玖足手帖-アニメブログ-

富野由悠季監督、出崎統監督、ガンダム作品を中心に、アニメ感想を書くブログです。

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杉井版グスコーブドリの伝記は、美学

感想を書こうと思いながら労働をしているうちに上映が終わった。
グスコーブドリの伝記のレビュー・感想・評価 - 映画.com
「グスコーブドリの伝記」を忠実なアニメ化だと思うな - エキレビ!(1/4)
↑評判
いろいろと評判が割れていて、スゴイ賛否両論ですが、僕はいいと思います。
なぜなら、美学が貫かれているからです。


もちろん原作とは違う所もあるんだけど、原作の改変理由も、杉井ギサブロー監督の自伝を読んだら、割と筋が通ってると思うから良いと思う。
アニメ師と生命と放浪と杉井ギサブローは興味深い - 玖足手帖-アニメ&創作-
↑自伝の感想

結局美学、カッコよさ、そういうアニメだと思う。
上映時間内はスクリーンの前に座って、美しい映像と、流転しつつも美意識に貫かれたストーリーを流れて、その美しさに感心した次第でありました。あと、妹。

  • 原作改編の美学

原作と違うからダメ、という評判もあるし、むしろ原作を変えた事によって賢治の世界を再構成した、って言う意見もある。
僕としては後者で、賢治っぽいエッセンスを再構成したと思う。
原作は青空文庫で読める。
宮沢賢治 グスコーブドリの伝記
アニメを見てから原作を読んだんだけど、かなり台詞とか、ナレーションとか、変えていない所は一字一句原作と同じなんですよね。だから、スゴイ原作に忠実とも言える。感想ブログとかで、「賢治の原作とここが違う!」って言ってる人の意見を読むと、そこが原作通りの部分だったりして、香ばしい。「原作には赤ひげはいない」とか言ってる人も見た。いるし。


と、言うかですね、この宮澤賢治の「グスコーブドリの伝記」ってのは、
宮沢賢治 ペンネンネンネンネン・ネネムの伝記

宮沢賢治 ペンネンノルデはいまはいないよ 太陽にできた黒い棘をとりに行ったよ

宮沢賢治 グスコーブドリの伝記

という変遷で描かれてた作品で、改稿に改稿を重ねた宮澤賢治のアレな部分がかなり影響している。っていうか、宮沢賢治のこういう態度はすごく同人作家っぽい。って言うか実際同人作家だし。プロフェッショナルと言うよりはアマチュアですよ。それに、実際、グスコーブドリの伝記のラストのぶった切りぶりは原作でもすごくあっさりとブツ切りで終わってるし。伏線の回収も雑な所があって、賢治もどこまでやる気があったのかいまいちわからん。
賢治自身もどういう展開にしていいのかグダグダグダグダと迷ってるような印象のある作品だし、改稿だなあ。銀河鉄道の夜もかなり改稿で違うけども。グスコーブドリの伝記宮沢賢治の自伝とも言われるけど、「僕の考えた僕の理想の自伝」という、気違いじみた理想なので、色々と現実と合わせようとする部分(妹がいなくなる所とか)と、理想をねだる部分(妹が復活する所とか)の逡巡がある。詩にするのか小説にするのか童話にするのか、いまいちよく分かってないような雰囲気もある。
アマチュアだし、賢治さんは根性があるようで無いし、アマチュア個人創作誌っぽく投げやりな部分もある。そもそも当時の小説のフォーマットの教育を夏目漱石のように受けた人でもないし。
だから、僕は宮沢賢治を神格化して、その原作を絶対尊重すべきと言うほどの信者ではない。なにしろ、宮沢賢治は童貞の引きこもりで春画を収集しているようなヘンリー・ダーガー系のアレだからだ。そんなに神や天使のようなごたいそうな人間ではないと思うんだよな。童貞ってそんなに偉いのかよ?偉くないだろ。童貞風情が。だから「このアニメを見て、天国の賢治はお怒りだと思います」みたいな熱狂的ファンにもなりきれないんだよ。僕も引きこもりで脳内妹の出てくる進まない小説を書いて(すすんでいない)る同人作家にも持たない空想家なので、賢治もその程度の人だと思います。いや、まあ、賢治はいろんな人に長く評価されてるから結果的には僕よりすごいんだけど。でも、ダメ人間か立派かと言うと、ダメ人間だよなあ。親近感ある。
賢治はその程度の人なので、原作は変えても良いんじゃないかな。メディアの違いを理解しろ。そもそも杉井ギサブローはタッチのラストですら変える男だ。虫プロ系はそういう集団だ。出崎統とかな。


だけど、杉井ギサブローが全く賢治を尊重せず、自分の世界だけを主張して作ったというわけでもないってのが事態と映画をややこしいものにしてるね。
どういう事かと言うと、グスコーブドリの伝記と、そのラフアイディアのペンネンネンネンネン・ネネムの伝記を混ぜて再構成している。両方に忠実なんだけど、混ぜた結果両方とも違う何かになっているという!
例えるなら、アニメ版の機動戦士ガンダム富野喜幸の小説版機動戦士ガンダムを混ぜて映画にしたみたいなもので。そりゃあ、原作を知ってる人から見たら変になりますよ・・・。みたいな。


そんな風に、二つの物語を混ぜて再構成しているので、原作とは全然違うという印象と、すごく原作に忠実な印象の矛盾した二つの要素がある。それを繋ぐ糊しろとして、杉井ギサブローの映画屋としての美学がギトギトに主張して、妙なケミストリーを醸している。このケミストリーを許せるかどうかでかなり印象は変わってきますね。
ただ、やっぱり杉井さんには美学があるし、志が一貫してるしいいと思うんだな。僕は。


グスコーブドリの伝記

グスコーブドリの伝記


以下、ネタバレ感想
監督インタビュー。

●僕はアニメの監督だから「どうアニメにするか」を考えた結果、この形になりました


――今回の映画、赤ひげのもとで働くシーンの解釈をはじめ、原作とは大きく変わった部分が多くて驚きました。

杉井監督:賢治の童話はしっかりとできていて、そのままなぞってもちゃんとした映画になりますが、『グスコーブドリの伝記』をアニメーションとして見てもらうために、今の時代に向けての伝え方があると考えました。それは童話をそのままなぞることではないと思ったんです。

 僕はアニメの監督だから、いかにアニメとしての作品にするかが仕事。この映画は全体が「幻想と現実を行ったりきたりする」という構成になっているんですが、その理由は結局「最後」から来てるんです。映画のラストは「幻想シーン」。現実にはありえない「幻想シーン」で終わりたいという思いがあって、幻想と現実を行ったりきたりさせています。

 映画は作り手が一方的に観客に送り出すものだから、ある種の約束事がいるんです。幻想から現実、現実から幻想へ、という流れを繰り返すことによって、観客は「あっ、この映画はブドリが夢と現実を行ったりきたりしながら進んでいくんだ」ということがわかってくる。その約束が成立してはじめてラストで「幻想として」ブドリはあの結末を迎えることができるんです。


――なぜ最後を「幻想」という形で終わらせたんですか?

杉井監督:童話でははっきりとは書かれてないのに、一般的にはブドリがダイナマイトかなにか仕掛けて、自分もろとも火山を噴火させて……と読まれているじゃないですか?


――はい、僕もそう思っていました。

杉井監督:この童話の結末は一般的には「ブドリが火山にダイナマイトかなにかを仕掛けて自己犠牲で……」と解釈されている。でも賢治ははっきりと書いていません。「ブドリが一人島に残りました」と書いてあって、その次は翌日の情景描写、火山が噴火した後を書いている。書いてないことってすごく大事なことなんです。普通は自己犠牲で火山を噴火させ……となるが、そこをそうじゃないだろうと語りたかった。

 映画としては「ブドリがダイナマイトかなにかを仕掛けてボタンを押したら、ドカーンっていって、それで火山が噴火して……」っていうのが一番ドラマチックですが、賢治はそういうつもりでこの童話を書いてるわけじゃないと思うんですよ。


 わざわざ「ブドリの伝記」として語られる話なのは、賢治は「こういう少年がいた」ってことを伝記として語りたくて書いたからだと思います。それで何を伝えたかったというと、ブドリが一番求めたのは家族4人で過ごした子供時代、その平和な時間を守りたいということですよね?


――今回、家族4人の幸せな時間を冒頭できっちり描いてますね。原作だとあそこは数行しかないわけですが。

杉井監督:あと学校と。ブドリが一番幸せだった時間。それはみんなにとっても幸せな時間。それを手に入れるためならなんでもすると考えたとき、コトリが現れた。でも現実にはどうやったって救えない。賢治としては「多くのひとのためにそう思えることを大事にしなさい」と伝えたかったはず。賢治のテーマは、世界じゅうの人が幸せにならないと自分の幸せもないということで、逆に考えれば「自分が何かして世界が救われるならなんでもする」ということです。


――映画では噴火自体もはっきり描かれていなくて、ハッピーエンドって解釈もできる物語になっています。

杉井監督:「生と死の世界」という分け方以外にも違う分け方もあると思っています。僕らが死ぬのは肉体がなくなるということで、僕らの命は実は別の次元のようなところにあって、そこでは別の生命力というものを持つのかもしれない。この3次元とは別に超越した次元のようなものがあるとすれば、それが我々が「死の世界」と呼んでいるものかもしれない。映画でコトリが「こちら側」と呼んでいる世界が「死の世界」と呼ばれるものなら、コトリは「死神」になるが、そう捉えなければ別の見方もできます。


――それは銀河鉄道の夜にも通じますね。

杉井監督:賢治の中では生と死は循環しているもの。僕らは命を自分中心に考えるから「死んだらもう終わり」と考えるけど、そうではなくて肉体は死滅しても生命は循環して再生してまた成長して……、そういう考えがあるとしたら、「生の世界」「死の世界」といった分けかたではない。生命というものの捉えかたがあっても良いと思うんです。


――そうなると最後の言葉、「たくさんのブドリが〜」と言う言葉の意味は、ブドリの命がたくさんのオリザになって生まれ変わって、たくさんの家族が幸せに暮らすことができたということになりますかね。

杉井監督:ひとつの命が数万の命として復活する。命の存在をそのように考えたほうが賢治の生命観に近いのかな、というように思えるのです。
『グスコーブドリの伝記』杉井ギサブロー監督インタビュー - アニメイトTV
(こういうニュース系の記事は削除されるんで、魚拓引用させていただく)

幻想世界と現実世界との越境は、ペンネンネンネンネン・ネネムの伝記からのアイディアだと思われる。
ペンネンネンネンネン・ネネムの伝記では主人公の越境は1回だけだったり、裁判で管理されるものだったり、ばけもの世界というものがハッキリと規定されていたりするわけだが。
哀しみのベラドンナの抽象表現とか、タッチの白抜き背景演出などを見ると、杉井ギサブロー監督は漠然とした雰囲気の作品が好きな人だから、そこら辺はあまり説明してなくて幻想。
出崎統のCLANNADっぽくもあり。
あと、猫の世界で、岩手県ではなくイーハトーブという謎の異世界が物語の劇中現実世界なので、そもそも現実自体が現実シーンなのか曖昧だった。そこが銀河鉄道の夜と似てて、フワフワした感覚で、面白かったです。化け物世界に行くと、猫以外の化け物が出ていたりしていて、実写映像が混ざったりして、雰囲気的に曖昧感がすごい。どちらが正しい現実世界なのか、と言う問いかけすら無意味。猫世界は童話の世界で、猫のブドリが迷い込む浅草十二階の方が賢治の生きた大正の現実世界に近い世界なのかもしれない、という雰囲気もあるが、それはそれで銀河鉄道の夜のような死後の世界的なにおいも漂わせつつ、と言う感じで、トリップ感がすごく良かった。
美術も綺麗だったし。


あと、哀しみのベラドンナグスコーブドリの伝記を見る前に見たんですけど、そこら辺で杉井ギサブローの美学みたいなのを再確認したんで、そう言う作風の人だと思ったらグスコーブドリの伝記の雰囲気がこんな風になったのは確かにそうだよなーって思うわけよ。
幾原邦彦等に多大な影響を与えた哀しみのベラドンナを見た - 玖足手帖-アニメ&創作-
哀しみのベラドンナの感想。

── でも制作中に、フランス革命で終わる案もあったのは間違いないんですね。

杉井 それはあった。ボードにあの画(ドラクロワの「民衆を率いる自由の女神」)が貼ってありました。僕はとにかく反対して、ジャンヌのアップで終わるのが一番いいって言ったんですよ。燃えてるジャンヌのアップを延々と見せて、それが白にフェードアウトしていく。そこで終わると最高だよね、みたいな話をした。山本さんはやっぱり映画っていうのは、どこかで決着をつけなくちゃならないという考えを持っていて、僕はそうじゃなくて、決着っていうのは観客が自分でつけるべきじゃないの、と思っていた。物語の続きは、各観客が自分の中で考えればいい。映画ってそういうもんじゃないのって、いまだにそう思いますけどね。映画って、不特定多数の大勢に観せるものじゃないですか。ラストのテーマなり、決着は、観客がつけて完成させた方が、映画が活きる。メッセージなりを監督が伝えるために映画を作っていくと、それで完結しちゃいますよね。確かに観客は満足はするだろうけど、それって1本の映画でしかないんじゃないか。そのラストシーンを観客側が作るとすれば、1本の映画が100本の映画になるんじゃないか、みたいな考え方ですよ。僕はどちらかというと、そっちが好きなんです
アニメスタイル・アニメラマについて杉井ギサブロー監督

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たしかにグスコーブドリの伝記のラストはぶつ切りなんだけど、この哀しみのベラドンナに対する杉井ギサブローの感性を納得した上でグスコーブドリの伝記を見ると、これをやりたかったんだろうな。と。
なんか、哀しみのベラドンナの3改稿目は、火あぶりにされた魔女の科学啓蒙的、フェミニズム的な態度が大衆の女性に乗り移って、フランス革命の動機につながった、って言うラストなんだけども。そういう大層なメッセージ性は山本暎一監督らしいし、そこら辺が宇宙戦艦ヤマト(一作目)のラストの説教みたいな感じで、確かに70年代終盤にハイティーン向けにわかりやすい大人っぽいメッセージ性をアピールして、アニメブームの火付け役になったのは確かだとは思う。
そういう山本監督の大衆性とか、おもねりも全く否定すべき者だけではない。
ただ、山本監督はヤマトにこだわってたし、西崎Pや松本零士のごたごたで、富野由悠季ほどアニメブームを上手く利用できなかったかなーって気もする。
でも、アニメラマ三部作の千夜一夜物語クレオパトラは「大人向け=エロ」という図式なのが凡庸。平凡パンチあたりの雑誌のラストに乗ってる大人向けポルノ漫画路線だったし、ハナ肇のギャグも寒い。でも哀しみのベラドンナは「大人向け=抒情性」っていう方向だし、セックスやエロスも、ポルノや興味本位の見世物と言うよりは人間の生命の業みたいな方向にやってるので、ベラドンナのアニメロマネスクを作った山本監督の感性は良い。そのエロを即物的ポルノではなく、抽象概念として昇華した杉井ギサブローのセンスも良い。


そういうわけで、ベラドンナのラストとしては、僕とか杉井ギサブローみたいな「二人の恋人同士の悲恋のドラマだけの方が雰囲気は美しい映画としてまとまってるんじゃねーかな」って思う。美学だよ、美学。


そこで話をグスコーブドリに戻すと、むしろ、グスコーブドリの伝記のラストのブツ切り感は、銀河鉄道の夜の延長線というよりは、「哀しみのベラドンナのリベンジ」という側面もあったのかなーって思う。


なんか、細かく説明するより、雰囲気と勢いと志のにおいさえフィルムに焼きつけておけばいい、って言う、語らずの美学と言うか。
ここら辺はもののけ姫あたりまでのジブリ映画とは違いますねー。千と千尋以降の宮崎駿は結構ヤバい領域に行ってポニョはヤバいけど。



以下、ネタバレ。



  • 震災への配慮?

原作から改変された部分の理由は二つあると思う。それは、東日本大震災の影響から、地震を匂わせる部分を削除したのではないか?と疑われる部分。それと、妹関係の部分。
杉井ギサブローの自伝、「アニメと生命と放浪と」で、それについて触れられている。
震災関係で削除したのは、ラストの爆破シーンで地震警報が鳴る所で、被災した人たちがフラッシュバックしないように配慮してカットした、と、杉井ギサブローの自伝には書いてある。が、その他にも地震関係の部分は原作からかなり消去されている。火山と地震の話なんだけどねー。
てぐす飼いの章は原作だと、地震と噴火でてぐす工場が壊滅して終わる。アニメだと夢オチに近い。
これはやっぱり震災に考慮したからですかねえ。東日本大震災の前も、中越地震などで、アニメが規制された事もあったし・・・。
まあ、てぐす工場のシーンを半ば幻想世界のような世界にしたことで、全体的に夢と現実を行ったり来たりする話、と言う構造のバランスが序盤から作られてるんで、やっぱり杉井版グスコーブドリはこういう構成で良いと思う。震災以前から、やっぱりてぐす工場は幽世の話としてアニメ制作されていたのかなあ。
しかし、アニメを見てから原作を読んだんだけど、てぐす取りは宮沢賢治の詩人っぽい幻想的な感じのやり方を映像化されてて、幻想世界にした事で、逆に原作の幻惑的な感じを醸し出してるかなーって思った。


ほかにも、サンムトリ火山の章での地震が原作に比べると大分カットされてる。やっぱり、PTSDに配慮したのかなあ。うーん。僕としては、地震なんか昔から起きてきたんで別に今の視聴者がちょっとパニック障害になろうがどうでもいいと思うけど。まあ、僕は地震の前から普通に社会不安障害だったけど。


あと、グスコーブドリの伝記では、グスコーブドリがイーハトーヴ世界の中でいろいろと職を転々とする年代記なのだけど、原作はあっさりしたすごく短い散文小説だから、職を転々とする所がすごく展開が速い。でも、小説だとまだ行間を読者が補完できるから、時間が一気に飛んでも雰囲気は感じられる。
アニメは時間が一定で流れる媒体だから、職を転々としてブドリが年を取るのを演出だけで見せるのはちょっと苦労して伝わりにくい部分があったと思う。そのノリシロとして幻想世界だなあ。

  • 妹の事、家族の事。しあわせの事。

グスコーブドリが幸せにならないのが原作との違いですね。幸せと言うと、具体的にはブドリが仕事で立派な業績をして有名になって、妹とも再会する。
原作派の人だと、「自分の幸せを捨てても皆のために自分を犠牲にするブドリが賢治の理想」というご意見なので、そっちの展開はそれはそれで、まあ、アリだとは思うんだけども。個人的な幸せを掴んでおいて、それ以上のほんとうのさいわひを得るために死ぬ、って言う展開で自己犠牲の崇高さをアピールする方法もある。


杉井ギサブローバージョンはそれをやってない。ドキュメンタリ映画「アニメ師・杉井ギサブロー」で、杉井監督は「事故犠牲をするような人物はどこか欠落を抱えているからそういう事をするんだと思う」って、グスコーブドリの行動原理について意見を言ってた。賢治の考えとは違うかもしれないけど、とりあえず杉井版の解釈はこういう事だし、まあ、そうなのか。どっちが正しいかとは僕はどっちの意見も他人の意見だから別にどっちでもいいけど。杉井さんはそういう意見だそうだ。
あと、杉井ギサブローは自己犠牲的行動をするブドリを「理想の人物」として描くのを避けたんだろうねえ。自伝エッセイでも、杉井ギサブロー監督は「自己犠牲礼賛、特攻隊奨励のような描き方はしたくない」って書いてたし。子供が親に見せられる猫の映画だから、観客みんなに自己犠牲を奨励するんじゃなくて、「ブドリがすごかったねー」という、ブドリ個人の話、と言う風にまとめたかったんだろう。
そういうわけで、アニメのブドリの自殺行動は「みんなの役に立つ理想的行動」=「本当はみんながやるべき行動」としてではなく「本当にブドリがやりたかった行動」=「結果的に皆の役に立つが、個人的行動」という風に解釈できる。
原作や、雨ニモ負ケズ第二次世界大戦中の日本で滅私奉公、国家総動員体制讃美の教育に利用されたという歴史を持つ。そういうわけで、第二次世界大戦を幼児期に体験してるし、手塚治虫のコスモポリタニズム思想の影響も受けてる個人主義者っぽい杉井ギサブローは「おおやけのために死ぬ事は、個人の至上の喜びである」と言う風に読み解かれるようなアニメにならないように、原作を脚色したのかなーって思う。それで、「自分がやりたいからやったんだ」って言う風にブドリの行動理由を用意する構成にしたんだろうかな。もちろん、アニメのブドリはみんなの役に立ちたいという気持ちは持っていたし、基本的にはお人よしと言う風に描かれているのだけども。


まあ、杉井監督の細かい考えはこのブログより、エッセイを読めばいいし、原作も読んだ方が理解が速い。


そういうわけで、そこら辺との組み合わせもあって、ブドリは幸せにならないし、妹死ぬ。死ぬって言うか、異界にさらわれる。ここら辺の幻想性はペンネンネンネンネン・ネネムの伝記のバケモノ世界要素だったり、ペンネンネンネンネン・ネネムの伝記で妹が見世物小屋で働かされている、って言う要素とも関わってきてる。
宮沢賢治自身は妹を亡くしてすごい悲しかったので、作品の中では妹には幸せになって欲しい、って言う風に書いた。そういう風にしか書けなかった。諦めきれなかったんだと思う。でも杉井は他人だし老人だし、去年に出崎統すら死んだし、妹死なせる。ここら辺の距離感の違いはあるね。


で、私は脳内妹がいるシスコンなんですけど、この改変は良いと思います。何でかと言うと、お兄ちゃんが妹をずっと忘れないでいる感じがするからです。
原作も杉井版も、妹が人さらいにさらわれてから、ブドリが職を転々とするのは同じなんですけど、宮沢版では妹はラストに再会するまで出てきません。ブドリはどの仕事に就いても、だいたい仕事を一生懸命頑張って、出世してからやっと妹と再会するわけです。賢治は労働を重んじているので、労働している間は妹の事を割とすぱっと忘れてます。童話だから、一つの事件に取り組んでいる時に他の事を考えるというような並列構成はしてないです。賢治の文章はポエムっぽい所もあるんで、単純です。回想シーンとかないです。短いし。まあ、シスコンの賢治的には妹に再会する事が出世のご褒美という感じです。
対して、杉井版では、ブドリが職を転々とする合間合間に、ブドリが幻想世界に迷い込んで、コトリ(子取り)に「妹を返せ」と怒ります。ラストまでそんな感じです。だから、兄が妹の事を仕事中も忘れないでいるという事は杉井版の方が強く感じられます。
いや、実際僕も脳内妹は居ても労働者なので、毎日働いています。土日は鬱で寝込んでいるので、あまり脳内妹を題材にした小説を書けていなくて、脳内妹には申し訳ないのです。が、実際労働しているとあんまり妹を中心にした活動ができなくなるという社会人としての縛りはある。だからブドリも労働をしてとりあえず自分が飯を食っていかなければならん。飢饉で餓死寸前になる話だし。それは仕方がないんだけども、やっぱり生き別れた妹の事は兄として最優先事項にしておかなければならないと思う。
生活行動として労働をしつつ、心理面では妹を最優先しているという二面的な態度を描くにおいて、杉井版の方が優れている。宮沢版はブドリが単純に出世して、自分からは対して行動せずになんとなくデウスエクスマキナ的に妹と再会してしまうので、シスコン的にはちょっと評価点が下がりますね。やっぱりシスコンは妹の事を考えて隙あらば妹の元に走るべきです。


この私の評価を意外に感じる読者もいるかもしれない。シスコンなのに妹が死んでいる方が良い、と言う思想は複雑かもしれない。でも、違うのだな。妹が実際に死んでいるかとか、妹に実際に会えるかどうか、と言う事よりも、兄が妹をどれだけ想っているか、と言う事の方が大事なんだよ。
妹の生死とか、再会の有無は結局のところ客観的事実であり、現象にしかすぎない。そんなものは自分の努力とは関係なく、運命だったり偶然や作者の都合に左右されるものである。つまり、客観的妹は兄の主観とは離れたものなのである。実際、妹は自分とは違う個体なので、自分がどうなろうが、妹が死んだりしてしまうのは仕方のない事なのである。それは事実として認めなくてはならんのである。親が死んじゃったり発狂してしまうのも仕方のない事なのである。親や他の個体の生き方や自然災害は自分では選べないのだ。


そこを、物語的に妹がなんとなく「出世したので評判を聞いて会いに来てくれました」では、主人公の頑張りが足りない物語構成になってしまう。頑張って出世することよりも、頑張って妹の事をしつこく考え続ける兄の方が重要であるとワタクシのようなシスコンは評価する。妹を思うあまり、世界の果てを何度も踏み越えて、自分の体すら捨ててしまう兄は、脳内妹を愛する私の一種の理想である。つまり、脳内妹とのデートムービーに選んで良かった。*1


シスコンとは思想である。


自殺する理由としては、世界中の人を不幸にしたくない、というのが賢治。


自殺する理由として、死んだら妹のいる幻想世界に行けるから現実世界を捨てても良い。というのが杉井。


シスコンであり、厭世主義者の私としては杉井版の死の動機の方が共感できる。


なぜなら妹は思想であり、思想は自我であり、自我こそが自分の命であり、妹のために死ぬことこそが生と死を合一させる悟りの境地だからである。


そこら辺、30代中盤で若くして死んだ宮沢賢治よりも、35歳で日本放浪の旅に出かけて10年間人間観察をした後タッチとかストリートファイターとか陽だまりの樹などをやった71歳の杉井ギサブローの方が、物語構成作家としての引き出しの数が多いと感じた。賢治は天才的でありイマジネーションや直観力に優れている。だが、細かい部分での詰めが甘い。だからこそ、具体的な描写の小説よりも幻想的抽象的な童話の作家となったわけだが。
対して、杉井ギサブローは原作を手掛けたアニメはほとんど無く、物語作家というよりはアニメ職人である。アイディアはやはり原作の宮沢賢治の方に軍配が上がるであろう。ただし、物語の演出家としての能力は高い。登場人物の行動、心理、物語に出てくる小道具や背景の意味合いや暗示性を取りまとめた所での統合力は高い。やはり、監督はディレクターであり、整理人であるなあという事だ。
杉井ギサブロー宮沢賢治という半ば発狂した人間の、しかもラフ案と出版バージョンの二つの伝記を組み合わせて映画を構築しているので、そのパズル的構成能力と演出力に感嘆する次第である。


かと言って、理詰めだけで作られた映画ではなく、視聴者の想像の余地のあるふくらみのある映画になっている。それは、重度のシスコンである私がシスコンという観点で非常に満足したという点からも明らかであろう。見る人それぞれによって受け取り方が違うように作ってあるんだろうなあ。私はシスコンアンテナを張っているのでシスコンセンサーに反応してシスコン面白かったです。シスターコンプレックスっていいよね。


輪るピングドラムの最終回も色々と構成や多次元世界が入り乱れてよくわからない宮沢賢治を引用したアニメだったけど、シスコン的に妹を思う気持ちがあったので、良いかなーって思いました。そんな私なので、グスコーブドリの伝記も妹を愛してたら世界の理が変わって、主人公が吹っ飛んでも良いかなーって。
あ、コトリは「生きていても仕方のない子」を消すのがこどもブロイラーっぽかった。ブドリはラストは27歳だけど子取りに「生きていても仕方がない」って言われたので、幼さを残して成長したという事の表現かなー。子供時代のトラウマを忘れないで、ずっと妹を思い続けて生きてた、って言う。だから他の大人達のように普通に生きないで、奇跡をおこせた。

  • 主人公の自我

最初のブドリは普通の子供なんだけど、何でブドリが主人公たりうるのか、という重要な所を序盤のアニメオリジナルシーンで入れて説明した事で、のちの展開がわかりやすくなった。
ブドリが学校で成績がよく、女の子に声をかけられて、同性の男子にも妬まれずに仲良くスクールライフを送っている、って言う生活描写を入れることで、ブドリの基礎能力が高いということを、さりげなく示している。そういうわけで、両親と妹が飢饉で餓死してもサバイバルしていたり、社会人で働きながら独学をした後に大学にチラッと行っただけで教授に気に入られて就職するというかなりの都合のいい出世街道を歩いたりしても、説得力がある。地味に。
ここら辺は「主人公だから普通の少年でも無限に強い」という主人公補正演出ではなく、純粋に「ブドリは強いから強い」という主人公力の高さを描写していて良い。
また、この点において、「ブドリのような自己犠牲は素晴らしい」という特攻隊奨励のおはなしではなく、「ブドリがすごいからすごい」という構造になっている。ブドリの個人的な伝記として描こうという杉井監督のもくろみも達成されている。
ここでブドリの行動がブドリの個人的なものであるとチューニングすることで、ブドリの自爆を「自己犠牲は素晴らしいからブドリがした」という演出ではなく、「ブドリが個人的にやりたいからやった事が、結果的にみんなの役に立つ自己犠牲であった」という主人公の我の強さを高めることにもなっている。我の強いキャラクターは主人公として説得力がある。
自爆する時に「みんなのために」自爆するのであれば、「世間のために」「お国のために」死ねと言われて死ぬ凡人の話になってしまう。「俺が自爆したいから自爆する」という態度は滅私奉公よりも我の強いキャラクターという感じで尊敬できる。
「妹が死んだのは仕方ないけど、妹に会えるなら自分も死んでも良い」という態度は自分の命を捨てて、世界や運命に立ち向かうシスコンの愛を感じて好感が持てる。


また、この映画のキャッチコピーは「僕にも出来る事がある」というんだけども。実際、ブドリはすごい能力の高い人で、貧農出身から苦学して科学者になる人で、割と出来る事をこつこつやってる人なんだわ。そんなに「僕にも出来る事がある!」って再発見して喜ぶような能力の低い人ではない。
では、何に対して「僕にもできることがある」と言うのかというと、自然や大循環や世界の理という大きなものに対して、自分も対抗できる、っていう非常にエゴイスティックな自我の強さなんだよ。そこらへんはペンネンネンネンネン・ネネムの伝記の慢心ともリンクしてるんだけども。
でも、ブドリが最期に奇跡を起こそうとしたのは、結局のところ我の強い人物だったから、というのが説得力があるのじゃないかな。
何でそれくらい我が強くなってしまったのかというと、大自然によって自分の少年時代の幸せが奪われたのが非常に不愉快だったからなのだと思う。ブドリの親父は名高い木こりで人格的にも立派だったけど、冷害飢饉で村が滅んで餓死。イーハトーヴ火山局の科学者は火山災害を止めることはできても、冷害を止めることはできない。そういう風に人間の自然に対する無力感を感じさせられるのが、ブドリは不愉快だったので、冷害を止めて自然に仕返しをしたかったんじゃないかなーって思う。それくらい強いエゴ。
ただし、まあ、エゴで自然を操作する20世紀初頭の科学万能主義も21世紀の我々や杉井ギサブロー的にはちょっと違うので、エゴが強くなりすぎたブドリは物語の現実世界から消えます。ただ、それは死んだんじゃなくて、即身成仏なのかもしれん、自然と一体化して入滅したのかもしれん、という見せ方もしている。そういう漠然とした感じが杉井の持ち味だよね。
そういう風に強すぎる自我のあまり、てぐす飼いのいる世界や、妹がさらわれた幻想世界などの死者の世界などの色々な幻想世界を経て、最後は自分も世界から消えるのは仏道的な話と見えなくもない。成仏したのだ。
無我の境地に達するには、我が弱いぼんやりとした中途半端なものではいかんのだ。釈尊のように贅沢をしまくったり修行をしまくったりして突き抜けよう!そしたら死んだ妹にも会えるし、仏になって世界の理を変えて衆生を救済する事も出来るのだ。みたいな。


ただし、「ブドリは仏陀になった」という、幸福の科学の映画ようなわかりやすい説明はない。

仏陀再誕を、女子大生バージョンのフランス革命という具体的な説明を加えた劇場公開3版目の哀しみのベラドンナだとしたら、グスコーブドリの伝記は説明を全部吹っ飛ばしてアニメーションの芸術性だけで勝負する劇場公開2版目の哀しみのベラドンナなんじゃないですかね。杉井的に。

  • 総括

ただし、原作自体がブツ切れのように終わっている童話だし、展開はブドリの20年間を駆け足でモンタージュにしたようなものだし、昔の宮崎駿の映画のようなわかりやすいストーリー性はない。(最近の宮崎駿は売れているものの、どんどん明後日の方向に行っているね)
だから、まあ、一般的な映画の観客をわかりやすく面白がらせる映画ではないと思う。評判があんまりよくなかったというのも仕方ないかなあ。


でも美術と、映像のテンポと、それを統括する演出力は非常に素晴らしいものがあったので、猫と妹が出てくる一種のショーを見る、という風に割り切って、鑑賞体験を楽しめば非常にいい映画だったのではないかな、と思う。
これは、私がこの映画を見る前日に虫プロダクションイエローサブマリンに影響を受けて作った「考えるな、感じるんだ」系のアニメロマネスク・哀しみのベラドンナを見て、「ああ、杉井ギサブローってこういうのが趣味か」って覚悟して見に行ったという事が大きいですね。ちゃんとした物語を期待すると肩透かしに遭うかもしれん。だが、ものすごい映像美術と無限のイマジネーションを喚起する演出と抽象的作画と、妹が大好きという気持ちの本流を楽しもうという鑑賞態度を整えておれば非常にいい作品だと言える。


ラストにいきなり爆発して終わる話としては、エイリアンVSプレデターよりも全然キチンとした体裁が整っていますし。野球の出ないサマーウォーズよりも物語の進行の筋書きもわかりやすいです。



  • ただし、一点だけ、どうしてもだめな部分がある。

美術は良いんだけど、CGの使い方がいまいちな部分があった。
いや、雲や飛行船や透過光や背景動画というCGらしい部分はよくできていたと思う。
ただ、序盤のブドリの家の扉のCGが全然ダメだった。3DCGでドアが開け閉めするんだけど、全然扉の重みとかが感じられなくて、ぺらぺらした質感だった。
あそこはブドリという主人公の幸せな少年時代の象徴です。少年時代の幸せさは重要です。成長してからもあの時代の幸せを奪った冷害が憎い!って思う動機です。ラストシーンまでつながります。あと、名高い木こりである父親が自分で切り出したであろう立派な木造のドアでなくてはいかんのです。それが、あんなぺらぺらのCGの薄っぺらい感じの質感ではいかん。テクスチャをフレームに張り付けただけな感じがある。
しかも、その開け閉めの回数が結構多いんですよ。1回だけならいいけど、なんども使い回しのCGがパタパタしてるとだめだ。手描きアニメーターの方がもうちょっと質感が出せたんじゃないかなー。杉井アニメってそういう地味な所が大事なんだしさー。って言うか杉井が自分で描けよー大塚康生の弟子のアニメーターだろー。動画のタイミングをもっと重要視しろよー。CGだからどうこう、っていうより、どうもタイムシート的に扉の重量感が感じられない動きで、スゴイ残念だった。
って思いました。
難癖をつけるとしたら、そこくらいですかね。


主題歌は歌詞がよく聞き取れなかったのでよくわからん。


小栗旬獣王星で慣れていたので、声優としてももっと活動が増えていいと思う。っていうか、獣王星ってもうだいぶ前なんだよなー。
佐々木蔵之助と柄本明はさすがに上手いね。
こぶ平はタッチだよなー。こぶ平は落語よりも杉井アニメに出てるデブって言う印象の方が強いですね。


あと、2週間前に見た映画の感想を書くのにお盆休みの4日間を費やしたので、すごく死にたいですね。脳内妹のいる世界に逝きたいです。かんか仕事の疲れとプライベートのごたごたが重なって寝込んでいた。
明日から労働しますけどね。全く小説が書けなくて死にたい。せめてザンボット3のDVDを見たかった。

*1:対して、おおかみこどもの雨と雪は、母親と姉という年長の女性の話なので、コワイ!妹と見るのに適さない