玖足手帖-アニメブログ-

富野由悠季監督、出崎統監督、ガンダム作品を中心に、アニメ感想を書くブログです。

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花咲くいろは11話12話の世代論&文明論とタナトス

花咲くいろは 4 [Blu-ray]

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緒花の母親の「自慢できない仕事であんたを育ててきた」っての、何か原発問題を思い出したわー。
そうなんだよねー。東京電力も、原発下請け作業員も、東芝も、もんじゅ福島原発を建てた人も認可した政治家も、みんな騙し騙し先送りして、たまたま今は事故が起きちゃったけど、それでも過去にはその仕事で家族を養ったりするっていうエクスキューズで頑張って、小さな生活を守るためにやってきたんだろうね。
それで今、日本の領海をかすめたりする中国の軍人とか、中央アジアや中東に爆弾を落としているアメリカ人とか、事あるごとに戦車を動かすロシアやイスラエルや、インド洋でロケット弾を撃ち込んでる海賊のアフリカ人も、小さな生活を守るために、って言い訳で、誇れない仕事や糞みたいな戦争に発展させたりしてるんだろうね。糞みたいな日銭を稼いで少しでも死を先送りしたり、ションベンの代わりに出た精子卵子と結合してひり出したガキを育てるためとか言ってさー。
(我ながら酷い言い方)


で、緒花は(孝一ちゃんとの恋愛での自分の態度も含めて)、「私は酷い」って言う。
「酷い母の酷い仕事のおかげで育ててもらった自分は酷い」とか。あと「みんな、それぞれの考えで、それぞれのやりかたでがんばってるんだ。私はそれに気づいてなかったから子供だなー」とか。そんな感じの11話と12話の東京編。
「夜に吼える」「じゃあな。」


しかし、「人に誇れない仕事でも、あんたを育ててきた」っていう親の理屈や、そう言うドラマはありがちといえばありがちだし、浪花節的ドラマにはよくあるシチュエーションなんだが。花いろでおもしろいのは、そういう仕事に責任感が無い所。「人に誇れないが、自分では自分なりの誇りがある」、って言うのが古めの浪花節ドラマなんだが。
「喜翠荘や湯乃鷺温泉地域の老舗旅館に悪い評価をした旅行雑誌は編集プロダクションが書いた記事を載せただけ」
「で、雑誌社は抗議に来た緒花に簡単に編集プロダクションを教えて、『抗議はそっちに行ってください』って責任をなすりつける」
「編集プロダクションは末端の雇われライターの緒花の母、松前皐月が喜緑荘の悪い点を想像だけで書いただけ」
「その母曰く『あぁいうランキングは大人の事情ってもんが絡んでくるのよ。どこかの偉い人が喜翠荘に悪い点数をつけたがっている、それに従ってまとめただけ』」
で、「どこかの偉い人は、新しいレジャーセンターを作りたい人たち」だが、その偉い人たちは出てこない。
ここら辺が現代的と言うか、だれも責任を取ろうとしない40代あたりの団塊の世代ジュニアが中心で構成された社会っぽいなー。


中小企業の事業承継とM&A―後継者不在、世代交代で悩んでいるあなたに

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また、ありがちな環境ドラマや観光旅館ドラマだったら、その「どこかの偉い人」を敵として登場させて戦うっていう風になるんだが、その悪くて偉い人たちを登場させないのも、現代的。たぶん、その偉い人たちも特に私利私欲で悪いんじゃなくて、「レジャーランドの資本が」とか「地域の景気振興のためには」とか「何十年も前に決まっていた計画だから」とかそういう責任転嫁をするだろうし、出しても無駄なんだよな。ドラマ的に。それが今の日本。

僕は富野由悠季と言うアニメ監督が好きなので、彼の最近のマイブームのハンナ・アーレントに関する発言を抜粋する。
ハンナ・アーレントの「全体主義の起源」によると「政党によっても代表されない孤立化した大衆」が「無責任に社会全体のイデオロギーに埋没して自己と他者を強制的に動員する」ことで全体主義が産まれるとか、大体そんな感じらしい。要約すると。

全体主義の起原 1 ――反ユダヤ主義

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んで、ピーター・ドラッカーの『「経済人」の終わり―全体主義はなぜ生まれたか』によると、全体主義を回避するには、個人が自分の責任を果たす事。
ドラッカー名著集12 傍観者の時代 (ドラッカー名著集 12)

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と、この間、富野由悠季が出演した「もしドラ(もし高校野球の女子マネージャーがドラッカーの『マネジメント』を 読んだら)」のアニメのオマケコーナーで富野監督が言ってた。
もしドラ page:5 [Blu-ray]

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だが、今回の花咲くいろはを見ると、
「個人が自分の責任を果たそうと、与えられた仕事をこなしていく」

「誰も責任を取らないまま湯乃鷺温泉の人が困るような記事が出る」とか、「原発が爆発しても誰も責任をとれないし、だれも対処法を考えていなかった」
っていう事態になるんじゃないかなーッて思う。
個人個人が孤立して、「仕事だから」「慣習だから」「命令だから」「経済発展のためだから」で動いてたら、結局全体主義っていうか、誰も責任を取らないまま誰も望まない糞状況が発生するんじゃねーかなーって思う。
個人の欲求や幸せを追求して、それでみんなが幸せになるような幸せな時代は終わったんだよ!気付け!


んで、12話だと緒花の母の皐月もかつて学生時代に喜翠荘の女将だった母、四十万スイ(しじま・すい)に「お母さんはいつも仕事ばっかり!」って反発してきたんだよなー。
なんか、女将さんは団塊の世代というか、団塊の世代のちょっと前の戦中世代っぽい。
整理すると


スイ女将(祖母)
「戦中の記憶があって、伝統的な日本の、十年一日のような老舗旅館で、戦後は仕事一筋だった世代」


皐月
「仕事一筋だった親世代に反発して、自由恋愛、自由生活をしてきたが、大人になってみると仕事の正しさや責任の取り方も、子供の育て方もわからない、団塊ジュニアやバブル世代。伝統を否定したり教えてもらわなかった中堅の日本の人。空白の世代」


緒花
「経験の浅い現代っ子。
 だけど、自分を構ってくれない親の代わりに家事をしたり、旅館の仕事や人間関係に対してやる気があったり、人間としての基本的な胆力はある」


って感じかな。
そんで、第三世代の緒花が、第二世代の母の空白を越えて第一世代の女将(と、その前の伝統)を学んで、第二世代の皐月を喜翠荘に連れて来て、第一世代と第二世代の和解を描くってのが、次回のドラマの落とし所だろうか?


(他にも「徹、緒花、民子」&「浩一、緒花、メガネ」のダブル三角関係とか、「鶴来民子、押水菜子、和倉結名」の三人娘と松前緒花の関係とか、他にもドラマは色々あるが、今日は割愛)



しかし、僕としてはそういうハッピーな生き方はアニメの中だけで、もはや現実の日本ではそういう人生モデルは無理だと思う。少子化だし。
スイのように伝統を持ちつつ、まだボケていない高齢者はほとんどいないし。
そういう高齢者と若者の接点もほとんどないし。
中間管理職は空洞化してるし、労働者は給料をダンピングして、大企業でも情報や放射能が流出して、中小企業はダンピングしすぎて食中毒を出したり自殺者を出してるし。
幸せなんかないんだよ!
いや、個人が幸せを求めようとする態度が世界全体の本当の幸ひを食いつぶして言っていると言うべきか・・・。


ここで唐突に村上春樹カタルーニャ国際賞スピーチで語られた福島原子力発電所事故にまつわる言葉を出す。

http://www.47news.jp/47topics/e/213712.php?page=5
今回は誰かに爆弾を落とされたわけではありません。我々日本人自身がそのお膳立てをし、自らの手で過ちを犯し、我々自身の国土を損ない、我々自身の生活を破壊しているのです。

 何故そんなことになったのか?戦後長いあいだ我々が抱き続けてきた核に対する拒否感は、いったいどこに消えてしまったのでしょう?我々が一貫して求めていた平和で豊かな社会は、何によって損なわれ、歪められてしまったのでしょう?

 理由は簡単です。「効率」です。

 原子炉は効率が良い発電システムであると、電力会社は主張します。つまり利益が上がるシステムであるわけです。また日本政府は、とくにオイルショック以降、原油供給の安定性に疑問を持ち、原子力発電を国策として推し進めるようになりました。電力会社は膨大な金を宣伝費としてばらまき、メディアを買収し、原子力発電はどこまでも安全だという幻想を国民に植え付けてきました。




我々は死者を悼み、災害に苦しむ人々を思いやり、彼らが受けた痛みや、負った傷を無駄にするまいという自然な気持ちから、その作業に取りかかります。それは素朴で黙々とした、忍耐を必要とする手仕事になるはずです。一人ひとりがそれぞれにできるかたちで、しかし心をひとつにして。



大きな自然の力の前では、人は無力です。そのような儚さの認識は、日本文化の基本的イデアのひとつになっています。しかしそれと同時に、滅びたものに対する敬意と、そのような危機に満ちた脆い世界にありながら、それでもなお生き生きと生き続けることへの静かな決意、そういった前向きの精神性も我々には具わっているはずです。


人はいつか死んで、消えていきます。しかしhumanityは残ります。それはいつまでも受け継がれていくものです。我々はまず、その力を信じるものでなくてはなりません。



違う、間違ってるぞ、村上。
電力会社VS国民(われわれ)とか、そーいう対立構造は無いの。電力会社に騙された方も悪いし、電力会社や国家公務員や議員の家族はそう言う詐欺を知りながら自分の生命を守るために、国民(われわれ)の側でありながら黙って享受してきたし、それでみんな経済とやらを回してきたんでしょうが。
だから、悪い人と良い人の区別なんかないの。みんなの手が血まみれなんだよ。
生き続けることへの決意が備わっているとか、バカバカしい空想だな。新エネルギーよりもさらにバカバカしい。
単に、「自殺した人や、殺された人の思考は観測できない」「結果、生き続けようとする人間の思考しか観測できない」「だから、人間は生き続ける物だ」って誤認してるだけじゃないの。
あはははは。

「穏健的脱原発」のほうはそれに対する馬場正博の反論文


村上春樹氏への手紙に代えて
ビジネスのための雑学知ったかぶり 村上春樹氏への手紙に代えて


この文章は「イースター島」という単語と内容だけで、「文明崩壊」で著者ジャレド・ダイアモンド氏が開陳した彼のエネルギー・環境問題観をベースにしていると分かる人には一発で分かる代物で、L.starの価値観もそれをベースにしている。
(本の)著者は環境問題については非常に熱心であり、彼がこの本を通じて投げかける価値観は1行で要約すると「資源の不足が急激な文明崩壊を招く。だからこそ我々は今ある資源を出来るだけ大事に使い、破滅を避けなければならない」というものだ。

科学を信じるか、心を満たすかという二律背反

DVD 文明崩壊

DVD 文明崩壊

人類は地球というイースター島よりは少しは大きな場所に住んでいます。しかし、森林資源が60億人の文明と命を支えることはできません。化石燃料を利用することは現代文明の原因でもありますが必然でもあります。


プルトニウム半減期は2万4千年です。深い地中に埋めたとしても未来の人類に深刻な被害を与えることはないのか。現代文明の維持のために負の遺産を残すことは許されるのか。


この問いかけに完全な答えを出すことはできないでしょう。しかし、何万年という歳月も地質年代からみればわずかな期間でしかないということは言えます。


私は未来の子孫たちのことを考えるなら10万年先のことより、ここ100年、200年の資源枯渇や環境汚染のことを考えるべきだと思います。地球は少し大きなイースター島に過ぎません。資源が環境がいったん失われてしまえば、文明もまた失われるしかありません。化石燃料か、再生可能エネルギーかあるい原発か、何が人類の未来を守ってくれるのかということはもっと短い期間(と言っても数世紀という時間軸ですが)で考えるべきことだと思います。
ビジネスのための雑学知ったかぶり 村上春樹氏への手紙に代えて

成長の限界 人類の選択

成長の限界 人類の選択


だが、私はリアリストで虚無主義なので、夢想的脱原発派の村上春樹氏にも、穏健的脱原発派の馬場正博氏にも、また、現実的原発推進派にも、NOと言いたい。


花咲くいろは程度のアニメを見ていても、一人一人の人間が「幸せになりたい」と思う限り、また、その幸せが誰かの犠牲(現実的原発作業員や労働者などの搾取)や無能力(搾取される側の仕事に就く程度の能力や縁しか得られなかった巡り合わせ)や存在しない新技術や新資源や新規範(夢想的希望、未来)を担保にして成立される限り、
個人の幸せへの欲求は、めぐりめぐって「責任の拡散」と「認知の限定」と「思考停止」となり、破滅するしかない。地球は有限であるからだ。


だったら、「幸せになりたい」という欲求を捨てればいいじゃないの。
需要と供給が釣り合わないのが今の文明の在り方である。しかし、原発事故の後の議論や、ゼロ年代の文学やアニメ、またそれ以前の高度経済成長を前提としたあり方を見ると、どれもこれも結局は大差なく「何とか供給を需要に追い付かせて幸せになる方法があるはずだし、それを見つけるべき」という無責任論に見える。
だが、こういう場合、もう一つのやり方があるとすぐにわかるだろう。需要の方を減らすんだよ。
つまり、自死
自主的間引きである。
(強制的間引きは戦争であり、それは大量のエネルギーを無駄に消費するのでやってはいけない)
自主的に絶望を受け入れ、静かに死ね。
幸せになりたいという欲求を捨て、幸せになりたいという欲求を持っていた自分に責任を取らせるために死ね。
そうすることで、逆説的に、全体の幸せは保たれる。(破滅が回避される、と言う程度で)


しかし、そう言う事をちゃんと前向きに検討する人はあまりいない。
幸せを放棄し、誰かに譲っての自裁こそが最高に責任感とリアリズムと優しさを持った対処法だと思うのだが。だが、それをいうと虐殺志向だと思われたり、幸せになりたいという本能を捨てきれない大衆に嫌われて排除されるから、大衆から金を貰って生きている有名人は言えまい。
だから僕が言う。
僕が死ぬからお前も死ね。ホビロン。ホロビロ。
一部の本当に優秀な貴族以外に成れないと、カエサルに成れないと思った時点で愚民はこの世を去るべきなのだ。キルケゴール死に至る病のように、絶望の法則に従うべきなのだ。




村上春樹と並んで(?)最近人気の伊坂幸太郎の小説の文章を引用しよう。「オー!ファーザー」より

父「『由紀夫(息子)が将来、苛められっ子になるのと、苛めっ子になるのと、どちらかを選ばなければならないとしたら、どちらにするか』」


父「で、答えたんた。『苛めっ子だ』」


父「苛め、ってものは絶対になくならない」
父「たとえば、ある時、世界中の誰もが、自分の子供に対して、『他人を苛めるくらいなら、苛められる側に立ちなさい』と教えることができたなら、今の世の中の陰鬱な問題はずいぶん解決できる気がするんだ。そういう考え方の人間だらけになったら、な。ところがどうだ、げんじつてきにはだれもそんなことはしない。『苛めっ子になれ』と全員が願うほかない。被害者よりは加害者に、だ。ようするに結局は、自分たちが悲劇に遭わなければよい、と全員が思っている状態なわけだ」悟は説明した。
由紀夫「当然のことだと思うよ」
悟「俺もそう思う。ただ、温暖化も苛めも、戦争だって、そりゃ、永久になくならないはずだ、と改めて思っただけだ」
「それなら、せめて俺だけでも、被害者になるよ」と由紀夫は言った。実際に被害者になるようなことは絶対にない、と高をくくっているからこそできる発言でもあった。

オー!ファーザー

オー!ファーザー

ハハハハハ!
現代人気ベストセラーノベル作家は面白い事を言うねえ。しかし、実際には、みんながいじめっ子になりたがって足の引っ張り合いをして、結局は幾分かは、いや、むしろ一握りの勝ち組以外は全員いじめられる、と言うか何らかの被害をこうむるんだよねえ。
しかも、苛めっ子に成れるかどうかは実際、自分の力ではどうにもならない、人間関係は縁だからね。つまり、博打なんだよなー。
だったら、自分から負ける、って言う事の方が、自分の意思を貫く事にならんか?俺はそっちの方が、精神的には勝利だと思うぜ。
大局的にも不幸を減らせるしな。具体的には俺が食う分の飯を誰かが食える。

自殺―もっとも安楽に死ねる方法

自殺―もっとも安楽に死ねる方法


ガンジーの言葉を引用しよう。

ガンディーはユダヤ人とチェコ人に対し、ナチスの占領に対する非暴力の抵抗活動として、集団自殺を勧めた。

1946年6月、彼は伝記作者ルイ・フィッシャー (Louis Fischer) にこう語った。

ヒトラーは500万人のユダヤ人を殺した。

これは我々の時代において最大の犯罪だ。

しかしユダヤ人は、自らを屠殺人のナイフの下に差しだしたのだ。

かれらは崖から海に身投げすべきだった。

英雄的な行為となっただろうに。

ガンジーの危険な平和憲法案 (集英社新書 505A)

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ナチスだって、不況のあおりで仕方なく富と土地を求めただけなんだよ。みんなかわいそうなんだ。
アドルフ・ヒットラーも選挙で選ばれた全体の代表なんだ。みんなが個人の幸せを求めるというのは、結局は殺し合いにすぎないのだ。
だから、死ぬべきと気付いた人から、とにかく死んでいくのが一番静かでいい。殺しはうるさいから嫌いだ。
つまり、ガンジーは非暴力だが非生命の人でもあったんだよね。ガンジーは非暴力と静かな世界が実現できれば、カーストが固定されようが人々が自殺しようが、平和が来ると思ったんだ。それはそれで良いと思うんだけど、マハトマ・ガンジーは他人に、他の利己的な生命を持つホモ・サピエンスに暗殺された。
みんな、自分一人の事しか分かってない。
子供のためって言うのも、勝手な自己投影に過ぎない。「仕事や人生を頑張る力を付けるために、家庭や子供が欲しい」なんて、言う人が多いけど、本末転倒だと思う。テメーの人生と子供の人生は別だろ。でも、人は自分の人生しか見えてない。馬鹿だからな。


機動戦士ガンダムF91の鉄仮面、カロッゾ・ロナが考えたように、強化されない臆病な大衆は自殺する気力もないのである。なんだかんだと言い訳を付けて延命したがる。
ゆえに、貴族は自らを改造し、人間を辞めて死にながら、大衆に対して無作為の粛清を行うしかないのだ。ふははははこわかろう。
今年のサマータイムは節電と熱中症放射能もんじゅが楽しみだ。今日は14時半から高速増殖炉もんじゅの炉心の直上の異物除去作業中かな。また事故が起きたら炉心が崩壊する。
覚悟はいいか、俺は出来ていようがいまいが死ぬ時は死ぬ。

動かない、動かせない「もんじゅ」―高速増殖炉は実用化できない

動かない、動かせない「もんじゅ」―高速増殖炉は実用化できない


と、花咲くいろはのような美少女アニメを見ても、社会の影がちらつくと、このように暗い考えになるのが私なのである。


ノイタミナの『[C] THE MONEY OF SOUL AND POSSIBILITY CONTROL』はそこら辺の、愚民の粛清を真面目に描いていて好きだ。
ま、「C」はリアルな経済闘争を超常現象と絡めて描いているから、それはそれで本当のリアルではないんだけど。
超能力が登場しない現代日本を舞台にした、花咲くいろはの後半は、どうなるんでしょうね。
ま、どっちも面白いアニメだから良いんだけど。
基底現実はあんまりおもしろくない。

花咲くいろは(1) (ガンガンコミックスJOKER)

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