玖足手帖-アニメブログ-

富野由悠季監督、出崎統監督、ガンダム作品を中心に、アニメ感想を書くブログです。

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はてな界隈へ武力介入した結果、id:amamakoを引きずり出したぞ!

見つけたぞ!amamako!!
俺がガンダムオタクだ!
最近のゴールデンウィークの私は、煽られ耐性の低い私は、はてなダイアラーに「私はガンダム00を見ていないが、ガンダム00ガンダムSEEDと違うはずなのに、00とSEEDを同じように批判するガンダムオタクの感性は貧しい」と、僕のブログを引用したブログを引用されて言われたので、ちょっと挑発的な文章を書いたというか、アニメに対する批評論壇に武力介入を加えたわけだ。
その結果、id:mattune氏に「グダちんのトミノシンクロ率が400%を超えています!まさにガンダム専門家!」とかいう称号をもらった。
俺がガンダムだ
で、そんなリアル刹那の私ですが。
(実際、富野=禿げたリボンズに5年前の講演会で出会って精神的に命を救われたし。でも、別に富野を超えるために殺すつもりはなくって、さっさと新作を作れやゴラァジジイ。俺は俺で普通に働くので。富野も働け。8月21日~23日にビッグサイトで富野監督のショートフィルムが上映されるから絶対行くぞコラァ。あと、対談や雑誌連載の単行本をさっさと出せやゴラァ。
っていうか、富野監督はリボンズと違って全然神を気取ってなくて、むしろ髪がないので、人間としてとても頑張っていると思う。そんな富野を愛しちゃう)
ソレスタルビーイングみたいに「その批評論を破壊する。俺たちの意思(自分語り)で!!」ということを最近2回くらいエントリにあげた。


そうしたところ、
http://b.hatena.ne.jp/entry/http://d.hatena.ne.jp/nuryouguda/20090311/1236758130
で、

stonedlove ガンダム id:amamako、以前、人力検索でこんな質問(http://q.hatena.ne.jp/1226557825)をした者です。amamakoさんの『00』論、楽しみです。ぜひよろしくお願いします! 2009/03/12

amamako とてつもなく, あたまがわるい, これはひどい, 批評(笑) 00終わったら本格的に批判したい/ただ一つ言っておくなら、感情が通用しない中で"あえて"感情に忠実になるというのも一種のシニシズムに他ならない。そのようなシニシズムの害を、まさにガンダム00は描いてるんだよ 2009/03/12

と、
僕に批判予告をしてくださったid:amamako氏が
http://d.hatena.ne.jp/amamako/20090505/1241495829
と、
書いてくださいました。
彼はガンダム00が終了した後、本格的に僕を批判してくださらなかったので、どこかご体調がお悪いのかとご心配申し上げておりましたですけれども(笑)
まあ、基本的には上のエントリは長い割に、ひぐらしのなく頃にについての意見表明が主だったので、私にとってはあんまりどうでもいいです。
ひぐらし世代じゃないし、そんなに僕には面白くなかった。
(思春期のための作品と言うのは、常に必要とされるので常にある。
だから、それに熱狂する思春期の人は常にいるし、熱狂しない他の世代もいる。
それは個人のライフステージと言うものがあるのだから不可避の現象であり、作品の出来不出来とは特に関係のないということを書いておきたい。
ガンダムZガンダムVガンダムエヴァンゲリオンブレンパワードガンダムSEEDも機動戦士ガンダム00も、思春期のための作品と言う点では一致している。
簡単に言うと、世代ジャストミートというのは各人にとって特別な思い出なのだ。って言うだけ。補正はかかるが、それがあるのがまた人間の醍醐味でもある)



↑言い訳


えっと、ガンダム00については

6:ガンダム00について、あれは相互理解によって戦争が無くなるなんて言う絵空事を書いているって話があったけど、それだったらそもそもソレスタルビーイングアロウズを攻撃した意味もないでしょうが。
更に言えば、物語が終わっても、別に世界が完全に平和になったなんてことも言ってない。
そもそも、旧作のハガレンエルリック兄弟をよりによって大戦直前のドイツへと飛ばした監督がそんな優しい仕打ちをするわけがないw。
争いは続くし自分の身を守るためには武力も必要になる。しかしそれでも、人は生きて、対話し、考えなければならない。ニュータイプなんていう幻想は打ち壊さなければならない。
っていうメッセージが込められていたわけで、でもまぁ、古いガンダムに縛られた知的能力の低いガンダムヲタ以外はみーんな分かってることだから、別に声高に言う必要もない気がするなぁこれは。じゃあなんで書いたんだろうなぁw

と、捕捉で述べられているだけで、本格的に僕のidを名指ししたり、ガンダム00の魅力を語ってくださるというわけではありませんでした。
なんか、知的能力の低いガンダムヲタと決めつけトークをされただけで、肩すかしな印象でした。
でも、amamakoさんがガンダムダブルオーの放送終了後1か月の間、一生懸命考えてた結果の文章なので、許します。
結局、書く必要がなかったんですね。僕への批判は。単に筆がお滑りになられただけだと。
id:amamakoが「本格的に批判する」という予告は、する必要もなく、軽々しく筆を滑らせて書くだけのものだったんですね。あなたにとって「本格的な批判」ということのハードルはその程度の低さなのか。
まあ、大学生ともなれば、いろいろとストレスがたまることがございますでしょうし、ガンダムヲタクという大人になれないキモヲタの極北たる存在を思う存分「知的能力が低い」と見下しになられるのが天原誠の精神衛生上良いことでしょうし、私も私の精神衛生上、あなたを最大限侮蔑します下衆が。
私は敬意には敬意を、プギャーにはプギャーをというのが癖でしてね


っていうか、ガンダムを知らない癖にガンダムのメッセージを騙ってんじゃねーよ下衆が。ガンダムなめんなこら。
こちとらはガンダムのおかげで国立大学を卒業するモチベーションをもらったんじゃコラ。うん、まあ、それはそれでアホッっぽいけどさ・・・。


結局、ガンダム00と言うのは天原の見立てによると、
「マリナのコミュニケーション(笑)や、ソレスタルビーイングの武力介入(笑)や、イノベイターの感情的な行動と言うのは、一種のシニシズム=皮肉である。
登場人物がそのように行動することは害であって、世界はよくならないし、悪くなる一方なのだ。
だから、ソレスタルビーイングが格好良く敵を殺すアニメを作っているが、それは視聴者に向けた壮大な皮肉であり、それで相互理解ができると考えるのは愚かだ。浮かれている視聴者は馬鹿だ。
世界は駄目だ。でも、コミュニケーションすることは大事だ」
というテーマなんでしょうか。
コミュニケーションしてないじゃんあのテレビ漫画は。人の話聞いてないじゃん。聞こうともしてないじゃん。
あれでコミュニケーションが大事だって思うかなあ???


まあ、登場人物がコミュニケーションをしていない状況を意図的に黒田洋介が作りだして
(作戦以外の会話するときは基本的に二人きりで、三人以上による討議をするシーンが全くない)
それで戦争が起こるからコミュニケーションは大事だね、ガンダムのキャラクターは愚かだね。って言うことが分かればいいのかな?
うーん。
僕としては、その、意図的にコミュニケーションが下手なキャラクターとか、GN粉や歌でお手軽にコミュニケーションという記号的なところが、単に芝居として下手だと思いました。


Zガンダムも意図的にコミュニケーション不全なんですけど、コミュニケーション欲求はもうちょっとあって、もうちょっと人間的なキャラクターだった気がします。
まあ、amamakoはガンダムをあんまり見てないっぽいしどうでもいいけどねー
っていうか、視聴者を皮肉って上から目線に立つアニメーションのどこがいいのか。amamakoが上から目線になりたがるところと単に似てるだけだろうが。
富野由悠季は全然上から目線じゃないぞ。
水島精二は富野ガンダムリボンズに仮託して神を気取っているみたいに書いてたけど。
いや、何度も言うが、僕が富野に「ガンダム小説面白いですね」って言ったら富野監督は思いっきりうつむいてたよ(サイン書いてたから)。上から目線じゃないし。
監督ほど今でも現場でやってる人はすくないよー。
(まあ、80年代の君臨期というのもあったんだが…)


っていうか、ニュータイプなんて言う幻想は、基本的にZでも、Gガンダムでも、ガンダムXでも、基本的に何度も打ち壊されてきたんですけど…。
それこそ、ガンダムファンにとっては今更な議論なんですけど…。


とりあえず、∀ガンダムのキャラクターデザインをしていた安田朗さんと僕が話し合ったことを転載しておきます。

2007年07月27日公開自分メモ「ニュータイプについて」
以下はグダちんさんのミクシー日記にコメントをつけたものを
修正しました



劇中で使われるニュータイプの概念は
ぼやっと思い出す限り
大きく分けて3つあり
1,超能力者としてのニュータイプ
2,スペースノイドの選民意識としてのニュータイプ
3,人類の希望としてのニュータイプ
ファーストのアムロは1に該当し
シャアは2に固執する

(↓全部転載するのがめんどいので続きはこちらで)

http://blog.livedoor.jp/akiman7/archives/51001822.html#

だいたいこんな感じ。
ニュータイプ思想なんて、しょせんは作劇の都合です。面白くするための道具よ。そんなこたあわかってんのよ。
でもねえ、作劇の都合で面白くなった劇ってね、いいもんだぜ。それこそ、∀ガンダムまで20年もテーマになるくらいにな。
そして、その「面白いもの」って言うのは何かと言うと、3.人類の希望としてのニュータイプ
なわけ。
希望があると面白いよね。そんだけの話さ。∀ガンダムでは超能力者としてのニュータイプはいないが、人類の希望を少しずつ探っていこうという姿勢はあります。誤解なく物事を見ようとすることによって、です。それこそがニュータイプ
そういう未来がガンダムの先にあるということは希望だし、嬉しいし、面白い。
だから、富野監督も「環境問題を克服するとニュータイプになれる!」って面白そうに語っているんですよ。今でも。そういうジジイって、愛せるじゃない。
「希望なんてない。コミュニケーションは無意味だ」って皮肉を言うだけだと、そこで止まるよね。
だが、烙印を消す命は歴史を書き直す!その情熱こそがガンダム
もちろん、ニュータイプと言う希望にすがるという幻想に対する自己批判Zガンダムですでにやっている。
囚人022さんのブログを引用します↓

 クドクド書きましたが、要はそういう富野アニメの、『Zガンダム』の主人公であるカミーユが、この回に限って「人って絶対に分かり合える」などと能天気に言うのは、何たることかと。
 (二周目の)フォウ・ムラサメの死を経てきて、カミーユはもの凄く追い詰められた心情にあるのがこの回だと思うんです。キツイ言い方をすると、ここで「人って絶対に分かり合える」などという、はかない希望に取り付かれてしまったことが、むしろ最終回で彼の神経がもう持たなくなってしまう遠因になってしまっているとさえ言えるかもしれません。
(『イデオン』発動篇の絶望的な戦況の中でさえも、ユウキ・コスモはその最期まで、つくづく度し難い“人間の業”を直視し続けました。)


 だから、『Zガンダム』というのは、実に際どいバランスの上に人間ドラマを刻んでいるなぁと感服するんですが、こんなところでカミーユにあらぬ希望をみせるというのは、とても残酷なストーリーテリングなんですね、私が思うには。
 あらぬ希望をついつい見たがってしまい、そこにしばしばカタルシスさえも感じるのが人間だという言い方もあり得るかもしれません。

http://zmock022.blog19.fc2.com/blog-entry-1444.html

ニュータイプと言うものが幻想だというものは、ガンダムに付き合ってきた者なら誰だって知ってんのよ。
だから、ガノタの知的レベルが低かろうと高かろうと、今更声高に言わなくても、ガンダムファンなら誰だって知ってるの。馬鹿じゃねーの。
でも、囚人さんは

 そんな、たいそうな話ではないんですよ。ほんのちょっとした視点のずらしで、状況の見え方が全く変わることがある、という、その一点さえ体感されさえすれば、劇場版の『新訳Z』という作品には(少なくともテレビ版以来のファンにとっては)深い意義があると私は思っています。

とも言う。
テレビ版Zガンダムニュータイプと言う幻想を一度破壊した後で、劇場版Zガンダムでは幻想や意識だけの存在ではない希望をもう一度もとめたんです。
その、破壊と再生の混とんを30年にわたってやってきているのが富野ガンダムなのだ。
別にガンダム00が「その再生を破壊する」と声高に言っても、それもしょせんは黒歴史の一部。
富野ガンダムの30年はガンダム00の1年よりも伊達じゃない!



べ、別にamamakoにガンダムの魅力を教えて説教したいわけじゃないんだからねっ!
インターネットに僕の意見とは違う意見があった場合、僕が間違っていると思う意見があった場合、対案を出さないとネット全体のバランスが崩れるような気がするから何となくやってるだけ。
というか、ガンダムがつまらないって言う意見がネットに拡散すると僕にとって都合が悪い(雰囲気が悪くなってムカつく)から、そのような意見を見ると「ガンダムはおもしれーんだよ!」って本能的に書きます。そのためなら無断引用も辞さない。
とくに有名人とのつながりをアピールして上から目線になりたいわけじゃないですよ。
あきまんさんはネットでの交流が盛んな人だし。ブロガー同士なんだし、資料となる文を書いたら引用する。囚人さんの文章も引用する。



ちなみに、熱気バサラについては、寛容がどうとかいう小難しいものじゃなくって、単にバサラの歌がすごいがんばってるかんじだったから、ゲペルニッチもギギルもシビルもみんな興奮して気持ちよくなったって言うだけだと思うし、それでいいじゃん。
福山芳樹マジ歌うますぎ。でも、ライブではキングゲイナーの歌のオクターブを下げる・・・。しゃーない。



しっかし、僕としては、人間は自分にしか興味がないんだな、と思いますよ。
amamakoがガンダム00の皮肉性や、シニシズムの害を視聴者に見せて悦に入る所をもちあげたのは、結局彼の思考が皮肉主義なので、そこに共鳴しただけなのだろう。
僕が富野ブログを書いているのも、単に富野由悠季にちょっと性格が似ているから富野作品を読み解けた気持ちになって共鳴しているだけなのだろう。


それは、こういう一連のブログの批評性とかなんたらかんたらのトラックバックの送りあいのようなところを見てもそうだし、コメントのやり取りもそうだ。
なんというか、ブログのコメント欄を見ると、著者に似た文体の、つまり著者に似た感性の読者が付いているんだなーって思う。
みんな自分が好きなのね。
僕のところにはちょっとしたユーモアや脳内恋愛に寛容な人やあまり気取らない人が集まっている印象があります。
だから、自分と似た感性の人のコメントが集まりますが、似てない人のコメントやエントリに触れると、炎上するわけだ。今回のようにね。
僕は自分が好きすぎて他の人のコメント欄や掲示板で「脳内妹が言っていたんですけど〜」とか言って、神を語ったジャンヌ・ダルクやダイモーンと話したソクラテスのように怒られたり出入り禁止を食らったりしました。
いやー、ぼくも言葉使いには気をつけよう。
別に、妹が言ったことを自分の言葉として語っても、ネット上では分からないからかまわないんだ。
でもなー、自分に嘘をつくのはなー。
っていうか、脳内妹以外はどんなに似た感性の人でも他人じゃん。
べ、別にコメントが付いたって、妹になでなでしてもらうよりはあんまり嬉しくないんだからねっ!


結局妹崇拝か!!


俺は妹好きすぎる。妹以外は全部他人。


と、言いながら、こうやって律儀に返信する程度にはコミュニケーション遊びをしている。
相手の思いを知りたいというか、士郎政宗風に言うと、他人の思考をインポートして自分の脳内ネットワークを複雑化して、ミームの韻度を高めて仙術殻に解脱するためのクンフーを積みつつ、アカシックレコードのマクロにデータを上げて世界を調律するするる。
なんか後半はゲリー・ボーネルやラーゼフォンが混ざってしまったが(笑)
だいたいそんなかんじ。
GW最終日日和