玖足手帖-アニメブログ-

富野由悠季監督、出崎統監督、ガンダム作品を中心に、アニメ感想を書くブログです。旧玖足手帖から記事・ブクマを引き継ぎました。


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ベルサイユのばら13〜18話 長浜監督と出崎統監督の行間を埋める音

前回、春分の日に書いたブログから、さらに3話を見た。次の19話から出崎統監督編が始まる。
http://d.hatena.ne.jp/nuryouguda/20130324/1364126730
http://rd.yahoo.co.jp/gyao/wmp/link/*http://gyao.yahoo.co.jp/p/00114/v12080/
↑ちょうど見ようと思っていたらweb配信されているので、見ている。


アニメ版ベルサイユのばらのスタートを切った長浜忠夫総監督は第12話で降板しており、13〜19話は監督不在という状態である。が、決してつまらなくはなく、山吉康夫氏の演出回などは出崎統にも匹敵するような、哀しみのベラドンナを彷彿とさせる象徴的で美麗な演出がなされている。
前回書きそびれたが、この時期は13話から録音監督で山田悦司氏が入っているし、選曲の鈴木清司氏は最初から音楽面でベルサイユのばらに参加している。
この両名も脚本の篠崎好氏、杉江慧子氏、演出の高屋敷英夫氏と同じく長浜忠夫時代からベルサイユのばらに参加していて、出崎統監督作品への参加が多い人たちだ。トムス・エンタテインメント東京ムービー新社)系の人。
その人たちが長浜忠夫出崎統をつなぐ「のりしろ」の役割を果たしたのだろうということは想像に難くない。
そういう訳で、監督不在の時期でも決して駄作になっておらず、面白い。芝居としての雰囲気の統一性が破綻したとは思えない。


また、原作では2、3ページごとに場所や時間や事件が変化する連載少女漫画だったが、アニメでは1週間1話ごとに場面をまとめて整理している。私は原作の愛蔵版の単行本を持っているが、どこが『週刊マーガレット』連載の切れ目なのかわからない。
アニメでは1話ごとに見せ場と来週への引きを作っているために、原作では細かく散文的に、あいまいに描かれていたドラマをまとめて再編集している。
具体的には、13〜18話でポリニャック伯夫人とロザリーとの因縁とフェルゼンの帰還が描かれているのは原作の通りだが、原作では細かくその間に入れられていたジャンヌとローアン大司教の陰謀は19話以降に再編集されている。
フェルゼンの見合いやオスカルとの再開もアニメではかなり再編集されていて、まとまっているしアクションシーンとしての見せ場も盛り上げられているために、原作ではどこか漠然としていたフェルゼンの魅力がわかりやすくなっている。原作のフェルゼンはどこか「記号的ないい男」で、どこが魅力なのかいまいちわからんかったのだが、アニメではオスカルやマリー・アントワネットがフェルゼンに惚れるタイミングが再計算されている。
そういう訳で、監督が不在の時期だが、脚本面ではかなりしっかりと再構築をするという手間がかかっていると感じる。



というか、長浜忠夫氏が監督を降板したのは田島令子氏との演劇的方向性の違いだそうだが、他のスタッフを見ると出崎統系のスタッフが多く、出崎統は入るべくして後半の監督に入ったような気がする。

長浜総監督と、オスカルを演じた田島令子と間で演技プランに関して行き違いがあり、それが監督交替に繋がったらしい(それについてはDVD『ベルサイユのばら』6巻の解説書で田島令子に取材し、話を訊いた)。

WEBアニメスタイル | アニメ様365日 第33回 『ベルサイユのばら』

ということだが、アフレコ現場での録音監督が13話から長浜忠夫総監督から山田悦司氏に変わっているので、そこも出崎統的な雰囲気を徐々に浸透させていく部分だったのかと思う。結果論ですが。


19話から出崎統が絵コンテを切り始める前から、録音監督や音響の面で出崎統的な雰囲気を少しずつ作って言って、徐々に出崎統の準備をしていたのかもしれない。
作画監督の荒木伸吾氏・姫野美智氏は共通しているが、出崎統篇から絵柄を変えるように出崎統から指示があったそうだ。しかし、絵柄は原作の池田理代子も前半と後半で全然違っているので、それはむしろ原作通りかもしれない。

  • 音響の統一性

また、音楽の「のりしろ」としての能力はオープニング・フィルムにも現れている。
「薔薇は美しく散る」の詞はマリー・アントワネットについて語る言葉である。しかし、オープニングの絵はオスカルが薔薇のように気高く運命に立ち向かって咲いている様を描いている。全く違う内容なのだが、この二人の女性についての言葉と絵を「音楽」でまとめることで全体として「ベルサイユのばら」という感じを同時に演出している。実に演劇的であり、宝塚歌劇団でもオスカル編とマリー・アントワネット編の2つのトップスターがあるということを意識した上で、それを合算して作ろうというアニメ版の意識レベルの高さが伺える。
二つの女性は別の個人だが、その二人にも共通する時代の空気のリズムがあって、という「つなぎ」を音楽の調べの共通で描いている。これは情報の圧縮をするアニメというメディアらしく、良い。
また、そのように音楽や声優や効果音が長浜忠夫編と出崎統編で共通しているから、監督が変わっても同じ一つの作品であるという統合性を保っている。それでいて、二人の主人公と二人の監督ということで、時代が変化する革命の雰囲気も感じさせる。


オスカルとマリー・アントワネット長浜忠夫出崎統池田理代子と宝塚とアニメ、両雄を音楽によって統合しているのかもしれん。音楽にはそういう力がある。
馬飼野康二氏の曲を鈴木清司氏が選曲してアニメに合わせていくというのも、違った要素や違う人の考えを音楽でまとめるという作業だったと思うし、そういうのを総合して、アニメ版のベルサイユのばらとなっているのだろう。


そう考えると、ベルサイユのばらという題材は漫画が原作であるが、非常に「音」が重要な作品だ。だからこそ宝塚歌劇団のミュージカル劇と相性がよく、今日まで歌い続けられる作品になったのであろう。
また、それはフランス革命の数十年後のフランスの暴動を描いたレ・ミゼラブルがミュージカルやミュージカル映画として30年以上もあのテーマソングが全世界で歌われているということにもつながる。昨年のレ・ミゼラブルの映画は長大な「ああ、無情」の原作を映画の尺にまとめたもので、強引ではあるのだが、あのレ・ミゼラブルのテーマ「民衆の歌」が力技の編集の素晴らしい糊代となっていた。
「民衆の歌」は時代の共通項の連帯意識を盛り上げる歌だ。
(まあ、ユーゴーの原作からするとその革命の連帯を無視するテナルディエに代表される大衆の無関心の無情さの恐ろしさ、ジャン・バルジャンの個人の意識を攻撃する社会という大勢の恐ろしさも描いて、人間というものの光と闇を表現しているのだが、ここでは本題ではない)


異なるものをまとめる時、視覚だけで訴えると個別のものとして分離して認知されるが、音響を使うと一つの主題に共通認識されるのではないだろうか?時代の響きというか。


そういう訳で、音に注目すると、ベルサイユのばらの主題歌の絵と作詞が別の女性を描いているのに「ベルサイユのばら」という一つのものを表現しているということが感じられる。

そして、声優の音の芝居や劇伴曲や効果音の共通性も、長浜忠夫出崎統という二つの監督の時代をつなぐものとして機能していると感じられる。



イデアの「原像」について神智学のルドルフ・シュタイナーは「原音」や霊的音楽もあると語っているし、それはピタゴラス派の天体音楽論でもある。精神には視覚と同時に聴覚による認識もある。

  • 追記

ベルサイユのばら機動戦士ガンダムと同じ1979年放送のアニメだが、ガンダムと同じブリッジ(場面つなぎ)用の効果音が使われている。ピアノの和音とか。短い弦楽器の音とか。
ガンダム好きとしてはそこらへんも面白い。当時の流行の音だったのかな。
つなぎの効果としてファーストガンダムと似たような音の使い方をしてるのが興味深い。音響スタッフは、多分ガンダムと共通してる人はいないような気がするんで、あんまり作為的な意味はないと思うのだけれど。

  • プロデューサー

上記では音の重要性について書いたが、プロデューサーも重要。
ベルサイユのばらの企画の山本又一朗(キティ・フィルム)氏は同年のベルサイユのばらの実写映画版の制作も兼ねていた。
1974年、井上陽水の「闇夜の国から」のプロモーションフィルムのプロデューサーを務めた山本又一朗は、同作品の制作時に出粼の並々ならぬ才能を感じたことで、後にプロデュースを担当した劇場用映画『ゴルゴ13』の監督に出粼を指名することになる。
プロデューサーの加藤俊三氏もトムスの人で、出崎統との関わりがある。制作担当の青野史郎氏もとっとこハム太郎などで出崎統と後年も一緒にしている。


というか、むしろベルサイユのばらを通じて、出崎統が後年につながる人脈を獲得した、と見るほうが正しいか?ジョーやエースをねらえ!の時点でも出崎統は骨太なドラマを演出することに成功していたが。
その一方でガンバとかバカボンもやってるんだよなあ。

  • 余談

土日を利用して、長浜版のオスカルのジェンダー論を書こうかと思ったが、時間が足りなくなったのでやめる。というか、音響の話だけでもブログの記事としてはちょっと長めになってしまった・・・。ベルサイユのばらというものは魔物である。


しかし、漫画とアニメのメディアの違いを抜きにしても、漫画版のオスカルとアニメ版のおスカルは性格が違うよなあ。そして、原作は行き当たりばったりの所もある連載漫画だけど、アニメ版はもうちょっとそれを整理しているとも考えられる。


池田理代子ジェンダーとアニメ版のジェンダーの比較論は、後半の出崎統のパートを見てから書いたほうがいいのかもしれない。
おにいさまへ…」の宮さまの「誇り」の立脚点が原作とアニメでは全く違うのだが、そこがかなりヒントになると思う。そして、池田理代子の思想は女の等身大のものだと感じる。それは女性には共感を呼ぶだろうが、男性の私から見ると好きではない。逆に、アニメ版の長浜忠夫出崎統の描く女性は、女性から見ると理想像過ぎるのかもしれない。
まあ、出崎統美少女ゲームのアニメ化とかしちゃう人だからなあ。それは美少女に夢を見ちゃいますよ。そりゃあ、あさきゆめみしとは全然別物のGenjiを作っちゃいますよ。だって、男だからな。


長浜忠夫の女性観と出崎統の女性観も違うんだよなあ。
勇者ライディーンの明日香麗の更迭を見るに、富野喜幸長浜忠夫の女性観もかなり違うんで、やっぱり異性との関わり方に対する思想は色々と個人差があるんだと思います。