玖足手帖-アニメブログ-

富野由悠季監督、出崎統監督、ガンダム作品を中心に、アニメ感想を書くブログです。

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小説版伝説巨神イデオン3発動篇

先先週に読了したから割りと忘れてたけど、これ幸いと軽く書く


やはり発動篇はアニメ版の映像が最高でした
勢いのついた感情はアニメ!小説に映画版ほどのショックはなかった


小説ならではの心理描写は細かくて良かった
ギジェとカララの再会のギスギス感とか、リンの事件の前からイデに絶望して飲んだくれるシェリルさんがギジェに女王様ぶったり、カララの妊娠に対する反応とか、キラルルとトロロフとハルルが強すぎて婚期を逃した気持ちやデクが大人になったり、ドバの懊悩やハンニバルの夫婦生活と死に様、それとマーシャルの無能ぶりを通じたバッフ・クランと地球の文化対比など、アニメではなかった新描写は良かった


しかし、小説でアニメーションと同じ事をやってもしかたがないと富野が思ったのかもしれんが、映画版での名シーンがわりかし削られてた
っていうかカーシャが目立たないから悲しい
せっかく2巻でキッチ・キッチンを挟んでのコスモとカーシャの恋愛未満の気持ちが描かれてたのに最期につながってない
アニメとは違うユウキ・コスモとイムホフ・カーシャの関係性を期待したのだが


戦闘の迫力もアニメの方がすごかったし、小説版は人の死に方があっさりしてて残りにくい
僕はあっさりした死をリアルなミリタリーでかっこいいとは思わないみたい
ミハル・ラトキエは事件としてはドライで感傷的には湿っぽくて良かったなあ〜


発動シーンもアニメにあったどうしようもないスケール感や衝撃や昂揚が無い
すぎやまこういちと湖河友謙は偉大


どうも、イデの魂が、自ら産んだ人間の作ったガンドロワに焼かれて進化すると言う理念を書くだけで、実感の伴わない題目になってしまっていて残念
理念イデアがすばらしくてはしゃいじゃって、それを説明するだけで素晴らしさが伝わるとしたことで、若干狭いものになってしまったのかも
巨大腔腸生物ドウモウの内面描写は良かったのになあ
キューブリックの2001年の映像とクラークの3001年の説明臭さの様なものでしょうか?


富野はアイディアもすごいし変なロボットの話が多いが、もしかしたら生々しい生活感描写の方が上手いのかも?


でも、同じような発動描写でもリーンの翼の小説で迫水が昇天して妹に会いに行ったり、エンジェル・ハイロゥのサイキッカーが発動して光速を超えたり、オノレが真なるアベニールと対面するのは素晴らしかった



恐らく、発動は発動でもイデの発動は発動そのもので、イデとして発動する魂は人間以外のものになっているのだから人の身の読者である僕には共感しにくいのかも
発動しつつ、それに対する人間的感情の発露があれば感動できるのだが


映画版の歌のシーンはその点で素晴らしすぎたのだが、小説は地の文で済ませるしかなかったってのが物足りんかった
まだ小説を書き慣れてない時期だったのかもしれないけど、機動戦士ガンダム小説の硬質に突っ走った感じは好き



というか、書き下ろし小説なんだからもっと好きに書いても良いのに、微妙に尺の都合やページ数を気にして削ってる気配があった
やっぱり、トミーノさんは小説業界でも足下を見られてたのかねえ?切ないねえ
あるいは飽きて投げたか?




エスエフ的にはドウモウなどのセンスオブワンダーは良かったが理論的裏付けはあんまりない感じ
プロトカルチャー物を突き詰めた感じはある
若干理想主義な理念は強いが


僕的に小説版イデオントミノの心情描写の気分を楽しんで、イデオンとしてはアニメなのかなあと



囚人さん経由で、菅野よう子さんが「富野さんは絵も音楽も信じてないで言葉しか信じてない人」って言うのをどう考えようか考えてたが、監督は最低限の言葉しか使えない自分の分をわきまえた上で使える言葉を必死に使うから言葉がくどいのでは?
僕の文もそんな所あるし
百パーセント伝わるとは思わなくても伝えるには言うしかない、と


そういう願望はニュータイプ願望だなあ


新訳Zガンダムでも「絵コンテまでで全部」って言ってるけど、それは絵コンテで作品のできが決まってるってだけじゃなくて、自分に出来る事はそこまでと弁えてるからだろう


っていうか富野が言葉しか信じてなくても絵描きは絵を信じてるし音楽家は音楽を信じてたら良いじゃん
仕事を振る程度には人を信じざるを得ないのは分かってるだろうしさあ
出来る事はやって出来ん事はしないが話し合いはするって言うのは普通だ
話し方が個性的で本気っぽいが