玖足手帖-アニメブログ-

富野由悠季監督、出崎統監督、ガンダム作品を中心に、アニメ感想を書くブログです。

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ベルサイユのばら第25話「片恋のメヌエット」益良雄フェルゼン、女装オスカル恋の変遷出崎節

(1786年頃・オスカル満30歳)

原作愛蔵版上巻686P〜723Pまでの間。

  • フェルゼンの男前の上がり方

フェルゼンが帰ってきたぞーっ!
ハンス・アクセル・フォン・フェルゼン伯爵がアメリカ独立戦争から帰ってきたぞーっ!
と、対英外交でアメリカに戦争協力していたフェルゼン伯が原作と歴史を捻じ曲げて、2年以上も送れて帰った来たぞー!という、リトルバスターズRefrainのような、出崎統のアニメらしい男らしい帰還。夕日を背にして。
だが、出崎統リトルバスターズの映画版を作ることはない・・・無いんだ…。
原作でもフェルゼンが熱病にかかって帰国が遅れたという事は描写されていたのだが。
端正な貴公子だったフェルゼンが5年の従軍と2年の海外での闘病(精神的な葛藤も含む)を経て、宝島のジョン・シルバーのように乱れた軍服に伸ばしっぱなしの長髪といういでたち、挨拶代わりにマスケット銃で豪快に林檎を撃ちぬく、という非常に出崎統のアニメに出てくる男の中の男という益良雄ぶりに変貌して、オスカルとアンドレの前に帰還した!
ほんと、出崎統版のフェルゼンはカッコいい。声が野沢那智だし。

私は原作を読んでも宝塚を見ても、いまいちフェルゼンという男が「色男」という以上の濃度を持って理解できなかったのだけれど。単なる少女漫画のドラマを進めるためのツールとしての「イケメン」という描き割のように思えていたのだが。
少女漫画に出てくる「かっこいいし強いし地位も財産も学問もあるけど、恋に迷う色男」というテンプレートなキャラクターとしか思えなかった。女性作家が描いた、理想的なラブストーリーを盛り上げるためのキャラクターという感じで、池田理代子氏の作家的な若さを感じる。
おにいさまへ…もそうだが、池田理代子氏の若いころの貸本萬画家から雑誌作家になったくらいの粗削りな原作を、出崎統という経験のある演出家が男性目線も追加して演出した、と言うのがある。宝塚歌劇団バージョンの演出家の長谷川一夫先生もそういう所があるけど。
まあ、原作自体も完璧なオリジナルかと言うと、そうではなく、歴史に創作要素を加えたものなんだが。

ベルサイユのばら レディオスカル リキッドアイライナー

ベルサイユのばら レディオスカル リキッドアイライナー

まあいい。


マリー・アントワネットさまから距離を置くために私は逃げる」と言う、痴情のもつれを理由に、やや軽薄な(しかし真剣な)気持ちで戦場に渡ったフェルゼンが、戦場を経験してジョン・シルバーのように男らしい男に変貌した、と言うのがいい。作画の変化も含めて「7年ぶりだ」と言う年月の重みが伝わってくる。
フェルゼンが貴公子から戦場帰りの男に変貌した、ってのはオスカルたちが三十路になったというアダルトな雰囲気をさらに増している。原作のフェルゼンはアメリカ独立戦争に従軍したと言っても、歴史のプロフィールをなぞる程度で割とあっさりマリー・アントワネットの元に戻ってくる。熱病にかかって帰りが遅れた、と言うのは原作でもあるんだが、原作ではおそらく史実通り、首飾り事件の前にフェルゼンは帰ってきている。

  • なぜ、アニメ版のフェルゼンは帰国が2年遅れたのか

原作では首飾り事件の最中、フェルゼンは全く出番がない。マリー・アントワネットとオスカルの大ピンチだったのに、「わたしはアントワネットさまのために表立った行動はとれない」という外聞を重視した女々しい理由で原作のフェルゼンは何もしなかった。
原作のフェルゼンは首飾り事件の勃発前半で帰国して真っ先にマリー・アントワネットに会いに行って「けっしておそばをはなれますまい。ともに地獄におちようともおともつかまつります!」と気障なセリフを吐いたのだが、首飾り事件の時、本当に出番が無く何もしない。ジャンヌが「オスカルとマリー・アントワネットはレズの関係だったのです」と裁判で延べたり、逃亡して何年もかけてスキャンダラスな暴露本を書いてオスカルに討伐されるまで、フェルゼンは「マリー・アントワネットの力によって陸軍連隊長に任命される」と言う一言だけで、何にもしない。オスカルが忠言を述べたり、ポリニャック伯爵夫人が甘言をマリー・アントワネットに語っても、原作フェルゼンは出番がない。何年もかけて首飾り事件が終わってから、フェルゼンとやっと密会してから、今回のアニメ版で描かれたような忠言をフェルゼンが言う。それまで原作には一切出番がない。
これでは原作フェルゼンは女の権力で名ばかりの地位に甘んじている顔のきれいな案山子で飼いならされたヒモの男でしかない。レディースコミック的にはそういう都合のいいイケメンってのも女受けがいいのかもしれない。


アニメ版のフェルゼンは違う。男ぶりが上がっている。
池田理代子先生は歴史を勉強したり、読者の興味を引くようなドラマツルギーを駆使するミステリ作家的才能はあると思う。
でも、やっぱり、男から見たカッコイイ男の美学は出崎統の方に分があると思うなー。
ベルサイユのばらフェミニズムジェンダー論にも関わってきて、ここを突っ込むと私の方が女性読者からインターネットで炎上するので、フェミ論は地雷原なんだが。
私としてはフェミ論や「女性による革命」とかは哀しみのベラドンナの女子大生バージョンエンドと同じくらい理屈っぽくて糞だと思ってて、もっと感性に訴える精神的な確かさの方に芸術的価値を感じる。




ここら辺の、理屈を超えた出崎統演出って言うのは、別に池田理代子さんだけではなく、key2作品の麻枝准さんのゲーム的理屈っぽい世界観や、あさきゆめみしの歴史的フェミ理論古典とか、色々ある。あしたのジョー梶原一騎の必殺技の理屈っぽさもアニメ版の方が薄れてるし。だから、鍵ゲーは宝塚歌劇や劇画の巨匠に匹敵する名作。
ウルトラヴァイオレットの遺伝子がどうとか、って言うのは出崎統にしては理に走りすぎたなーって感じはある。


まあいい。


フェルゼンが2年遅れで帰ってきた、って言うのは上記のようにフェルゼンが首飾り事件で数年間も何もしない男だとリアリズムが無いと言う理論的な理由と、そんな男は出崎統の美学で考えれば描く価値もないという理由がある。
史実よりも作劇を優先する!(もちろん、それはフランス革命に存在するオスカルと言う架空の人物と言う点で、原作でも同じなんだが)
しかし、原作での首飾り事件での36pもの間、ジャンヌやロザリーやポリニャック夫人が色々としてるのに、フェルゼンが本当に何にもしてないって言うのは謎だし、フェルゼンが不誠実な人のように見える。だからアニメ版の2年遅れって言う後だしジャンケン演出らしい改変の方がフェルゼンの魅力を増している。連載の毎号数ページで群像劇をやらなければいけない原作に比べて、毎週30分で一つのテーマに取り組めるアニメとのメディアの違いもある。
出崎統の演出の改変はそのように、人間的感性を表現するのがすごく上手い。だから原作の理屈よりも感情的に盛り上がるのだが、その構成技術には理がある。
だが、それで出崎統には原作が必要ない、というと、そんなわけでもなく、やっぱり叩き台があった上で、って言うのはあるんだろうけど。設定や世界観をオリジナルで作る富野監督みたいなやり方は出崎統監督には合わないように思う。やっぱり出崎統は演出家だと思う。では作家性が無いか、と言うと、そんなわけでもないので色々と難しい。そう言う点で言えば、古典原作は出崎統に非常に合っているから源氏物語千年紀Genjiが源氏物語全てを描かずに終わったのは残念だが、絶筆感はすごく美しい作品なんだよなあ。


まあいい。

  • 死を超えたフェルゼン

そのように、首飾り事件でのフェルゼンの不在にきちんとした理屈をつけるためのように見えるフェルゼンの2年遅れの帰還であるが。
フェルゼン自身は割と筋が通らないことを言っている。最初はフランスのフェルゼン邸に向かう前にオスカルのジャルジェ邸に寄っただけと言ったが、オスカルとアンドレとばあやに引き止められて一泊させてもらって、次の日に「自分の屋敷に戻ると自分がフランスに戻ったことが公になる。王妃さまに知らせたくないから自分の屋敷に戻らず、ご厚意に甘えて何週間か君の屋敷に厄介になるよ」と、正反対なことを言っている。たぶん、アメリカに2年も経った一人で滞在していたのも単なる熱病ではないだろう。「寝たり起きたり」と言っているが、精神疾患もあったんではないだろうか。あるいは、フェルゼン特有の優柔不断さでずるずるとその時や周囲の都合でフラフラと宿泊を延長したり、旅をしたり、ほかに女性がいたのかもしれない。
このフラフラ感!戦場帰りらしい精神に傷を負ったような言い訳!
僕は原作のフェルゼンがフランスに居たのに何もしなかったって言うのは男らしくないしかっこ悪いと思う。でも、アニメのフェルゼンが戦場帰りの逞しさの裏にこういう優柔不断さや精神の不安定さを持っているのは男のみっともなさと同時に親近感を覚えるし、人物の描写として厚みがあると思う。


そもそも、アニメ版でフェルゼンがアメリカに行ったのは彼自身の自殺願望からなんだよな。

死への憧れ。恋に悩み、逃避していた彼に、アメリカ独立戦争で戦死した友の知らせは不幸ではなく、逆に吉報として聞こえたように動く演出。
ベルサイユのばら第20話 フェルゼン名残りの輪舞-ロンド・アウトロー- - 玖足手帖-アニメ&創作-

で、道ならぬ恋をフランスでするよりは、アメリカで死のう、と言う気持ちでフェルゼンは従軍したのだが、死にきれなかったのがアニメのフェルゼン。
死に場所を求めるようなキャラクターは出崎統作品ではよくある。で、死にたいんだけど死にきれなくて、かと言って居場所もなくてずるずると流されるように生きていく、っていうのも出崎統の男の描き方である。
死にたいって思っていても、オスカルにフランス料理を七年ぶりに振舞われて、野沢那智の量感のある声で「こんな素晴らしい友にかこまれて・・・ありがとう・・・。何もかも命さえも捨てて良いと思っていった戦場だったが・・・生きていて、良かった…」というフェルゼンの生命感!感動する!
僕自身も死にたいし、親が昨年自殺したし、死にたい人間が「生きていて良かった」という事の重みは身をもってわかる。


だから、フェルゼンが2年もだらだらアメリカに居たり、フランスの自分の屋敷に戻らず、スウェーデンの自宅に戻るでもなく、オスカルの家の居候になる、って言うのはフェルゼンの優柔不断だが生々しい生き方の描写なんだろうな。
同時に、出崎統らしい旅っぽさなんだよな!スウェーデンにまっすぐ帰ると旅が終わってしまうから。どこに行きたいわけでもないが、旅を終わらせたくないから旅をするというのも出崎統らしい。
すごくモラトリアムな感じがする。
「終わったんだ。終わって良かった恋だった。フランスへはそのことを自分自身にしっかりと確認するために立ち寄っただけだ。もう燃えない、もう燃え上がらないという事を」
って男らしくオスカルに言っているが、そういう事を確認するためにフラフラとしてること自体が、「終わりたくない」って感じの旅人の感覚だ。


そうやって、オスカルのジャルジェ邸で居候暮らしをして、オスカルと飲み語り、アンドレと馬を駆けさせるフェルゼンは生と死の狭間、貴族としての公務生活と戦場での死との間での夢のような理想のモラトリアム生活をしてるんだなあ。


そんな彼らの語らいに、パリ市民がマスケット銃で窓ガラスを割って入る。
ガラスを割る程度の威力しかない嫌がらせで、撃たれたアンドレも「パリの市民の帰属への嫌がらせですよ」と涼しい顔。むしろアンドレは「あなたがいない7年間にパリもフランスも少しずつ変わって言っているんですよ」とドヤ顔で言う。
アンドレは平民で平民に撃たれたのに、それを怒るのでもなく、フェルゼンに「あなたがいない7年間」と言って当てつけるのが、男のプライドと当て擦りと言う感じ。このフェルゼンとアンドレの表面上友好な恋敵っていう男同士の関係はすごく男から見てゾクゾクする。色々とギリギリの会話だなー。


それで、どんなふうにパリが変わったのか見たいとフェルゼンに言わせて、平民革命に賛同するアンドレがオスカルとフェルゼンをパリに案内する。
そこで、アコーディオンの詩人が「死ね!太った豚はみんな死ね!」と涙ながらに貴族への憎しみを爆発させる詩を詠む。
それを聞いて、3人のうち、フェルゼンだけが彼に振り返る。
そう、フェルゼンは貴族であり、モラトリアムで太ったニートであり、そして死にたい人間だからだ。詩人の声が一番突き刺さる。


そして、フェルゼンはモラトリアム生活を反省して、故国スウェーデンを捨てフランス王室の忠臣としてマリー・アントワネットに仕えると宣言してマリー・アントワネットに会いに行く。夢のような旅を続けていたフェルゼンはフランス市民のテロと、死と言う現実に向き合うのだ。
表面上はパリの危険を見て、「愛する人に迫る危険を黙って見ていることは私にはできない。せめてそばにいてあげたい」という男らしい理由である。そうオスカルに語った。
しかし、フェルゼンは死にたい人間であり、アメリカで身を以って新しい世代の熾る炎の勢いを知っているので、詩人の叫びを聞いて、「フランス革命に巻き込まれれば、死ねるかもしれない」と思ってフランス軍への編入を王妃に願い出た、と言う風にも見える。見えるだけで、はっきりしたヒントではない、と言う暗示的な演出。
今回のフェルゼンは戦場からそのまま帰ってきたような薄汚れた海賊のような乱れた長髪で現れ、ジャルジェ邸でのニート生活を経て、王妃の下で忠臣となり陸軍員数外大佐として公式の地位を得て、そして貴族として最初で最後の女装のオスカルとダンスをする。と言う風に、どんどんきれいになっていく変遷を描くわけだが。
そういう、変遷の一つ一つに、フェルゼンの「不倫の恋に悩んで死にたい」「でも死にきれない」「正義に殉じたい」「殉じて格好をつけて、やっぱり死にたい」という気持ちが表れてて、人間として深みを感じさせる。
今回はフェルゼンの回だな。
マリーアントワネットに、「私は知りました、激しく心を燃やすことの愚かさを・・・。
そしてその危険を・・・。もはや激しくは燃やしませぬ。
そのかわり静かにセーヌの流れの如く・・・永遠にあなたへの想いを、この胸にともしつづけるつもりでおります」
って今回フェルゼンは言うけど、それは本心っぽいんだが、フェルゼンは死にたいマンなので、そういう気持ちから出た精神疾患患者の自分でも嘘とは思っていない揺れた気持ちから出た言葉かもしれない。
「永遠」って言う言葉を言う時は本心と嘘の間に揺れてる時が多いような気がする。
レイモンド・チャンドラーのハードボイルド小説の「長いお別れ」でも美女のアイリーンが「私は夫を愛しています」「若い娘のような愛し方ではないかもしれません」って言うが。

  • 死にたい感のリアル

「フランス、万歳!」と言って死ぬテロリストを見る時、オスカルはベルサイユ宮殿の窓から王妃を警護する自分に向けて手を振るフェルゼンを思い出す。
オスカル自身も「こんな時に私は何を考えている!」と、かなり謎な演出なのだが、「きつい仕事の時に、自分に手を振ってくれたフェルゼンが支えになる」と言う気持ちなのか、「死にゆく青年革命家の目と、破れゆく貴族のフェルゼンの眼差しが連想された」という演出なのか?
しかし、それは語られない演出なのだ。
しかし、アニメのベルサイユのばらは原作よりも戦闘シーンが娯楽として多いのだが、それは長浜忠夫の前編からもだが、出崎統の頃になると死の臭いが非常に強くなっていると思う。
原作のフェルゼンは戦場に行った影響があまり匂わないけど、アニメのフェルゼンの戦場に行く前と帰ってきた後の不安定な心理描写から、死の現実感の重みは増している。
そして、ダラダラと生き続けていたフェルゼンが、渡り鳥のような生活をしていたフェルゼンが、夢のような旅の終着点として選んだのは死の臭いのするフランス革命前のベルサイユ、と言うのも情感がある。生きることは旅、旅の果ては死。旅は夢、現実と向き合うことは死と向き合うこと、後年の夢をテーマにした出崎統作品にも通じるテーマだ。
フェルゼンがマリー・アントワネットに「ポリニャック伯爵夫人や取り巻きとの付き合いをやめてください」「貴族だけでも味方につけておかねばなりません」と、忠言を言うのは原作通りなんだが、それが純粋な忠心や理性から出た物なのか、彼の死に場所探しなのか、謎だ。
だが、単純な正義感とか自由平等博愛で語る正しい言葉より、そう言う自殺願望とかエゴにつながった心の吐露を理屈で塗りたくって、自分でも嘘か真かわからない言葉の方が、人間臭くて描写としては濃度が高いと言える。

  • レディ・オスカルの芝居

フェルゼンの描写が原作よりも増したことがうれしくて、女性作家の原作の男性キャラクターをアレンジした男性演出家を見る男性視聴者、と言う入り組んだ感想を長々と述べたが。
そんな風にフェルゼンという異国の貴公子の一つの旅の帰結を1話かけて描いた25話だが。それだけでもかなりカロリーが高いのだが、その終わり際の2分で、オスカル・フランソワ・ド・ジャルジェは異国の伯爵夫人と偽って舞踏会に出席する。レディー・オスカルとしてファンに名高い名場面だ。
名場面だが、フェルゼンについて長々と書きすぎたので、もう飽きた。寝るべき。
なんでオスカルがこんな事をしたのかもかなり謎なんだが。
原作では、黒い騎士の関係でフェルゼン邸に捜査に行ったオスカルがフェルゼンに「わたしのぶんもアントワネットさまを守ってさしあげてくれ」って言われて、フェルゼンの妹に「ムッシュウ」って言われて、オスカルは「おまえの心の中にはほんのわずかさえもわたしのはいれるすきまはないのか」「あきらめられるときがくるのか!?」と、「男装の麗人」らしいトランスジェンダーっぽい悩みをあきらめるために女装してフェルゼンと踊って、「あきらめらる・・・」と言う流れなんだが。
しかし、それでは「私の分もマリー・アントワネット様を守ってさしあげてくれ」っていうフェルゼンはあまりにもオスカルを男扱いしすぎているし、フェルゼン自身が男らしさが足りなさすぎる。
カカシのイケメンと実力のある女性との恋の葛藤、というのがフェニミズムの流れにあった70年代の原作のニュアンスなのだろうか。


私はシスコンなので、非常にこの点についてはうるさいのだが、アニメではフェルゼンの妹のソフィアは出てこない。このソフィア嬢は貴族の子女として男性社会に上手く組み込まれている美女でキラキラしていて「ああいうタイプの方は長生きはなさらないわ」と最終回への(かなり失礼な)伏線を言いつつ、キャリアウーマンとしてのオスカルと対比する女らしさの象徴みたいなキャラクターだ。
出崎統はそういうフェミニズム論を盛り上げるためのキャラクターは出さない。
まあ、妹キャラはロザリーとかシャルロットとかがいますんで。


原作ではフェルゼンは舞踏会でレディー・オスカルを自分では見つけず、舞踏会見物にパリに旅行に来ていた妹のソフィアが「おにいさま ほら!」「ごらんになって」と言ったから、オスカルを見る、と言う無能ぶり。オスカルを誘う時も、オスカルからの熱視線を受けて、と言う風な描写だ。なんか冷や汗をかいてるし。
アニメではフェルゼンは自分から「どこかで見たことがある」と、近づいていった。で、オスカルは近づいてきたフェルゼンを一度無視するんだよ!!!!この、アニメオスカルの精いっぱいのプライドな!プライドは男らしいよな!
で、アニメフェルゼンは一回振られたのに、背後から「奥様、一曲。是非」と声をかけるのだ。野沢那智ボイスなので、原作の無能なイケメンって感じではなく、男らしさが増している。
やっぱり出崎統肉食系男子だなー。場慣れてるなー。これは女性作家には書けないだろーーー。いや、後出し演出なんだが。
原作のフェルゼンはなよなよしてるんだけど、野沢那智ボイスはすごく男らしいよー。堂々として聞こえる。
あと、オスカルがフェルゼンからの誘いを背後で受ける、って言うのは、「フェルゼンからの誘いを受けたオスカルの嬉しそうな顔は絵にも描けない表情なので、描かない」という演出技法でもある。
原作だと、マンガ媒体だし、紙面の中でセリフのない中で視線に訴えてオスカルがアプローチして、オスカルの顔の表情の機微で盛り上がりを出す、という手法で、これも萬画としては非常に緊迫感がある。なにしろ、マンガの持ち味であるセリフと擬音を使わず、マンガのもう一つの持ち味である顔の表情と背景の集中線や点描の迫力だけで恋心を盛り上げるという所だ。これは結構、池田理代子先生がチャレンジしたページだと思う。
逆に、アニメは線画では劣るのでオスカルの嬉しい表情の機微は描かない。でも、演奏と声優と入射光などの演出は駆使する。そういう所でメディアの違いを考えてあるなー。
レディー・オスカルの着替えのシーンは原作だと段取り臭くて、アンドレに披露してからフェルゼンに披露するんだが、アニメだとアンドレはレディー・オスカルを見たら、嘆息してただひたすら周りが透過光でキラキラする。そのキラキラのまま、舞踏会はずっと輝いていて、フェルゼンとのダンスのシーンでは星空のような透過光の美しさ。


で、原作のフェルゼンはドレス姿のオスカルの美しさに押されて、伯爵夫人に扮したオスカルに語りかける、と言う風にリードされたイケメンと言う感じ。もちろん、地位も名誉もあるイケメンをリードしたい、という女性の願望もあるだろうし、そんなイケメンをリードしたい一方、女として大事に扱われたい、という願望もある、というわけで、原作からして結構複雑なオスカルのシーンだが。


しかし、アニメでは原作通りにオスカルを語るフェルゼンの言葉はどこか茶番劇と言うか、芝居がかって聞こえるという面もある。いや、本心もあるんだろうけど。野沢那智の良い声が非常に張っているし、舞踏会だし、音楽も盛り上がっているし、宝塚歌劇でも見せ場になるシーンなんだが。逆に、それが芝居っぽい。
美辞麗句でオスカルを語るフェルゼン、どこか嘘っぽい。
「あなたにたいへんよく似た人を知っているのです」(オスカルの目、カットイン)「心やさしく教養も高い。そう、自分の思想のためには命もかけるような、そんなひとで、普段は金モールの軍服に香る肌を包み、さながら氷の花のように男性の眼差しを拒む・・・」
非常に詩的だが、嘘っぽいというか、芝居として、わかった上で作って礼儀というかお世辞と言うか儀礼的に言っているような、そんなニュアンスを私は感じた。
こういう感覚はすごく曖昧なんで私も上手く言えないんだが。少女漫画のセリフどおりなので、こういう甘ったるい美辞麗句は少女漫画らしさだと言えるんだが、野沢那智のアダルティーな演技が加わると、それはオスカルの美しさに感嘆して本心から言う、と言うよりはもう一枚考えがあって言っているような感じがある。アニメフェルゼンはオスカルを対等な友人として扱っているので、逆にオスカルが女の正装をして自分の目の前に現れた時、「彼女の気持ちに区切りをつけてやらねば、その覚悟に報いるダンスをしてやらねば」と、思ったのではないだろうか?アニメのフェルゼンは原作の難聴で鈍感なイケメンと違い、肉食系の嗅覚が強い男。だからレディー・オスカルがオスカル・フランソワだと半分は見抜いて、その上で責任感と礼儀と友情から、そのようにほめたたえたのでは?


社交ダンスなので、二人の関係はくるくると変わるんだが。だんだんと背景が薄れ、踊る二人だけの描写になる。この斜めってキラキラしてる感じが、非常に機動戦士ガンダムララァの死に際の時が見える時の対話みたいな漢字で、一世一代の思い切った恋って感じ。
フェルゼンがオスカルについて伯爵夫人姿(人妻と言う設定を作るのがまた女の子らしくていいよね)のオスカル本人に語るとき、フェルゼンの顔は見切れていたり、俯瞰だったりロングフォーカスだったりする。フェルゼン本人の表情はあんまり見えなくて、野沢那智の朗読が音楽に合わせて続き、美しいのだが、どこか予定調和で芝居がかった人形劇のようなアニメ。宝塚や原作で、この場面がロマンチックな名場面とされていることを逆手に取ったようなトリッキーな感覚もある。
そして、「私の一番大切な美しい友達」と、最後に原作にはない台詞をつけ足す時は上手から見下ろすようにオスカルに言う。キラキラと輝いて、堂々と、言い切る。
映像の原則だ!!!この原作にない一言が、フェルゼンが茶番劇の中に、歌劇団的盛り上がりのお約束のロマンチックなシーンの中に滑り込ませた現実的本心のように、映像の原則的には見える。

そこで、それを聞いたオスカルは動揺し、シャンデリアが揺らぎ、ステップを踏み外す。「友達宣言」でがっかり来て転ぶが、そこをフェルゼンの男らしいたくましい手が彼女を支える。出崎統の3回パン集中線付きで!オスカルにとって、友達宣言でガッカリしたあとに、背中を抱いてもらうというご褒美が畳みかけられる感じで、頭がワーってなる。
「これは、失礼を」というフェルゼン。この他人のふりをした友達宣言と、他人行儀な振りをした謝罪は、嘘の会話の中で、逆にフェルゼンは本心を語って、オスカルは着飾っているけど裸の身一つできている、という倒錯した美しさがあるように思える。
転倒せず支えてもらった後、オスカルはうっとりして、二人の左右の位置関係が逆になる。
オスカルは上手の下からフェルゼンを見上げ、フェルゼンは下手の上から「もしや、あなたは・・・」と言う。
「一番大切な友達」が上手からの本心の象徴だとしたら、下手からの2回の「もしや、あなたは・・・」はお芝居としてのお約束として二人のダンスシーンをフェルゼンが打ち切るために作ったセリフかもしれない。そう考えると、戦場と放浪を経たフェルゼンはかなり女の扱いが上手くなっていると言えるし、原作のヘタレとは違うかもしれない。
そして、オスカルは去り、「あきらめられる・・・」と泣く。
原作のオスカルは一度でも女として扱って貰ったから、あきらめる。アニメのオスカルは面と向かって「おまえは友達だ」と言われたからあきらめられる。
ここら辺の甘えさせてもらいたいけど、甘えっぱなしは嫌だって言う女性的感性と、互いのメンツと仁義の通し方を優先してあえて芝居を演じる男性的演出とはまた違うんだろうけど。
でも、やっぱり出崎統は演出家だから零からこういうストーリーは作れなかっただろうし、たたき台としての原作は大事だと思う。全然別の意味のかえちゃったとしても。


ブラック・ジャックはハッキリ言ってほとんどオリジナルですが、手塚治虫先生は神すぎるので、叩き台として叩きまくって別物にしても、ブラック・ジャックブラック・ジャックなのだ。

  • まとめ

フェルゼンは原作よりもヘタレ度合いが減っている。
舞踏会でフェルゼンと踊るオスカルの女装は、20話でマリー・アントワネットと踊るオスカルの男装と対になっている。どちらもフェルゼンの旅に絡んだ回。
アニメは後だしジャンケンなので週刊連載で読者の反応をうかがいながら少しずつ作った原作よりも整理されている。
アニメは原作と舞台の人気にあやかって、自信をもって作っているので、少女マンガ雑誌に載った時のようなロザリーの活躍が減っていたり、わかりやすい解説キャラクターが減り、アダルティな雰囲気が増している。
説明セリフが減り、イメージ演出が増え、主人公たちの言っていることも本心と嘘と礼儀と退廃が混ざっている。
原作萬画や宝塚での見せ場を意識した演出があるが、逆に「見せ場の虚構性」を陰翳としてそこに隠された本心が浮き上がるような、微妙なテンポで演出している。

だが、そのすべてが明らかになることはないだろう。








以下、愚痴


  • 何のためでもなく、ただ生きるために

このブログの「どうでもいい身辺雑記」に並ぶメインコンテンツの富野由悠季アニメと出崎統アニメの感想文だが、ここ半年ほど、精神的に不調であり、寝たり、起きたり、そうしていてメインコンテンツとなるアニメも見てこなかった。
考えれば、富野や出崎統のアニメを本気になって見始めたのは、大学の時に鬱病が悪化して何年も休学していたのが、復学するために元気を出すために毎日富野アニメを1話見る習慣をつけたからだ。健康法である。
富野由悠季出崎統のアニメを見ると元気が出る。なんというか、生命力が分け与えられるようなんだな。内容が過酷であっても。
EMDR(イーエムディーアール、Eye Movement Desensitization and Reprocessing;眼球運動による脱感作および再処理法)という心理療法があって、トラウマを追体験するようなアニメを見ながら眼球を左右に動かすというのは医科学的に効果があるものだったのかもしれない。
そうやって何とか気力を振り絞って国立大学を卒業したのだが、結局KLab株式会社のようなブラック企業にしか就職できず、そこも過労で退職し、精神障碍者雇用で京都大学の事務員になったがそこでも人間関係が悪化し、鬱病が悪化し、薄給で、母親が自殺し、団塊職員を守るための若年有期雇用切りで無職になった。

大学を出ても働いても、金も、親も、家族も、何も残らなかった。
若いころは大学を卒業したり労働するためのやる気を出すためにアニメを見て感想を書いて自分を鼓舞する、という目標があった。
今は、それが無い。
それで、母親の一周忌が過ぎても母親を自殺に追い込むほど冷たい人間であった自分や、そんな風に生きていても何も得られなかった自分の糞ぶりや、社会への恐怖で、頭がいっぱいになり、毎日無意味に泣いて寝たり起きたり、鬱病が悪化してブログを書く気力も、ブログを書きたくなるような濃厚なアニメを見ようという気分にもならず、アニメをさぼっていた。
ハッキリ言って死にたいし、無意識的にも死にたい衝動が付いて回る。
死んでいるのと同じような状態だ。
遺された家人と会話する気力もなく、壊れた睡眠リズムや自律神経を薬で抑え、おにいさまへ・・・のサン・ジュストさまを醜い雄の豚にしたような寝たきりの生活をしていた。
だから、逆に、もう、何かを得るためではなく、ただ生きるために出崎統のアニメを見よう、と、そういう心境になったのである。
もちろん、少女革命ウテナを見るためでもあるんだが。
しかし、仕事も家族も才能も財産もなく、何の守るべきものも理由もなく、生きる気力を得るためにアニメを見るしかない、と言うのは、本当に無意味で追い詰められているな、という恐怖感はある。
だが、先日ガンで亡くなったid:str017さんのように、死んだらアニメを見ることもできない。だからアニメを見る。
しかし、鬱病が悪化しているので、やはりアニメを見たらすぐに気力充実するわけではなく、この文章をタイプする指も、剣山を触るように氷水で指を切るように痛い。精神障碍による身体化障害で精神のストレスや疲労感が疑似的に痛みになるのだ。
だから、やっぱりそんなちゃんとした長文は書けないです。今回もフェルゼンにばかり注目してアンドレの心情とか切り捨てたし。不十分で中途半端な感想…。まあ、素人の感想だからこんなもんですが。