玖足手帖-アニメブログ-

富野由悠季監督、出崎統監督、ガンダム作品を中心に、アニメ感想を書くブログです。

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おにいさまへ…第32話誇り、ラストミーティング 宮様回、サン・ジュスト回(前)真実の美

http://gyao.yahoo.co.jp/p/00923/v00038/
DVDも見てるが、GyaOでも見てる。
脚本:金春智子 絵コンテ:出崎統 演出:高田淳 作画監督安藤真裕 土屋堅一 キーアニメーター:内田裕 安藤真裕 土屋堅一
佳境に入ってきたので、1話ずつ感想。でも、おもしろすぎるので、そんなに書く事がないのかもしれない。
あらすじ。
蘭学園の上流階級クラブソロリティ廃止に賛成する署名が増えるにつれ、ソロリティメンバーの内部の結束も乱れていく。
そして、ソロリティのリーダー、一の宮蕗子は、ソロリティ廃止活動を行う自分の妹、れいと面会し、そして、ソロリティ最後のお茶会を開く。
そこで、れいは・・・。


  • 今回のテーマは「誇り」

誇りとは何か。上流階級とは何か。ソロリティとはなにか。
ソロリティメンバーの中でも、ソロリティにいることで上流階級で箔がつくと思う者、ソロリティにいることで学園生活で優越感を得られると思っていた者、ソロリティに個人的な感情を抱いていた者。
壊れていくソロリティの、欠けていくメンバーズの女性たちのそれぞれの行動、その様々な違いを描くことによって、利益のためだけにソロリティにいた者と、忠誠心のためにいた者、そして自分の誇りをソロリティを通じて磨こうとした宮様、宮様の誇りを守るためにソロリティを潰そうとしたサン・ジュスト身分制度を廃止して人間の平等な誇りを訴えようとした薫の君、それぞれの心を際立たせて見せていく。
原作改変!脚本構造!実際上手い。
選ばれた特権を守るとか、学園内で優越感を感じる人間関係をしようとする、寄らば大樹の陰という上流階級お嬢様元ソロリティメンバーのいやしさ。民主主義的署名運動が生徒の大半を占めるとその風潮に擦り寄ろうとする彼女たちの薄っぺらさ(彼女たちの騒動を、奈々子が聴いている安っぽいBGMにかぶせた回想シーンで描くことで、薄さを際立たせる)
ソロリティを退会した彼女たちは残った人に言う「沈んでいく船に最後まで残っていても、褒められるのは船長一人だけよ」「楽になるわ。船を降りれば」彼女たちは自分の誇りではなく、他人に褒められること、他人や社会や口内の人間関係で優越感や賞賛や評価を得ることを重視している。だが、「船を降りる」というのは、「宝島」の出崎統にとっては最低の行為だ。「船」「海」出崎統のキーワード。
だが、船にしがみつくのも良くはない。メデューサの君と呼ばれる葛城さんは宮様に最後まで従って、たったひとりで最後のお茶会の用意をする。でも、彼女は最後のお茶会には出席しない。彼女は結局、自分の誇りではなく、「宮様に褒められたい」という、甘えによってソロリティに残っていたのではないか?
「海に出ること」「たったひとりでも立ち向かうこと」これが出崎統


一の宮蕗子は、まるでフランス革命の暴徒と化した女たちに襲われるマリー・アントワネットのように、自分の城が燃えていく夢を見る。いや、燃やすのは彼女自身の心から出た青い炎か。
ベルサイユのばらから続く出崎統。その革命の先頭に妹であるサン・ジュスト(朝霞れい)を幻視する。そしてサン・ジュストに会いにいく。
ソロリティ廃止運動に加わったのは、私を憎んでいるからですか?」と蕗子はれいに尋ねる。
朝霞れい(サン・ジュスト様)は姉である一の宮蕗子のソロリティを壊すが、腐った心を持ったソロリティメンバーと一緒にいるよりは、たった一人でも宮様の誇りを守ろうとする。だから、ソロリティを壊すのは宮様のモノを壊すこと、同時に宮様の心を守ること。だから「あなたが憎い」「あなたが好きです!」が入り混じる。この島本須美の演技の強さ!
そして、ソロリティ廃止署名が順調に行くことで、サン・ジュストはタバコを吸う。自分がやっていることだが、ソロリティ廃止が進むとサン・ジュストは傷ついていく。
原作では、血統主義の蕗子に「私生児」と蔑まれたことで傷ついて、サン・ジュストは「精神安定剤を飲まなきゃやってられない」と言う。蕗子から傷つけられた外的な要因で、だ。
アニメでは蕗子を守ろうとすることが蕗子からソロリティを取り上げることになる、という自分の矛盾を抱えた行動による内面の要因でサン・ジュスト様は疲れ、さりげなくタバコを吸う。
この改変は誇りを血統主義や贅沢さという外面に求める池田理代子と、自分の魂の芯に求める出崎統の違いでもあるし、与えられることを重視する女原作者と、自ら求める男の演出家との違いでもあろう。また、萬画家としてデビュー作であった池田理代子と、この時点で20年以上の演出キャリアを持っていた出崎統との劇作能力の違いでもある。
サン・ジュストは私生児であるということを蕗子に言われて外から傷つけられたのではない。蕗子の誇りを守るために、自分で傷つきながらソロリティ廃止運動に加わった。この、能動性と内発意識を読み解かなくてはいけない。


れいの親友でソロリティ廃止リベラル派のリーダー折原薫が元ソロリティメンバーに「宮様の次の生徒会長はあなたが有力よ」と、民主主義の大衆主義全体主義迎合主義、寄らば大樹の陰という汚い賞賛を受ける。そして、薫の君は憤る。
「私が今度のことで最大の目的にしているのは、あなたたちのそういう腐りきった意識をなくすことだ!」
だが、大衆という恐ろしく愚かで沢山の者を変えることは、できない。


そして、最後のお茶会。
ソロリティが瓦解し、たったひとりになってしまった蕗子のもとに、れいだけが戻る。姉妹ふたりだけのお茶会が始まる。
あとを追って客として、御苑生奈々子、薫、智子、中矢さんも入室する。ソロリティメンバーであった奈々子だけが着席する。
それに応えてか、あるいは気に求めないように、堂々と、蕗子が誇りについてスピーチする。

誇りあるものを、美しいものを、真実価値あるものを、愛したいと思います。愛せるだけの自分になろうと思っています。いつか自分をそこまで高めようと思っています。
誇りは持とうと思わない限り持てません。しかしながら私は、その私が誇りを持てるだけのものかどうかは、いつも疑っています。迷っています。

その、ソロリティメンバーへ向けた挨拶の言葉を聞くのは、ソロリティ廃止派の主人公グループだけ。その矛盾。そこに傷つきながらも誇りを持とうとする人の、逆境の中で畳とする彼女の、美しさがある。
だが、矛盾していない面もある。ここに居るメンバーは「自ら誇りを持とう」としている女性たちだからだ。誇りを血統とか階級とか所得とか規律とか賞賛とか嫉妬などから、外から与えられようとしていたほかのソロリティメンバーは居ないのだ。自らの誇り。
それが納得いくものであれば、命をかけてもおしくないと思う、自ら由って立つ女性たちだ。
誇りに対する、演出家の思想が非常に具体的に現れた話である。こういう「ただひとつの憧れだけはどんな時にもどこの誰にも消せはしないさ」という宝島のテーマソングにもあるような、出崎統の心意気だ。

  • 変わる心、変わらない心(奈々子のモノローグより)

原作では信夫マリ子のドラマのひとつの終着点であったマリ子の父の若い頃の小説。原作では、唐突に3ページだけ挿入されるエピソード。
マリ子は父が若い頃に書いていた美しい小説を奈々子に見せ「パパは今はポルノ作家と呼ばれていても、昔はこんなに美しい心に染み入る小説をかけたの」と。
この、マリ子が小説を見せる行動、原作では唐突に、マリ子の悩みを解消する手段として描かれていた行動、アニメでは奈々子の「物事だけでなく、人の心も変わっていくのかな」というソロリティ廃止に伴う感慨の言葉を受けて、マリ子が小説を取り出すという流れに昇華されて換骨奪胎されている。
原作でも1ページだけでも、マリ子が心からパパの小説に対して喜んでいるような花を散りばめた絵を描いてある。アニメではさらにそれが銀河を散りばめたような美しい絵と、玉川紗己子の美しい声で、セリフも増えている。
アニメで追加されたのは「私がパパの娘で本当に良かった」「パパの本当の心を知ることができた、そんな気がして」というもの。原作では「今のパパは、青春をかけたその夢をけっきょくパパはつらぬくことができなかったのだけれど」「パパはむかしこんなにも美しいすばらしい小説を書いていたの」と言って、昔のパパと今のパパは別物だと言っている。アニメでは、逆に「表面上は家庭を顧みない、ダメな父だけど、本当の心は美しい」って、今のパパも少しは肯定している。微妙に出崎統は意味性を変えてきている。


それに対して、この物語の主人公であり、モノローグの語り手である御苑生奈々子は、信夫マリ子の崩壊した家庭や引き返せない変化のメタファーである遮断機の前で、モノローグでで

「変わるのは表面だけであってほしい、心は変わらない。持って生まれた心は変わりっこない」
おにいさま、マリ子さんはそう言いたかったのだと思います。
私だって、そう思いたい。
でも、でも。


でも。

と、モノローグの力で、この物語を、マリ子の言葉とその価値を規定する。それが、この物語の主義だ。モノローグ主義。
だから、「パパの心は昔から美しく、変わらない」というマリ子の願いを、奈々子は口には出さないが内心否定している。
それが、奈々子が宮様への忠誠心が変わっていくソロリティメンバーを見て、「人の心は変わるんだな」と思ったことにつながっていく。
これだけなら、「マリ子の父の美しい小説も、人の心も変わっていく」という虚しいニヒリスティックな変化の論理になっていく。だが、それだけではないのがこのアニメのすごいところ。
一の宮蕗子の誇りに対するスピーチのあと、奈々子はマリ子の父の小説の一節を引用する。

おにいさま
マリ子さんのお父様の小説の中に、こんな文章がありました。
「誰のために傷つくか、何のために傷つくか。もし、それが納得のいくものであれば、たとえ赤い血が全て流れ出ても何も惜しくはない」
、と。

奈々子は一度内心、マリ子の父の小説と人の心の不変性を否定した。
だが、蕗子のスピーチに麻里子の父の小説を重ね合わせて、思い出した。ということは、奈々子は「変わらない心もある」と、思い直した、のではないか?
もちろん明言はされていないが、演出論理としてはそのような不変性という命題に対する否定の否定による肯定の強調という技法を見出すことができる。ちょっと理論数学の初歩みたいな感じなんだが、富野由悠季も「演出には文系のセンスだけでなく数学的思考が必要」と言っている。
変わらない心、それは「誇りを持とうとすること」「常に自分が誇りを持っている人間か疑いつつも、そうなりたいと思い、真実の価値を愛そうとする」誇りと、愛。


実は、私は原作を読んだ時、信夫マリ子の父の「若い頃の美しい小説」がどういったものか、劇中で明らかにされていないがために、結局それが美しいものだったのかどうか分からず、がっかりした覚えがある。マリ子の父親との問題を一応解決させるために取って付けたエピソードのように思えた。もちろん、ここで重要なのはマリ子の父の小説の内容ではなく、マリ子が父の価値を認めなおす、というマリ子のリアクションの方なのだが。
この劇中劇や劇中創作の問題はすごく難しいもので、ガラスの仮面の実在する劇中劇がおもしろすぎて、最大に面白いとされるオリジナルの劇中劇の紅天女のハードルが上がってるとか、バクマン。の劇中劇がイマイチ面白いと感じられない、本編を面白くさせるために労力を使って、劇中劇まで面白くできないという問題がある。
(もちろん、飛べ!イサミ機動戦艦ナデシコの劇中劇が面白いという佐藤竜雄監督みたいな人もいますが)


で、今回のおにいさまへ・・・アニメ版32話においてマリ子の父の小説という劇中創作を「誇り」「不変性」「真実価値のあるもの」「愛」「傷」というテーマを補強するためのツールとして非常にうまく活用している。奈々子がラストでマリ子の父の小説の一節を引用することで、奈々子が主観的に感じた蕗子の美しさ、強さを補強している。
蕗子もれいも傷ついているが、彼女たちは彼女たちなりの納得を持って傷ついているから、それは尊いのだ。ということだ。


と、同時に美しく強い蕗子にかぶせてマリ子の父の小説が引用されることで、「奈々子がマリ子の父の小説の美しさに気づいた」という風に、マリ子の父の小説の美しさの説得力を補強する効果も出ている。相乗効果。
で、ストーリー全体のテーマを補強する効果もあるし、奈々子のマリ子と富紀子に対するリアクションを深める効果もある。マリ子の父の小説の引用という演出が、大きな効果と、個人的な効果と同時に行われているんですね。そして、原作ファンの「結局、マリ子の父の小説って美しいのか?」という疑問の解消にもなっている。
「マリ子の父の小説の美しさ」に「自分が納得したことなら、死んでもおしくない」という出崎統が数々の作品で主題としてきた「ただ一つのあこがれだけはどこの誰にも消せはしないさ」というテーマを持ってきたところに、出崎統の本気が感じられるし、それを以てファンは「美しい」と判じることができる。
本当に、出崎統の演出は強く、美しく、愛すべきものだ。




次回、飛翔(サン・ジュストさま人生最良の日)