玖足手帖-アニメブログ-

富野由悠季監督、出崎統監督、ガンダム作品を中心に、アニメ感想を書くブログです。旧玖足手帖から記事・ブクマを引き継ぎました。


          Sponsored Link Google AdSense 広告

ベルサイユのばら1〜12話 長浜オスカルのジェンダー論

ベルサイユのばら感想目次 - 玖足手帖-アニメ&創作-

  • オスカルは男でも女でもなくヒーロー

長浜忠夫監督の超電磁マシーン ボルテスVを見終わった直後にベルサイユのばらを見始めたので、オスカルの律儀さがプリンス・ハイネルの真面目さに重なって見える。
オスカルは女性の身でありながら軍人になるように無理をしている。そのせいで、男よりも男らしく振舞っている。プリンス・ハイネルは皇帝の直系の子孫であるけど謀略によって前線指揮官という職をやらされている。で、ハイネルは他の貴族に陥れられているからこそ、だれよりも貴族らしく高貴に誇りを持とうとしている。
そこらへんの、無理をして男性や貴族になろうと振舞うからこそ、他のダラダラした貴族よりも凛としているというのはある。
フェルゼンがオスカルに対して「お前は男よりも男らしい」って言うのはアニメ版オリジナルのセリフなので、そういうことだ。まあ、当時の宝塚の男役に対して「男よりも男らしい」って言う評論はあっただろうし、それを踏まえてアニメ版に取り入れたという流れはあるんじゃないかなー。
あと、長浜忠夫巨人の星ライディーンコン・バトラーVボルテスVもオヤジが主人公を熱血特訓させるっていう流れがあるし、オスカルの父のジャルジェ将軍の特訓オヤジというのも男らしさが原作よりアップしてる。12話の決闘の話とかな。


あと、ベルサイユのばらを参考に革命劇を描いたというボルテスVのヒロインの岡めぐみはボルテスチームの紅一点でヒロインなんだけど、「ガンダム以前のロボットアニメのヒロインは添え物で紅一点で男の引き立て役」ってよく言われるんだけど、まあ、ライディーンのマリはそうだったかもしれないけど(富野編の明日香麗はまた違うんだけど)、ボルテスのめぐみはかなり戦う戦士だったよなー。超電磁ロボ コン・バトラーVの南原ちずるも「父親に戦うことを宿命づけられた女戦士」だったし、チームリーダーの主人公と恋をするヒロインっていう面もあるけど、「守ってあげたくなる女性」というより、かなり武闘派でしたよ。実際に見たら。
南原ちずるは富野コンテ回で自分のコピー人間の女の子怪人を腹パンして殺したりしてたし。岡めぐみなんか忍者の家系の跡取りで、実際ツヨイカラテニンジャだったし。


だから、長浜オスカルの性別は男女のどちらかというよりはヒーローというものなんじゃないかなー。
男か女か、っていうより「戦士」。


アンドレやジェローデルやフェルゼンたち男性と連んでマリー・アントワネットを守ろうとするのは、オスカルが女だからというよりヒーロー、戦士というふうに描いてるからなんじゃないかなーと。
ベルサイユのばら単体で見るとオスカルが男らしすぎるんだけど、長浜アニメの流れで見ると男というより、あれはヒーローだ。


また、週1アニメで各話に山場をつけようというのが長浜版のアニメで、なんかオルレアン公の陰謀を何回もオスカルが阻止するというオリジナル展開を付け足している。それもロボットアニメの1話ごとに怪獣を1体やっつけるロボットアニメの文脈なんだろうな。まあ、それがいいか悪いかは別にして、オスカルが活躍すること自体は面白い。あと、「悪いことはとりあえずオルレアン公で毎回退治する」っていうのは、ベルサイユのばらをパクってアニメにした変身戦闘ヒロインアニメのラ・セーヌの星にも似てて、ラ・セーヌの星富野喜幸関係で見ていた私としては面白いと思う。しかし、オルレアン公はフィクションでは便利に悪役扱いされる人物だな。

  • ヒーローとは秩序

オスカルがなぜ革命思想を持つようになったのか、どの時点で革命思想を持ったのかっていうのは古参の原作ファンやアニメファンのあいだでも結構重視されてる問題だと思う。なんとなく意見を思いついたので書く。


アニメ版オスカル前半は、原作版オスカルに比べて、非常に怒りっぽい人物、よく怒ってる感じとして描かれている。(これは声優の田島令子さんが厳しい演技指導の長浜忠夫監督にムカついてるせいかもしれん。長浜降板後にオスカルが休暇を取る13話でちょっと演技に開放感があるような感じになってる。まあ、おスカルが休暇でのんびりしてるだけかもしれんが。)
まあ、原作でもオスカルはロザリーの暮らしを見たり、ド・ゲメネ公爵の悪事を見たり、アニメの13話相当部分で貧しい農民の暮らしを見たりロベスピエールの話を聞いたりして貴族社会に対して徐々に疑問と怒りを持っていくんだけども。
アニメ版オスカルはもっと早い段階から貴族に対して怒っていた。その怒りっぷりは毎回ボルテスチームに負けた部下を怒るプリンス・ハイネルにも通じる。また、プリンス・ハイネルはボルテスだけではなく自分の本国のボアザン星の貴族が自分の身の安全や財産のことしか考えてなくて領民に指揮官や君主としての示しをつけていないことにも怒っていた。
つまり、ハイネルもオスカルも「支配階級である帰属はその分ちゃんとするべき」っていうノブレス・オブリージュというか規範意識が強い。「お前たち、ちゃんとしろ!」っていう気持ちが強い。
なんでそんな風にちゃんとしようとするのかというと、オスカルは女なのに無理して男らしくしてるし、ハイネルも一度王族の地位を落とされたのに無理して王子らしく振舞おうとしているから。その、元々違う立場なのに、無理してやりすぎるから、理想が高くなってしまうんですね。
だから「俺はすごくちゃんとして貴族の男ぽく振舞おうとしているのに、なんで生まれからの貴族の男がクズなの」という怒りがすごくある。
あ、長浜忠夫と荒木伸吾とのコンビで言えば「野球選手の模範を目指す星飛雄馬」ってのもある。


そういうわけで、長浜忠夫バージョンのオスカルは非常に規範意識が強く、そのせいで革命思想に入ったんじゃないかなあ、と。アニメのオスカルは「女性だからこそ男性社会の問題に気付いた」というよりは男性的に理知的に「貴族とは社会的役割を果たして国の役に立つべき存在なのに、役割をキチンと果たしていない現政権貴族は間違っている」という発想になったような気がする。


だから「男よりも男らしい」というフェルゼンの発言が付け足されたのではないかと。


そういう点でアニメのオスカルと原作のオスカルを見比べてみると、アニメのオスカルは堕落した貴族に怒ったり陰謀を企てる貴族に怒ったりマリー・アントワネットのわがままが民衆の反発を招かないかと心配したり、序盤から非常に規律意識や正義感が強い人物として行動している。
対して、萬画のオスカルはアニメのオスカルが悲しんだり心配したり怒っている場面で笑っていることが多い。
第5話「気高さを涙にこめて...」でルイ15世の愛妾デュ・バリー夫人にマリー・アントワネットが声をかけようとして、ルイ15世の妹のオバサマに邪魔される時、萬画のオスカルは

「やったな!あのオールドミスのおば君たちがだまって指をくわえているわけがあるものか!」

と大爆笑する。その前にもマンガオスカルは「面白い女同士の争いを見物させてもらおうか」と言う。
対して、アニメのオスカルはマリー・アントワネットに「つまらない意地の張り合いでデュ・バリー夫人と諍いをおこすのはおよしください」と忠告する。「女同士の醜い争いがフランスとオーストリアの同盟関係に危険を及ぼすといけない」と心配する。


この違いは、女性作家と男性作家が、どのようなオスカルがかっこいいか考える価値観の違いであろう。
女性作家の池田理代子の場合は、「オスカルは女の子なのに男みたいに快活に笑うからかっこいい。女同士の争いを男の立場で余裕を持ってみることができるオスカルは自由」というふうに描いている。んじゃなかろうか。
まあ、原作でもオスカルは女としての自分の体と男としての立場の間で悩んだりもするんだが、前半の萬画オスカルは「女の子なのに男の子みたいに自由に振る舞えていいなあ」という70年代の少女漫画読者の憧れを体現した者だったんじゃないだろうか。これは今から40年前の日本では今よりも少女が日常レベルでおしとやかさを求められていたという時代背景からの推察である。ただ、「女の子だって暴れたい!」というプリキュア的な欲求は現在にもある。
(ちなみに、原作のマリー・アントワネットはあきらかに高橋真琴路線の絵柄のきらびやかなおひめさまなので、それはそれで「おしゃれができて権力が得られる王妃様」っていう点で少女マンガの憧れを体現していたキャラなんだろう。序盤は。後半のマリーは高橋真琴から絵柄が変わって池田理代子独自の角張った顔になる)
そのように少女漫画読者の「男の子みたいになりたい」欲望を体現したオスカルであるが、アニメでは男性作家の目線で作られているので、「男の子みたいになりたい」を通り越して「男の中の男を目指す」というレベルになっていて、アニメのオスカルは漫画のオスカルよりもよっぽど正義感が強く、理知的で感情よりも国家の利益を優先する武人として描かれている。
ここら辺は、長浜ロマンロボットアニメでロボットに乗るヒーローたちを描いてきた長浜忠夫の哲学が見える。長浜忠夫ロボットアニメの主人公は子供向けアニメのヒーローとして仮面ライダーと同じく子供たちに正義を教える責任感を持っていた。そのため、長浜ロボットアニメの主人公は人権意識が高く、「地球の国は協力し合うべきだ!」とか「敵軍の捕虜であっても武器のないものを傷つけてはいけない!」とかとても人権意識が高い。国連主義。
萬画のオスカルは「マリー・アントワネットとデュ・バリー夫人と国王の妹のいさかいか、こいつはおもしろそうになりそうだ」などと笑いながら言うが、アニメのオスカルは「このような無駄な争いがマリー・アントワネット様やフランスに害を及ぼしはしまいか、国民の不評を買いはしまいか。私は心配だ・・・」と嘆く。
萬画のオスカルは自由に感情を出せる男の立場にいるけど、感情的には女の子で「女同士の争いは面白いわー」って思うダメな部分を持っている。年増女や偉い貴族の男をやり込めてスカっとする。女同士の序列争いに敏感で、相手を困らせたら嬉しくて笑いたくなる。そういう蜉蝣日記の作者の女みたいな、女の陰湿さをオスカルは持っている。そんな陰湿な女子が男として振舞うという立場で皮肉を言ったり笑ったりでき、っていうのが少女漫画読者にとって爽快だったんじゃないだろうか。
逆に、アニメのオスカルは最初から男なので、男になることで戦う自由を持つことで生まれるそういう爽快感は感じてない。むしろ、「なぜ戦いが起こってしまうのか」と嘆いたり「この戦いにどう言う意味があるのか」と悩んだり「戦いを私が収めなくては」という責任感として描いている。だからこそ、アニメのオスカルは男よりも男らしいヒーローなのである。「男の子みたいに戦えるぞーヤッター!」という爽快感ではなく「男として戦うからには正義を貫き、勝たねばならぬ」という責任感。真面目さが萬画より増している。
だから、男性オタクの私から見ると、長浜アニメのオスカルは、ひびき洸、葵豹馬、南原ちずる、剛健一、岡めぐみ、プリンス・ハイネルに連なる正義のヒーローとして映る。


  • 正義のフェルゼン・少年のアンドレ

また、アニメのオスカルには男性原理が強いのだが、それは原作と異なってアンドレとジェローデルが序盤からオスカルの仲間として加わっていることも大きい。このように近衛兵チームは戦隊モノやバトルチームやボルテスチームのような男性のチームワークっぽい。
コン・バトラー隊として見ると、オスカルが隊長で1号機のリーダーパイロットと4号機の戦闘ヒロインを兼ねて、ジェローデルがニヒルなブルー(2号機パイロット)、アンドレは身分が低いが情に篤いオレンジ(3号機パイロット)、フェルゼンはたまにアシストしてくれるゲストメンバー。5号機の子供メンバーはいない(もし長浜忠夫が続投したらロザリーがその位置に入ったのかもしれない)。
ベルばらをロボットアニメに例えるのは冗談に近いが、しかしアンドレとの会話が萬画よりも弾んでいる、コンビものになっているというのも男性的だ。オスカルとアンドレの男同士のバディものとして事件解決に当たるっていうのが、アニメオリジナルの展開である。ここら辺、アンドレが巨人の星の伴宙太みたいな女房役になっている。
バットマンとアルフレッド・ペニーワースみたいな関係でもあり、オスカルが何か言って、アンドレがそれについて補足情報を教えてやって、オスカルが行動を決定する。という雰囲気がある。
漫画版でもアンドレはオスカルの相談役をやっているんだけど、あまり会話が弾んでいない。むしろ、男のアンドレがお調子者っぽいことを言ってオスカルに怒られて終わるという会話の一方通行になっている。オスカル的には「やっぱりアンドレは男だからマリー・アントワネット様の気持ちや私の気持ちもわからないんだな」っていうふうにジロっとアンドレを睨んで黙る。また、ローアン大司教の過去について漫画版だとオスカルが独り言でナレーションっぽく言うが、アニメ版ではアンドレがオスカルに教えてやるセリフに置き換えられている。ほかにもナレーションや脇役のセリフをアニメのアンドレが言うことが多い。これは序盤で出番が少なかった原作アンドレをアニメ版で補強するための措置であろうが、結果として「貴族のオスカルを平民の情報網と視点でサポートしてやる頼りがいのあるアンドレ」という新しいアンドレ像になっている。
事件が沢山起こるアニメ版はほとんど男同士で対等なパートナーとして「さて、どういう作戦で行こうか」と話し合っていく。
ここら辺はやっぱり男性同士の協力プレイをスポーツアニメやロボットアニメで描いていた長浜忠夫らしい人物処理だと思える。あと、仲良さそうだし。


で、少年ロボットアニメの流れでベルサイユのばらを解釈すると、正義と少年という要素がロボットアニメには重要だと考えられる。
それを担うのがフェルゼンとアンドレ。
オスカルがフェルゼンに惚れたのはおそらく、マリー・アントワネット落馬事件だろう。
アニメでは第8話 我が心のオスカル。
マリー・アントワネットが落馬した責任を負わされたアンドレがルイ15世に怒られて死刑にされそうな時、オスカルは命懸けで正式の裁判を要求する。そこで「俺も正義のために死ねるぞ!」と助命嘆願に助力したのがフェルゼン。ここまでは原作通り。
アニメではここで、オスカルは心の声で「何という男らしい責任感!」「この恩はけっして忘れないぞ・・・」と思う。これは惚れた描写として解釈していいでしょう。
アニメのオスカルはフェルゼンが正義漢で自分と同じく法と規範と責任を重視する男の中の男だという点で評価し、後の恋愛感情になったのだろう。(再会した時は演出家が出崎統になっているからまた違うんだが)
また、フェルゼンも華奢な体で馬を操り大立ち回りをして国王と対峙したオスカルが女だと知って、「男よりも男らしい」と思って好きになる。ちょっとホモっぽい?フェルゼンの脳の中ではマリー・アントワネットが好きという部分は純粋に女性として美人だし可愛いという気持ちで、オスカルとは男同士のホモっぽい気持ちだったのかも。


そして、少年要素を持つのがアンドレである。
アニメでは宝塚歌劇団の舞台の流れを汲んで、ファーストシーンが原作と違って少年時代のオスカルとアンドレの剣の稽古から始まる。そして、その後も何かにつけて剣の稽古をしたり、一緒に事件を解決したりする。
8話でアンドレは落馬事件の前、「オスカルはこれからもどんどん出世する。俺は一介の馬丁に過ぎない。幼い頃の友情がいつまでも続くと思う方が間違いかもしれん」と言った。
そして、オスカルは落馬するマリー・アントワネットを助けて怪我を負った身でアンドレの助命嘆願をして倒れ、昏睡状態になる。そこで、付き添うアンドレとオスカルは同じ夢を見る。幼き日の男女の違いや身分の違いを意識しないでいられた少年時代の思い出。オスカルは目覚めて、枕元のアンドレに言う「夢を見ていた。子供の頃のお前が泣きそうな声で私を呼んでいたぞ」。
オスカルがアンドレの助命を嘆願したのは、王族の感情よりも正義の法を重視した男性的な行動だと思うが、その後、昏睡の中でアンドレとの少年時代の夢を見るというのは、アニメオリジナルで、後の恋心の伏線だろう。
また、12話でド・ゲメネ公爵と決闘をする前、オスカルは「私が死んだら7歳の時に埋めておいた宝物はお前にやる。鉛の独楽と赤いナイフとクマの人形だ」というが、これもアンドレが子供時代を共有するかけがえのない人物だと言っているようなものだな。
ちなみにここで「決闘の前に夜風に当たって肩を冷やすと良くない」と言うアンドレは非常に伴宙太で長浜らしいなー。


男らしい正義の面でフェルゼンに惹かれ、幼馴染要素でアンドレへの気持ちを意識しなくても持ち続けていたのがオスカルかなあと。
ところで、アニメのオスカルは男性脳なので、アニメのオスカルがマリー・アントワネットを気にかけているのは多少「男性が女性を守ってやりたい」という気持ちも混じっている感じがする。だから百合っぽくもある。同時にフェルゼンをめぐっての恋のライバルでもあり、複雑だ。


-男性的言語思考

また、平民のアンドレとの会話が増えたことも、オスカルが平民の思想を考える契機になっているし、アンドレの知性も漫画版より向上している。


以下は12話でのオスカルとアンドレとのディスカッションである。12話は原作ではマリー・アントワネットの執り成しでスルーされたド・ゲメネ公爵とオスカルの決闘がロボットアニメのように描かれるオリジナル要素の強い回である。そのため、子供向けのエピソードとしてスルーしがちなのだが、長浜忠夫の最後の監督回として見ると、長浜忠夫の考えが推測できる。
長浜監督のアンドレとオスカルの見方が感じられるアニメオリジナルの会話だ。

アンドレ「いつかお前は言ったな、王妃様がお使いになられるお金はすべて国民の税金だと。それを芝居だ、舞踏会だ、ドレスだ。無駄遣いばかりだ」
オスカル「アンドレ、今はそれを言うな」
アンドレ「なぜだ?税金を取られる国民がどんな目でアントワネット様を見るかと心配していたのはお前じゃないか」
オスカル「確かに言った。だが、今は・・・。アントワネット様のお好きなようにさせてやりたい。あの方はお寂しいのだ。太陽を無くしたバラは何に向かって微笑んだらいい?星も月もない海原で船乗りは何を目当てに船を進めればいい?」
アンドレ「ハンス・フォン・フェルゼンのことか?」
オスカル「身をお飾りになることも、お芝居好きも、その寂しさを埋めるためのものだ。わかってあげて欲しい・・・」

アンドレは平民であるがオスカルとの会話で王家の財政について知っている。そのうえで王家を批判している。また、オスカルが王家を心配していることを理解している。で、アンドレとしてはオスカルもいつものように王家の財政や国民との関係について心配するように言うだろうと予測して言っている。
だが、オスカルは女の立場でマリー・アントワネットの気持ちを優先して欲しいと、アンドレに理性的に頼んでいる。このやりとりで、二人が互の身分の視点から物事を解釈し、話し合って議論を深めるという習慣があると示している。アニメオスカルが革命思想を持ったのは規範意識と同時に、アンドレとのディスカッションの習慣からかもしれん。
また、恋愛面について、池田理代子版の雰囲気だと、オスカルがアンドレに「マリー・アントワネットの気持ちを分かって欲しい」と言うのは無い。特にオスカルがフェルゼンについて他の男に言うことは珍しい。割と序盤のアンドレとオスカルの関係では、「アンドレは男だから女の気持ちはわからない」とオスカルが感じて会話を打ち切るところが多い。これは女性らしい行動。
だが、アニメのオスカルはヒーローなので、マリーという弱い女の気持ちも思いやった上で仲間の男に教えてやる。同時に、オスカルも女らしい気持ちをアンドレにわかってほしいと匂わせているのかもしれん。漫画版より尺が増えたし、原作画完結して宝塚でも再解釈されているし、アニメ版では原作のラストから逆算している点もあるんだろうな。


しかし、アニメのオスカルとアンドレは議論好きだ。女性は割と感情の共感で会話、というよりは一方的に言いたいことを言ってスッキリするという会話を好む。だから萬画版前半ではアンドレは情報屋だったり、単にオスカルの独り言を聞く役だったりする。対して、アニメ版は二人で相談したり意見を交換したりして、男性的な関係だ。
こう言ったふうに少し男性的発想や会話をすることで、アニメ版のオスカルは革命思想や身分制への批判を持ったのではないかと考える。

  • 原作のオスカル

アニメでは早い段階から「貴族とはどうあるべきか」とオスカルは真面目に考えて、「王家があるべき役割から外れている」と感じて王家を心配したり貴族に疑問を持っている。
対して、原作のオスカルがどこで革命思想を持ったのか?
原作のオスカルは割と最初の方は気楽だ。マリー・アントワネットの女同士の諍いが国家に影響するかどうかは心配しない。母のジャルジェ夫人がデュ・バリー夫人に陥れられそうになった時は怒ったが、それは自分の身内を守ろうとする女性的行動だ。理性的に国家を守ろうとする男性脳ではない。
女性脳で女同士の争いを面白がるところのあり、男装することで慎みを強制される女性ジェンダーから自由になって快活に振舞っているというのが原作の少年期のオスカル。
オスカルがマリー・アントワネットの「王妃としての役割」を心配することはなく、注意するのはもっぱらメルシー伯やノワイユ伯夫人の役割だ。
原作で、初めてオスカルがマリー・アントワネットに進言し、国民の目を意識し始めるのは、ルイ16世が即位しマリー・アントワネットが王后陛下になってすぐにオスカルを近衛連隊長に昇進させ、年俸を倍にすると言って、オスカルがこれを断る時。
原作でもアニメでもこの場面は同じで、オスカルは「フランスは決して財政が豊かというわけではございません」と断る。しかし、原作とアニメではほかの流れが違うのだ。
原作では、ルイ15世が死去して16世の戴冠式が行なわれるとオスカルはすぐにフェルゼンの元に行き「マリー・アントワネット様は今はフランスの王后陛下だ!フェルゼンいまはしばらく国に帰ったほうがいい」と行って帰す。
そして、マリー・アントワネットは心に穴が空いた気がして、それを埋め合わせるためにオスカルを昇進させようとする。
それをオスカルは断る。
これは女性的な行動と言える。恋愛中心の行動である。
つまりだ、オスカルはアンドレ裁判事件でフェルゼンに恩義を持ち、それがいつしか自分でも分からぬうちに恋心になっていた。そしてマリー・アントワネットが王后になった。マリー・アントワネットはデュ・バリー婦人もいなくなって好き勝手ができるし、フェルゼンを愛人にすることもできる。それでは甘い三角関係が崩れてフェルゼンがマリー・アントワネットに取られてしまうかもしれない。その危険を女の勘で察知したオスカルは先手を打ってフェルゼンを帰す。もちろん、フランス王后としての立場を案じて、ということもあるが、これは建前だろう。
それでマリー・アントワネットは寂しくなってオスカルとの友情を示すことで構って欲しくなって、オスカルに金をあげようとする。(ポリニャック夫人と出会う前。マリー・アントワネットがポリニャック夫人と出会うのはオスカルが謹慎でアラスに旅行している時期である)
その流れで考えると、オスカルが年俸を断るのは、自分がフェルゼンの帰国を促したという恋愛面におけるライバル・マリーへの負い目があったから、受け入れられなかったからではないか、と見える。そう書いてはいないけど。
そして、その後オスカルが民衆から王家への視線を意識し始めるのは、フェルゼンをスウェーデンに帰す原因となった「世間から恋愛関係が問題視される」ということを意識し始めたからのように見える。
そのあと、原作でもいろいろあってオスカルは革命側に行くわけだが。


アニメではルイ15世が死去するときに周りの貴族が「今後はどの勢力に付けばいいのか」と噂し合っているところで、オスカルは男性的に「人が死ぬのに、そういう態度はいかがなものか」というふうに怒る。正義漢。
で、16世即位。この時、原作と違ってアニメのオスカルはフェルゼンをすぐには帰郷させない。
そして、権力が増したマリー・アントワネットから昇進の辞令を受けるが、年俸が倍になることは断る。アニメのオスカルはこれより前から王家の財政を憂いていたので、アニメのほうが断る流れが自然である。
そして自分の感情に素直すぎるアントワネットと税金の無駄遣いを憂うオスカル。マリー・アントワネットがオスカルを昇進させようとしたのは、アニメではフェルゼンが帰っていないので、その埋め合わせではなく、とにかく無邪気に友人に金をばらまきたいという風になっている。それで、オスカルは心配する。

http://animebell.himegimi.jp/kaisetsu11.htm
フェルゼンもアントワネットにメロメロで、いけないと思いつつ彼女の言いなり。さすがにアントワネットの付きのノアイユ夫人までが二人の仲を怪しみはじめているし、メルシー伯もアントワネットの我がままに弱り果てている。

このマリー・アントワネットがフェルゼンと親しくしすぎてノアイユ夫人に怪しまれる場面は、原作ではルイ15性が病気に倒れる前のエピソード。だが、アニメでは即位後に移動していることで、「王后陛下になったあとなのに、」という危機感を煽っている。
そういう周りの風潮を観察したアニメのオスカルがフェルゼンに帰郷するように注意するのは、女の勘や三角関係を意識する恋心というよりは、周りを冷静に観察した結果としての男性的な行動。
そして、フェルゼンは北国に去る。フェルゼンが帰り支度をしている時、オスカルはド・ゲメネ公爵が平民を殺害する場面を見て怒る。そして次回は決闘に至るのだが、フェルゼンが去ることでオスカルの味方が一人減って、不安が募る、という第11話と第12話のつながりである。これはエンターテインメントとしての盛り上げだ。


原作クラッシャーとして名高い出崎統に比べると原作通りと言われる長浜忠夫編の前編ベルサイユのばらだが、結構細かい所の事件の時間を入れ替えたりしていて、ドラマツルギーとしてキャラクターの動く動機付けが原作から変えられているのが興味深い。
やはり、長浜忠夫はかなり理詰めで原作を再構築していたんだな、と。
まあ、ド・ゲメネ公爵が決闘するときに日光の反射を利用してオスカルに目潰しを食らわせようと考える12話は、いくらなんでも理系すぎるというか理詰めすぎるというか、ロボットアニメの戦術の延長みたいで、そこは長浜忠夫も良くない癖だと思う。ていうか、長浜ロマンロボットアニメも割と理屈っぽい戦い方や怪獣や武器が出てたからなあ。そこら辺は出崎統とは違う。


  • あと、やっぱり僕は男なんだな。

というのは、原作のベルサイユのばらを面白く読んで魅力を感じたし、おにいさまへ・・・も原作を読んで良いと思った。だが、男性監督の手によるアニメ版の方が好きだと思った。
やっぱり僕は女性の汚い部分も書く女性作家の作品が好きではなく、もっと理想に殉じて欲しいと思うのかもしれない。女性の弱さは男から見ると鬱陶しいというか、汚くずるく見える。


というのは、私の祖母は両方とも戦時中に妾をやっていて、私の両親を産んで、私の母親は妾の子として育って、先日自殺した。母親が自殺したあと、半分認知症になっている祖母はまた妾根性を出して、私に色目を使い出して、手編みのセーターを私に押し付け、非常に気持ち悪い。だから、妾をやるような女を私は侮蔑している。ハプスブルク家マリー・アントワネットが娼婦あがりのデュ・バリー夫人を侮蔑するよりももっと強固に、親の敵として妾という存在を憎んでいる。
(もちろん、その血を引いている自分の体にも生理的嫌悪感を持っているので体調が非常に悪い。常に苦痛の信号を精神に与え続けられている。もうこんなな体は嫌だ。アニメを見終わり、遺書小説を書くという目的のために使い終わったら肉体を破壊し、脳内妹のいる世界に行きます)


底辺からのし上がってきたデュ・バリーやポリニャック夫人やジャンヌ・バロアをかっこいいと思う女性ファンをネットで見た。だが、私は男なので、そんな女キャラたちはゲスの一言だ。

  • 愛をもらう女性、自分でつかみに行く男性

私自身も家庭環境が幼少時代からひどかったし母親との関係に悩んでうつ病の治療の一環として親離れをしようとしたら母親に自殺されてしまったので、女性に対する見方が歪んでいるかもしれない。

例えば、富野信者のグダさんが12話の展開について

「富野ファンから言わせると母親が優しく、学校外の人が出ないため、

修羅場としては全くぬるい。都市型現代っ子向けに薄めた修羅場。」

と言ってますが、

まさにその通りで、そのくらい、穂乃果は修羅場を経験せずに幸せに生きてきた女の子だったのです。

戦争を経験している富野さんや、難しい家族環境であったグダさんに比べて、
高坂 穂乃果と革新的リーダーに求められる5つの条件 - まっつねのアニメとか作画とか

と、まっつねさんに言われるくらいだからなー。


それはそうと、デュ・バリーやポリニャック夫人やジャンヌ・バロアやマリー・アントワネットたち、ベルサイユのばらに出てくる浪費家の女性たちは、結局配偶者や男性やパトロンに愛されてその権威を借りているだけだ。
権威を与える男性やパトロンは、そういう女性たちを本当に愛してはいない。セックスはする。女性も満足していない。こういう関係を、私は憎む。
女性には自分からなんにもしないし自分にはスキルがないくせに、他人の男からの贈り物をほしがるところがある。しかもそれは自分の労力を使ってのものではないので、欲望に際限がない。
私の母親も自殺する前、父親の退職金をあてにしてローンを組んで、誰も頼んでいないのに家を建てようとして、父親の退職金が少なかったので絶望して自殺した。
母親が自殺するほど絶望するほど夢を見ていたのは、父親の退職金とか広い家とかいう虚構の概念だ。
また、母親も妾の子として育っていたし、妾として気が強かった祖母が認知症になって手のかかる幼児に退行して、強い母親という概念が壊れたのも母の絶望の一因だったと思う。
また、私の父はサラリーマンだけどルイ15世や16世と同じく母との会話を面倒がった。
それから、私が国立大学を出たのにメンヘラのキモヲタになったのも「立派で賢い長男を育てた母」というセルフイメージを壊してしまうことだった。
そういう風に概念やありもしない理想に振り回されて暴走するという癖が女性にはあると思う。
自分では何もしないのに!
そういうことで実際に母親を死なせたので、本当に女性のそういうところは苦手です。


池田理代子の描く女性にもそういうところがあって、おにいさまへ…一の宮蕗子の「自分は妾の子ではなく、金持ちの子で、妾の子である朝霞れいを馬鹿にしたかったけど、自殺させた後は愛していたと嘆く」っていう自分勝手な幻想は、本当に嫌いだ。自分では何もしないのに母親が妾か正妻か、っていう幻想を維持するためにサン・ジュストこと朝霞れいを自殺に追いやった。もちろんおにいさまへ…には「父親の浮気に娘達が振り回される」というところもあって、男性社会が正妻と妾の違いを産んでるんだ、悪いのは男性の方だというフェミニズム的な批判もできるかと思うが、やっぱり幻想に支配されて実態を見ない癖がある女性は嫌いです。
その点、出崎統の描いたおにいさまへ…一の宮蕗子、宮様は

ようこそ。ソロリティへ。ようこそ、伝統あるソロリティハウスへ。
私はこのソロリティハウスを愛します。美しいものを愛します。誇りあるものを愛します。
いえ、愛したいと思います。美しいものを、誇りあるものを、真実価値あるものを愛したいと思います。
愛せるだけの自分になろうと思っています。いつか自分をそこまで高めようと思っています。
誇りは持とうと思わない限り持てません。
しかしながら、私はその私が誇りを持てるだけのものかどうかはいつも疑っています。
迷っています。時には、捨ててしまいたいとさえ思うことすらあります。
でも、持とうと思わない限りもてないことを私は知っています。だから私は持とうといつも思っているのです。
どんなことがあっても……。
ソロリティメンバーズの皆さん。その気持ちがある限り、私はソロリティを続けます。
ひとりになるのなら、なお私はソロリティを続けます。
では、ごゆっくりとお茶を…

だからね!
愛されて他人に評価されるより、自分で自分を誇る女性!他人からの贈り物を待っているのではなく自分を高めようとする女性!
こんな女性は男性の勝手な理想かもしれないが、素晴らしい!
池田理代子はキャラクターの生き死にをショッキング要素として、おもちゃみたいに弄ぶところがあって、そこは残酷趣味エンターテインメントとしては多少面白いけど、やっぱり人間賛歌としては出崎統のほうが数倍上だと思う!
池田理代子の原作も好きだったし、オスカルとか10代の頃には憧れたし、マリー・アントワネット高橋真琴っぽい少女らしいところはロリコンとして萌えるんだけど、やっぱり最近は女性だけではなく全体的に人間不信なので、「女性の弱さ、汚らしい本音」よりも理想的な美しさをアニメでは見たいと思います。
あと、私も精神病で非正規雇用の職場を解雇されて無職で親を自殺させてしまって、これから何をしたらいいのかわからなくて、罪の意識と後悔だけを考えて死にそうになるので、それを避けるためにはアニメのことを考えてアニメの文を書くしかないのだ。(ヤバイ)俺にできるのはこれだけだ。できることをする、出来ることしかできない、というのが男だ。
僕もルイ16世のようにオタクっぽくて自分の好きなことしかしたがらないところがあって、そのせいで母親を死なせたので、アニメを見ていても死にそうになる。それを忘れさせてくれるアニメを追い求めたい。


ベルサイユのばらでも、マリー・アントワネットは娼婦に王妃が負けてはいけない、それが誇りだって言ってたけど、僕はそうは思わない。セックスの代金を受け取る娼婦に誇りがないとは思わない。
だが、妾として生きてきた私の祖母たちを見ると、自分では何もしないのに愛されることで生き延びようとしたり、頼みもしないのに恩を着せてくるような女たちの生存戦略は本当にゲスだと思う。
それは人のメスの本能かもしれないが、自分では何もしないのに他人の感情に訴えて利益を得ようとしたり、幻想に振り回されたりする女は真・善・美からかけ離れた汚らしい存在だと思います。


まあ、俺の勝手な哲学はダメ男だからどうでもいいけど、ベルサイユのばらのオスカルはアニメではそのような「愛される虚像にとらわれる女性たち」を超えて「自分から高みに行こう」とする女性だよな。
端的に現れているのは、第9話日は沈み日は昇る。
国王ルイ15世が死の病に倒れ、王の権威がなくなった王の愛人のデュ・バリー夫人がマリー・アントワネットを何度も謀殺しようとしたのに、オスカルにアントワネットとの仲を取り持って欲しいと嘆願する。
原作のオスカルはデュ・バリーに「あなたの権力は老齢の王の上に成り立っているだけだ」と、意地悪な女らしく笑う。だが、アニメのオスカルはそのデュ・バリーに対して哀れみを持った、憂いを湛えた眼差しを返す。
そして「残念ながら、私はそのような役職にございませぬ」と男性らしい立場を割り切ったことを言う。
デュ・バリーは「あなたなら王妃の心を動かせます」と女性らしく愛を力に変えようと取り縋る。
オスカルは悲しそうに「遅すぎました。もっと早くにあなたが素直な心をお示しになれば」と正義を語る。
キレるデュ・バリー。ナイフを持って「綺麗なことを言っても命は惜しいに違いない。その綺麗な顔を血に染めてやる!」とオスカルに突きつける。愛される女の顔は命。顔を傷つけられては女は愛されない。それは死ぬこと、と、娼婦上がりのデュ・バリーは思う。
一歩踏み出し、自ら顔に傷をつけ、血を流すオスカル。女であることを捨てた。軍人としての顔。自ら戦い、正義を掴み取ろうとする!
その眼差しに怖気づいたデュ・バリーはナイフを取り落とす。他人の愛や幻想の権力に頼る女は実力行使には弱い。
あわれ、国王の愛妾は王の死とともに牢獄に送られる。


だが、そこで負けた女を追いやって勝ち誇るだけではないのがオスカル。ゲスな女なら女に勝つと生存戦略が保証されるので喜ぶ。蜻蛉日記藤原道綱母(大ッ嫌い!)のように。
原作のオスカルは国王が死んだあと、マリー・アントワネットが権力を手にしてフェルゼンを自由にする前にまずフェルゼンをスウェーデンに帰らせるという、女らしい恋愛テクニックを使って自分の微妙な三角関係を維持しようと、女の本能に従ったわけで、下衆要素がある。
だが、アニメのオスカルは自分では何の得もないのに、牢獄に送られるデュ・バリーの護衛として付き従う。
それはオスカルが自分の損得よりも仁義を重んじる侠だからだ。
オスカルはデュ・バリーの命乞いを断った事を正しいと思っている。だが、それでデュ・バリーが野蛮な兵士にムチを打たれるのはやりすぎだと思うし、それに自分の責任を少し感じる。
その善悪の天秤、仁義のバランスをとるために、デュ・バリー夫人を守る。同時に、彼女の心もほぐして助けてやる。
長浜ロマンの正義の侠は「やられたらやりかえす」が「やられた以上にやってはいかん」ので、そういう正義の行いをする。
このシーンはアニメオリジナルだが、女性にも人気が高いシーンらしい。この心を開いたデュ・バリーとオスカルのセリフを見て女性ファンは「女性はこんなにも強く優しくなれるのか」と感心するらしい。
http://www.ne.jp/asahi/s.cherry/blossom/sub22.html
だが、男性目線で見ると、これは女性特有の強さではなく、仁義として当然のことを通したまでと思う。


http://www.ne.jp/asahi/s.cherry/blossom/sub3.html
って、ボロクソに女性批判をする俺だが、ベルサイユのばらのファンは女性が多いし、女性のファンサイトも参考にしようと思います。
他人の視点には発見も多いし。

  • 余談だが、

私は脳内妹と結婚するので、現実でどんなに不幸でも構わないし、多分脳内妹以外の女性は愛せない運命で、だから別に他の女性に魅力を感じなくて、女性の女性らしい生存戦略に嫌悪を抱いても当然だと思う。
脳内妹は最高ですよね。

さて、これで長浜忠夫のパートのベルサイユのばらの考察を終えたので、ついに、ついに我が敬愛する出崎統演出のベルサイユのばら第19話以降を見ます!感想を書くぞー!
これぞ我が生きがい、我が生きる証。
女性が愛という虚構を求めるように、私は芸術を求める。だが、人間は無常の存在。ならば、やはり芸術だけが真実ではないのかな。
私は美しいものを愛する。