玖足手帖-アニメブログ-

富野由悠季監督、出崎統監督、ガンダム作品を中心に、アニメ感想を書くブログです。旧玖足手帖から記事・ブクマを引き継ぎました。


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ベルサイユのばら第23話「ずる賢くてたくましく!」デミアン的二つの価値観から革命と闘争へ

  • 裁判劇!法の支配は裏テーマ

今回は首飾り事件の裁判篇である。
今まで、私は長浜忠夫編のベルサイユのばらは「正義」の論理だと書いた。
そして、出崎統編のベルサイユのばらは一転して「法の正義の外のアウトローたち」を描いている、という点に注目して感想を書いてきた。
その点において、今回は法の支配で真実を明かし、罰を選定するという裁判をえがいており、非常に象徴的である。
だが、出崎統は今回の裁判を利用して「法の正しさ」ではなく「法の支配からこぼれ落ちたアウトローにこそ人間性の人間たる所以がある」という情感を描いている。この、割り切れない部分こそが出崎統的なものだ。


今回、そもそも私がベルサイユのばらを鑑賞しているのは、思春期の頃に見損ねた少女革命ウテナをもう一度ちゃんと見るための予習なのである。ベルサイユのばらの革命への序曲は、私にとって少女革命ウテナへの序曲なのだ。
(じゃあ、なんでおにいさまへ…を先に見たのかというと、それはなんとなくだ)
そして、少女革命ウテナに影響を与えた作品をほかにも予習しておこうということで、ヘルマン・ヘッセデミアンも読んだ。
この小説は主人公の少年シンクレールが「二つの世界」の価値観に揺れながら大人になっていく、というあらすじである。
二つの世界とは「キリスト教や父や国家といった条理、法の支配する世界」アポロ的世界と、もっと混乱した欲望や東洋思想や神秘主義ディオニュソス的世界である。
この二つの感性はニーチェが「悲劇の誕生」で説いた芸術衝動の一つ。アポロン的世界は主知的傾向をもち、静的で秩序や調和ある統一を目ざすさま。対してディオニュソス的(陶酔的、創造的、激情的などの特徴をもつさま。。
デミアン第一次世界大戦中にドイツで書かれたもので、その直前の思想であるニーチェに非常に影響を受けて書かれているのが露骨である。本文中でもシンクレールはニーチェを愛読しているという記述があった。
私もニーチェは好きな方だ。
そして、デミアンで二つの世界の融合を遂げた主人公は第一次世界大戦に突入していく。これは中世から近代に向かうというテーマにおいて、アニメーション映画「哀しみのベラドンナ」にも通じるものである。そして、ベルサイユのばら少女革命ウテナ哀しみのベラドンナの影響下にある。
また、21世紀という、インターネットや情報化や歴史の相対主義などで「人生や世界のネタバレがされた時代」に生きる私からすると、デミアンは当時としては革新的だが、今から見ると懐古的な牧歌的な作品に見える。が、本稿の本筋ではない。
つまり、何が言いたいのかというと、デミアンも今回のベルサイユのばらも「法の支配する世界」を批判的に描くことで法の不完全性を感じさせ、そこに割り切れないものに人間性を見出すという、と、そういう話だ。
もちろん、デミアンはそれだけではなく、ディオニソスにも批評的なのだが。

デーミアン

デーミアン

  • このサブタイトルはブラフである

今回、ジャンヌ・ヴァロアは裁判に負ける。なので、「ずる賢くてたくましく!」というサブタイトルは間違いであろう。そもそも、出崎統の詩的なセンスにおいて、「ずる賢くてたくましく!」という言葉遣いはどうにも野暮ったい。
だが、「ずる賢くてたくましい」という事の否定である「馬鹿で脆い」というジャンヌ・バロアの弱い面を演出で見せつつ、サブタイトルで嘘をつく、ブラフをサブタイトルにする、というところでジャンヌの虚飾にまみれたところを感じさせるという手腕は素晴らしい。それも込みで、今回のサブタイトルが付けられているとしたら、野暮ったい言葉選びにもセンスや演出家のきちんとした創意を感じる。
今回はひとりの弱い女が強がっている話、それをあえて「強い女の話」というサブタイトルにすることで、余計弱さが引き立つ。論理としては矛盾だし筋が通っていないのだが、これは歴史を元に原作を改変した「物語」なので、筋道が通っているかどうかよりも「感覚」の方が大事なのだ。それが出崎統なのだ。

  • そういう点で、今回は「不条理」がテーマであると思う

個々のキャラクターのやっていることにはどこか矛盾点がある。一貫性がない。また、因果関係や正当性の観点からもおかしい所が多い。
原作で「ねえさんがそんな悪いことをしたはずがない」って泣いたロザリーは、アニメでは冷静にオスカルに対して、「ジャンヌは悪い姉だから犯罪をしたのかもしれない」とオスカルに言う。実の姉が悪人だと冷静にわかっている。偽貴族になったことなど、彼女の悪事や小さい頃の性格も知った上でそう言う。
ここでアニメ版では始めて姉のことをオスカルに打ち明けるロザリーだが、それを「なんとなく言いそびれてしまっていて」とロザリーがちょっと言い訳っぽく言うのも印象的。これは、原作とアニメの違いのつじつま合わせという矛盾点も感じさせるが、ジャンヌが偽貴族になったが、ロザリー自身も妙な縁で中途半端な貴族になったことを微妙に負い目に感じていたのかな、というような言外のニュアンスを匂わせている。これも不条理、というか条理では割り切れない人の感情の発露であろう。
そして同時にロザリーはオスカルに母の形見の指輪を手渡し、「私は今は幸せです」「ですから姉に母の形見を渡してください」と言う。姉が悪人だとわかっていながら、その姉を励ますために形見を渡すロザリーの行為は勧善懲悪の論理では不条理である。
そしてオスカルを介して渡された指輪をつけて、ジャンヌは法廷で「母さん、少しでもいいから力を貸して」「切り抜けてみたいの」「だって、私を裁くなんて、神様だって許せない」と、内心でつぶやき裁判に抗おうとする。
つまり、「親子の情」という秩序的lawなものが、「神や法への反抗」という混沌的chaosなものになる、という倒錯になっている。
また、実の母親の貧乏暮らしを見殺しにして家を出たジャンヌが形見の指輪を付けて握って「母さん力を貸して」と言うのは全く筋が通らないことである。そんな資格は彼女には無い。また、その形見の指輪を受け継いだのはジャンヌの母とは本当は血が繋がっていない、もらわれた子のロザリーというのも筋が通らない要素だ。
裁判で多くの嘘を吐くジャンヌに力を与えるその指輪を手渡したのが法の番人の側である近衛連隊長という職にあるオスカルであるというのも倒錯的。そのオスカル本人がジャンヌによって法廷で「オスカルはマリー・アントワネットレズビアンの相手なのです」と虚偽の証言を言われてしまって名誉を傷つけられるのも倒錯的だ。
ジャンヌは盲目の娼婦のニコル・ド・オリバを殺そうとしたのに、ちょっとした良心と同情心(自己投影)から殺せなくて、そのせいでニコルの証言で裁判で不利になる、というのも因果の逆転である。悪人であるジャンヌに芽生えた正義感がジャンヌを不幸にする、というのがアポロン的な因果(エディプス王の予言はアポロンによるもの)であり、またディオニソス的な混乱だ。
そして、そのように名誉を傷つけられた本人のオスカルが
「たくましい・・・たくましい生命力だ。絶えず断崖絶壁の上に立ちながら・・・怯むどころか大胆で、しかも余裕すらある・・・ジャンヌ、私が今まで・・・見たこともないような女性だ」
と、ジャンヌを評価するのも因果関係がおかしい。だが、オスカル自身も男装をしているとか貴族でありながらも貴族に反感を持っているというようなoutlaw的要素を持った人なので、因果関係がおかしいことを言う事が逆に「オスカルらしい」ムードを醸し出している。
いや、オスカルがジャンヌに感嘆するのは原作通りなのだが。よりいっそう、アニメ版ではアウトロー的だ。出崎統変になってからのオスカルはほとんどモノローグがなくなるので、上記のセリフも心の声ではなく、ロザリーに向けて言ったもの。裁判の帰りの馬車の中で、常識人であるロザリーが「姉がオスカル様を悪く言ってすみません」と謝るのだが、オスカルが「たくましい・・・たくましい生命力だ」といきなり言い始めてロザリーは「えっ?」と驚く。このロザリーのリアクションで、オスカルのアウトローっぽさ、空気の違いを表現している。そして、それを馬車の運転席で聞くとはなしに聞いているアンドレという演出も会話から外されたアンドレを象徴してアウトロー的。


裁判の判決を受けて焼き印を押される時にまで「私は無実だ」「悪いのは王妃だ!」と、嘘をあたかも本心からのように叫ぶジャンヌの迫力は、民衆に「ジャンヌは無実なんじゃないか」と思わせてしまうほどのもので、これも無理が道理を退ける不条理である。
そんなジャンヌは民衆からの名声を得て、牢獄には毎日面会者が列をなす。だが、そのようにたくさんの人と会っているはずのジャンヌなのに、人気者として充実したジャンヌではない。映し出されるのは孤独に牢獄で独り言を言う姿。
「面白かったなぁ・・・久しぶりに、ゾクゾクするくらい。あたし、子供の頃こんなイタズラごっこ、したかったなぁ・・・みんなと」
面白かった、と過去形で言っているということは、もう面白くないということで、「子供の頃にしたかった」というのは「今しても仕方がない」ということで、否定の連続だ。嘘で名声を得たジャンヌの底知れない虚しさを感じさせる。
原作のジャンヌは名声を得て嬉しそうにしていて、若干コミカルでもあるのだが、アニメ版はコミカルな描写をほとんど排している。そして、大衆からの名声などは全く問題にせず自分の心の虚しさと向き合うのも、出崎統的。

このように物事の筋を明らかにする裁判劇を通して、逆に筋が通らない人間の感情や、矛盾、否定、因果関係が繋がっていないのに発生する事象を描いている。その点で、今回のベルサイユのばらは「因果を超えた人間的なもの」を表現するに至っている。
上記に書いたこと以外にも、様々な人間的なものが描かれている。また、世界昔ばなしのような色彩美術など見るべき点は多い。
色彩美術は背景に黒い塗りつぶしを多用し、原色を多く使った画面内との落差で裁判の厳粛なムードを作り出している。焼きごてのシーンの赤ベタや、ジャンヌの陶酔したような演説での撮影処理による陰影もショッキングだ。

  • 法の不完全さ、空しさ

そもそも、この裁判自体がマリー・アントワネットの私情から出たものである。
首飾り事件は冒頭で実は解決している。
宝石商のベメールが160万リーブルの首飾りをマリー・アントワネットに売ろうとしたが、マリー・アントワネットは断った。
ジャンヌがローアン大司教を騙しマリー・アントワネットの名を騙り、ローアン大司教マリー・アントワネットの保証人として分割払いの契約をした。
それで宝石を手に入れたジャンヌはそれを闇で売り、いつまでも宝石の代金がマリー・アントワネットから支払われないのでベメールは王宮に訴えた。それでローアン大司教は逮捕され、王と王妃に詰問され、謝罪し支払いを約束した。
フランス王ルイ16世は「謝っているし、お金は払うらしいし、許そう」と言った。ローアン大司教を騙したのがジャンヌということもハッキリしたし、ここで事件は解決している。
だが、マリー・アントワネットは「ローアン大司教は私と私の母のマリア・テレジア女王に嫌われていたから、その恨みを晴らそうとして、私を侮辱するために私の偽物を使って事件を起こしたんです!そうに決まっています!」と、真実よりも感情を優先させて王室侮辱罪を問う裁判を起こした。
事件の経緯自体はすぐに明らかになっているし、金銭の問題も王が直々に許している。なのに、マリー・アントワネットは「ローアン大司教が私に悪意を持っていたことを裁判で明らかにします」として裁判を起こした。
そもそもこの裁判で明かされるべき真実自体がマリー・アントワネットの被害妄想でしかなく、全く虚しい裁判だ。
また、そのマリー・アントワネットの感情はオーストリア女帝マリア・テレジアの死去の直後の激情でもある。死んだ母のマリア・テレジアがローアン大司教を嫌っていたから自分もローアン大司教が嫌いだ、という感情でもある。
ローアン大司教は駐オーストリア大使だったころにマリア・テレジアに嫌われていた。
また、その嫌悪の感情はローアン大司教の女癖の悪さだけでなく、フランスとオーストリアの異国民の反感から発せられたものでもあろう。
自分の民族が可愛く、異国人が嫌いである、という線引きも実際は虚像の概念で、虚しい。
そのような虚しい実体のない感情を原因として起こされた裁判なのだから、ジャンヌが嘘を言おうが言うまいが、もともとが虚しいものなのだ。虚しい上に、倒錯的だ。
と、言うのもマリー・アントワネットは自分の感情のままに裁判を起こしたのに、「裁判で明らかになれば自分の感情が法によって保証される」という期待を持っているからだ。カオスの感情をロウの法律で保証しようという行為自体が倒錯している。(これは王権神授説でマリー・アントワネットが自分の特権を18世紀末にもなって無邪気に信じ込んでいたことの描写かもしれない?母マリア・テレジア啓蒙主義への移行期の人物)


また、この裁判は王室と高等法院の反目、権力闘争にも利用されることとなった。王室と権力を二分するフランス高等法院は王室の外の存在なのに、マリー・アントワネットは高等法院の力で自分の名誉を主張しようとした。これは筋が通らない。しかもマリー・アントワネットオーストリア人であるのでフランス人民のための裁判所で身の潔白を証明しようと期待するのも若干不自然だ。
で、マリー・アントワネットは「ローアンたちが王室を侮辱した」と訴えたのに、裁判でジャンヌが「マリー・アントワネットが真犯人だ!」と言ったせいで逆効果になってしまった。
その点について裁判長は「王室が高等法院に関与できないように、こちらも王室には手出しができないので、王室を罰せない」とウヤムヤにして、ジャンヌ一味を有罪としてローアン大司教を無罪とした。この有罪無罪の判決は当初の王の冷静な決定と同じで、事実確認や因果関係の点では正しく一致している。
だが、裁判でマリー・アントワネットのことだけがうやむやにされたということで「マリー・アントワネットが悪いんじゃないのか」という空気が民衆に広がり、王室は裁判の場で泥を塗られた。
起こさなくてもいい裁判を起こし、明らかにしなくてもいい経緯を裁判の場で公表したことでマリー・アントワネットは無駄に民衆に憎まれることになった。
この点は、マリー・アントワネットの子供っぽさだろう。「裁判所は真実を明らかにするし、真実が明らかになれば悪いことをしていない自分の名誉は保証される」と期待したのが子供っぽいのだ。
裁判所といっても、「真実を明らかにする」というか「絶対の真実がある」という場所ではない。法律自体が人間が恣意的に作った物だからである。そして、マリー・アントワネットの立場では権力闘争やスキャンダルが公開される場所ともなる。
そのような法律の空しさや、そういう虚しい法律に期待してしまうマリー・アントワネットのような人間の感情の不条理さを描いて、どこにも真実がないということを出崎統は演出している。出崎統の世界は残酷なのだ。正しい安息の場所はない。法や国家は人間を保証しない!
裁判の経緯や判決自体は原作通りだが、アニメ版では法廷劇での緊迫感を強調して演出しているので、より一層、「力」や「重み」の綱引き、テンションの駆け引きが言葉の流れや時間芸術として描かれ、「絶対的な法の正義の安定」よりも「流動的で不安定な力の支配」を感じさせる裁判だ。
裁判長に一言、原作にはないセリフ、「王室が当法廷に関与できないように、当法廷も王室に関与できない」と言わせることで、裁判所も真実追求よりも政治的権力を優先して行動しているような匂いを感じさせる演出となっている。力こそパワー。
ジャンヌの法定での嘘を無責任に支持して熱狂して声援を送る平民の傍聴人の態度も、そのような世界の空しさを増幅している。彼ら平民は真実がどこにあるかには興味がないし、何が真実か自分で判断する知恵もない。だが、ジャンヌの演説のヒトラー的熱狂やスキャンダルの話題に煽られ、流される。ジャンヌの言っていることは嘘だが、そんな真偽は平民にはどうでもよい。真実っぽさ、マリー・アントワネットのスキャンダルが真実だったら不満が解消されて面白いという鬱憤晴らしに平民は熱中する。大衆は自分が見たいと思ったものしか見ないし、それしか真実とは思わないのだ。それが嘘だろうとも。


アニメ版ではジャンヌがそういう嘘に塗り固められた人生を歩み、詐欺をしたのは、「子供の頃にみんなと遊べなかった」から、という風に匂わされている。大人になったジャンヌが自分で捨てた母親の遺品を握りしめて「母さん力を貸して」と言うのは子供時代に満たされなかった愛情を取り戻そうという行為だ。だが、ジャンヌの母はジャンヌに捨てられて貧乏で死んだ。だから、死んだ者から愛情を取り戻そうとしてもそんなものは得られないし、底しれなく虚しい行為だ。
(私の母親も自殺しているし、私も精神科医に言わせると子供の頃から親に愛されなかったせいで社会恐怖障害になったらしく、そういう点ではジャンヌに多少共感できる)
そんなジャンヌのような虚しい女の妄言に左右された高等法院や傍聴席の人民には真実味が感じられない。そもそもこの裁判の発端であるマリー・アントワネットの感情も虚しいものだ。
多重の意味で虚しさを感じさせる裁判だった。


また、マリー・アントワネットが「まるでこれでは私が真犯人のよう。何のために裁判を起こしたのかわからない」と喚いているところにポリニャック伯夫人が「おかわいそうな王妃様。しかし、近衛連隊長が部下の不始末に気づかないなんて」と、オスカルを陥れるような発言を言うのも、裁判での真実よりも権力欲を優先させる人々の姿だと感じられる。


  • 革命のむなしさの予感

なんだか虚しいことや嘘の連続について書いていると、私の文章も支離滅裂になりつつなってきたのでそろそろ止めたい。
原作通りに、この裁判には傍聴席に法学生のサン・ジュストが座っていて「これで王室はこってりと泥を塗りたくられたな」と言うが、アニメ版では更にとなりに前話に引き続きベルナール・シャトレとロベスピエールが座っている。ベルナールはこれに続く黒い騎士編へのつなぎとしての登場だろう。
また、マクシミリアン・ド・ロベスピエールも前話でベルナールと一緒に登場し、民衆を酒場で煽ってオスカルをリンチさせるように仕向けた。今回も酒場でアジテート演説をして平民に「今回の裁判で裁かれるべきは、首飾り事件そのものではなく、そういう大金が動く貴族社会の実態を暴くことなのだ!」と、論理をすり替えて平民の応急への敵意や暴力衝動を煽っていた。
ここにも重要な空しさの要素が配置されている。
私はこれまで、「出崎統編のベルサイユのばらアウトローを描いている」と書いた。
男装の麗人オスカル、貴族社会に出入りする平民のアンドレ、フランス外国人のマリー・アントワネットとフェルゼンというアウトローたちが主人公だ、と。で、出崎統編のアニメ版ベルばらではロベスピエールがクローズアップされている。弁護士lawyerのロベスピエールはoutlawとは正反対なのだが、彼は法を作っていく革命家でもある。つまり、法を作るという行為自体が法の支配下の外からの操作なので、彼もまた法の外のアウトローなのだ。ということ。


そして、そのロベスピエールは法を武器にして平民を守る弁護士であるが、その彼は法を絶対に遵守する真実主義者ではない。彼は法を自分のいいように利用して戦っているのだ。そして、今回の裁判を通しても真実を明らかにすることよりも、平民に「王宮憎し」の感情を植え付けることを優先した。
つまり、古い権力、古い律法の裁判所や貴族の王宮も腐敗しているし真実ではないが、革命を目指す若者たちにも真実はない、ということだ。ただ、闘争だけがある。真実はない。勝った者がいるだけだ。だが、出崎統は敗者にも目を向けるため、結果としては相対主義的であり、どこにも真実がない。ただ、人の生き死にが明滅するだけ。
ここがフランス革命を脳天気に支持した哀しみのベラドンナの後付けラストシーンよりもリアリズムがある要素だ。
人類は善き方向に進むのだ、という啓蒙主義進歩主義自体を批判している。
そして、実際の歴史でもロベスピエールたちは新しい国家を作るにあたってギロチンの恐怖政治を行い、テロリズムによる実力主義社会を作った。力こそパワー。世界に真実はなく、権力への意志だけがある。

ニーチェ全集〈12〉権力への意志 上 (ちくま学芸文庫)

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だから、アニメ版ベルサイユのばらは決してハッピーエンドにはならず、オスカルたちの死は歴史の役に立ったとも言えない。ベルサイユのばらの終劇後に来る革命にも空しさを予感させている。
旧体制を打倒する新しい世代も正しい世界を創ることはできず、大衆の嘘と欺瞞とその場しのぎの民主主義と恐怖政治を招くだけだ、という虚しさ。



そして、それはフランス革命から百年以上後の第一次世界大戦時に書かれたヘルマン・ヘッセの「デミアン」でも繰り返される。
キリスト教の支配する正しさを標榜するアポロン的世界で少年時代を送った主人公は、デミアンという少年の導きやニーチェや東洋宗教などへの傾倒により、キリスト教的絶対正義ではなくディオニソス的な世界も知る。これは20世紀初頭のオリエンタリズムやオカルティズムに通じ、ナチズムにも通じる思想である。
そして、デミアンの主人公のシンクレールは成人し、二つの世界の融和を第一次世界大戦の軍靴の音の中に聞く。それは「人間が人間らしくあることだ」という風に主人公は感じる。

デミアン (岩波文庫 赤435-5)

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が、しかし、21世紀の私からすると、その後の歴史は決していいものには思えない。2度に渡る世界大戦と核兵器による二国間冷戦、その後の多民族の相対的核冷戦、経済闘争、環境悪化、科学技術運営の失敗、教育の失敗、大衆の堕落、社会主義と民主主義の社会実験の失敗。
人間が人間らしくあるということ、自分らしくあること、それは古い世界の殻を破壊して真実の自己に到達する革命かもしれないが、逆に真実の自己以上には成りえない、自己という殻に閉じこもることと同義かもしれないのだ。
デミアンの20年後、日本の夢野久作が書いた小説「ドグラ・マグラ」では「胎児の夢」というかたちでその無限鏡地獄が描かれているのかもしれない。
ドグラ・マグラ

ドグラ・マグラ

そして、その後80年近く経った我々もやはり真実の世界には到達しておらず、人間はクズです。



私自身、社会恐怖障害で精神を病んでいるし、ニーチェとかの話題になると大きく話が逸れてベルサイユのばらの話から脱線しすぎたという自覚はある。
デミアンとか。


だが、だからこそ出崎統の作品が古びないということなんだろうと思う。特定のイズム、主義主張や時代の流行を真実として描くのではなく、人間自身が人間自身に過ぎないということを、その可能性と限界を同時に描く。だからフランス革命が正義だろうが悪だろうが、どういう評価をされる時代だろうが、出崎統の作品には人間臭さがある。


出崎統は真実を求める人を描く演出家だ。
同時に、アニメ表現の魔術師でもあり、アニメが虚構だということにも自覚的だ。
そういうわけで、「人間は嘘つきだ!」と言うキャラクターを出すことも多い。
「本気なんて無い!本気だと思い込んで、錯覚して、みんな傷付くんだよ!バカ!」と叫んだ国崎往人
AIR関係感想記事まとめ - 玖足手帖-アニメ&創作-
「この家は嘘つきの集まりよ!」と叫んだおにいさまへ…第28話「クリスマス・キャロル」の信夫マリ子
メディアの違いを理解せよ?おにいさまへ…28話をヒントに - 玖足手帖-アニメ&創作-
のように。
だが、そのように「人間は嘘つきだ!」ということをも肯定することでアポロン的世界とディオニソス的世界の両方を内包する人間存在そのものを描き、その向こう側の本当の真実めいた何かを模索しようとしたのではないか、と。

アニメーション監督 出崎統の世界 ---「人間」を描き続けた映像の魔術師

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菩薩にも修羅にもなれない。
それが人間というものなのかもしれませんね。
アニメ砂場論についての整理 - まっつねのアニメとか作画とか


同じようにフランス革命を描いた富野由悠季演出のラ・セーヌの星の最終回では、革命派の民衆の味方だったラ・セーヌの星は平民の暴力主義からマリー・アントワネットの子供を救出してスイスの山奥へ行き、世捨て人になる。

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  • そして、アニメ界の戦争は続く

革命はいつもインテリが始めるが、夢みたいな目標をもってやるから、いつも過激なことしかやらない!しかし革命の後では、気高い革命の心だって、官僚主義と大衆に飲み込まれていくから、インテリはそれを嫌って、世間からも政治からも身を引いて世捨て人になる。

戦争だよ。戦争が始まる。

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そういう実力暴力主義の現象としての闘争を本能として持っている人間を描くこと。
これは西洋ではファイト・クラブダークナイトとして、
日本アニメでは機動戦士ガンダム(Wエンドレスワルツ)、少女革命ウテナ輪るピングドラムと継承されている。

そしてヴァルヴレイヴの脚本家は

セーラームーンの幾原さんの弟子筋の大河内一楼さん。
アニメ砂場論についての整理 - まっつねのアニメとか作画とか


「私は世界に殺されない!」
急に歌うよー。歌っちゃうんだ。


でも、革命機 ヴァルヴレイヴは急に歌って急にツイッターとかインターネットで大衆に支持されるところが、ちょっと見も蓋もない承認欲求に見えて、ネタっぽいんだよなー。
人類補完計画とかサマーウォーズとかも「大衆と一つになることで自分の価値が保証される」みたいなのは、ちょっと脳天気過ぎると思います。もっと、大衆に幻滅しろよ!
庵野殺す!」
そういうわけで、機動戦士ガンダムはファーストの「未来への希望の肯定」だけで終わらなくて逆襲のシャアとか∀ガンダムエンドレスワルツみたいな妙な続編もできてバランスが取れたと思う。


まー、ヴヴヴはこのあとどうなるかわかんないっすけどねー。人間を辞めて主人公たちが人間の大衆の世界から排斥されるかもしれんし。
でも、コードギアスの「誰もがゼロになれる」みたいな大衆を是とするところも大河内さんはあって、そこは脳天気な人類補完計画っぽさなんだよねー。キングゲイナーの17話の「ウソのない世界」で誰もが本音を明かせば争いがなくなるっていう大河内脚本回は富野の大衆嫌悪とはまた違いますからね。
どうなんですかね。革命できるんですかね。

「たとえるなら、歴史というものは終わらないワルツのようなものです。戦争、平和、革命の三拍子がいつまでも続く…」