玖足手帖-アニメブログ-

富野由悠季監督、出崎統監督、ガンダム作品を中心に、アニメ感想を書くブログです。

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出崎統版あしたのジョー第1話〜22話前半

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  • 前置き

ここで、GyaO!で配信されているので見ている。宝島のDVDを手に入れたのでそちらから見るつもりだったが、先日出崎統監督が源氏物語千年紀 Genji2を作らないで、永遠に締め切りを破って勝手に死にやがったので出崎統アニメをもっとハイペースで見る必要に駆られた。と、言う訳で無料配信で見る事に。
初監督である。
そして、俺は∀の癒しを読んで劇場版AIRを見てから出崎統には本格的にファンになったんで、それまではあんまりちゃんと見てなかった。
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あしたのジョーはガキの頃に劇場版も2も再放送で見て、あしたのジョー2は先日、アニマックスで見た。アニマックスのあしたのジョー2は録画して何回も見た。

あしたのジョー DVD(1) ~TOMORROW’S JOE~

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あしたのジョー DVD(3) ~TOMORROW’S JOE~

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で、感想を書きたい気持ちと、毎日出崎統富野由悠季のアニメを見ないと体調を崩す体質の狭間でダラダラ22話まで見た。
1話の演出が出崎統で、22話は崎枕(出崎統ペンネーム)の演出。と言う事で一区切り。石黒昇さんや奥田誠治さん吉川惣司さん等、僕にも思い入れのある人も演出してるけど。多分絵コンテはほとんど出崎統
23話の演出は去って行った力石の代わりにアニメ界に出戻ってきた富野がどろろ班の出崎統と再会する運命の話!
富野は虫プロ時代に鉄腕アトムの各話絵コンテ演出で出崎統と出会ったのかな?
アトムは産まれてなかったし、あんまり真面目に見てなかったんだけど、やはり富野と出崎統の関係で言えば、どろろですね。どろろは精華大学で見た。どろろと百鬼丸杉井ギザブロー教授の京都精華大学においてなかった。杉井教授ちゃんとしろよ。
しかし、出崎統の通夜には富野監督と杉井ギサブロー監督が出崎哲監督と同じく親族席にいたとは、どろろ班は仲が良かったのだろうか・・・。泣ける。勇者ライディーンを降板した富野が出崎哲監督と入れ替わりでラ・セーヌの星の監督(大隅正秋総監督)をしたし。
富野は出崎兄弟と縁があるよなあ・・・。エッセイや映像の原則などでもさんざん出崎統を天才扱いしてるし。

  • 原作との関係

原作は1巻だけ読んだ。だからあんまり知らん。
段平の過去のボクサーとか、設定はアニメより萬画の方が早めに説明されてた気がする。情報としてサクサク説明してる。
アニメはむしろ萬画を膨らませて雰囲気とか空気感とか時間とかを豊かに演出している。
特に1話のジョーがゆっくりとドヤ街に歩いてくるところのカット数やアングルの豊かさのスローだが緊張感のある感じがぞくぞくしたなー。
メディアの違いに自覚的だ。アニメは萬画と違って、読むスピード自体を作り手が制御して雰囲気にリズムを作れるからなー。それだけでぞくぞくする。もちろん、萬画もコマの大きさとか配置で色々技があるわけだが。
マンガとアニメの違いは、動きと音だけ以外も「色」も実はかなり大きな要素だったりする。日本の漫画はだいたい白黒である。アニメはジャングル大帝以降はテレビアニメでもカラーが多いのである。


と、言う訳で、あしたのジョーは白黒グレースケールの絵や、漫画そのものの白黒ハイコントラストの絵を挿入してインパクトを出すと言う事をやっている。白黒から徐々にグレーになるという手法も多い。
また、オープニングからして
画像キャプ
カラーのジョー


夕日


殴られて白黒のジョー


照明で黄色フィルター白黒


段平の涙に被せて炎


炎の色のジョー


と、カラーと白黒と色フィルターの使い分けで、ジョーの体力や気力の度合いを感覚的に表示したりしてる。
ここら辺はアグレッシブな演出技法の発見っぽい。が、同時に「若いころから白黒映画や彩色写真(天然色に非ず)を見てたら、こういう工夫は自然に思いつくよなー」って時代も感じる。
どろろや佐武と市は白黒だったし。
ここら辺の白黒とカラーの変化は、時代の空気も感じる。
また、白黒のテレビをカラーで描かれたジョーが見て、その白黒画面が徐々にカラーになって、テレビ内のボクシング上に「カラーアニメのあしたのジョーのカメラが移動する」という演出も見受けられて、虚構内虚構やメディアと言うものに自覚的であるなーと、思う。
23話のジョーが白黒テレビを見る話の演出は富野なのだが、白黒からカラーに変わる事で違和感や緊迫感を出すと言う手法は勇者ライディーンでも行っていた。ちょっと時代劇的な古臭さも感じさせてしまう演出ではある。(ライディーンでは自覚的に富野は「巨大ロボットに」時代劇的なチャンバラ的な台詞や刀の殺陣を行わせていた)
勇者ライディーン23〜27話 富野喜幸から長浜忠夫へ〜長浜忠夫から斧谷稔へ - 玖足手帖-アニメ&創作-
23話以降の富野乱入後のあしたのジョーについては、あした書きたいが、書けるか?
(23日から6月まで、1週間パソコンが使えなくなるのである)


虫プロでの出崎統の演出家としての躍進と言えば、杉井ギサブロー監督のどろろを思い出すのだが(アトムはあんまり見てないのだ)。
これが白黒で時代劇で、富野も出崎統と同じ各話絵コンテ演出の立場で参加した作品なのだ。(この後富野はCM業界に行ってみたり、片手間にアニメのコンテを書いたりして、あしたのジョーでは虫プロに出戻ってきた時期になる)
また、先日の出崎統の通夜で、杉井ギサブロー富野由悠季両監督は出崎哲監督などと並んで親族席にいたそうなので、どろろ班の絆は長いなあと思う。
ま、それはそれとして、
ドヤ街のこの丹下拳闘クラブのある泪橋が思いっきりどろろ第一話の木組みの橋と同じで吹いた。

ちなみに、どろろの第1話は監督は杉井ギサブローで、原作は手塚治虫だけど、一話の絵コンテ・演出は出崎統です。wikiにも載ってないけど、京都精華大学においてあったVHSで13話まで確認した。
どろろ第一話百鬼丸の巻その一 - 玖足手帖-アニメ&創作-


で、あしたのジョーの原作の泪橋も木製の橋なんだろうけど・・・。
この妙に高さのあるように見えるように、橋を煽ったカメラワークがどろろっぽい。妙におどろおどろしい霞とか。埃っぽさとか。
ドヤ街のチビ連中もどろろ(幼児)っぽい。もちろん、ちばてつや先生も手塚治虫先生と同時期に活躍していたマンガ家であるわけだし、アニメは虫プロ制作なので、それっぽさが相互干渉していると言う事はあろう。ちばてつや先生はトキワ荘の住民ではなかったはずだが・・・。
手塚治虫展|ちばてつやのブログ『ぐずてつ日記』
手塚治虫展についてブログを書いたり、ちばてつや先生は手塚先生に対して好意的のようだ。


それと、どろろについて、秋田文庫版のどろろ2巻の巻末解説が出崎統なのだが、

「昭和44年頃、季節は憶えていない。
モノクロだった。
結婚して、フリーになって、子供も生まれて、ちょっと都心から離れた畑地の中にポツンと作られた借家の中で、たくさんの不安と不満を持ちながら――僕は百鬼丸の錨模様を書いていた。
モノクロだった、何もかもが・・・・・・。」
(中略)
「僕のモノクロフィルムに、淡くではあるけど色が着いていったような気がする。昭和44年、
――そう、夏が始まりかけていたんだ。」

どろろ (2) (秋田文庫―The best story by Osamu Tezuka)

どろろ (2) (秋田文庫―The best story by Osamu Tezuka)

と、あまりにもかっこいい解説文を書いているのだが、出崎統のモノクロの人生→忘れかけていた手塚治虫からのメッセージ(人の世の清濁の「存在感」について)を醍醐景光を通して思い出す→色が付く→夏が始まる。
という表現が、あしたのジョーの中の白黒とカラーの使い分け演出に込められた出崎統の魂が感じられる。
同時に、テレビアニメにおけるカラーテレビの普及や白黒映画からの影響の系譜なども感じられないだろうか?
ちなみに、どろろの頃に既にお子さんがいたと言うのは、結構早くお子さんを持たれたのだなあ、と今再確認して思った。26歳の頃は既に子持ち。27歳で、あしたのジョーの監督デビュー。しかも超生意気に脚本も原作も買えまくり。すげえ。


虫プロ制作だなー、と、顕著に思うのが、こういう脇役が横並びになってて

一斉に驚く所。

手塚漫画によくあるリアクションだなー。



こういう風に、センターで汗をかいて焦るのも手塚治虫的。というか、醍醐景光っぽい。


あと、少年院に入った時のリンチシーンをこういう電球のアップだけを映して、音声だけで表現とかも、手塚っぽい。

もちろん、ねじりん棒やパラシュート部隊のように、作画的にボロクズみたいになってしまうような直接的な暴力表現もあるんですが。物凄く痛そう。痛みが伝わってくるわ・・・。
ていうか、ジョーは殴りすぎなので、少年院に入ったのが1回だけと言うのが微妙に信じられないレベル。


  • 舞台的レイアウトとカメラマン、出崎統

手塚治虫と言えば、宝塚歌劇団が好きで、どろろ火の鳥などの漫画においても唐突に歌舞伎を始めたりする舞台好きなのだが。
あしたのジョーでも舞台的レイアウトが多い。顕著なのが、22話。これは1話以来、久しぶりに出崎統が崎枕名義で演出までした回です。(絵コンテは不明)



この、主役二人のすれ違いをセンターにして、アンサンブルの脇役の少年人収容生を並べ、少年院の壁と門という大道具を見せるのが、実に舞台演劇的である。門が閉じると、力石徹は舞台から退場となる。
また、舞台的に人物や背景を配置しつつも、ジョーの横顔を映した後、カメラはその次の瞬間に大胆に力石の足だけをアップにする位置に、イマジナリーラインを飛び越えて真後ろのまで瞬間移動している。これは舞台では無理。アニメだからできるのだ。実写だと、ここまでレイアウトの自由度は効かない。(よっぽどの才能が無ければ)
出崎統のアニメは舞台的でありつつ、映画的でありつつ、そのどちらでもなく、物凄くピントやフォーカスの可動性のある変形レンズを備えたカメラを持ったカメラマンが、超高速かつ、超姿勢で縦横無尽に物語世界を飛び回り、時間の流れさえ変化させつつ切り取っているのだ。



↑このアングルは実写では無理。原作漫画でやってたレイアウトかもしれんが。
(それと、背景の色を自由自在に変えるのは、同じ梶原一騎原作の巨人の星をアニメ化した長浜忠夫の得意とする手法である。この対比も興味深い。荒木伸吾さんは巨人の星のアニメーターとしても、ものすごい迫力の作画をしたし)


その主観的でありながら硬質、同時に変幻自在な超人的なカメラマンと視覚や感覚を共有し、視聴者は、溺れる!
22話を、23話に参加する富野や、グダグダになっていく後半の制作に向けて、新規参入する演出家に向けて、改めてあしたのジョーという作品の空気感を表現する意志表示を見せたのだろうか?
(ちなみに、勇者ライディーンを降板する時の富野も、長浜に対する意思表示や手本のような感じで濃い絵コンテを描いている)
それと、22話はそれまでナレーターや予告を兼任していた丹下段平が登場しなかったので、謎のナレーションが初めて登場する回(ボクシング大会の総括をする所)。出崎統監督自ら、作品のお約束の枠組みを外したわけです。
(その後もナレーションはあんまり出てないけど。富野回とかで2回くらいあった程度かな)


22話は、これ以外にも、出崎統っぽさが炸裂しており、最高に格好良すぎる。特に力石が格好いいのだ。
力石さんは基本的に無口だけど、あんまりしゃべらなくてもBGMが力石のテーマになるので、一瞬で場を支配して超カッコイイのだ。
でも、白木葉子さんが少年院を慰問してノートルダムのせむし男で美少女の役を演じた時にデレデレしている力石さんはだらし無かったので、ジョーも俺もちょっとカチーンと来た。
やっぱり、力石さんはカッコ良くないといけないのだ。


カッコいい力石さんの伏し目

21話は荒木伸吾作画監督回ですが、非常に後年の杉野昭夫キャラが良くやる角度と睫毛です。ていうか、源氏物語千年紀 GENJIまでずっとこんな感じ。
wikiには各話で作画監督クレジットが載ってるけど、Gyao!で配信されてる奴には、作画監督はOPに杉野昭夫、荒木伸吾、金山明博の3人連名で、EDのスタッフは「原動画」の人たちがクレジットされてて、作画監督三名の名は出てない。
だから、厳密には誰がどういう絵を書いてたのかよくわからん。荒木さんはこの角度の顔のイメージはあまりないのだが・・・。ベルサイユのばらでやってたかな?
コンテ段階でこんな顔だったのだろうか?
22話の杉野昭夫回では青山も西もジョーもこの顔である。



西wwwマンモス西の睫毛www


大張片顔ベタ片目の表現の源流が、片目の丹下段平だと言うのは乱暴だろうか?


オーバリズム表現の1つ・BL影に赤い目 - まっつねのアニメとか作画とか



長くなったので、後編へ続く!
出崎統版あしたのジョー第1話〜22話後半 - 玖足手帖-アニメ&創作-