玖足手帖-アニメブログ-

富野由悠季監督、出崎統監督、ガンダム作品を中心に、アニメ感想を書くブログです。

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日本のいちばん長い夏

NHK終戦記念日あたりの第二次世界大戦番組やゲゲゲの女房も見て、それから感想を書きました。
なかなか見れました。
文士劇と言うことで、もっとひどい物を想像していたのですが、要ではプロの役者の池内万作さんを使っておられましたし、NHKで放送された時の実況twitterでは酷いと言われていた湯浅卓さんの喋り方も、個性の範囲内。むしろ、酷くて見ていられない芝居と言うことはなく、きちんと演出による統制がとれていたと思います。
湯浅さんの胡散臭く、どもったような物言いも、演じている迫水元内閣官房の、終戦当時の政治の中枢に居ても、内閣の責任よりも陸軍の暴走の懸念に話を持っていこうというズルイ感触の発言内容に合っていたと思います。
演技が出来ない人も出来ないなりに、演出の統制でそろった動きをしておりましたし、無駄な演技をせず、見やすかったと思います。俳優ではないが各方面で一線のベテランとなった方々の存在感は、戦争を生き延び、戦後昭和で老境に達した人物の落ち着きに通じる物でした。全体的に芝居が、予想よりは板に付いた感じで、不安に思っていたよりは浮ついた感じはなかった思います。
江川達也氏の演技は確かに泣き方が臭かったけど、素人ならこんなもんだろうという程度で、技量が足りないだけで文士劇としては間違ってはいないと思った。
ただ、文士劇、劇中劇、舞台劇、ドキュメンタリー、歴史バラエティ、TVドラマ、映画、座談会、文藝春秋の座談会や半藤氏の原作小説の朗読会、という様々な要素を組んだトリッキーな構成がひっかかった。
元・政治家たちの座談会での言葉が、落ち着いた過去の回想であったし、文士劇ゆえのぎこちなさもあり、いまいち感情的に伝わるものではなかった。
獄中で空襲を受けた共産党員役の田原総一郎や、ビルマの兵士役の江川達也従軍看護婦役のキムラ緑子は感情を出せる現場の被害者側であったのだが、座談会の空気を乱さないように落ち着こうという大人の配慮が実在の本人たちに在ったのか、あるいはこの映画の、それぞれの人に順繰りに発現させていくという朗読劇的な構成が、会話劇になりにくく、劇として一本の感情の起伏を生じさせない物になっていたのだろうかと思います。
劇としては、挿入歌と、座談会をまとめた半藤一利を演じた「役者」と「テレビ演出家」の会話に出てきた「未来へのバトン」という物が鍵になっているのだろうが、あまり熱のあるフィルムではなかった。まあ、歴史に付いて中立であろうとして、さまざまな立場の人の言葉を出しながらもどこにも肩入れしないようにつとめるというNHKドキュメンタリー的な感覚があったのかもしれん。(まあ、NHKもヤラセくらいはするんだが)
あるいは、21世紀になって「未来へのバトン」が宙ぶらりんになっているなあ、という団塊の世代の寂寥感か。なんとなく聞くのがはばかられてたり、戦争に負けて自信のない親、あるいは仕事に打ち込む親と話さずに「ナンセンス!」と言ってコミュニケーション不全を起こしていた団塊の世代たちが老境を迎え、次代に渡し得る物がない事に気付いたような虚しさ。そういったものを実際の座談会を劇中劇のように、「文士劇を撮影するセットを演出する演出家の芝居」というメタフィクションな構成で描こうとしたのだろうか。まあ、それは感情的であるか。
しかし、そういう老人のセンチメンタリズムよりは機動新世紀ガンダムXの最終回の座談会の方が歴史のメタフィクションと地付きの若者の殴り合いという感じで熱かったと思うよ。
  
  
と、その様に全体的には落ち着いた雰囲気の作品でしたが。一人だけ、全く空気の読めていない人がいました。
そう、富野由悠季その人です。
もうさー、この人はなんなの。いや、私が富野ファンって言うこともあるんだけど、全体の演出の空気から、明らかにトミノだけが浮いているんですけど。
なんかみんなが静かに座ってるシーンなのに、富野だけ、なんか鼻を掻いたりネクタイを直したり、物をモグモグ食ってたりすんの。誰も箸を付けずにきちんと座談会をしてるのに、富野だけパクパク食べてる。クラスに一人だけ落ち着きがない子がいます。あ、こいつ、演出の言うことを聞かずに勝手にやってやがる。
僕が富野ばかり見ていたからだろうか?でも、なんか演技の初心者って演出とは関係のない落ち着きのない動作をしてたりするんですよね。いや、僕自身がそういう出来の悪い舞台役者だったので、昔の自分を見るようで…。しかも、やってる本人は「スタニスラフスキィの自然主義演技」だと思っていたりするから余計たちが悪い。
うーん。というか、背景でごそごそ小芝居をするって、アニメーションの富野演出その物じゃん!そうかー、富野は自分が演技する時でも富野コンテなんだねー。宮崎駿レベルの演出家ならゴミ箱に直行。
あ、でも、富野監督は「今村均大将の事を演技した後に詳しく調べたら、座談会の時は刑期も終えて、もっとまろやかな人になっているらしいと知りました。僕は演技をした時は、『戦争責任者に対して、現場の人間の立場からの怒りを表明するような演技』をしたので、失敗だったかもしれない」と仰っていましたが、今村均にスポットが当たる見せ場のシーンでは、演出の流れとしては不自然に思えなかったです。
今村均が「ラバウルには自給自足の基地があって、もっと戦えると思ってましたよ。工場だって用意してました。だから大本営が敗戦を伝えた時は意外だった」ってドヤ顔をして、周りの人に感嘆される所は綺麗な流れの芝居になっていた。
むしろ、スポットが当たってない時の富野の背景小芝居の方が気になってな。話してる人をすごい眼力でガン見したり、体がふらふら揺れてたりするし。もっとどっしり構えろ。でも、富野に落ち着きがないのはいつもの富野。
うーん。
富野監督は「リング・オブ・ガンダムで実写の役者を使うことで、実写コンプレックスがなくなった。むしろ、実写の役者を演出するのが、アニメを演出するよりも邪魔な作業だと思いました」と語っていましたが。今回の日本のいちばん長い夏においては、富野由悠季が一番邪魔な役者だった気がします。その身体感覚を監督も自分で実感できたのではないでしょうか。次回作に生かしてほしいですね。
  
  
あと、NHKラバウルの周辺で玉砕したズンゲン支隊のドキュメンタリーや、そこに所属していた水木しげるの証言やゲゲゲの女房を見ると、今村均って人も微妙だと思いました。
今村は今回の座談会で「ラバウル基地は自給自足で戦えた」と言っていた。でも、その周辺で後退中の前線のゲリラ部隊のズンゲン支隊は、生真面目で実戦経験に乏しい大尉が指揮をして小拠点を死守しようとして玉砕。玉砕突撃前に支隊はラバウル基地に総員突撃する旨を電報で知らせた所、今村等の将校は「早まった判断だからやめるように」と返信したらしい。が、電波状況が悪く、返信は伝わらず、突撃は敢行された。ミノフスキー粒子か。
で、大本営はそれを「軍人の鑑の玉砕」と称えて天皇に報告しマスコミに報道させ臣民を鼓舞したので、突撃から生存した兵士の存在を揉み消すためにラバウルの士官は、生存者を処刑したり再度突撃させたりしたんだと。今村大将がどこまで関与していたかは知らんが。NHKの番組同士でも今村と言う人の見方がよくわからん。
今村大将は最前線の指揮官で大本営よりは現場の人間であるという座標軸もあれば、ゲリラ戦の兵士から見ると基地の中心にいて末端まで声や指示が届かず、他の戦線の事も見えていないお山の大将と言う座標軸もある。不謹慎な言い方だが、面白いな。
原作小説はもっと分量があるだろうし、回想録を読めばもっと見えてくるだろうが…、私にはそれほどの余力はないな。
  
  
それから、芝居の途中で出演者自身の戦争に関する思い出や感想に対するインタビューが在り、田原総一郎氏が終戦の日の思い出などを語っていた。田原氏はそこからの戦後教育や朝鮮戦争赤狩りなどの価値観の転換から、「偉そうな人は信用しないようにして来た」と言っていた。
富野は「今回、大人たちは何も考えずに戦争をしていたことがわかった」って怒っていた。「今回、大人たちは」って、あんた、来年70でしょ…。お富さんは永遠に思春期だなあ。
  
  
まあ、私の祖父は戦後に忌み嫌われた中野学校出身の憲兵(妾腹だったのでスパイになるしか行き場がなかった)で戦争犯罪者で、しかも戦犯逃れで戸籍操作して、戦後は偽名で公安に勤めて叙勲されたような物凄い役満なんだが。(つまり、私の本名も偽名臭い)そういう事情は本当に個人的なもので、反戦がどうの軍国主義がどうのと言うよりは、まあ、人類が生きようとしたらみんな馬鹿だから泥沼にはまるよねーwww。思想も勝敗もどうでもよくて、偶然の積み重ねでしかない物を歴史の流れとか言って、勝手に解釈する程度の知能しかない。
えーと、つまり未来へのバトンとか言って、戦争がどうとか殺しの実感がどうとか、そういうのを1000年も引きずるとどんどんバトンが重くなってパンクすると思いますね。せいぜい祖父母の代くらいまでの知識で良いし、感情はあくまで個人の物で良いと思う。関ヶ原の戦いなんか、コンテンツとして消費してレッツパーリィしたらいいと思う。
それをいちいち何世代も共有するとバカみたいな民族意識で、挙句の果てに人殺しだ。いやー、まあ、日本も割と戦国時代とか幕末とか内乱してる国だが、なんだかんだいって天皇で結束してる事にするシステムは在るか。敗戦直後は天皇廃止デモや殺害予告も在ったらしいけど。
まあいい、私は、歴史などは粛々と事実のデータを紙や映像やディスクや石などで保管して、数千年たっても興味や必要を持った人が客観的かつ冷静に情報にアクセスできるように努めればよいと思います。
そういうわけで、こういう戦争ドキュメンタリーの最後のテロップで「協力:アメリカ公文書館」とか連合国側の公式資料ばかりが最初に出て、敗戦したとはいえ当事者である日本側の一次資料が聞き語りののインタビューや絶版になっている書籍くらいしか出てこないというのは全く情けないと思います。
そういう意味では、福田康夫元首相は退陣前に公文書館を整備したので、実務的な政治家として評価している。しかし、それもあまり報道や評価もされず、マスコミの流れとかテレビ人気で麻生太郎を担ぎあげて選挙対策だどうのって言う自民党にも、そういう日本人にも、その程度の知能と生存本能しかない人間にも、その生物の血を引いている私自身にも心底不愉快さしか感じませんね。
まあ、脳内妹が可愛いから、人類に関わっている暇なんかないので放っておきますけど。
僕は夢を見るんだよ。