玖足手帖-アニメブログ-

富野由悠季監督、出崎統監督、ガンダム作品を中心に、アニメ感想を書くブログです。

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伝説巨神イデオン小説版1覚醒篇

分量から、接触篇に少々重要なエピソードを加えたようなものと言える。
主に、人間の描写が増加している 。
小説と言えば心理描写なのだが、心理描写は社会の中での生活描写であり、それが自然で個々の人物に寄って丁寧に合わさっているので、作者の主張や人生観が余り感じられず押し付けがましくない。
やっぱり、富野由悠季小説が好きだなあ。福井晴敏先生も富野小説信者なんですが、やっぱり機動戦士ガンダムユニコーンよりも富野小説の方が読みやすい。
富野小説は読みにくいってみんな言うんだけど。
福井先生のユニコーン以外のは読んでない。ローレライは見た。福井先生がトミノの次に師匠と言う高村薫は神の火とエッセイ集を読んだ。
そんなレベルの僕ですが、機動戦士ガンダムUC

 脈動する赤熱光が亀裂の底から滲み出し、いまやひと塊になった四つの小惑星の境目を朧に浮かび上がらせる。飛散した瓦礫や細粒子(レゴリス)も輻射工で薄紅に染まり、遠目には<パラオ>全体が燃えているように見えた。
 同じ輻射光を満身に浴びつつ、亀裂の底から数機のモビルスーツが飛び立ってゆく。激突した小惑星の界面をすり抜け、わらわらと這い出してくる一つ目の巨人たちは、まさに地獄の悪鬼と表現するのが相応しい。

というのを読んだら、なんか、1ページ目にしてガンダムエースをそっと棚に仕舞う。でも、一応ターンエーガンダムを見る前に全てのガンダムを見てしまわないと∀ガンダムの面白さが半減するので、意地になって読むわけですが、月刊誌の小説なのに安彦良和先生の萬画よりもページ数があるので、なんかテスト前になってはじめて教科書を40ページ読むときのような暗澹たる気持ちになります。うぼあーってなる。
兎に角、僕は例え話でカサを増してる小説が苦手なんです。
僕が小説を書くのが嫌で絵が下手なくせに萬画を描いていたのも、小説はこういう意味のよくわからん例えをするものだと思っていたからですが、絵を描くのもめんどいのです。うぼあー。
まあ、僕はやる気が無いので、どうでも良いんですが、富野小説はその点で簡潔なのでスルスル読めます。ラノベです。
簡潔でサクサク話が進む上に派手な見せ場やエロシーンが在るので退屈しないのです。
即物的な描写の癖に、富野小説はいきなりアベニールは銀河の観世音菩薩とか意味不明にスケールのでかい事を言い出すのが大好き。ワクワクする。予想がつかない。
というわけで、富野小説が好きな僕はあまり大人になれないんですね。夢野久作とかねー。キャッチーでデーハーなのが好きなミーハーです。
上記のユニコーンの一説に近いシーンをイデオンで挙げると、ソロシップ浮上による大破壊なのですが。

 その石灰岩の噴出の中から発光する輝きは四方へ鋭い閃光となって発して、暖かい朝の光を切り裂いていった。薄灰色のキノコ雲がゆったりと形成されてゆく。その上空には微動だにすることなく屹立するイデオンがあった。

富野の方がすごく簡単に5W1Hを書いてる。
というか、富野小説はむしろ、「理科系の作文技術」であって、「ベストセラー小説の書き方」ではないのかも?富野は無駄な描写や比喩や解釈を減らしている印象。福井小説の方が格段に文系なんですね。そりゃあ、乱歩賞ですから。
ガンダム小説で富野はいきなり政治理論を書いたりもしますが、それも感情的というよりは論理的。
福井先生の小説は「モビルスーツが飛行した」というだけの事を「地獄の悪鬼」などと大げさに描いたのに対して、富野のイデオンには「上空に」「イデオンがあった」というだけの文でイデオンの異常性を暗示させられてしまう。イデオン怖い。
死の描写もさっぱりしている分、逆にリアルで怖い。

「ソロ・シップの全てのハッチが完全に閉じられているわけじゃあないんだ。なのにこいつは宇宙に出て、デスドライブをかけたんだ。船内の人間はGで死んだ子供もいるが、窒息死は認められていない」

伏字にした部分が非常に怖いね!そういうことをさらっと言い流す。なんか設定に準じて必然的に起きうるだろう出来事を淡々と描いてるだけ、と言う雰囲気なのだが出来事自体が怖い。っていうか、ソロシップの機能自体も意味不明で怖い。


別に福井批判をしたいわけじゃなくって、富野小説で小説家を目指したと言う福井さんでも、こうも違うんだな、と言う認識を面白がっているだけです。
なんというか、富野小説は論理的にシンプルな文を使用して論理以上の観念を描こうとしているような気がする。そういう野放しの狂気のようなものがすごく好きですね。
植芝理一とか着飾ってないけど摩訶不思議みたいなのが好き。
というわけで、僕の好みでしかないんですよね。「富野小説は翻訳小説みたいに硬くて読みにくい」っていう人もいるし。
良し悪しと言うよりは、僕の肌に合うかどうか。
しかし、なぜ富野は売れないんだ?とも思うんだが、カドカワノベルズ版オーラバトラー戦記の帯に

赤川次郎内田康夫大藪春彦藤川桂介田中芳樹笠井潔菊地秀行夢枕獏富野由悠季平井和正
常識やぶりの、おもしろ10人。

などと宇宙服を着た富野由悠季の似顔絵入りで煽られていたので、人気小説家という時期があったんかなあ?



主に追加されたものをネタバレ列挙しようと思うが、一応自重もしたいのだよ。


●ギジェとダミドの士官候補生としての交流
旗の話がなく、人質や騙し討ちをしないので一本気に出世を求める好漢のままダミドは逝く
●アニメでは無視されていたコスモの母親がニューロピア炎上の前にコスモと対面する!
家庭や夫婦関係の描写がテレビ版よりも丁寧だ
人物の個性がキャラ付けではなく家庭の表れと言うのが良い
また社会の表れでもありソロ星の人は開拓精神と科学技術に長けた気概がある
そのような湿度の高い人の思いを描きながらも、その死は非常にあっさりと書いてある
コスモもソロ・シップがソロ星を破壊した戦いの後、母の死を静かに受容する
ここら辺はドライで上品
あるいは人の強さか仕事中心主義か?
●その反動でカミューラ・ランバンがコスモに絡まない
物語の構造上、母親の役割をになう必要がなくなったから、ブラジラーの司令の癖に一兵卒のコスモに絡むようなことはなくなった。ちゃんとジョーダン・ベスとしっかり作戦会議をする。軍の中での女性士官(バツイチ子持ち)の男に対する苛立ちと言う追加描写はあり。
死亡シーンはスルーされている。多分、死んでると思うんだが・・・。
●順列入れ替え。
1巻はソロ星全滅→亜空間飛行→ブラジラー全滅でソロ星避難民大量死亡→イデオンがドク戦隊を全滅→ギジェ、マヤヤを救出(!)しハルルの船で退避→ブラジラーの生き残りを収容してソロシップ、デスドライブ→亜空間飛行中にカララ殺害未遂→亜空間でカララの船(アバデデ様は出ません)と異常接近。
と言う風に、微妙に事件の順番が変わっています。
これはガンダムの映画版みたいです。やはり、富野監督は媒体の違いというものには敏感な人です。読みやすいよ。アニメは毎週戦闘しないとワクワクしないからな。
●小説版のコスモは非常に物分りがいい。
両親の死を受け入れつつ、両親をちゃんと尊敬できるような構成になっているせいか、アニメ版にあったような不安定さが軽減されてる。地味な印象もあるが、いい男なのかもしれない。
アニメではバンカラな行動が目に見えるが、小説では論理的な内面思考が描写されてるので、賢く見えるのかも。あと、これはテレビ版でもあったんだけど、コスモの人を見る目の描写が分かりやすいので、やはり賢く見える。
17歳の癖に大人ぶっている子ども、と言うよりは着実に大人に成りつつある好青年という印象。それでいて若い肉体の誇りと自信も持ち合わせていて良い。
富野小説なので、気絶したカーシャの肩の薄さに女を実感すると言うところもある!これはマスト。
カーシャとコスモは移民団の小さな高校でつるんでいた様だ。そういうのは良いね。
イデオンの発掘現場で、子供が乗ると動く事はすでに判明していた 。デクが乗ったら一番反応が良いらしい。
ちなみに、第六文明人が残したミサイルや機関砲も在るらしい。はっきりいって使いたくないな。賞味期限的な意味で。ソロシップには森が活き活きと在るが。
●コスモよりもカララ・アジバとフォルモッサ・シェリルが裏の主人公の様に面白い
明らかに描写の量が多い。
カララがギジェを振り回したり、その高貴な好奇心が戦争になり、ソロ星で一人になったカララが食べ物に不自由して情けなくなり、異星人にも自分が美人だと認識される事を武器にしたり、ソロシップの中での自分の立場の変化をイデ伝説と結び付けて考えたり。
シェリルが発掘現場でベスにセクハラされて切れたり、イデオンの始動に興奮したり、カララをかばう男たちに切れたり、ブラジラーでコルボックみたいな落ち着いた科学者に惹かれたり、マヤヤがその彼に反抗したのでブチ切れたり、ロッタがキレるのを見て泣いたり。
起伏がとにかく激しい女性描写だ。特にシェリルさん。よく切れる。
物語のヒロイン、として見た場合にはあまりにも都合が悪い部分まで書いてる、というかわがままというか、萌えない。
どうも、いい女なのか悪女なのか、わからないというか両面書いてあるから、読者がはっきりとした印象をもちにくいんだなあ。評価というか。
そこらへんも富野っぽいと言えば、そうなんだ。

●小説版なので、ベスよりも年上のキャラクターが出てくる
科学庁職員や行政府庁の女性公務員、土建屋のおっさんなど、社会性のありそうな人がより集まってミーティングをするシーンが結構好き。テレビよりも富野臭い。
その中で士官学校出身者で統率力があり(逆に言えば特殊技能は薄い)発掘現場に詳しく、バッフクランとの開戦の生き残りでイデオン搭乗経験者、という立場上の理由でベスが一応の責任者をやっている、という描き方が組織っぽくていいな。
ベスがんばれー。
カララに惹かれながらも立場を押し通す所が男らしい。


やはり、トミノっぽい。
つまりどういうことかと言うと、富野がよく重視する嘘八百の必然性ということです。状況に適応すると言う事です。
アニメから小説に媒体が違うのだから、必然的に事件の描き方も変わり、事件が違うのだからキャラクターの行動も違い、行動が違うのだから情動も違う。という。論理的な玉突き移動ですね。
それでいて、全体的な印象としてはやはりコスモはコスモに見えるし、イデオンイデオン以外の何者でもなく見えるのだ。
というわけで、やっぱりこの挿絵はねえよなあ。って思う。(スニーカー版です)
小林誠の生物的なイデオンはカッコいいとおもう。
後藤隆幸の人物画も80年代の空気が見えすぎるが、上手い部類なのだろう。一枚絵としては良いのだ。

が、本文の中で「イデオンは積み木みたいな自動車っぽいのが合体したもの」とか「カララの髪は紺色」「コスモは赤毛のカーリーヘア」ってテレビ版準拠で書いてあるんだから、そこを変えるなよ!読んでから描け!
基本的にアーティストの好き嫌いの気分は認めません。
というわけで、読んでる時の印象はあくまでもテレビ版の絵で想像するのだ。
ギジェがウル・ウリアンっぽい美形とかベスがナヨっとしてるところとかダラム・ズバがかっこわるいところも気に食わない。
逆にギンドロ・ジンム公がそのままっぽいのが謎。


(とは言うものの、マヤヤの髪の毛の色が地球人とは違ってピンク色だから宇宙人だとばれる。っていう展開は僕もどうかと思った。フォルモッサ・シェリルさんの髪もピンクだろ。マクロスFシェリル・ノームと同じく光の加減でピンクに見える金髪なのか?ハタリの髪は青い。小説版ではロゴ・ダウ側の髪の毛の色はコスモが赤毛と言う事以外は描いてないのだが。)


ソロシップとか重機動メカの絵はメカっぽくてカッコいい。イデオンよりは許せる。でも、やっぱりトミノの本文はテレビ版準拠なんだよなあ。
小林版イデオンもカッコいいんだけど、せめて合体可能で体の中に廊下があって、そこかしこに出入口があるように描いて欲しいなあ。ガンバスターになるわけだが。
(あと、カバーのあらすじや口絵では「第3文明人」って書いてあるのに本文では「第六文明人」だ。そこら辺の齟齬も気に食わない)


ちなみに、僕は伝説巨神イデオンはシュタイナーオカルティズムに沿っていると思うので、人類の一つ前の進化人類である所の第六文明人が神と社として作ったとされるイデオンとソロシップのデザインは、バイオテクノロジーや機械的な発想よりは、プリミティブな木工石工細工を馬鹿デカくしたもので、つまりテレビ版のデザインで良いのではないか?
と思う。
それを、現代人の視聴者やバッフ・クランやロゴ・ダウの異星人が「だせえ!こんなの神様じゃない!」っていうのがおもしろいんだよなー


参考URL
http://d.hatena.ne.jp/y05k/20070212/p1
インドネシアのロボットぬりえ(byキャラクターグッズデザイナーになる方法)
こういう発想なんじゃないですかね?
ソロ・シップって寺っぽいし。



でも、小説を読んでたら、シュタイナーと言うよりはむしろノストラダムスなのかなあ?流星落ちるし。イデオン火星っぽいし。復活するし。
機動戦士ガンダムの時期ってノストラダムスブームじゃなかったでしたっけ?
バッフ・クランの地球ではイデ伝説ブームが起こっていたらしい。カララはそれにハマっていたお嬢さん。
バッフ・クランの出版社の名前は、コダンシャア、イワン・ナミ。大学はトダイ、キョウ・ダイ、ホック・ダイ。
ホック・ダイのクワニ・ヤナダは柳田國男だろう。
それがイデ伝説を分析すると言うくだりは面白いのか、ふざけすぎなのか、敵の宇宙人が地球人みたいに宗教を持ったりオカルトブームに乗った映画を作ったりするという相対化なのか。

ジャン=ポール・ラロッシュによって作成された、フランスを中心とするノストラダムス関連文献の刊行点数のグラフ[8]によれば、爆発的に刊行点数が増えたのは、1981年、1986年、1999年、2001年であったという。



このほか仏文学者の澁澤龍彦も1960年代から70年代初頭にかけて、ノストラダムスに関するエッセイなどを発表していた[15]。しかし、この段階では、ノストラダムスの知名度も限定的なものであった。


そんな中で、ノストラダムスが「1999年七の月」に「恐怖の大王」によって人類が滅亡すると予言したと、信憑性を増すために創作された逸話などもまじえる形で紹介された五島勉の著書『ノストラダムスの大予言』がベストセラーとなったことで、彼の名は非常に有名になった[16]。当時、素朴にこの予言を信じた若者も少なくなく、オウム真理教事件にも少なからず影響を与えたと指摘されている[17]。


これ以降1999年まで、ほとんど毎年のようにノストラダムス関連書が出されるようになり、五島の最初の続編が出た1970年代末から80年代初頭、イラクによるクウェート侵攻があった1990年から1991年、そして1998年頃から1999年と、いくつか大きなブームもあった。特に1991年には、その年のベストセラーランキングの「新書・ノンフィクション」部門の上位三位をノストラダムス本が占めた[18]。ただし、五島の『大予言』初巻が巻き起こしたブームを直接に知っている世代と、それ以降の世代には、温度差があるとの指摘もある[19]。


日本のノストラダムス現象は、英語圏、仏語圏、独語圏などに比べて極端に短期集中型であり(実質的に1973年から1999年に限られ、その間に200冊以上の関連書籍が刊行された)、


http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8E%E3%82%B9%E3%83%88%E3%83%A9%E3%83%80%E3%83%A0%E3%82%B9%E7%8F%BE%E8%B1%A1

微妙にガンダムの放送年と重ならなくも無い。ヤマトの方が先だが。
特に∀ガンダムで終末の後にパン屋の出世物語を書いたのは特筆に価する。パン屋最強。


僕は富野原理主義者の気分をストレートに出しすぎる・・・。