玖足手帖-アニメブログ-

富野由悠季監督、出崎統監督、ガンダム作品を中心に、アニメ感想を書くブログです。

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無敵超人ザンボット3「1〜3話」まどマギを35年前に超越

私は富野ファンですが、1982年生まれのVガンダム世代なので、1977年の無敵超人ザンボット3は初見。
とりあえず、高校3年の頃の∀ガンダムと大学のキングゲイナーで富野ファンになって、新訳Zガンダムに合わせたタイミングでガンダム富野由悠季以外のも合わせて全部見た。で、富野の監督作品はラ・セーヌの星や闇夜の時代劇(正体を見る)も含めてだいたい見た。
で、勇者ライディーンを見たから、ザンボット3をついに見る事ができる。10年かかっちゃいましたねー。
残りはダイターン3エルガイムとしあわせの王子(←これは無理そう)。


ザンボット3については、スパロボやインターネットの知識で、とにかく人が死ぬということだけ知ってる。
ニワカファンです。


で、初見で見た感想としては、すごく感動した!
具体的には5話のあまりにリアルな被災描写と精神崩壊展開で東日本大震災のトラウマや持病のパニック障害が悪化して、心臓が痛くなって眩暈や吐き気や悪寒に襲われて死ぬかと思った。それくらい心に響く名作と言う事ですねー。良いですねー。強い酒は体に悪いけど、それ以上に気持ちいいですね。富野アニメは大衆の阿片ですね!


そういうわけで、まず、結論としては35年前に既に魔法少女まどか☆マギカザンボット3は越えていたと言える。


だからして、

氷川竜介 @Ryu_Hikawa
文化庁メディア芸術祭の内覧会にきてます。
富野監督にバッタリお会いするなり、「なんで、まどか☆マギカが一番なんだ!」と、詰め寄られました(笑)。
https://twitter.com/#!/Ryu_Hikawa/status/171866786097135616


http://hogehogesokuhou.ldblog.jp/archives/51866080.html

と言う事は全く当然のことであると納得した次第である。
そりゃあ、富野本人にして見たらまどマギ劣化コピーだし、売れてたら悔しいし、実際もっとお金欲しいよねえ。71歳だけど、同人誌で俺ガンダムの新作(Gレコ)を書いてるし、スポンサー欲しいよなあ。



ザンボット3が素晴らしいという個別の論拠は以下に述べる。


とりあえず名作すぎるので、感想はゆっくりと書こうと思う。この時点で見始めてから1ヶ月経ってるし。
今回は3話まで。

無敵超人ザンボット3
ジャンル ロボットアニメ
アニメ
原作 鈴木良武
富野喜幸
総監督 富野喜幸
脚本 五武冬史、荒木芳久
吉川惣司、田口章一、星山博之
キャラクターデザイン 安彦良和
メカニックデザイン 平山良二 大河原邦男 スタジオぬえ
音楽 渡辺岳夫(作曲) 松山祐士(編曲)
アニメーション制作 日本サンライズ
製作 名古屋テレビ 創通エージェンシー 日本サンライズ
放送局 名古屋テレビ
放送期間 1977年10月8日 - 1978年3月25日
話数 全23話


話数(初回放映日) サブタイトル 脚本 演出 コンテ 作画 登場メカブースト
1(1977/10/08) ザンボ・エース登場 五武冬史 斧谷稔 グリーンボックス 青木悠三、正延宏三(第1話) ドミラ
2(1977/10/15) 燃える死神の花 荒木芳久 ジドビラー
3(1977/10/22) ザンボット3出現! 行田進 秦泉寺博 木下ゆうき ガビタン



また震災以降や原子力災害以降や、ゆとり教育の弊害など、ポストモダン社会学的問題もすでに扱っていた。
宇野常寛さんの言う母性のディストピアについても、既に言及していた。
つまり、35年前の富野喜幸の初期作品を日本アニメは越える事ができていない。ザンボットの後追いに過ぎないのである。富野は神である。
金田伊功が参加してない時の作画はアレだけど。

魔法少女まどかマギカはパロディである。魔法少女アニメやプリキュアのパロディである。魔法少女まどかマギカ魔法少女アニメのファンタジーのお約束を「リアルな死」や「不幸」で打ち破る所でショッキングさを出していた作品である。つまり、先行作品の魔法少女アニメを視聴者も知っているからこそ魅力が増した作品である。魔法少女と言う物を知らない人が見たら、「珍妙な服を着た少女たちが珍妙な宇宙人と関わって死ぬ」という感じを受けると思う。あと、レズ。
本稿ではまどかマギカに対する論考が本筋ではないので、これ以上は割愛する。私は魔まマは6話くらいで短くまとめたら段取りが減ってもっと面白かったと思います。まあ、レズっぽい所とデザインと3話までの疾走感は面白かったです。


で、ザンボットに戻ると、ザンボットはマジンガーZゲッターロボ、グレンダイザーの二番煎じだった、ライディーンコン・バトラーVを手掛けた後の富野喜幸が作ったアニメだという事だ!先行作品を意識した作品だという事だ!

コンVショック:マジンガーの成功を受けてグレマジを売り出したものの、思ったほどの結果が出ていなかった(らしい)。しかし、その後に作られたグレンダイザーは内外ともに好評で、会社全体が浮かれている時だった。そこに落ちてきたのがコン・バトラーVという企画だった。

https://twitter.com/#!/kamosan2/status/201306522058366976

コンVショック:コンVはダイナミックのロボット物のノウハウを使い、東映がオリジナルとして企画したものだった。いわば、ロボット物というダイナミックの飯の種(シマ?)を事実上横からかっさらうものだった。第三者的に言えば、ロボットのパテントでの収益という利権をめぐる争奪戦だ。
超電磁ロボ コン・バトラーV 1〜8話 富野中心に - 玖足手帖-アニメ&創作-

超電磁ロボコン・バトラーVの時点で、先行するロボットアニメのエッセンスを取り入れたものである。そのコンVの翌年のザンボットなのである。


つまり、「ロボットアニメ」の図式やロボットアニメのお約束、怪獣退治物語のルールが子供たちや視聴者の中にあるタイミングで、それに対して批評的な態度を示したというのが、ザンボット3と言う事である。


そして、その批評的態度の取り方が、魔法少女まどかマギカ無敵超人ザンボット3で共通している。それは、「リアルなパロディ」と言う事だ。
魔法少女まどかマギカはいわゆる「リアルなプリキュア」だ。子供向けアニメのプリキュアシリーズは格闘しても戦闘しても、人は基本的に死なない。そこで、「死ぬ」と言う事を前面に押し出したのがまどかマギカなのだね。そういうパロディは割と多い。ほら、同人誌とかインターネットのpixivとか双葉とかで「リアルアンパンマン」「リアルなドラえもん」は多いでしょう?戯画化してある人気作品を写実タッチにするというネタは割とポピュラー。まどかマギカはそういう作品だったと思う。
ちなみに、虚淵玄さんが書いて、絶賛放送中のFate/ZeroFateシリーズも「正義の味方」をリアルタッチにパロディするという同人誌が原作ですね。


ちなみに、リアルに死ぬ魔法少女と言うと、すでに1982年に魔法のプリンセス ミンキーモモ魔法使いサリーや魔女っ子チックルへのアンチテーゼとしてある。


で、ザンボット3だが、そこが似ている。ロボットアニメ、特に怪獣ブームを引き継いだ形の1970年代の怪獣退治ロボットものという勧善懲悪ジャンルに「リアルさ」を持ちこんだのがザンボット3である。
だが、死んだり暗い展開があるロボットアニメは、タツノコ新造人間キャシャーン(1973)やゴワッパー5 ゴーダム(1976)など、富野が参加した作品でも見られる。それに、ロボットアニメ以前の初期のウルトラQウルトラマンウルトラセブン怪奇大作戦でも、やるせない話は既にあった。
では、ザンボット3のリアルさとは暗さではないのだろうか?それとも、固有の何かを持っているのだろうか?
まあ、ゴーダムとキャシャーンは僕は見てないんですけど。だから、そこはザンボットだけの手柄とは言えないかもしれないけど。

  • ザンボットをリアルにする作戦立案意図

結論から言うと「楽しくない」と言うのが富野アニメのリアル感なのだ。機動戦士Vガンダム風に言うと「生きる事は厳しい事だと知って下さい」だ。
もっと言うと「楽しみに水を注す」と言う態度が感じられる。
これは当時のロボットアニメのお約束に対する決定的なアンチ、対抗策だ。何しろ、ロボットアニメシリーズと言うもの自体が、ダイナミックプロやポピニカがおもちゃを売るための媒体として企画された側面を持つ。
つまり「ロボットの戦闘は楽しい」と言う風に見せる、「ぼくもこれを操ってみたい」と思わせておもちゃを買わせるというのがキモなわけですよ。
ある意味、これは戦争翼賛ですよ。これは戦後十数年頃に貸本屋で勇壮な戦記物萬画が流行したようなゆがんだ殺人娯楽であるわけです。(怪獣や機械獣には人権は無いのだが)そういうジレンマはこないだゲゲゲの女房で見た。
子供は基本的に獣に近いので、闘争本能が強いのだが、そこに付け込んで戦闘行為を美化する風潮でありますな。悪く言えば。


それを楽しくない風に描くのが、富野喜幸である。これには2つの理由がある。
まず、一つ。ロボットアニメが既に70年代後半、マジンガーZから4年目くらいのグレンダイザー時代にはマンネリに陥っていた事。
富野自身がこれについては、講演会や書籍などで言及している。

ガンダムが25年も持つ作品になった理由について。

 アニメはおもちゃを売るためのテレビまんがだと思われていたけど、

 自分は映画をやりたかった。

 だからおもちゃやさんの話は無視したが、ちょっと聞いた。

 だから3つの部品が合体してロボットになるようなものを出した」

 「職業人として受け入れざるをえなかった。

 スポンサーがいるからどうこう、ではなく、その日を生きるために必要なことだった」


で、会場に聞きます。



「えー、じゃあ、グレンダイザーという作品を知っている人、挙手」


 会場では割と多くの人(1/3くらい?)が手を挙げました。

私は監督の意図がわかっていたので手を挙げませんでした。

たぶん監督は「そういう作品もあったけど、残ってないでしょ?」

という話にもって行きたかったのだと思います。
2004年11月25日「富野由悠季講演会in京都精華大学 アセンブリーアワー」体験記03 - LM314V21

東北新社の社長、植村伴次郎が「東映動画ではマジンガーZやって儲かっているから、でかいロボットをつくればいい」と言いだして企画が始動したのが本作である[1]。


本作の目標は「マジンガーZを越える」ことだった[2]。富野喜幸によると「マジンガーZゲッターロボを越える」であり、安彦良和によると「グレートマジンガーを越える」だったそうである。『マジンガーZ』を継承した『グレートマジンガー』が苦戦しており、本作は『マジンガーZ』と同じ手は使わないことになった
勇者ライディーン - Wikipedia

つまり、ダイナミックプロマジンガーシリーズの後追い企画であるという事は本人たちが理解していたのだから、その中でどう差別化して自分の名前を売って行くか、と言う生存戦略が第一の理由である。
富野はアニメーターでも小説家でもないので、企画と演出でコンセプトを提示して生き残っていこうという人だったのだ。この試みはガンダムでオリジナルブランドを打ち立てるまで続く(その後、呪縛もされるわけだが)。


もうひとつ。先に述べたように、ウルトラマンマジンガーZ〜コン・バトラーVまでは「僕も戦闘機やロボットを操縦してみたい」という子供の願望をかなえさせるために戦闘を楽しく描く、という所があった。
それに対するアンチテーゼとして、キャシャーンやゴワッパーなどのタツノコ悲惨系アニメもあったわけだ。同時にタツノコは1977年にタイムボカンシリーズ ヤッターマンで「勧善懲悪」をコメディーとして明確に打ち出して、マンネリ自体をネタにする作品も作っていた。そういう時代が1977年。(ちなみに富野喜幸ヤッターマンに第39話にだけ絵コンテで参加している。)

超合金魂 GX-23 ザンボット3

超合金魂 GX-23 ザンボット3


ある意味、子供たちに対して「殺し合いは楽しいから武器の模型を買いなよ」という死の商人的な玩具会社の態度がある。これはよくないのではないだろうか?そして、富野喜幸と言う男は

「子供に向かって、あなたにとってこれはとても大事なことなんだよということを、大人が一生懸命話せば、その時に全部理解できなくても、絶対にその話を思い出してくれる」(「富野由悠季 安彦良和 対談」、『月刊ガンダムエース』二〇〇九年九月号)

と言う事を信条にしている人だ。というか、子供に対して手加減ができない男なのだ。
そういう男が、コン・バトラーVで玩具を売りまくるという、楽しい戦闘ショーを演出してきた次の年のザンボット3である。そりゃあ、フラストレーションと言う名の創作意欲が高まるというもの。


その上、富野自身が子供のころから「子供だからと言ってなめられたくない」と言う反骨精神を持っていた男だ。

小学校の頃に映画を見て、いつも「大人っていうのは子供を本当になめているんじゃないのか」と心底思うことがあったという記憶がすごくあります。僕らの時代でいえば、テレビが当然無い時代であれば映画を見るしかないわけですけど、文部省選定の映画とか、子供向けの映画とかっていうのは、基本的に「かくも子供をここまでなめて作るか」っていうのが振り返ると絶えずあったわけです。
http://www.geocities.co.jp/AnimeComic-White/1371/2.html


だから、子供に対して「戦闘は楽しいよ」と言う風にしたくなかったんだろう。そして、「自分の考えた本当に納得のいくロボットもの、世間にロボットが登場した時のリアルなドラマ」を追求したかったんだろう。
ザンボット3の1話で祖父が主人公の神勝平に言ったように「お前、戦闘機に乗りたいって言うっとったじゃないか。だから載せてやったんじゃ」という一言で戦闘に駆り出す台詞にメッセージが込められている。憧れだけで戦争をするとどういう事になるか、子供に叩きこむ。殺し合いと言うのは恐ろしいものなのだという事を子供に叩きこむ。
これは21世紀に「魔法少女になりたいってだけじゃダメなのかな」という鹿目まどかを描いた魔法少女まどかマギカと相似形である。
だが、魔法少女まどかマギカは深夜アニメで、道理の分かった大人がターゲットである。絵柄はかわいいが、ダークな雰囲気も演出してあるし、子供向けではない。いくら蒼樹うめ絵がかわいいと言っても、オタク向けである。だが、ザンボット3は本当の意味で「子供向け」なのだ。
むしろ、ザンボットの方が、子供が見る時間帯にかわいい絵柄とカラフルなロボットの登場する「いつものロボットアニメ」と視聴者に思わせておいて、いきなり戦場の荒野に突き落とすザンボット3の方が、えげつないと言える。富野は多分、真剣にやってるんだと思うけど。


ここで、二つの理由が融合する。
マンネリ化した「いつものよくあるロボットアニメか」と、視聴者の子供や保護者に思わせておいて「お前ら、本当の殺し合いがどういうものか教えてやるよ!」である。効果的にショックを与える作戦である。
まだ、この頃は「リアルな**」というパロディもあまり定着してなかった頃ではないだろうか?
島本和彦の同人誌によると、秘密戦隊ゴレンジャー(1975)はサイボーグ009(1964)の自己パロディらしい)


そりゃー、ザンボット3インパクトのある作品に仕上がりますよねー。
そういう作品を35年前に子供向けに夕方に堂々と放送した富野なので、「なんでまどかマギカが受賞なんだ!」とキレるのも、ちょっとわかる。まどかマギカは所詮後追いパロディだと。でも、俺は30歳だけど、ザンボット3よりも先にまどかマギカを見たのよ!しかたないじゃない!
www

それは社会性です。やっぱり、まどかマギカセカイ系でしたね。
僕はまどかマギカは絵柄も面白いし、人の世の鬱を人知れず狩る魔物ハンターという設定に魅力を感じてたんです。でもねー、「魔女のせいで工場の経営が上手くいかなくなって自殺したくなった人」が美樹さやか程度の馬鹿な中学生が魔女をやっつけただけで放置されるようなアニメだと知って、「かわいい少女が死ぬリアルさ」は合っても「社会生活としてのリアルさ」は放置しているアニメだと思いました。
俺も身近に何人か自殺した人がいるけど、自殺する前の絶望って、そんな怪獣に洗脳されたとか、怪獣をやっつけたら治るとか、ほむらがタイムワープしてまどかが神になったら良いとか、そんな軽いもんじゃないですよ!(そういう意味ではハートキャッチ!プリキュアの最終回で砂漠の王デューンの絶望を救えなかったプリキュアの方が社会性があった。プリキュアは何気に同級生とかモブキャラを記号化しないで丁寧に描くしね。それはまどかよりも長い放送枠を持っているからでもあるんだけど)


ザンボット3を語る時、誰しも言うのが「ロボットが道を歩いたら道路交通法で取り締まられる」というネタです。これは、脇役の警察官であっても社会性を持って行動しているということである。レギュラーキャラだけが描かれる萌えアニメとは違うんです!
まあ、実際、ザンボットの道路交通法で取り締まられる第2話を見ると、警察官が主人公神勝平の母に対して「道路交通法で取り締まりますよ」って言っただけなので、そんなに警察は脅威ではない。むしろ「警察は道路交通法でザンボエースを取り締まりたいけど、ザンボエースの暴力性が強すぎるので現行犯逮捕できないし、勝平の母に愚痴を言うしかない」という警察との微妙なパワーバランスの方が印象的。
ロボットの強さを印象付けつつ、世間の大人のめんどくささを描いている。
社会性あるわー。
こういう所で、「社会の力をものともしないロボットの強さ」を描いているんで、ギリギリ娯楽ロボットアニメとしての体裁も保たれている。上手いなあ。


他にも、富士山のふもとの港町の地域社会の中で、宝探しをして巨大ロボットと宇宙戦艦を発掘した神ファミリーが浮いてて嫌われてるって言うのがそこここで描かれてて、地域社会の鬱陶しさがリアル。
例えば、冒頭で神勝平がコン・バトラーVの葵豹馬の登場シーンのようにオートバイで暴走して暴走族と喧嘩するのだが、交通課の警察官は暴走族ではなく、一人だけの勝平をパトカーで追い回す。それは、神ファミリーが地域社会に馴染んでないので、懲らしめたいという田舎の人間らしい発想なのだ。
冒頭からこれだけ伏線を張る構成力は見事。五武さんの脚本の力でもあるな。
だが、富野喜幸が幼少時代に小田原で「東京から引っ越してきたお坊ちゃん」として差別を受けていたコンプレックスと密接に関係しているだろうなーという雰囲気はすごくしますね。


あと、神ファミリーの少年少女たちが睡眠学習で戦闘方法を習っていたとか、宇宙人だった、とか普通の子供のように見えるけど普通の子供ではないので、微妙に感情移入しにくい不吉さがあります。勝平個人は普通の子供っぽく行動してるけど、世間がそれを許さない感じとか気持ち悪さがある。睡眠学習とか宇宙人の件は「子供がロボットを自由に動かすための設定」ということでガンダムニュータイプにも通じる方便ではあるんだけど。「異物感」というテーマを描くためにキチンと利用しているのが富野の上手い所。


感情移入と言う点では、勝平の喧嘩友達だったけど、勝平を次第に敵視するようになる普通の少年の香月くんが狂言回しっぽい。だが、彼は性格が悪い。性格が歪んだ。だから、彼にもあまり感情移入しにくい。イデオンにも通じる突き放した雰囲気があるよな。って言うか富野って基本的に人間関係がギスギスしてるよな。


まあ、他にも見所はあるけど、さすがに僕も就職して寝たいので、割愛する。
あ、メカ的にはザンボエースが拳銃やマグナムやグレネードと言った、ベトナム戦争で使われているような、リアルな武器を持っているのもそれまでのロボットにはあまりないリアルな要素ですね。ザンボット3が和風の鎧武者なのはライディーンからなんだけど。
まあ、ザンボットは江戸時代に宇宙から日本に飛来したものなので、鎧武者は良いとしても、地球人が発明したようなライフルを持っているというのはおかしいと言えばおかしい。(異物感としてはイデオンの方がある)
まあ、それは西部劇とかコンバット!とかの要素を取り入れたって事なのかなー。

  • 死が究極のリアル

と言ったのは、攻殻機動隊原作の少佐だったか、「ぼくらの」のアンインストール(アンインストール♪)だったか。
死がリアルと言うのは、まどかマギカでも表現されていた事だ。
だが、まどかマギカではそれが「魔女に襲われて鬱になった人」と「魔法少女関係の人」に降りかかる死であった。ある意味、閉じた死。
ザンボット3の死は、誰にでもありうる死である。開いているのだ。
例えば、1話冒頭、神勝平を追いまわしていた警官は突然、怪獣に襲われて事故死する。別に魔女の結界があったりとか、初代プリキュアやXやガオガイガーギャバンのように異空間を作ったわけではない。
普通に事故死。


2話では、警察から発展して、航空自衛隊が出動する。神勝平の戦闘機に対して「飛行プランを提出しなさい」と、リアルな大人の要求を突き付ける。それもリアルさなんだけど、勝平と自衛隊のパイロットが無線で会話をしてる最中に怪獣に撃墜されて死ぬ。
「さっきまで会話をしていた相手がいなくなる」「喋らなくなる」
死のリアルさ!死は特別なものではなく、ちょっと油断したら死ぬ。ちょっと足を踏み外したら奈落に落ちる。こういう生きる事に対するしんどさ、死の近さはちょっと、最近のアニメではないですね。


そして、勝平が小学校高学年か中学1年生くらいと言う設定も上手い。餓鬼大将の喧嘩のノリのまま、宇宙人とも戦おうとして調子に乗った勝平がどんどん戦いの地獄にからめ捕られて行く、という残酷ジュブナイル小説(蝿の王)のような恐ろしさがあります。

  • 生きる事の厳しさ

そして3話で、ザンボット3が合体する際に、勝平は合体せず一人だけで戦おうとして逆にピンチになる。そこで勝平の兄の一太郎は「じゃあ、死ね!地球を守れない神ファミリーなんか生きていても仕方がない!みんなで死のう!死ねば地球がめちゃめちゃになる所を見なくてすむ!」とか勝平に言って脅す。
それは結局、勝平を説得するためだったんだけど、「子供の勝平の小さな意地っ張り」が「家族全体」「地球全体の死」に繋がる厳しさがある。それで、滅茶苦茶頑張らないと死ぬという雰囲気を醸し出す。
実の兄に、そこまで言わせてしまうような、死の恐怖が強い。死が日常的に隣り合わせの戦場という描写が強く描かれているんだ。
だが、勝平は少年だ。そういう厳しさや、人が死ぬという事が、まだ骨身にしみて理解してはいない。いや、人の死を完全に重要できている人間なんか大人でもほとんどいない。
それを、少年に強いる。次々と強いる。しんどい。楽しくない。
しかも、作画が汚い。初期のサンライズ、創映社が東映と違って、全然作画リソースが無く、富野本人が描いたようなへたくそな絵や、動画なのにセル画用絵の具ではなくアクリル絵の具で描いていたりする。


機動戦士ガンダムAGEは作画はこぎれいだ。戦場の死も描こうとしている。でも、どこか足りない。
それは、死ぬキャラクターが「キチンと遺言を言って死ぬ」安心感があって、汚さやしんどさが足りないからだ。
戦闘とは、会話が強制的に打ち切られる残酷で人の都合を構わない「死」であり、戦闘は恐怖の感情に支配されて親子兄弟の関係も厳しくするもので、最善の判断を最速で要求される過酷でしんどいものなのだ。機動戦士ガンダムもそうだよね。でも、ガンダムAGEはそれが足りないね。
富野は本当に厳しい。富野はおもちゃのセールスが伸びないかもしれない危険を犯しても、ドラマと、子供に対する真摯さを優先したのだ。尊敬できる。(ザンボット3の玩具は売れたそうだけどね)


でも、作画と言う点では本当にまどかマギカには負けます。それは認めます。でも、5話の金田伊功はすごいよ。

  • 勝平の少年性

だけど、暗いだけの印象にならないのは、「ヒーローになって活躍したい!」という勝平の元気さだな。どんな時もちょっとお調子者っぽい。たまに時代劇っぽい、芝居がかかった喋り方をするのもテンポが良い。ここら辺はザブングルでも参加した脚本の五武さんの味が出てるなあ。
勝平はちょっと芝居がかかった所で、ヒーロー願望が強くて、あんまり深刻さを感じていない。
だが、その少年性が「戦闘」「死」という深刻な事に直面していくドラマだ。二つの相反する要素が戦うんだ。辛いよな・・・。

  • 戦いの空しさ。

敵は宇宙人のキラー・ザ・ブッチャー。地球人を根絶やしにする事のみを目的とするサディスト。モデルとなったのは、悪役プロレスラーのアブドラ・ザ・ブッチャー。こいつの顔はネットで見た事があった。
褐色の肌のアブドラ・ザ・ブッチャーを緑色の肌と紫色の唇に変えたようなキャラクターだ。生理的な嫌悪感を催させるデザイン。しかも、肥満体でいつもベッドに横になって物を食べている。スター・ウォーズのジャバ・ザ・ハットは似たようなキャラだがスター・ウォーズは1977年にアメリカ公開で、サンライズのスタッフや富野が見たのは1978年の無敵鋼人ダイターン3の制作中と聞く。
そういうデザインのキャラなので、低く威厳のある声かと思っていた。ガンダムドズル・ザビに似てるし。そしたら、ちがった。
高い声で、ふざけたオカマみたいな喋り方をする。
本当に生理的に気持ち悪い喋り方だ。
命がけで戦っている相手が、こんなやつである。徒労感である。
しかも、1話で倒した怪獣は偵察用、2話は自爆用、3話は戦闘を楽しむために作られたロボットだった。
爽快感ゼロ。
いや、一応必殺技のザンボットムーンアタックが決まった気持ちよさはある。
だが、そういう戦術レベルでの勝利を、敵は戦略的には軽視しているのだ。
まあ、ロボットアニメにおいて、敵に勝ちすぎると敵がつまらなくなる現象はある。(コンVのガルーダは3話の時点ですでに更迭寸前である)だから、敵が毎回の決闘に負けてもモチベーションを維持する手法はあるし、富野はシャア・アズナブルの負け惜しみとかジョナサン・グレーンの女関係の汚さとか、そういう悪役の作り方が上手い。


だけど、やっぱりその中でもキラー・ザ・ブッチャーは異質である。
こんな脳足りんのコメディーキャラみたいなやつに面白半分に地球人は殺されて行くのである。
ほんと、酷い話だよ。
惨ボットだよ。



でも、それでも、殺されるにしても、最期の瞬間までこのアニメの登場人物は必死に生きている。それは辛い事だけど、ある意味生命力があるのではないか?
と、富野信者は思う。

  • 脇役の惨殺

怪獣映画で民衆が殺されるのはよくあることだ。
だが、怪獣に殺されまいとして、我先に逃げようとして、他の人を傷つけようとする大衆が描かれるザンボットは、珍しい。
怪獣に襲われた観光バスが、乗せてくれと懇願するガイドを突き落として逃げ出すが、結局全員死ぬ。残虐。
しかも、「こんな事をする地球人類を守る価値があるんだろうか?」という不安感も序盤から織り交ぜている。
ホント、どうなるんだ。このアニメ。



  • ちなみに

ザンボット3は35年前にまどかマギカを越えていた!」「富野激怒!」と派手な事を書いたが、これは半分は宣伝煽り文句だ。すまん。
だって、そうでもしないと35年前のマイナーアニメの記事なんて読んでもらえないでしょう?
でも、似ている部分は確かにある。そして、僕がまどかマギカで不満だった「脇役の命の重み、社会のリアルさ」これをザンボットで描いてくれていた事がすごくうれしい。
やはり、俺は富野ファンなんだなあ・・・。


20年目のザンボット3 (オタク学叢書)

20年目のザンボット3 (オタク学叢書)

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