の気持ちよさを死ぬまで守るために生きようとする態度が問題なんですよね。
これに対して、私が信仰している宗教の教祖がこういうことを言ってました。
Sleepydragの戯言+α |情けない神の国の片隅で

地球が山一証券のように、自己破産を宣言した時には、逃げ場が無いのが我々の子孫なのであるということは、もう少し真剣に考えるべきなのだ。
僕は、仕事で忙しくなると、余計なことが気になったりするから、こんなニュースを硬めで見ていたりすると「憂国」という短編映画を思い出したりする。
監督脚本制作、主演が、あのノーベル文学賞の候補ともなった三島由紀夫
 

中略


それでも27年前は、まだ割腹に身を準じる美を演ずる余地があったのだが、
それでも、すでに「葉隠」の“死ぬことに見つけたり”は否定された。
であるが、地球が逼迫するという現実が想像できるようになった今、地球を憂う大和心をいかに発露させるかという時に、かような情熱と英知をもった者が、インテリジェンスを正確に発動してもらいたかったと思う。



殉ずるべきものは、国家でも、君主でもなく、子孫に対してである。
このように下位のものに殉ずるという発想、この程度の思想転換が、なぜ京都でなされなかったのだろう?
地球保全の上に立った論理と道徳の醸成と、戦争の無い空間で生きることの苛烈さを想定して、自己鍛錬しなければならないと討論すべきだったのだ。


インテリジェンスをすりあわせの道具に使うのではなく、ハードに使うべき時代が始まったのである。

富野由悠季は物事をちゃんと考えてるので好きです。彼自身にも迷いが合って考えを常にアップデートしつづける姿勢を、その言葉以上に信じます。現在進行形の教祖だな。
で、芸能人や萬画家で創価学会員の人が多かったので、ちょっと聖教新聞を読んでみた。
島本和彦のマンガチックにいこう!の次の番組のスポンサーが「そうか〜がっかい〜♪」だったし甲子園にも出たので。
なんか、聖教新聞には池田大作が偉大という事ばっかり書いてあって、池田が何をして、何を言って、どう面白いかという事がわからんかったので、ウィキペディアで調べてみたら、南無妙法蓮華経と唱えたら幸せになって、信者を増やしたら幸せになれるとか書いてあった。
なわけねー。
大富野教の方が哲学としては上だな。いや、創価のことはあんまり知らんが。
創価の人はリアルで僕を怒りに来ないで下さい。怒られるのは苦手です。
こないだヤクザに「お前の大学に乗り込んでやる」と言われたときは引きこもりだったので別に良かったけど。
京都精華大学ガンダム蔵書を荒らしたら僕はキレて3人くらいは殺すと思う。
だって、僕は富野が好きだから!夢の中で一緒に温泉に入るくらい好き。


まあいいや。閑話休題


で、赤木の世代の問題は、そういう既得権を守る爺ババアから動物的に果実を搾取するという方策に出ないという事だな。
つーか、そんな事をしても意味がないと分かっている。
僕等が搾取する側になっても全体的な問題は解決しないという事が分かる。
だから、「ひっぱたきたい」という程度の願望なんだよね。
あとはせいぜい戦争が起きてプライドを満足させながら死にたいということ。
で、僕はこれは賢いと思う。すくなくとも、ゆとり世代ゼロ年代決断主義のように「俺がルールだ!俺が搾取する!」ということを肯定するよりは全体が見えている。
そこは評価したい。

それでもやはり見ず知らずの他人であっても、我々を見下す連中であっても、彼らが戦争で苦しむさまを見たくはない。だからこうして訴えている。私を戦争に向かわせないで欲しいと。

というように、赤木氏は本質的には優しい人だ。
でも、彼は僕から見るとあんまり頭が良くないと思う。
つまり、
「価値は有限であり、誰かから奪わないといけない。」「だが、価値を奪う機会を自分たちは最初から奪われている」「本当は社会から人間として認められたいが、認められる人間も有限だ」「ゆえに、みんなわやになってしまえ」

けっきょく、「自己責任」 ですか

1 戦争は、それ自体が不幸を生み出すものの、硬直化した社会を再び円滑に流動させるための「必要悪」ではないのか。戦争がなくなれば社会が硬直化、すなわち格差が発生し、一部の人に不幸を押しつけることになる。ならば、戦争がなく、同時に皆が幸福な社会というのは、夢物語にすぎないのだろうか?

2 成功した人や、生活の安定を望む人は、社会が硬直化することを望んでいる。そうした勢力に対抗し、流動性を必須のものとして人類全体で支えていくような社会づくりは本当に可能だろうか?

という思い込みに捕われている所である。
赤木智弘にひっぱたかれたくない! - アンカテ

1「普通の人が普通に働けば、普通に生活できる社会を構築するべきだ」と赤木氏は言うが、それは現代の経済の中では不可能だと思う


2その不可能を可能と見せかける為に、社会のあちこちに無理があり、その犠牲が赤木氏の世代に集中していることには同感


3弱者皺寄せの構造への指摘がことごとくスルーされるのは、 「普通の人が普通に働けば、普通に生活できる社会」が不可能になっていることを、多くの人が認めたくないから


4具体的な策としてはベーシックインカムしかないと思う。「普通の人が普通に働けば、普通に生活できる社会」をあきらめれば、その財源は出現する。


5それが嘘か本当か知らないが、とにかく私をひっぱたくのはやめてくれ

このessa氏の観測は、観測としては正しいが、観測以上のものではなく、思考停止に陥っている。
まあ、彼はプログラマーとして優秀に働けているので、逼迫して下層階級のことを考える必要も無いのだから、必要なことだけやってたら良いと思う。
40代まで生きたんだから、ぶっちゃけもう未来の事は考えなくて死んでも良いと思う。(富野は脳が10代だから生きろ)



ここまでのまとめ


ボクの現状認識

人間には3種類いる
価値を生み出す植物型人間(セレブとか、富野とか、技術者とか)
価値を移動させる事で生活する動物型人間(正社員とか、ヤクザとか)
人間どもの必要インフラを整え、廃棄物(老人と子どもと障害者)の面倒を見る菌類人間(負け組フリーター派遣社員介護福祉士

赤木智弘の論文

絶望した!自業自得という建前で負け組を必要とする社会に絶望した!
ちっくしょー!どいつもこいつも俺を見下す事で安心しやがってー!
みんな(日本国民)滅べ!
「国民全員が苦しみつづける平等」を望みます。

けっきょく、「自己責任」 ですか
赤木智弘の論文追記

動物型人間は社会を硬直化させることで生み出された価値を独り占めしている!
それを流動化させるためには戦争が必要だ!

(まあ、僕は戦争が起きても戦前の権力には縛られてるとは思う。政治は。地主は損をしたが)


政治の状況

自民党は既得権を守って、改革の振りをしても改革をせず、格差を助長して企業を優遇して、数字上のGDPで帳簿の帳尻を合わせるだけ。
民主党は自民よりはマシに見えるから今回は勝ったが、それも比較でしかないよなあ。
田中康夫は国際救助隊を作りたいとか言ってた。サンダーバードか。


大富野教

殉ずるべきものは、国家でも、君主でもなく、下位のものである子孫に対してである。
地球保全の上に立った論理と道徳の醸成と、戦争の無い空間で生きることの苛烈さを想定して、自己鍛錬しなければならないと討論すべき。


創価学会

信者を増やしたら、幸せになれる。と偉大なる池田大作先生が言ってた。


これらのメタバグ(狂った世界が生み出した情報のカケラ)を脳内メタタグ(たったひとつの冴えたやりかた)製造機にぶち込んでみた。
ぐ〜〜〜り
ぐぅ〜〜〜〜〜り
みみみみみみみみみみみみみみみみ
(どうでもいいが、電脳コイルはマイコ先生の堂ノ脇恭子さんが好きなんよー。おジャ魔女どれみの横川信子も好きだったし)
で〜〜〜けたぁ〜〜〜〜〜!


わたしは、病原体になりたい
わたしは植物でも、動物でも、菌でもない、ウィルスになりたい
生きようとするから苦しむのです。
ウィルスは生きていない
「お前は生まれたときから死んでおるのだ。身にまとった服は誰が与えた?家も食事も命すらも、全てわしが与えたもの。つまり、お前は生きたことが一度もないのだ!」

ルルーシュは共感できるなあ。
何が共感できるって、妹萌なところ。
妹が居たら他に何もいらん。


このブログのアフィリエイトを解析したら、読者のお前らはエロフィギュアの購入回数が一番多いバカなキモヲタばかりなので、もうちょっと分かりやすく書いてやる。
(だったら売るなよ・・・。マイドオオキニ!)


僕は、基本的にニートであり、たまにバイトをするけどあまり役に立たない。
体も脳も弱いので、動物的に人から物を奪う事は出来ない。


小学生の時に、イライラした親に怒られながら考えた。
「この世はストレスの生成と押し付け合いで出来ている。だが、それだけではエントロピーが増大する一方だ。
ストレスを誰にも押し付けずに解消しなければ、みんなは幸せになれない」
そこで、僕は小学生の時からオナニー中毒になった!
そう、俺にできるのはオナニーだけ!オレの人生はオナニーなんだよおおおおおっ!
ハイパーセルフプレジャーアアアアッ!!


だから、植物型人間に成って価値を生み出す事も出来ないと思う。

「世の中は厳しい」なんて大嘘 - アンカテ
一流の企業で正社員として安定した身分と充実した仕事を確保するということは、ずっと難しいことになる。どんな業界も、寡占化が進み、トップ企業はスリムになっていくだろう。ごく少数の社員が、ITと集団知クラウドソーシングを活用しながら仕事をする。特別な才能を持たない普通の人にとって、そういう場への参入は、「非現実的で成功するほとんど可能性がない(けど万が一成功したら莫大な見返りがある)生き方」になるだろう。


一方で、アーチストになることはずっと簡単になる。


どんなジャンルでも、競争相手は世界中のあちこちにいて、そこに参入するための条件を満たす国は増えつつある。しかし、それは、単一市場の拡大ではなくて、市場の数が無数に増殖していくということだ。


音楽からアニメからゲームから演劇から全部ひっくるめて、日本全体にジャンル別に細分化された1000個の市場が出現して、各市場において、専業2〜3人と兼業100人ずつを養うということなら、充分あり得る話だ。そのうちいくつかの市場は、今のオタク市場やアニメ周辺産業みたいな形で、顧客ベースを海外に広げているかもしれない。


兼業も含め10万人いるなら、アーチストを目指すことは、「誰にでも可能とは言えないが努力次第では充分可能であり、現実性を考慮しつつ多少高めに置く人生目標としては適切なレベルの夢」になるだろう。兼業アーチスト+バイトという着地点を目指し地道に研鑽をつむことは、堅実かつ意義ある仕事で、尊敬されるべき生き方になるだろう。


たとえば、身分として大企業の正社員でいる人の数はそれほど減ってないけど、大企業の中で正社員に払われるコストにふさわしい仕事をしている人の数は、相当減少しているのではないか。会社が丸ごと税金を強奪することで成りたっているような企業も多い。

そもそも、社会にとって有用な価値を創造してそれで稼ぐ企業が本当の一流企業である。そういう意味での「(本物の)一流企業の(本物の)正社員」というのは、本当は既にもの凄い狭き門になっているけど、既に入っている人が残っているから目立たないだけなのだ。

受け取る給与に見合うだけの価値創造に貢献してない多くの人が、自分の地位にしがみついている。そういう生き方自体を批判する気はないが、そういう人たちが自分の経験に基づいて生み出す言説は、社会にとって非常に害になるものだと思う。

価値を一切創造しない人にとって、自分の給料とは、他の誰かが稼いだ金を奪うことでしか得られないものだ。確かに一定の価値を奪い合う生存競争は、熾烈なものになることもある。「世の中は厳しい、甘いもんじゃない」と言う人は、そういう競争の中にいる人だ。

それは、その人たちが生きる世界の中では真実なのだろう。それを否定するつもりはないが、その経験を社会全体のこととして一般化するのはどうだろうか。

どこかに価値を創造する人がいなければ、奪い合い競争をするための原資も得られない。

大企業の中で、大した価値を生まずに正社員の給料をもらっている人たちは、そのことを否認した上で、自分の信念を組み立てているのではないだろうか。そういう人が、わずかながらでも自分で価値を創造しそれで食っていくという、WEB自営のような生き方を認めることは難しいだろう。

もちろん、価値を創造するということも簡単ではない。「創る」ことにも厳しい競争がある。それを含めて「世の中は厳しい」というなら、それは筋が通った意見である。

ただし、「奪い合う競争」の中での厳しさと、「創り合う競争」や「つながり合う競争」の厳しさは全く別のもので、厳しさは避け難いとしても、どちらの種類の厳しさを取るかは選択できる。


私自身は、自分が生きる為になんらかの価値を生み出すことは、誰にとっても簡単なことだと考えている。

企業の中には、それをつぶす為の仕組みが何重にも張り巡らされているから、そういう試練を全部くぐり抜けて価値を創造するってことは大変なことだと思うけど、ネットの中には、逆に価値を引き出し育てる仕組みがたくさんあり、今もどんどん生まれている。それを通して見れば、多様な価値とそれを評価する人々がいくらでも見つかる。だから、ネットの中を見てれいば、価値を生み出すことは簡単に思えてくる。

そして、そういう見方が、社会の標準になればいいと思っている。


それは、essaさんが有能なプログラマで植物型人間だから言えることなんです!普通の凡俗にはそんな才能や個性は無いんだよ!

奪いあう競争と創りあう競争 - アンカテ

私が巻き込まれている競争は、ひとことで言えば「創りあう競争」だと思う。



正確に言えば、我々の業界には「創りあう競争」と「奪いあう競争」が混在していて、だから、その人が言ったことも、完全に的外れとは言えない。そのこともあって誤解を訂正する機会を持てずにチグハグな会話は終わってしまったのだが、このような認識のギャップは案外あちこちにあるような気がする。



「奪いあう競争」が激化しているという認識は、完全に間違ってはいないのかもしれないが、Google時価総額8兆円超は、どこかから強奪したというよりは創り出した価値であり、「奪いあう競争」という概念だけではIT業界を説明することはできないだろう。

この構造は私が考えている事と同じで、それはアグリーします。
でも、僕はダメっぽいので、トゥギャザーはできかねる。
僕もネットで萬画のようなものを書いてるけど、やる気ないし。全然描けてない。


絶望した!何も生み出せない自分に絶望した!

 だが、少なくとも今後私がこの宿題を考えていけるかどうかは、私のようにフリーターになるしかない立場の人間に対して、社会が手を差し伸べるのか差し伸べないのかにかかっていることは間違いない。
「社会と戦え!」「もっと考えろ!」と言われるが、私は社会から逃げているつもりはないし、考えを放棄するつもりもない。私は社会と戦いたいし、もっと考えたい。
 しかし、いまのままでは、問題を考えようにも単純労働や社会の無理解に疲れ果て、酒やテレビなどの一時的な娯楽に身をゆだねるしかない。
 考える時間を得るためには、生活に対する精神的な余裕や、生活のためのお金がなによりも必要不可欠であり、それを十分に得られて初めて「考える」という行為をすることができる。
 そうした人間が、考えて活動するための「土台」を整備することこそ、私に反論する方々の「責任」ではないだろうか。

だから赤木はダメなんだよ!
考える土台を社会なんて言う良く分からない群体人間の概念に期待すんな!
何よりもむかつくのはテレビを一時的な娯楽という所だ。
俺は、テレビアニメを見ることに、命をかけてるぞ。
アニメからいろんなことが考えられるぞ!ブレンパワードを見て脳をトレーニングしろ!
つーか、このエントリー自体がアルバイトで働いてる時に思いついたわけだし、むしろ単純労働をしてる時の方がアイディアが浮かぶなあ。
僕は仕事中に自作の萬画のことばかり考えて、あまりの面白さに感動する。俺天才!
でもさ、赤木氏もフリーターしながらこれだけの文章がカけるんだから働きながらでも文を書くくらいはできるんじゃないですか?萬画を書くのは時間かかるけどー(笑)


そう、私にはもう考える事しか出来ないのだ。
何も生み出せないが、妄想を考える事はできるのだ。

妄想とは、非合理的かつ訂正不能な思いこみのこと。妄想を持った本人にはその考えが妄想であるとは認識しない(病識がない)場合が多い。精神医学用語。

妄想と一言にくくっても、その内容や程度は個人差が大きい。軽度で生活に支障をほとんど来さないものから重大な支障を来すようなものまで様々である。本人が妄想であるとは自覚していない(「病識」がない)ことが多いが、漠然と非合理性に気づいている場合(いわゆる「病感」がある状態)、あるいは他者の前では隠すことができ生活に適応している場合(いわゆる「二重見当識」)など様々である。
妄想 - Wikipedia

ブログで駄文を書き垂れるくらいしかできん。


ブログとは何か?
情報である。
だから、
私はウィルスになりたい


では、そういうウィルスはどういう情報を運び、どんな振る舞いをするかを述べます。


ここまで書いてきたことで、価値を作ったり、それを奪い合ったりする事が問題であり、そのせいで価値を生み出せない菌類人間はただただ生き続けるためだけに辛い仕事をしなければいけなくなるし、見下される。というのが問題だということは書いたと思う。
それを解決するコペルニクス的転換を私は思いついたのです。
つまり、日蓮宗が「南無妙法蓮華経」と唱えれば救われると思うように、
「本当は救われないけど救われたと妄想したらいいんだよ」
言い換えると、
「この世にも自分にも価値が無いけど、あるというふうに妄想したらいいんだよ」
もっと言うと、
「この世の中だけの枠組みで価値を探すからダメなんだ!この世の外に価値を求めろ!」


♪君の青春は輝いているか
 本当の自分を隠してはいないか

 君の人生は満たされているか
 ちっぽけな幸せに妥協していないか

 宇宙全体よりも広くて深いもの
 それは一人の人間の心



脳内恋愛しろ!脳内恋愛しろ!
脳が折れるまで!脳が折れるまで!

ああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ
脳内妹可愛いよー。
妹が居たら他に何もいらん。


脳内妹はこの世の外、基底現実よりも高い世界にある上位現実にすんでいます。
そこにはとても素晴らしくて幸せな世界があります。


妹はボクの価値を肯定してくれます。どこまでもどこまでも、お兄ちゃん大好きと甘えてきます。もちろん、セックスも大好きです。でも、僕以外の男性はニガテです。妹は本当に僕のことが大好きで、ボクも妹が大好きで相思相愛です。


赤木氏は

自尊心を満足させる「戦死」
 佐高信氏は「戦争によって自分が死ぬということを考えていないように見える」という。なるほど彼の頭の中には、戦争へのロマンを抱く30歳を過ぎた軍国少年の姿が浮かんでいるのだろう。
 しかし、私は戦争なんかで栄誉を得られるとは思っていないし、戦うこと自体に爽快感を感じたりはしない。さらに言えば、死ぬことすら私にとってはタブーではない。
 現状のまま生き続けたとしても、老いた親が病気などによって働けなくなってしまえば、私は経済基盤を失うのだから、首を吊るしかなくなる。その時に、社会の誰も、私に対して同情などしてくれないだろう。「自己責任」「負け犬」というレッテルを張られながら、無念のままに死ぬことになる。
 しかし、「お国の為に」と戦地で戦ったのならば、運悪く死んだとしても、他の兵士たちとともに靖国なり、慰霊所なりに奉られ、英霊として尊敬される。同じ「死」という結果であっても、経済弱者として惨めに死ぬよりも、お国の為に戦って死ぬほうが、よほど自尊心を満足させてくれる。
 もちろん、死んでたたえられたとしても、それが欺瞞にすぎないことは私もよく分かっている。本当なら、生きたまま十分な自尊心を得られる生活を送りたい。けれども、それはもはや私にとっては、リアリティーのかけらもない妄想にすぎない。30歳を過ぎたフリーターの人間が、今さら普通に生きていくことなど完全に不可能なのだ。



 この決裂は、佐高氏の「『何も持っていない』私というが、いのちは持っているのである」という言葉によって決定的なものとなる。私なら、そんな状況を指して「いのちは持っている」などとは、絶対に言わない。私が欲しい、そしてすべての人がごく当たり前の尊厳として得るべきなのは、「人間としての『命』」であり、ただ心臓が動いているだけの「いのち」などではないはずだ。

という。
ここで、もう決定的な袋小路に落ちいっている。
「この世界に存在する誰かによって構成された社会によって肯定して欲しい」という卑屈な願望が透けて見えるのだ。
彼は、それが達成されない事はわかっているのに、なおも人間に縋ってしまっている。
かといって、人類補完計画のように都合のよいセカイ系ガジェットで皆が一つになるような事はありえない。
これは袋小路である。
本田透が言う、恋愛資本主義と同じであり、パイの奪い合いです。
だから、脳内恋愛をしろ!
僕は本田さんの全部が好きって訳じゃないけど、脳内恋愛が最高という事は共通だ。
ちなみに、本田氏の妹の本田遥さんはボクの好みではないです。ツンデレだし。
僕がツンデレなので、僕の妹はゲロ甘デレデレ。
うへへへ。絶対に婚約する!


と、そういう頭が沸いた事を書くと読者から、
「それはグダちんが小学1年生から脳内恋愛クンフーをつんで、メンヘルサロンの脳内人物スレッドで神と崇められるほどのトップ萌エリートだから言えることで、普通の人には無理」
と言われるんだろうなあ。


では、初心者用メソッドを教えます。
この世界は作り事だ!全て実在しない幻想だ!否定しろ!
0から物を作り出すのは大変だが、今あるものに0をかけて無にするのは簡単だ。
まあ、まて、まだ先がある。
この世界は作り事だが、この世界の外側には真実の世界がある。

世界の外側に希望を持つとよい。
では、どんな世界を妄想したらよいか?


妄想力の低い人でもできる方法。
「気に入った人だけが、真実の世界から写像投影されている」と思う。
裏を返せば、
「気に入らない人のことは、本当は存在しないもの」とかんがえる。


僕もこの世は作り事で、妹の居る上位現実が本当の世界だと信じている。
でも、この基底現実も全くダメなものだけでできているというわけではない。
ガンダムとかあるし。
上位現実の妹もガンダムが好きだし。
つまり、ガンダムのスタッフは存在してよい。
あと、僕とガンダムについてやり取りしてくれる人も存在して良いと思う。


では、存在していると思っていた人から攻撃された場合はどうしたらいいのでしょうか?
これは大きな問題だと思います。特に、家族を持った人や子どもを作ってしまった人は処理に困るだろうなあと思います。
そこで、こう考える。
「この基底現実の人は、上位現実から投影される過程でデータが劣化するので、その過程で悪徳に飲み込まれる。」

この世界はあらゆる可能世界のなかで最悪のものである.世界のなかの善なる事物は悪を高めるために役だつにすぎない.この世界は邪悪なデミウルゴスにより創られた.デミウルゴスは善なる自由意志を許容したがそれは悪である罪を生じさせるためであり,罪が生じればその悪は自由意志の善を凌駕する.デミウルゴスは善い人間を創造したがそれは彼らが悪人によって罰されるためである.それはきわめて大きな悪であり,この世界を善人がまったくいない場合よりも,より悪くするのだ.

何度も書いたことだが、この世界は僕らを苦しめるためのネットゲームであり、神の見世物なのである。
ゲーム性を高めるために戦争や不正や犯罪や差別が横行するのがこの世界なのである。
この世界は僕を苦しめるために存在しているので、上位現実に存在する善良な人も、世界の法則に操られて悪人としての振る舞いをさせられてしまうのです。
だから、やっぱり、
脳内恋愛しろ!


と、この世には価値が無い!この世には価値が無い!価値があると思うのは妄想だけです!
という事をブログに書く俺である。
つまり、このブログは僕のウィルス散布基地。
僕は病原体になりたい。
僕のばら撒くブログウィルスは模倣子ミームいろいろ夢の旅となり、あなたの心にしのびこむ。シャランラ。リュリリュリューリューリュー。
そして、ウィルスは植物のように価値を作り出すのでも、動物のように価値を移動させたり見出したりするのでもなく、菌類のように価値のカスを処理するのでもない。
ただ、ウィルスに感染したものに価値があると感じているように誤認をさせるような病気を運ぶ。コンピューターウィルスのように、幸せでない人が幸せだと思い込ませるようなデータの改竄を行なう。
そういうものに、私はなりたい。
決して、本当の価値を生み出すのではない。誤認に過ぎない。思い込みに過ぎない。
だが、それで良いじゃないか。
本当の事は皆が手に入るほど多くはない。
だから、僕はブログで楽しい事を書く。
ガンダムが面白いって書く。
萬画が面白いって描く。
人生は楽しいと書く。
でも、それは思い込みにしか過ぎないんだ。


それで、僕が感じている絶望をみんなにも分けてあげたい。
みんなが無意識的に厭世観を感じてくれたらとても嬉しい。
みんなみんな、絶望して死んでしまえ!


ここでも上げられているが、

http://a-pure-heart.cocolog-nifty.com/2_0/2007/06/5_c5bd.html
この背景には、ネットを初めとした仮想世界のインフラ発達によって、「社会」や「現実」の価値が相対的にどんどん下がっていき、「現実」がすでに「サバイヴ」するに値しない程度の価値しか持たないと判断する層の増加があると僕は考えている。つまり、脱オタしてまで必死に適応するほどに、現実には価値が無いと判断する層が増えているということだ。

まあ、僕はネットインフラに頼らないでも、脳だけで脳内恋愛マスターなのだが。
えっとそういう僕に言わせれば、善良な市民さんこと宇野常寛氏の言説も言葉足らずであると思う。

http://www.geocities.jp/wakusei2nd/32a.html
 ですから、これからはゼロ年代の負の部分(決断主義)をどう克服し、他者を恐れない人間関係への回帰をどう押し進めていくか、ということが重要になってきます。
 ここで大事なのは「90年代に帰れ!」とかバカなことを言わないことです。もちろん、歴史から学ぶことは大事です。けれど、ここで「自分を信じて疑わないライト君(ゼロ年代)より、自分が信じられず何もしないシンジ君(90年代)の方が好きだ」なんて言ってもまったく意味がないし、不毛な退行です。 90年代に、「80年代に帰れ!」といったバカな文化人たちがいかに無力だったか、思い出してみてください。

 今、求められているのは「自己実現のために積極的に踏み出すが、常に自分を疑い自己診断ツールを走らせる」というスタンス、つまり「自分を疑いながら前に進む」という思想だと思います。

 ここを読んでいる人には10代後半や20代前半の若い人もたくさんいると思いますが、そんなみなさんはこの視点を踏まえた上で、一度今の世の中のこと見渡してもらいたいと思います。
 ゼロ年代決断主義に無自覚にハマっている人々もいれば、そんな彼らを批判して90年代を回顧している時代遅れの人々もいます。そして、ゼロ年代の美点をうまく生かしている人々もいます。その上で、次の時代の課題をみつけていくことが重要だと思います。

惑星開発委員会はなかなか深くモノを見ているとは思うので、その文体の気取り屋っぷりはともかく、一つの視点としては面白いと思って入る。
しかし、この文章で、彼は娯楽コンテンツから哲学を語るというところで、作品テーマと作品の楽しみ方と人生処世術がごっちゃになっているとは思う。
まあ、「娯楽が人生に必要だ」と思わせると娯楽に金を払う人が増えるし、娯楽にしか哲学が無い世の中ではある。
まあ、それは彼の芸風なので、別にいいのだが、この文章の中で、
「人間関係への回帰」、とか「前に進む」という事を無邪気に前提化し過ぎてはいないかと思う。
そこに拘っている限り、次の時代の課題の解法は見つけられない。
回帰すべき人間関係などは最初から無いし、気分でしかない。
前に進むと言っても、そもそも人生において前も後も無い。気分の問題でしかない。


ここで、僕が言いたいのは、だから脳内恋人に引きこもれ、という90年代退行ではない。僕が言っているのは、
「存在する他人の存在を、理性による妄想で否定しつつ日常を仮面を被って生きながらえながら、その実、自分の存在を何よりも否定し、自己破滅のために積極的に踏み出し、常に自分を疑い、全力で間違った事をする」
という事だ!
脳内恋愛もその一つである。
僕は脳内恋愛が間違っている事を知っている。普通に恋愛して、幸せになって、平和に子どもを育てる事が正しいと知っている。
だが、その正しさを求めて身の丈に合わないもがきをする事の方がエントロピーを加速させるだけだ。
なら、間違っている事を正しいと妄想して全力で人生をドブに捨てる事が幸せになる事だと妄執する!人生に価値は無い!だから、どんな人生でも充分だ!
ただ、人を殺すのは良くない。僕は酒鬼薔薇聖斗と同年代だが、間違っている事をするために他人を巻き込むのは良くない。
その態度は「自分に殺される他人に何かを期待している態度」であるので、「他人の存在を疑っている態度」とは矛盾するのである。
だから、僕は間違うと言っても、ブログで間接的に、見た事の無い他人が自殺したくなる事を願いながら、今日も言葉を飛ばします。


言葉といえば、
ぼくは、ブログでは軽めの文体を心がけている。というか、思いついたまま書いているだけだが。
こういう議論をするブログでは、もっとカッチリした文体を使うべきかも知れない。
だが、僕は基本目的が議論を通じて正しいメッセージを主張するのではなく、基本目的は完全に間違った殺意をおまえらに向けているのだ。
だから、普段は頭が悪そーなヘラヘラとした文体を使っているんですよ〜。
それで、一人でも多くの読者に現実への興味を失わせ、死に至らしめたい。
絶望は死に至る病である。


だが、僕が殺意を抱くのは現実での生であり、夢想する生は肯定する。むしろ、夢の中で死んだように生きる事こそが素晴らしい。
だから、僕はウィルスになりたい。バイオハザードのゾンビのように、生ける屍を生み出すウィルスになりたい。
それで、みんなが現実に興味を失って、富のアニメや脳内恋愛の夢に抱かれながら朽ちて行く事を望む。
どうせ死ぬ。
死ぬ時に後悔が少なくなるという事が人類の究極的な目的だとすると、物質的で破壊され得る自己実現に頼るより、有限で思い通りに成らない人間を求めて苦しむより、夢を見ながら酔生夢死。


Amazon.co.jp: 電波オデッセイ (4) (アスペクトコミックス): 永野 のりこ: 本
永野のりこの電波オデッセイ風に言うと、この世界には思い出のオミヤゲをもらいにきているだけなのだから。



だから、私は病原体になりたい。
もちろん、こんな生き方をしていると長生きは出来ないだろう。
でも、いいのです。病原体ウィルスは最初から生きていないのだから、自分が死ぬということは悲しまないし気付かない。大丈夫大丈夫。


何んでもない。


そして、みんなには一刻も早く死んで欲しい。
そうすると、人間が減って住みやすくなるだろう。
しかし、人間が減った世界で、誰が住みやすいと思うのだろう?
それは、文化。
風の谷のナウシカの終盤に出てくるヒドラの庭のような世界を望みます。
しかし、そこにたどり着くには人間は多すぎるし穢れすぎている。
芸術と心だけが価値があるのです。

あああああああああああああああああああああああああああああああああああああ
つかれたーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
なんで、バイトの休み時間に10分くらいで思いついた事を書くのに1日徹夜して潰してるんだよ俺は。
アホか。
タイピング遅すぎ。
これで、バイト中に思いついたブログのネタは大体消費した。ふー。これでしばらく何も書かなくてすむ。
でも、おれはアホだからまたなんか書くんだろうなあ。
あーあ。
つかれた。
目と歯が痛い。


妹「本当にお兄ちゃんは愚かね!こんなに長々と書いちゃってサー。
あたしが要約してあげる」


妹「『お兄ちゃんにとって、あたしは輝く太陽だ。大好きだ』はい、おしまい」

おまえなあ、それはこの文章の要約じゃなくって、オレの人生の要約だろうが!
オレの体のどこを切っても、お前が大好きだよ!


妹「あまーい♥」