玖足手帖-アニメブログ-

富野由悠季監督、出崎統監督、ガンダム作品を中心に、アニメ感想を書くブログです。

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輪るピングドラム第20話 「選んでくれてありがとう」陽毬は本当に果実を持っていないのか?

前掲の20話の感想は、最後に息切れをして、大事な事を書くのを忘れた。


剣山の演説と陽毬の眞悧への返答を見ると、陽毬は人に与えようとしない子という事に成る。


剣山の

選ばれたとか選ばれなかったとか。やつらは、ひとに何か与えようとはせず、いつも求められることばかり考えている。

 この世界はそんなつまらない、きっと何物にもなれないやつらが支配している。

陽毬「疲れちゃうから追いかけない」(逃げる役しかやらない、私からは近づきませんと宣言してるようなもの)
陽毬「逃げる相手を追っても、そういう相手は決して実りの果実をこっちには与えないんじゃないかな」
眞悧「君はキスをするだけじゃなくて果実を手に入れたいんだね?」
陽毬「キスは無限じゃないんだよ。消費されちゃうんだよ。果実が無いのにキスばかりしてたら 私は空っぽになっちゃう」
陽毬「空っぽになったらポイされるんだよ」
眞悧「ポイされてもいいから、心が凍りつくギリギリまで、100回のキスをやり返せばいい」
陽毬「そんなの惨めだよ」
眞悧「惨めでもキスができるんだからいいじゃないか。何もしないで凍りつくより、キスをして
凍りつく方が楽しいんじゃないかな。」


眞悧「気持ちに任せろってこと。キスだけが果実なんじゃないかな。」



陽毬の「自分からは何も与えられないし、自分は果実を持っていない、だからキスをしたって果実を貰えないとみじめだよ」という言葉に、眞悧は「そのキスが果実なんだよ」と答えてる。
美少女に「君は君だから良いんだよ」「君は既に幸せを持っているよ」という事を、持って回った独自の言い方で言ってるんだよなあ。


眞悧はやっぱり陽毬を煽っている。
恋愛に臆病で、そもそも3歳の時から自分に自信がなくて、アイドルの夢と高倉の親を失ってからもっと自信をなくなって自分が空っぽのように思っている陽毬に「自分の人生を生きないとつまらないよ」と励ましているようだ。
彼は暗躍しているので、その言葉がそのまま陽毬にとって幸せへの道かはまだわからない。
しかし、陽毬は人を喜ばすことができないかすかというと、そんな事は無い。


1話の晶馬は陽毬を見るだけでかわいいな、と星がキラキラとぶくらい思っているし、17話で陽毬がセーターを編むと言った時、小説版では「僕らの妹は、こうやって身の回りの物を器用に作るようになって、そうやってしっかりと生きて行くに違いない」って思った。陽毬は無能な引きこもりではない。
実際、陽毬の作ったマフラーは眞悧の手によって送られて、ダブルHを喜ばせた。
冠葉は絶体絶命の時に「陽毬のために生きたいんだ!」と力を発揮して、それは多蕗の心も動かした。


陽毬は、本当の母親に捨てられたり、猫が死んじゃったり、今までアイドルになろうとしてなれなかったり、学校に行けなかったり、やりたい事が頓挫する経験が多くて13歳にして自分には何もないと思って、残りはおまけの退屈な人生だと思っているような少女だ。



だが、生きている限り、それは本当におまけなんだろうか?
陽毬がカレーを作るだけでも、それはかわいいし、あったまるし、良いんじゃないのかな。
陽毬はそれに気づいているのか、目を向けないようにしているのか。
僕はかわいい女の子はそれだけで良いと思うけど。でも、かわいいを消費されるのも辛いって思っちゃう女の子は辛いだろうね。でも、閉じこもっていてもつまらないよ。
(僕も履歴書を書くだけで熱を出すメンヘラニートなんだけど、アニメは一生懸命見てます)


追記:で、陽毬は自分では動けないと20話では思っていたけど、21話では動いた。そして、それはどちらかの兄を選んでついていくという事。誰かに果実を与えるという事は、誰かに与えないという事を選ぶこと。「選別」はやはり重要。
のこり3話。

僕は14、15歳の時には、本当に絶望していて人生真っ暗だと思っていたんだよ。(中略)70年代まで安保闘争があったわけだけど、それも終わって「ああ、やっぱり世界を革命するなんてことはできないんだな」って空気が蔓延してたんだ。だから自分は20歳までには死ぬんだろうと思っていたし、それ以降の人生なんてオマケみたいなものだって思っている――そんな話を(庵野秀明監督と)したんだ。


幾原邦彦『ALL ABOUT 渚カヲル』(p.54)

陽毬の空っぽな自意識は、思春期の頃の幾原邦彦監督の物かもしれない。
それに対して、中年まで生き延びた幾原邦彦が、運命の至る場所から自分に似た女の子にタイムマシンでメッセージを送っているのかもね。


この追記エントリも書き残しがあった。一言で言うと、果実はキス、キスは熱。熱を失うと死ぬ。だが、熱を放つ人は美しい。そういう情熱を見たいと、我々視聴者は願うんだよ。って事。

舞台の作為性という重大な点はあるとしても、一応見る目的としては、誰かの「燃え尽きるような生き様」を見たいってことではないかと思う。つまりは誰かが燃え尽きる様を見て、自身のことのように陶酔するような感じか。
「過去のインターネット」に絡めて、久々にまどかマギカについて書く - TinyRain

桃果も苹果も燃える。
冠葉も燃える蠍の心臓を燃やす。
希望の松明は燃える・・・。我々、視聴者はその登場人物たちの非実在魂の熱をどうする?