玖足手帖-アニメブログ-

富野由悠季監督、出崎統監督、ガンダム作品を中心に、アニメ感想を書くブログです。

当サイトはGoogleアドセンス、グーグルアナリティクス、Amazonアソシエイトを利用しています

風立ちぬ は宮崎駿のいつもの自伝的理想と言い訳のネタバレ感想その2

#風立ちぬ は実在の人物を被った宮崎駿の自伝的理想との感想その1 - 玖足手帖-アニメ&創作-
↑の続きです。

宮崎駿監督については私は風の谷のナウシカ萬画版の終了とともに才能の十数年間を消費し、あとは出がらしであると思っている。
私は本当に土鬼皇兄陛下とクシャナ殿下が好きだし巨神兵の「工業製品であり神」という弐瓶勉的な中二っぽさも大好きだし、ナウシカ萬画版は至高だと思う。宮崎駿監督がその後、すっからかんになって才能が枯渇しても仕方ないほどの名作萬画だと思う。
アニメーション監督としては庵野秀明監督が言うように、紅の豚で死んでる。あとは全部遺作。売れてるけど遺作。
千と千尋の神隠しも死んでる映画だったし、崖の下のポニョも「皆で津波にのまれて死のう」っていう死のにおいが強すぎる映画だった。
今回の「風立ちぬ」も死んでた。

以下ネタバレ


ブコメ
id:kenjou さん最後の方には富野監督が風立ちぬを絶賛していることについての私の意見も書いてますよー











なにしろ、「零戦を作った堀越二郎の半生」の映画なのに、「空中アニメーションを得意とする宮崎駿の映画」なのに、全然飛んでないんですもの!
飛ぶのはもう、夢の中だけ!
宮崎駿監督はもう飛べません!画力も落ちました!
もう、ジブリアニメは本当に終わった。死んだ!こんなアニメより山内重保の「君のいる町」でも、まどかマギカでもエヴァでも、もう一つ二つ下の世代の監督のアニメの方が出来もいいし脂も乗ってるし!
なんでジブリアニメばかり売れて日本のアニメの代表みたいな顔をしてるのか。こんなものはもう死んでいるのだ。もっと他に見るべきアニメはいくらでもあるだろう!


零戦が最後に出るが、「やっとゼロ戦が出来たぞサア飛ぶぞ」と意気高揚した所で映画がいきなり終わっていきなり敗戦である。
ふざけるなと言いたい。
しかも、これはエンターテインメントとしても作品としても評伝としても戦争論としても思想としても悪意に満ちている。


エンターテインメントとして糞なのは、「空中アニメーションを期待して見に行ったのに、段取りばかりで糞つまんなかった」というだけでわかると思う。

  • 作品としてなんでダメなのか

庵野秀明宮崎駿監督が72歳を過ぎて少し大人になった映画を作った。だって地に足がついていましたから」
宮崎駿「僕は漫画映画が好きでアニメーションをはじめた人間ですから、漫画映画の枠を超えていくというのはあんまり好きではなくて、むしろ反対してきた人間なんです。それがこういう地面に足をつけて生きていくしかないっていうカットばっかりの作品を作ってしまった」

地面に足をつけて生きていくしかないって、シータみたいなことを描いていても、全然地に足をつけることに慣れていないオタクっぽさがにじみ出ているアニメだった。お前、生活に興味ないだろ。飛行機とかアニメーション制作にしか興味がないだろ。そういうオタクっぽさが本当にひどかった。
宮崎駿監督自身が漫画映画大好きで実生活に興味がない人間で、劇中の二郎も飛行機つくりと言うエゴにしか興味が無く、妻や社会を顧みないオタク技術者バカだった。しかもそれは子供時代からの飛行機を作りたいという夢、と言えば聞こえがいいが、要は母親に認められていた少年時代への回帰願望にしかすぎず、未来志向を完全に見失った胎内回帰願望でマザコンの糞だ。
そういうマザコンの糞オタク、自分では戦争をする体力も殺人をする意思もないくせに軍事知識だけはたくさんあるミリタリーオタクの堀越二郎宮崎駿庵野秀明が三位一体となって主人公を作り上げて、結果としてオタクの気持ち悪い部分を凝縮した、オタクの願望充足そのものの映画になっている。

鈴木敏夫「プロデュースの基本は野次馬精神である。宮崎駿が戦争を題材にどういう映画を作るのか。戦闘シーンは宮さんの得意技。まさか、今度の映画で好戦的な映画は作るわけにはゆかない。そのことはあらかじめ分かっていた。得意技を封じられるとき、作家は、往々にして傑作をモノする。」

空中戦という得意技を封じられた結果、飛行シーンが大幅に削られた結果、飛翔感が一番の持ち味だった宮崎駿作品のキモが亡くなっている。
だいたい、鈴木プロデューサーの発言もちょっと間違っていて、戦闘シーンじゃなくても飛行シーンを描くことはいくらでもできたはずじゃないですか。戦争論を無理に題材にして高尚っぽさを出さなくても、アニメーションとして飛行を描くだけで面白みはいくらでも出せたはずだ。戦闘シーンを封じても飛行シーンは封じるべきではなかった。
そうして得意技を封じた結果、動きの少ない映画になった。かといって、生活の情感のある高畑勲監督のアニメのような地に足の着いた感じでもなく、「実生活に興味のないオタクのミリタリー薀蓄人生」を延々と見せられることに。


パヤオはただのメカミリタリーオタロリコンだけど、天才アニメーターでもある。 しかし、最新作ではアニメーターとしての手腕が発揮された場面が少なかった。 なので、ミリオタが「ネジを平らにして空気抵抗を減らすんだ!」って薀蓄を垂れるモデルグラフィックスの雑想ノートの薀蓄コラムみたいな会議シーンが一番のクライマックスと言うげんしけんを超えるオタクアニメになってしまっている!
宮崎駿主人公は体力と勇気にあふれたジャンプ力のすごい未来少年コナンからついに「ミリタリーオタクのふりしてるけど頭だけの斑目」のレベルに落ちてしまっている!いや、斑目は萌えるし二郎さんは一応柔道できるけど。(しかしいじめっ子をやっつけたのと、骨接ぎをしただけで柔道のアクション要素はほとんど作品全体で意味をなさなかった)
まあ、そんなアクションの少ないオタク主人公の声がオタクの代表庵野秀明というのは面白みではあるけど映画としては迫力がない。
だいたいミリオタ以外にとって、ネジとか金具の設計とかどうでもいいんだよ!
でも、ミリオタ映画だから…。
まあ、飛行機の内部図解をアニメーションにしたところは面白かった。その透視図法の表現はオタクっぽい面白みがあった。飛行船の内部を見て喜ぶところとか。
でも、それだったら∀ガンダムの飛行船シーンの方がまだドラマとして成立してる!
風立ちぬの説明シーンは説明のための説明でオタクっぽさだけじゃないか!(まあ、モデルグラフィックスのコラム萬画としてはそれでいいのだが)
ミリタリーオタクアニメとしてもガールズアンドパンツァーの方が薀蓄を垂れながらもアクションエンターテインメントとして素直に楽しめた。風立ちぬはアクションが足りないよなあ。


で、その上、ミリオタと言うことを隠して恋愛映画っぽさや伝記映画っぽさを装ってるので糞長い映画になってる。
飛行機や戦闘メカにしか興味がないんなら飛行シーンや内部図解というオタクっぽいシーンだけを集めて90分くらいにまとめた方がすっきりした作品になったと思うが、妙に恋愛描写や天下国家論を入れて、無駄に長くなっている。


しかも、恋愛しても結婚しても、全体的に平坦な印象で作り物っぽさがひどかった。
主人公がヒロインと関東大震災の時に出会うのも、軽井沢で再会するのも、そこから急きょ結婚するのも、妻が何の文句も言わず主人公の仕事の支えになるのも、スムーズに行きすぎていて単調で退屈だ。
「これは実在の人をモデルにしたから」「堀辰雄の『風立ちぬ』と『菜穂子』がそういう内容だったから」というエクスキューズでドラマの退屈さや登場人物の心理の動きの不自然さ、作り物っぽさをごまかしているのも言い訳がましい。
特にひどかったのは、主人公とヒロインが急きょ出張先で結婚する必要に迫られたときにヒロインが何の伏線もなく「親の了解は取っています」って説明セリフを入れて結婚したところ。いや、突然結婚する場面や新郎新婦と仲人だけの結婚式っていうロマンチックな場面を作りたいという意図はわかる。
分かるんだが、そういう場面を作るためにそこに行くための手順として説明セリフで「問題はありません」って言っちゃうのは映画として芝居として人間の描写としてあまりにも雑すぎないか。
いや、まあ、昔から宮崎駿は「バルス!」とか伏線が雑な脚本を書くことに定評のある作家なんだが。
主人公とヒロインが出会った時に、名家の令嬢であるヒロインの家の使用人の男が「いい男じゃないですか」と言ったのもひどい説明シーンだった。ヒロインが結婚する時に「あなたは私にとって白馬の王子さまでした」って言っちゃうのも、見てられない!
口で言うな!
情感で表現しろ!!!
お前はアニメーション映画を作っているのであって、説明書を書いてるんじゃないだろ!
モデルグラフィックスのメカ説明コラムを書くんなら説明だけでいいんだが、恋愛とか人間性とかまで説明で済ますな!


ナチスに対する言及とかも一方的で戦争論も説明がましくひどかった。


庵野秀明監督はハウルの動く城木村拓哉には役者として及ばないが、それでも上手かったと思う。ハウルの動く城も主演声優より脚本のひどさがすごかった映画だが。
庵野さんは役者としては素人を自認しているが、絵コンテをたくさん書いて自分でセリフの秒数をカウントしたり式日という実写映画で岩井俊二監督を俳優として動かした経験を持つ人だ。演劇的センスはある人である。
実際、オタク技術者バカっぽい口調はうまく表現できていたと思う。
ただ、庵野さんの引き出しにないシーンではひどい棒読みの演技だった。だが、それも「自分の興味のないところでは全然感情が出ない技術者バカオタク」の表現としてはハマっていたと言えるかもしれない。

庵野秀明監督は「声を当てる時は全部嫁のことを思ってやった」と言っていたので、夫婦間の会話も生っぽくてうまかったと思う。
「声を当てるときは全部嫁のことを思ってやってました」映画監督 庵野秀明インタビュー : みんなのエヴァンゲリオン(ヱヴァ)ファン

疲れてるときはちゃんと疲れてるような声になってて、「ああ、主人公は疲れているのだな」と分かった。
「主人公は仕事で疲れているのだが、妻の前では安心して声がだるくなるんだな」という感触があって、それは良いと思った。
だが、そのあと嫁がセリフで「あなたはお疲れですね」と説明を入れちゃってるので、脚本は糞だなーって思った。ほんと、そこを説明したら情感が台無しになる。
万事そんな感じで説明セリフが多く、長ったらしく退屈だった。
でも、大衆向け映画だったらこれくらい説明セリフが長くないと理解されないのかなー。そういう点で、この脚本を書いた宮崎駿さんは声優のこともアニメーターのことも観客も信用してなくて説明過多になってるのかなと思った。
しかも、昔は自分でアニメーションを描けたわけだが、今回はなんかアニメーターとしても画力が低下してて、っていうか原画描いて無くて、宮崎駿監督は何でも自分でやりたい人なんだが、自分でやれることが少なくなって、かといってスタッフや役者にもゆだねることができてないので、雑な部分が目立つ映画になってしまっていて困る。


庵野秀明監督は逆襲のシャア友の会でガンダムランバ・ラルとハモン、シャアとララァの直接的描写が無いのにセックスをしている情感をにおわせることを富野由悠季監督に向かって誉めていて、だから自覚的に夫婦間の芝居には力を入れていたと思うし、嫁のことを考えながらの芝居と言うのも生々しさが出ている。


だが、宮崎駿監督の初夜のシーンでは嫁が直接夫に布団に入るように「来て」と言っている。だから、そこは匂わせるだけでいいのに。
あー、でも、絵として描きたかったのかなあ。うーん。

  • アニメーションとしても作画に快感を得られなかった。

なんだか全部が作り物っぽく見える映画だった。人の顔も服も木製の建物も鉄の飛行機も全部セルロイドに描いた油絵という人工物に見えて質感が感じられなかった。スタジオジブリのアニメの質感のノッペリしてる嘘くさい感じはゲド戦記でも崖の下のポニョでもあって、どんどんひどくなっている。
たぶんそれは輪郭線がどの素材を書くときも均一すぎるのと、影の作画の境界線が全てにおいて丸みを帯びているから、全部の素材がソフトビニールでできているように見えてしまうのだと思う。
アニメーターは絵を実物に近づけるように、むしろ実写よりもその質感の意味性を伝えるためにリアル以上にリアルな絵を描くように手腕を振るうものだと思っていたのだが、ポニョとか風立ちぬ宮崎駿監督の「漫画映画を描きたい」という欲求が強すぎて手段としてのアニメーション作画が自己目的化している感じで、アニメでアニメを描こうという感じで嘘くさかった。
背景動画も母を訪ねて三千里や赤毛のアンのころよりも逆にぎこちなくなってる気がしたし、手書きの背景動画とCGのシーンのイメージの統一もうまくできてなかった。こないだまでテレビとニコニコ動画でやってた美少女アニメあいうらの方が断然きれいな背景だった。
地震で地面が揺れて建物が倒壊するところも砂埃の質感が無かった。街並みの揺れ方も記号的に建物の絵が横にスライドするだけで迫力が無かった。私は東日本大震災は関東で体験したが、もっとこう不規則にごちゃごちゃと揺れてた感じだったよ。あ、でも、線路が波打つところの動きはよかったかな。質感はゴムだったけど。
あと、爆炎とか日差しを照り返す雲の作画はきれいなところもあった。
ただ、背景作画はどのシーンも力が入りすぎた厚塗りの油絵のようなところがあって、動画もセル画っぽい上に背景も油絵臭くて脂っこかった。
僕は本田雄パートも田中敦子パートも分からなかったので、あんまり作画について知った風に書くのはよくないんだけども。
ナウシカラピュタやトトロは質感が感じられた気がしたんだがなー。猫バスの毛並とか。王蟲のハーモニーゴムマルチ手法はすごく質感を重視してたのに、最近のジブリは描く対象の質感を軽視してる感じがする。
やっぱり絵の部分では金田伊功氏と近藤喜文氏が亡くなって抜けたのが大きい気が…。美術系スタッフも入れ替わったしなあ…。


いや、でも、ジブリアニメは今はアニメに実像を求めるアニメファンが見るものではなく、アニメは最初から作り物だと決めてかかっている一般層にも訴求するものだから作り物っぽく見えるように作り物っぽく書く方が手法としては正しいのか?
いや、しかし、ポケモンとか有頂天家族とかもっとディフォルメ、カリカチュアされた作画のアニメは他にもあるんだと思うけど、それでもゲド戦記とかポニョとか今回の風立ちぬとか、最近のジブリアニメの「全部が全部セル画に見える」という印象は他のアニメ以上だ。


庵野秀明監督は富野由悠季監督に言ったわけだけど

庵野
ところで皆、見慣れているから感じないみたいなんですけど。どうも僕にはアニメに出てくる人間が、「セル」にしか見えないんですよ、すごくうすっぺらい。


富野:
それはわかる。


庵野
記号的ですよね。「セル」って凄く稚拙な表現手段に見えるんです。その薄っぺらい表現で、僕は初めて富野さんのアニメを見てセックスを連想したんです。ランバ・ラルとハモンなんですけど。あの二人は夫婦じゃないですよね。内縁の妻というのは汚い関係ですよね。
それをなんか、「あっ、この二人は夜は寝ているんだな」という感じを、それをカゲ無しのセルのああいう絵でですね。その表現を感じさせてくれたというのは、これはもう僕はすごい賞賛というか絶賛に値すると思うんです。それは高畑さんのアニメでも、宮崎さんのアニメでも、感じないことなんですよ。セックスを連想させてくれるのは、富野さんのアニメだけなんですよ。「逆シャア」というのは、特にそれを感じてですね。シャアとナナイに(この辺りは力説している)。


富野:
うん……うん。だとしたら、嬉しいな。


庵野
あと好きなのは「ガンダムⅢ」のララァとシャアが、お茶を飲むだけという、あそこの描写がですね、こ、これはスゴイ(ここもコブシを握って)!


富野:
うん、そう思うっていうのは、それしか無いんだから。それに賭けるっていう部分。


庵野
あの淡々とした描写で、あの二人の関係が出ちゃってるというのは、スゴイと思います。
庵野秀明と富野由悠季 ふたりが見た宮崎アニメ『逆襲のシャア友の会』 | ジブリのせかい【スタジオジブリ非公式情報サイト】 宮崎駿・高畑勲・スタジオジブリ情報

ガンダムとは逆に「風立ちぬ」はセル画っぽさと説明臭さがほんとすごかった。
それを庵野秀明監督本人に声を当てさせてるんだから、ひどいよなあ。



あ、でも、背景の作画は全体的に油絵の厚塗りでくどい印象だが、主人公が日本からドイツに行った時は背景の質感が日本っぽい絵から洋画っぽい質感になって、そこで説明セリフが無くても舞台が異国になったことがわかって、そこは上手いと思った。
あと、外国人が妙に狂気を感じさせる目つきになるところも面白かった。(まあ、作品の全体として、その狂気っぽい作画がどういう意味なのかいまいちよくわからんかったんだが)


あと、大胆に時間が経過するカット編集は上手いと思った。


まあ、そのあと説明セリフで補足はされるんだけども。
だから、部分部分ではいい絵や背景を書く人もいたし、宮崎駿監督は画力は衰えたけど、編集はまだ監督としてできたかなあ、という。


あと、メガネが顔に落とす影の作画だけは妙に力が入っていてリアルで、メガネだけは本当に全編にわたって力が入ってた。
メガネで顔の輪郭がゆがむところとか。
だが、それが映画全体としての価値には全く関係がないというのがまた意味が分からない。印象的なシーンだけメガネに力を入れるというわけでもなかったし。劇的効果がない・・・。

  • 戦争論、国家論、文明論、人生論、評伝としての糞さ

何がひどいって、零戦の原型機体が完成して、主人公がいよいよ戦争技術者となっていくぞ、と言う次のカットで夢のシーンに行って早速敗戦して終わるところがひどい。
主人公が戦争に加担したり戦争を味わったり妻の死後を生きたり戦後に老いていく汚らしさを描くのを放棄して、「夢の飛行機を完成させた」っていう所で物語と評伝を放棄するのがひどい。
「戦後も77歳まで生きた堀越二郎の評伝」という体裁をとりながら、都合の悪い部分は描かなくて「終戦直後に結核で死亡した堀辰雄とその妻とその小説」の要素に逃げているのがひどい。
それで、戦争でぼろぼろになった国家を作っておいて、「生きねば」ってキャッチフレーズを主人公がつぶやいて終わるのだが、その生き汚さの辛さは描かず、そういう戦争技術で国を傾けたことに対する反省はなく、「生きねば」で投げて終わる。
投げて終わるのは宮崎駿のいつものパターンなのだが。
戦争メカオタクの技術者バカぶりを126分にも渡ってこってりを描いたのに、そのツケを払う部分の戦後は描かずに終えるのが、本当に漫画映画としての都合のいい描き方をしていて、本当にひどい。
震災を描いているのに、原発事故などで近代技術への反省や批判を描くようなふりをしておいて、本当にしんどい部分は投げて終わる。
スタジオジブリ原発ぬきの電気で映画をつくりたい」と豪語しておきながら、敗戦処理をするのはあきらめて死に逃げしようとしている。
「生きねば」って口では言っているがやっぱりポニョの「皆で死のう」みたいな雰囲気がほんとに色濃くて、むしろ「国を滅ぼしたけど、俺はやりたいことをやったし、この後は死のうがどうなろうがどうでもいいのだ」という雰囲気がある。
これはソ連崩壊後の社会主義者として挫折した宮崎駿監督の捨て鉢な雰囲気だし、やっぱり紅の豚以降、宮崎駿監督の作品は全部遺作っぽいんだよなあ。取ってつけたようなハッピーエンドにしてるけど。
アニメ映画にするときは宮さんはハッピーエンドを取ってつけるけど。
でも、ファンとしてはナウシカ萬画版が極北で、それ以降は全部余生だよなあって思う。ナウシカ萬画版のラストの「生きねば…」は破滅や愚民への欺瞞とか殺人衝動を全部ナウシカが抱え込んで汚れきっているのを自覚しながら余生を生きようとするバッドエンドで、そこは美しいと思う。でも、それをテレビシリーズにできないジブリはやっぱり腰が引けてる。


:追記
パンフレットでジャーナリストの立花隆さんが「このアニメはゼロ戦を作った人を描いただけでなく、富国強兵に失敗した日本が破綻する様を描いたスケールの大きな映画なんです!」ってご立派なことを描いていたが、破たんしたらしっぱなし、やりたい作品を作ったら投げっぱなしエンドで、その後にどうしていこうかと言うビジョンも責任感も何にもない。これは原子力発電所が吹っ飛んだら2年も廃棄物の処理も進んでなくてやったらやりっぱなしで責任をたらいまわしにする日本人への皮肉とも取れるが、皮肉なだけで代替案が無いので未来志向が全くない。そのくせ口だけ「生きねば」とか言う。
資源を浪費し、鉄くずの山や財政破たんや核廃棄物ばかり作ったくせに責任も取らないで生きてるだけの老人は社会保障費を食いつぶすだけだ。「生きねば」なんて言う資格もない。そんなのは死んでないだけで生きてるとは言わないのだ。
しかも子供に対する優しさもお菓子を分けるだけの上っ面しかなく、子供を育てていこうという世代をつなぐ責任感すらない。老人め!
機動戦士ガンダムF91の小説版の過当医療禁止法案や人口の抑制や愚民と老害の排除のコスモ貴族主義に共感を覚える私としては憎しみが掻き立てられるなあ。


嫁が主人公の仕事を手伝うだけ手伝ったらあっさり山に戻って死ぬのも、夫婦生活の面倒くささを拒否してる感じの構成で、本当にオタクの「都合のいいものしか描きたくない」というクズぶり。
ヒロイン役の瀧本美織さんに宮崎駿監督は「昔の人は生き方が潔い。必死に生きようともがく感じではなく、与えられた時間を精いっぱい生きている」と言ったのだが、それはいくらなんでも昔の人を理想化しすぎだと思うし、だいたい昭和初期なんてついこないだだろうが。夢野久作の「いなか、の、じけん」とか読んだら、昔の人もクズだと思う。
それにヒロインは薄幸の美少女で結核で死ぬのだが、超金持ちのお嬢様で好きな時に好きなような治療を受けられて好きな時に死ぬような都合のいい人生を生きていたので、「与えられた時間を精いっぱい生きている」というよりは金持ちの道楽にしか見えなかったのがすごいなあ。まあ、サナトリウム文学はそういう所があるけどね。
でもこのヒロインの都合のよさはすごい。面倒に反抗してくる宮崎吾朗さんみたいな子供も産まないし。


しかも最後に「生きて」ってヒロインの幽霊が言うのがまたひどい。しかもそれが母親の子宮を連想させるようなポニョのグランマンマーレみたいな絵になってるのがひどい。
おおかみこどもの雨と雪の最後に母親が子供に「しっかり生きて」って言うみたいでひどい。
しかも、主人公はオタク技術者として好き勝手に金を使い国を亡ぼし家庭を顧みなかったのに、クズ人間なのに、「少年時代にお母さんに『素敵な夢ね』って言われたからいいのだ」「お母さんの代わりになってくれた嫁が『生きて』って言ったから生きねばなのだ」っていう、その言い訳がましさが本当にひどい!
お前は母親に生きろと言われたから生きているのか?他人に生きていいと言われたから生きているのか?お前自身の意志で他人を踏みつけて好き勝手をしているのに、母親に許されたから許されていると言い訳するのか?
糞が!
お前が人殺しをしたりエゴや趣味に生きたことを母親や女に許されたって言い訳するな!
自分の殺意と趣味くらい自分で背負って見せろ!
でなければ死ね!!!!
殺したのは、許されたからではなく「ぶっ殺したかったから」ってはっきり言えよ!
お前はとんでもないカマトトだよ!
(そういう意味でやっぱりナウシカ萬画版が好きです。ナウシカ墓所をぶち殺したのは正義も糞もなく、単にぶち殺したかったからってだけなのが良い)


こういう戦争技術の負の遺産を次の世代に引き継ぐことの罪とか、自分の伴侶を都合よく承認欲求を満たしてくれる道具として利用する罪とか、結核の妻の手を握って甘えながら煙草も好きなように吸って妻のぬくもりをわがままに利用して仕事に夢中になるオタクの汚さとか、母親に生きる動機を擦り付ける甘ったれた根性とかのオタクの糞な部分をすべて描くことを放棄して、自分はやり逃げしようという作品全体の思想の汚さは本当にひどい。
紅の豚以降の宮崎駿監督作品は全部「死にたい、でも本当に死ぬのは怖い」という中途半端な遺書なんだなあ。しかも富野作品のように次の世代に引き継ぐこともなく、罪を詫びることもなく。そこらへんの視点の狭さが。群衆を描いていても、群衆は群衆と言う記号でしかなく、主人公を盛り立てるための道具でしかなく、死んだように見える。
魔女宅の群集はまだ生き生きしてたのに。戦争や震災の避難民を見るとガンダムF91の冒頭の群集の方がもっと生き生きしていた。生き生きと言うか生きるために必死にあがこうという感じ。今回の群集は何となく右往左往してるだけで生気が感じられない。ポニョの津波に飲まれた人たちも生気が無かったし。
本当に主人公の周りの個人主義しか描いてない。音響面でも二郎や菜穂子の声ばかり拾って、地震や火事の混乱の中でも群衆の声はあんまり拾われてないし。都合のいい部分だけ抜き出してる。
ハウルの動く城でも戦争の悲惨さを描いてるっていう道徳っぽいふりはしてるのに国家運営とか大衆の生活には興味が無くて、主人公の周辺しか描いてないひどい映画でした。
戦争や経済や天下国家を論じる空論めいた台詞はあるのに、「風立ちぬ」企画書には「描かなくてはならないのは個人である」って書いてる。個人主義で視野が狭くエゴイスティックだ。戦争論は添え物として利用するけど他人や社会に興味ない戦後老人の理想が伝わる。宮さんも戦場に行ったわけじゃないから戦記ものでのバーチャルな感覚しかないのか。


そういうわがまま男に尽くすのがロマンチックだと思って悲劇を消費する女性ファンもいるか?天地明察の妻もかなり夫の夢に尽くす系の妻でしたが。
しかし、風立ちぬの二郎は男社会で仕事をしているが、本当の友や仲間はいない。
同期はライバルだし、会社は夢の飛行機を作るための手駒だし、同じ夢の飛行機を試験して手伝うパイロット達と個人的友情も芽生えず、好きな作業に一人で没頭。死なせたパイロットに詫びもしない。
ただ、夢の世界で妄想のようなイタリア人航空技師だけを友とした。しかしそれも脳内友達に過ぎない気がして、本当にエゴの炸裂。


若いころは宮崎駿自身が若さの楽しみや元気を享受する若い主人公や子供の側に感情移入していれば成立したんだが、それが出来なくなってきた年齢なのに親になることを放棄してオタクでい続けたがったり母親に帰りたがったりしている宮崎駿、しかもそれを見て見ぬふりをしてオブラートにくるみ続けて言い訳をし続けて72歳まで生き続ける。


31歳の私にとって、老人は憎むべき相手なんだな。

  • 富野

富野監督のガンダムF91とかVガンダムとか∀ガンダムとか父親の生き汚さや母親の頼りにならなさ、男と女の無常とか生きることの苦しみを描いているので、そこが僕は好きなんですけど。
だから、富野ファンの私としては宮崎駿作品の都合のよさにはイラつくんですけど。
富野監督自身は意外とそういう所の都合のいいロマンチシズムには寛容なんだよなあ。

富野:すいません。「風立ちぬ」はもう見ちゃいました。


富野:凄い映画です。が、問題が一つだけあります。僕は宮崎さんとまったく同い年なんです。なので、採点が甘くなっているのかもしれない……んで、若い人たちの意見が聞きたい。稀有な映画です。

風立ちぬ」の肝は航空映画なんです。


富野:いいじゃないですか。我々の年代はあれだったんですよ。零戦をやるってことは。
シャア専用ニュース 富野由悠季、宮崎駿監督最新作「風立ちぬ」を絶賛! でも「崖の上のポニョ」「千と千尋の神隠し」は大嫌いと告白!

やっぱり、あの年代、戦争を幼児期に体験して少年期に戦記ものを読み、青年期を高度経済成長と共に過ごした世代にはああいうメカもののロマン、技術者バカに徹する気持ちよさの「航空映画」っていうジャンルはあるのかなあ。
富野本人は戦争技術者や第二次世界大戦の軍部に対して「海軍は船の中のことしか考えてなくて、現実の生活には興味のない人で、それは今の官僚やオウム真理教に通じる」って言ってるんだが。
そういう風に富野監督はオタク技術者や目先のことしか考えない官僚や企業人を批判してるんだが、若い人が宮崎駿作品のロマンを批判すると逆に富野監督は同世代人として宮崎駿を弁護するのが面白いところ。
普段はライバルとしてすごく宮崎駿監督に対して「若いスタッフに任せないからハウルの動く城は失敗作だ」みたいに言ってるのに。
僕は「なんだこの古臭いメロドラマみたいな唐突で都合のよい展開は。戦争や人生をナメてるのか」と思ってしまったのだが、富野監督からすると「我々の世代の航空映画はこうだから」と許容できるものかも知れない。


紅の豚の時の逆襲のシャア友の会でも

庵野秀明と富野由悠季 ふたりが見た宮崎アニメ『逆襲のシャア友の会』 | ジブリのせかい【スタジオジブリ非公式情報サイト】 宮崎駿・高畑勲・スタジオジブリ情報
庵野
豚という風に、自分を卑下しておきながらですね、真っ赤な飛行艇に乗ってタバコふかして、若いのと年相応のふたり(女性)が横にいるわけじゃないですか……。


富野:
ハァッハハハハハハハ。わかっちゃったよ、言ってる意味。僕には年齢的には同年代でしょ。僕にはわかっちゃうんだよ(気持ちが)、無条件で。「困ったもんだ」という感じで、怒る気もおこらない(笑)。


庵野
僕なんかが言うと、凄くおこがましいんですけど。富野さんの作品は(富野さん自身が)全裸で踊っている感じが出ていて、好きなんです(コブシを握っている)!
宮さんの最近の作品は「全裸の振りして、お前、パンツ履いてるじゃないか!」という感じが、もうキライでキライで。「その最後の一枚をお前は脱げよ!」というのがあるんですよ。


富野:
よくわかると言って、宮崎弁護をするつもりはないけどさ。おおむね、年を取るっていうことは、ああいうことなんだぜって………アッハハハハハハ………いや、失礼(笑)。

と、若い人が宮崎批判をすると逆に宮崎氏の自己理想化に対して弁護に回る富野監督の微妙な元同僚としての距離の取り方が面白いなあ。


ヒロインが主人公の夢を支えるために都合よく生きて死ぬのも、宮崎監督や富野監督が少年時代に見た戦後すぐのロマン映画の文脈なら許容範囲か?
しかし、風立ちぬの主人公が動機を少年時代に夢を母親に肯定されたことに求めたのと同じくらい、七十過ぎの映画監督が少年時代に見たロマン映画の焼き直しをするのはバカらしいと思う。生きてきた実感や意味が無く、老人の癖に無条件で愛された幼年期を懐かしむような醜い幼児退行に見える。
子供に戻りたいならさっさと死ね。甘ったれるな。
ちゃんと大人をやって見せろ!


と、富野監督のブレンパワードのクインシィ・イッサーが好きな僕とかは思っちゃいますけど、富野監督自身は年を取って大人をやって見せるのがしんどいということも分かっているから、宮さんの自己理想化についても「年を取るのはああいうことだ」と共感して弁護するという微妙な関係なのかなあ。

主人公の一代伝記で、編集の合間を夢と変な外人でつなぐってのが、杉井ギサブロー監督のこないだのグスコーブドリの伝記に似てたので、あの世代はこういうのが好きな年ごろなのか。

風立ちぬアニメはいろんなものをつぎはぎしてたけど、原作の菜穂子はスッキリまとまってるっぽいかもしれん。
ヒロインの動き方はぎこちなくて泣けなかったけど、CLANNADの渚っぽい「自分の命では夫を支えられないので精いっぱい応援して死ぬ」という部分があったかもしれない。
風立ちぬの菜穂子の扱いの雑さは二郎の伝記映画の中では妙に浮いていた気がしたけど、短編小説で見たらまとまりがいいかなー。劇場版CLANNADは古川渚と言う妻の死とラストシーンでの再会という所にまとまっていてよかった。渚の魔性の女っぽい誘い方に、風立ちぬの菜穂子も似ていたかもしれない。
でも、「生きて!」ってはっきり言う菜穂子はちょっと直球すぎたなー。
あと、夢を共有するっていうモチーフも似てますね。まあ、二郎さんは妻じゃなくて外人のおっさんとも共有してるわけだが。そこは独特な映画ですよね。

  • 追記モデグラ

でも、原作のモデルグラフィックス連載バージョンの宮崎駿の「風立ちぬ」だと菜穂子はちゃんと療養所でおとなしくしているんだよな。
そうやって愛する人に自分の作った飛行機を見てもらえない、っていうモデルグラフィックス版の哀愁の方が僕は好きかなあ。
アニメ版だと体に無理をして自宅や療養所や夫の家や療養所を行ったり来たりしてる。そんで、夫の仕事を支える感じで手を握って、夫が飛行機を完成させたら死にに戻る。っていうロマンス要素が付加されてる。薄幸のヒロインが結核の体で無理して好き勝手するところがけなげな映画に見えるのかなー?どうなのかなー?
会えない妻のために一人で仕事をして、完成したころには愛した人はいないのだ…。っていうモデルグラフィックスの妄想ノート版の哀愁でも映画になるような木はしたのだが、それも演出の選択か・・・。うーん。よくわからん。

  • 余談

あー、でも宮崎駿作品はすごい都合よくヒロインを扱ってるけど、ナウシカ萬画版の二番手三番手ヒロインのケチャがアスベルと雑にくっつくような所は逆に人間関係のままならなさの表現で味わい深いと思うなー。
やっぱりナウシカ萬画版が至高。クシャナ殿下がクシャナ様だし。
宮崎駿監督はスーパーアニメーターなのに、極北は個人の萬画って気がするのが私の感覚かなあ。
今回も女中が雑に結婚していくところの雑さが面白かったと思う。でも、「非処女は見たくない」という風になってて、やっぱり宮崎駿監督はロリコンなんだよなあ。

そういうわけで、「風立ちぬ」は言い訳がましく罪から逃れようとしていて、しかも全裸のふりをしてパンツを何枚も履いていく映画だったのだが、高畑勲監督の次回作「かぐや姫の物語」は予告編を見ると「着物を何枚も脱ぐ」という動画が描かれていたし、キャッチフレーズは「姫の犯した罪と罰。」なので、こちらで風立ちぬの敗者復活戦をしてくれることに期待。
やっぱりパクさんは頼りになるなあ。