順番的には天海春香とプロデューサーの劇場版での関係を考察するのが先だが、ガイナックス系アニメのキルラキルが面白いことになってきたので、GAINAX系アニメとしてのTHE IDOLM@STERアニメについて考えてみたい。
特に面白かったのは、このアニマスの主人公天海春香と映画で登場した後輩の矢吹可奈の関係性が、ステラ女学院のそのらとゆらに重なった所です。
- クズ主人公の自信と言う軸
可奈はホント、クズヒロインと言われても仕方のない、メンタルの弱い子なんだが、それがステラ女学院高等科C3部の大和ゆらに重なりました。ステラのゆらも部活で失敗したりダメな方向に頑張って勝手にサボったりして、ネットでさんざんクズ呼ばわりされた。
それで、先輩後輩の人間関係が問題になったのはTHE IDOLM@STER MOVIE 輝きの向こう側へ!もC3部も似てる。で、それだけだと、「あー、またクズヒロインかよー」ってだけなんですが、ガイナックスのスタッフワーク(人事)っていう視点で見ると、THE IDOLM@STER MOVIEは、ステラ女学院とキルラキルのミッシングリンクの位置にハマってくるんです。そこがすごく面白いな、と。
基本的な前提知識としては、
THE IDOLM@STERアニメの錦織敦史監督がガイナックス出身という事。
まほろまてぃっく (2001年、原画・OP原画)
まほろまてぃっく〜もっと美しいもの〜 (2002年-2003年、作画監督補・原画)
まほろまてぃっく特別編 ただいま◆おかえり (2009年、第二原画・OP絵コンテ・演出・作画監督・原画)
アベノ橋魔法☆商店街 (2002年、原画)
ぷちぷり*ユーシィ (2002年-2003年、作画監督)
この醜くも美しい世界 (2004年、絵コンテ・作画監督・原画・OP絵コンテ・演出・原画)
これが私のご主人様 (2005年、原画/OP原画)
天元突破グレンラガン (2007年、キャラクターデザイン・作画監督・原画・アイキャッチ・OP絵コンテ)
屍姫 赫 (2008年、OP原画)
パンティ&ストッキングwithガーターベルト (2010年、メインキャラクターデザイン・絵コンテ・演出・作画監督)
THE IDOLM@STER (2011年、監督・キャラクターデザイン・シリーズ構成・脚本・作画監督・絵コンテ・演出・原画・OP絵コンテ/演出/作画監督/原画・ED絵コンテ/演出/レイアウト/原画)
ガイナックス若手アニメーター紹介インタビュー
http://www.style.fm/as/01_talk/gaina02.shtml
平松 ゴリ(錦織)君は、そういうロジカルなところを持ちながら、感覚的なところをすっと筆に定着できるような原画マンになれたら最高だなと思います。
―― 今石さんから最後に一言。
今石 そうですね。頭いいから、ほっといてもいいや、っていうのはあるんですけどね。自分で考えてやる人間だから。
錦織 そうですね。自分の道は自分で切り開く。あんま他人におんぶで抱っこは嫌だな、と。
今石 キター!(笑) そういう人間だから場を与えるだけでいいかな。後は考えてくれと。
キルラキルを作っているトリガーというアニメ会社は
グレンラガン制作スタッフが中心になって起こした会社です
ただしキャラクターデザインはグレンとは別の人がやってます
グレンラガンのキャラデザをしていた錦織敦史氏は
今はアイドルマスターの映画の監督やってますから
そっちが忙しくて参加できなかったんでしょうねまーあ、TVアニメのアイマスの時もトリガーのスタッフが
制作の手伝いをしていたりいていたので今でも深い繋がりはあると思いますが・・・
キルラキルは天元突破グレンラガンとスタッフが同じなんですよね。イラ... - Yahoo!知恵袋
天元突破グレンラガンも師弟関係、先輩後輩関係のドラマだったんですが。
ガイナックスのアニメというと、
アニプレッションのおはぎさんが
ガイナックスのアニメ群が自己言及的な傾向がとても強いのは、初めて制作した「王立宇宙軍」からしてスタッフ達の状況などを踏まえて作った、とても自己言及的な作品だったから。そして王立以降も監督をカウンセリングして企画を立てる為、自己言及的側面の作品が続いたのだと思う。
冒険野郎マクガイヤーの人生思うが侭ブログ版:岡田斗司夫の「遺言」第三章
初期ガイナックスはいわば「カウンセリング技法」というもので作品を作っていた。これは監督を初めとする中心的なスタッフと「何を作りたいのか」「何が疑問なのか」「何を作るべきなのか」等々についてカウンセリング的な問答を繰り返し、答えを引き出すという方法。「例えばそれはこういうことだよね?」と挙げた具体例が違っていても、それが補助線になる。未だにこういう作り方でやっていると思う
と言うわけで、スタッフを擬人化(アニメキャラクター化)してアニメにする傾向があるわけです。
で、ガイナックス(ステラ女学院)
↓
カラー(ヱヴァンゲリヲン)&トリガー(キルラキル)
という人の流れの間に、枝分かれ的にTHE IDOLM@STERがハマるわけですね。
ガイナックスの岡田斗司夫・庵野秀明監督・鶴巻和哉世代→平松禎史、今石洋之世代→錦織敦史監督世代→川尻将由監督世代という階層があるわけで、キルラキルとステラの間にアニマスがハマるってのが面白くて、それが「ルーザーの物語」というキーワードで共鳴してるのが、また面白い。
http://anifav.com/special/20131104_2282.html
川尻:まずは「サバゲーというものをどういうふうに捉えようか?」という話をしていきました。サバゲーは何か世界的な競技大会があるというわけでもないんですね。なのでもっと精神的な、武道的な感じでサバゲーというものを捉えよう、という話にそこではなりました。
僕のほうでは、自分だったらどんな作品が作りたいのか? と考えたときに、主人公がルーザー(敗北者)な作品を作りたいと思ったんです。
――「主人公がルーザーである」というところが、企画そのもののコアとしてかなり重要だったんですね。
川尻:これは僕の持論なんですけど、エンターテインメント作品には、華やかで輝かしい、こんな世界に行ってみたい思わせるものと、今現実で実際にある問題を打開するための何か教訓というか、その作品のキャラクターの性格とかに共感を得るようなものの2種類があると思っているんです。僕は子供のころから、華やかしい世界を描いた作品を観るとプレッシャーを感じてたんです。
「俺の青春はそんなんじゃないしな」と感じてしまう(笑)。だから自分が作るのであれば、それとはちょっと違う、自分の感じた気持ちが出るような作品にしたいという気持ちがありました。初監督作品でもありますしね。
――監督ご自身の気持ちをフィルムにしたかった、と。
ステラ女学院好きのまっつねさんのブログで、ガイナックス系アニメの話をしてて面白いんで引用します。
●キルラキル
ああ、今石さんはこんな、
こんな、「ステラ女学院」の続編みたいなもの
を作っていらっしゃったんですか
俺には纏 流子の
声は俺には沢城みゆきに聞こえる
そう、そのら声に・・・・・・
いや、ひょっとしたら、どちらも今石さんをモチーフにしたキャラだからかもしれない。
声も性格も何もかも、流子とそのらは非常に似ているように俺には見える。
ちなみに、友達のたまこちゃん
この子
愛川マキですね。
その他、相変わらず、今石さんは自分の好きなものを
全部盛りで入れ込んでいるわけです。
ステラ女学院は、転校していく今石さんを描いていた。
そして今石さんはキルラキルを「転校してくる主人公」ではじめた!
これは事象としては同じこと。
ガイナックス側から見れば、別会社にいってしまう今石さんであり
トリガー・今石さん側見れば、新しい会社へ来た今石さんなのだ。
もし、ステラ女学院がなかったら、作画やパロでしかこのキルラキルを楽しめなかったかもしれない。
でも、ステラ女学院を見た後だと分かる。
今石さんのガイナックスを出た喜びと不安と緊張が
というわけで、ありがとう川尻将由監督
この画像で面白い所は、THE IDOLM@STERでは後輩の矢吹可奈
の顔、髪型が鹿島そのらや流子に近くて、
先輩の天海春香さんの前髪のそろえた感じが、キルラキルの満艦飾マコや愛川マキに近いという所でもあります。
(ソーシャルゲームとアニメは企画が全然違うので多分偶然)
(だが、髪型はキャラの記号として重要ではある)
(春香の髪型はマキやマコ系の脇役の記号の地味子だが、本体のリボンを付けることで福沢祐巳や鹿目まどかのようなダブルリボン主人公の系譜となる)
キルラキルとステラ女学院の関係だと、まっつねさんはもう二つ記事があって、
ステラ女学院12話〜満足と不満足の狭間で、清算〜 - まっつねのアニメとか作画とか
ステラ12話は、それに近かった。やりたかったのは物語ではなく表現。
では、彼らがやりたかった表現とは何なのか
★トリガーとの決別
7話から前回までというのは、
80年代からエヴァのある90年代、そしてフリクリくらいまでの、
ガイナックスでした。
ゆら=川尻監督
という私的で自己言及的な物語の裏の構造は
もとは「究極のコピーバンド」と言われていたガイナックスの、
まさにガイナックスらしさ「ガイナックスの模倣」「富野の模倣」「宮崎駿の模倣」
などの模倣。
そして11話において、ゆらはエヴァの「おめでとう」であり
フリクリの「中学生」なりになった。
では、その先を描かれるものは何か。
それは、00年代のガイナックスであり、
今石洋之であり、吉成曜であり、現トリガーだ。
特に対全校生徒は天の光は全て敵
を彷彿とさせた。
今石監督が、グレンラガン最終話では「天の光は全て星(=仲間)」と、
したその変遷に対して、
ステラではまず、グレンラガンの1話の域に到達しようとした
とみることができる。
ゆらが川尻監督なら、そのらは今石監督なのだ。
その様はカミナ=庵野監督、シモン=今石監督
だったように。
その今石監督も。もうガイナックスにはいないし、
そのらはもうC3部にはいない。
それを受け入れて、このガイナックスで作っていかなければならない。
ステラ女学院はそのための清算なのだ。
そう考えるとラストのそのらの台詞の「だから、お前らが来い!」
も印象的で。
つまり、これは今石さんが
「(ガイナックスに残ってる)お前らが(トリガー)に来い!」
っていっているように聞こえるわけです。
ステラ女学院から見るキルラキル3話、キルラキル3話から見るステラ女学院 - まっつねのアニメとか作画とか
「自分を認め、他人を認めろ、そうすれば世界の全ては・・・(ゆら「自分の居場所」)」というのを思い出したからだ。
他人を認める=鮮血の形を認める
自分を認める=自分のおっぱいに自信を持つ
この二つを満たして、初めて、
一体になることが出来る、そういう風に感じた。
ステラ女学院は、
ゆらがこのことに気づくまでの物語であった。
ゆらは自分が認められないし、だから他人を認めることも出来ない。
それに気づくまでの話。
それに対して、キルラキルはこの問題を3話にして超えてきた。
流子はすぐに気が付いた。
それはなぜか。
ゆら=川尻監督
流子=今石監督
と見て、それぞれのパーソナリティの差、と見ることは確かに出来る。
ただ、それだけかというとそれは思えない。
鍵はマコそして皐月。
つまり、流子は友人のマコにおっぱいを承認されることによって
「自分を認める」きっかけを得た。
皐月の
「それを俗な価値基準で恥じるなど、まさに己の小ささの証明!」
という言葉も、流子へのヒントになっただろう。
あるいは、もしマコが現れなかったら、
教師の美木杉がそれを示唆したかもしれない
(彼も流子を助けにいこうとしていた)
しかし、ゆらにはマコのような友人はいなかったし、
皐月のような好敵手もいなかった。
美木杉のような教師もいなかった。
そのらは彼女を導けなかった。
そういうものがいない彼女は、自分でそれを乗り越えなければならない。
だから、彼女には11話という時間が必要だった。
これを「ゆら=川尻監督、流子=今石監督」という図式に戻すとどうか。
今石監督には、庵野さんや鶴巻さんを始めとした先生がいた。
ステラ女学院では描かれなかった、「対全校生徒」。
その先の先が、キルラキルでは見れるのかもしれない。
力石がジョーの先をいく「明日のジョー」であるのと同様に
今石監督が川尻監督の先をいく「明日」であれば。
で、THE IDOLM@STER劇場版はまさに、矢吹可奈がゆらみたいなルーザーになって練習をサボって、同期と溝を深めた所を、天海春香という先輩兼仲間に引き戻してもらって、自分を再度認める話なんですよ。
ここで、天海春香の髪型ビジュアルが満艦飾マコに似てると言うのが地味に効いている。キルラキルで流子を励まして自分を認めるきっかけになったマコの演説と、天海春香の説得は似たようなものなんですよね。
それで、本当は先に書いておきたかったんだけど、春香は赤羽根プロデューサーから託された思いの後押しで加奈を説得するという図式もある。
キルラキルのマコは流子ちゃんのおっぱいを肯定することで、流子の自信を取り戻させたけど。
それに対してアイマス映画はもう一段階ひねってあって、春香はプロポーションが崩れてアイドルとしてキラキラしなくなってしまった可奈に対して、「自分と同じようにアイドルに憧れる可奈を肯定することで、春香自身も自己肯定して後悔したくない」というスタンスで説得してるんだな。
そこがステラの、そのらとゆらの間の遠い距離感と、マコと流子の近い距離感の中間くらいの距離感の人間関係として、春香と可奈がハマる。
春香はマコほどアホと言うか勢いがないが、そのらほど自信があるわけでもない、だから、春香が可奈に対してアプローチをしていいのか、うぬぼれてもいいのか?って春香が自問自答する女の子同士の距離感を詰めようかどうしようか、と揺れるのがTHE IDOLM@STER劇場版の中盤のシリアス展開の妙味なんですね。ここら辺の揺れた感じはホント百合っぽくて良いです。レズとか恋愛じゃないんだけど、「相手に対して特別な相手になっていいのかしら?」という揺れ方はホント百合。(春香の百合性については別項)
そういうわけで、キルラキルで流子(今石監督)をある意味で導くトリックスター的なマコは友人であると同時に庵野秀明系の導き手の要素もあると見れる。で、アイマスの春香も可奈と同じステージに立つ仲間でありつつ、プロデューサーという先輩や師匠から受け継いだ心を以って可奈(ルーザー)を助けるという構図だ、とも読める。
そこで、今石監督や川尻監督が結構主人公の女子に自己投影している(と、まっつねさんは読んでいる)ような構図でありつつ、対してアイドルマスターの錦織監督は春香と可奈のドラマからは一歩引いて俯瞰的に物語を作ってるな、と言う雰囲気があるのも面白い。やっぱり、錦織監督はアニメーターでありつつも監督もやるという事で、理詰めでディレクションしてる部分がある。その距離感が、アイマスの「直接女の子に感情移入するのではなく、プロデューサーを介して関わる」という特異な部分を活かしている。男性監督が女の子同士の人間関係に介入するにあたって、プロデューサーというワンクッションを置いているのが百合に対する男性創作者のスタンスとして一つの回答になってる。
THE IDOLM@STER劇場版はアイドル映画、ショー映画であると同時に、すごく「人間関係だけで構築した人間ドラマ」っていう側面があって、それはまっつねさんではない他のブログさんも指摘している。
少女達の不安と後悔 -劇場版アイドルマスター輝きの向こう側へ 感想その1 | 内科部長室
北沢志保は心配するあまり未来への不安に捕らわれていました。
矢吹可奈は心配するあまり過去への後悔に捕らわれていました。でも、過去は変えられないのです。
でも、未来はわからないのです。
彼女たちはいま一度そうした気持ちに正対することを要求されます。
そして自分を認めること。
人生は人間関係です。そして人間関係で最も重要なのは自己との関係です。
自分自身との関係。自分の気持ちに正直になること。自分を認めること。そして正当な意味で自分を好きになること。これこそがあらゆる人間関係のスタートなのです。
彼女たちが自分自身と正対し、ありのままの自分の感情と希望を認めた瞬間に新たな認知の世界が広がります。
そして自分自身との関係性を修復した瞬間から、他者との関係性の修復が始まります。
ステラ女学院とキルラキルと同じ話ですね!
だから、そのら&流子=今石監督、ゆら&矢吹可奈=川尻監督、という図式の間に、
マコ&天海春香(を通したプロデューサー)=錦織監督というピースがハマって、ガイナックスアニメの系譜として見てもTHE IDOLM@STER MOVIEは面白みがあるなーと思うわけです。
劇場版アイドルマスターのバックダンサー組の不協和音はC3部の人間関係の不協和音に重なる。対して765プロの結束は明星女学園ともいえる。
そこでまたまっつねさんの記事で面白いのが
ステラ女学院10話 凛の正体と判断〜大佐と大尉と少佐の狭間〜 - まっつねのアニメとか作画とか
ステラ10話を見たときに、強く感じたのが凛はネオジオンのシャアほどはクズではなかった
ということだった。
「前回の戦いを踏まえて判断したの、それ以上でもそれ以下でもありません」なにげない台詞のように見えますが、
この「それ以上でもそれ以下でもありません」という
厳密には日本語としておかしい表現。
これはいわば「アニメオタク間の符合」なのです。
そう
「今の私は、クワトロ・バジーナ大尉だ。それ以上でも、それ以下でもない」
これ!
「 もしかしたら、もっと良い方法があるのかもだけど でも・・・私は天海春香だから。」
クワトロ大尉と同じ!!!
ただ、クワトロ大尉は壊れるカミーユやレコアに手を差し伸べず、(劇場版Zガンダムではカミーユは他の女とくっついて勝手に助かった)ハマーン戦役から逃げ、大佐になってナナイを利用しクェスをマシーンにしたので、クズなんですが。
天海春香はその後に「私は今、このメンバーのリーダーだけどその前にやっぱり私だから、全員で走り抜きたい。」って、ひねくれているシャアは絶対に口にしないような事を言う。仲間意識やリーダー意識を持って「自分が立つためには他人が必要だ」って相手に本気で言って同じステージに立つのが春香さん。クェスに「行くかい?」と言ってネオジオンに行かせておいてマシーンにして放置するのがシャア。あと、シャアはネオジオンの官僚やナナイに対しても「これでは道化だよ」とか「私はあこぎなことをやっている」とか自嘲して距離を置いてるので、ほんとシャアはどうしようもないので、アムロさんが殴るしかない。
そういうわけで、「私は私だ」って言いつつ女の子をちゃんと汲み取る春香さんは、クワトロ大尉というか、スパロボでハマーンをきちんと説得して仲間にする「きれいなクワトロ」と言えますね。
まあ、シャアのプロデューサーのネオジオンのホルストと、春香のプロデューサーの765プロの赤羽根Pだと、信頼関係が全然違うわけですが。
シャアはスペックが高すぎて人を見下すことしかできないし、アムロの下に付くこともできなかったし、母になってくれたかもしれないララァはアムロに殺された、というわけで師匠がいないんですね。
春香はプロデューサーという師匠に恵まれたと言える。ま、プロデューサーも完璧超人ではなく、アイドルのライブの裏方をして支えながら自分の進退についても、アイドルから離れた所で悩むというのが同時並行で描かれるのが、アニマス映画の面白い所なんですが。
そう言うわけで、アイマス〜ステラからキルラキルにもつながるし、富野ガンダムにもつながるので、アニメオタクとしてはアイマス映画は見てて色んな連想が広がって面白いです。
アニマス映画では、同じようにアイドルに憧れる後輩の可奈を見捨てないという意思を主人公の春香が示すことで、春香が自分自身を認め、自分を好きになる努力をし続ける、と言う話でもあった。
で、自分を認め、他人を認める、というのは新世紀エヴァンゲリオンや彼氏彼女の事情から続いているガイナックス系アニメの系譜ですね。
で、人間関係は「自分を認め、他人を認める」という横のつながりがあるんですが、プロデューサーとアイドル、師匠と弟子、先輩と後輩、と言う点で「上の世代から下の世代への継承」という縦軸のつながりもあるわけです。
その究極が、「親」です。
- 縦軸としての世代論
まっつねさんは
ステラ女学院では描かれなかった、「対全校生徒」。
その先の先が、キルラキルでは見れるのかもしれない。
力石がジョーの先をいく「明日のジョー」であるのと同様に
今石監督が川尻監督の先をいく「明日」であれば。
って言ったけど、キルラキルは思いっきり「親との闘い」に行っちゃいましたねー。そう言うわけで、今日はプロデューサーと春香の関係や、アニマス映画の演出や百合っぽさについて書く前に、先にガイナックスアニメの系譜としてのアニマスを書く気になったわけです。
(本当は感想記事くらい、公開3日目の1月中に書いておくべきだったんだが、私も三十路になって親が死んだりしたら自分の食い扶持を稼いだり、メンタルが壊れて死んでいたりするためにアニメブログを書けない時もあるんです)
で、「親との闘い」もナディア、エヴァンゲリオン、彼氏彼女の事情あたりからずっとガイナックスがやってるアレなんです。グレンラガンもそうだったかなー。
私としてはキルラキルには横のつながりを広げて制服から世界征服という泥沼の戦争に突入してほしかったんですが、実際世界中に生命繊維が配られて紛争が起きているというのが台詞情報では示されてるけど、親との闘いとか親の因果が子に報うっていう方がドラマの集約力が高まるんで、そっちに行っちゃいましたね。
「天の光は全て星」という世界観の拡げ方はグレンラガンでやったんで、今回はそっちに行かないのがキルラキルなんだろうか。
(実は私は悪いオタクなので、グレンラガンのBDは全部持ってるのに見てない。今、必死こいてバンダイチャンネル見放題期限1カ月前のカレカノを見てます。映画は何度も見るが、出さずに済む金は出さない)
横軸の自信のボルテージと、縦軸の親や上の世代からの因縁や想いの継承のゲージで、相関分布図が書けそうだけど、時間がかかるのでやらない。
みんなも頭の中で、エヴァンゲリオンやアイドルマスターやキルラキルやステラ女学院やガンダムやいろんなアニメのキャラを縦軸と横軸の中に置いて考えてみよう!
その図を考えてみると、天海春香さんは、指導者のプロデューサーと後輩のバックダンサー組の中間で、横軸でも765プロの仲間たちから自信を相互に与えるし年齢的にも中間なので、囲碁の天元のような中心に位置するように見える。センターの天海春香なのです。
エヴァンゲリオンの碇シンジ君は親の因果に押しつぶされた上に自信もないので、左下です。キルラキルの鬼龍院皐月様や惣流・アスカ・ラングレーは親の因果を背負いながら自信を奮い立たせて戦うので、右下です。纏流子は皐月様ほど親に潰されてないけど親から武器と自信(鮮血と言う愛された証)を受け取っているので、右のちょい上くらい。
ステラ女学院のそのらは師匠の因果を背負っています。対して、ゆらは先輩からあんまり指導を受けない代わりに私立高校でヘラヘラ遊びほうけて、学校をサボってゲーセンで連コインする金持ちだし、資産家の娘っぽいので、上の世代からの影響は少ない。その代わり、仲間とのつながりも上手くいってないので自信もありません。なので、ゆらは左側の上下をフラフラしてます。(もしかしたら、上の世代は平安時代の霊の長次郎かもしれんが)
アイカツ!やプリキュアやプリティーリズムの親や先輩の影響力と仲間や自信とのバランスを考えてみるのもいいでしょう。
キャラクターをパラメーター化して配置してバランスを整えるのはハリウッド脚本術でもやってるような気がしますね。
親の話が苦手な私がアイマス映画の記事でこの話をしたのは、アイドルマスター劇場版や、アイドルマスターTVアニメ版では、美希が失踪したり可奈が練習をサボって電話に出ないのに、美希や可奈の親の描写が無かった、という事です。これが不自然と言う意見もネットで見たし、そういう意識が生まれるのも当然だと思います。
しかし、アイドルマスターのバランス感覚が優れているのは、「親」という、ともすれば一気に重みになるファクターを描かないことで、アイドル同士の女の子同士の関係性を描くことに注視して描くべきところをきちんと切り取ったところです。この演出判断と言うかディレクションがアイドルマスターアニメのバランス感覚です。
可奈が行方不明になってアイドル養成スクールにも顔を出さなくなって、じゃあ、プロデューサーが親と話を付けよう、と言う話になると、もう「女の子の話」ではなく「親の話」とか金八先生とかに成っちゃうわけです。それくらい親と言う要素は重いわけです。エヴァとかキルラキルとか、チルドレンの話と見せかけて、チルドレンはみんな親に仕組まれて四苦八苦してる子供なので。
で、アイドルマスターはアイドルを描くアニメだという自己意識が作り手にもあるので、ロボットも事故も病気も勝負事もなく人間関係だけを描いた人間ドラマでありつつ、不必要に観客の注意がアイドルから他の親や脇役に引きずられないように、親の明確な姿は描かない、という判断が働いています。そこが、カリスマブロガーのいずみのさんも最近テレビで見て読んでて富野由悠季監督も映像の原則と言う著書で紹介している世阿弥の風姿花伝の「秘するが花」にも通じて、面白いのです。
萩本欽一さんが関根勤さんに言った「おまえは100万円持っていると100万円持ってますという顔をする。 5万円だけ相手に見せて、残りの95万円を胸のポケットに入れているって芸をしなきゃ」 という事です。
もちろん、千早の親との確執とか、伊織が「お父様たちを見返す」って言う発言とか、やよい回での大家族の描写はアニマスではあったんですが。
一番重い千早の親本人は最後まで出ない。出ないけど、存在は匂わすし、その親本人と対決するのではなく、親から派生した千早の問題という概念や感情の方にアイドル同士、特に春香が取り組むことで、アイドル同士の関係性がより濃密に見えてくるという演出ですね。
芝居では親そのものを出すと重くなる、でも、親の存在は匂わせて余白を感じさせる、という。
そういえば、TV版THE IDOLM@STERでも終盤で春香がアイドル活動に迷って家にいる時に、春香に「家にいるならおつかいに行ってきて」と言うだけで画面に春香の母親そのものは出てこない、というのがアニメのアイドルマスターの親との距離感なのでしょう。
そこから、春香と対比して「矢吹可奈には『おつかいに行ってきて』と言う親もいないで、関係がうまくいっていないのかもしれない」とか「仲間の写真が数枚ある春香の部屋と、アイドルの写真をバリアーのようにたくさん壁に貼って引きこもっている可奈の部屋の対比から、家庭環境を考えよう」とか、そう言う連想が働くわけ。その連想をさせて客の頭を活性化させたり熱中させるのが芝居の面白い所なんですね。
芝居は見せることも大切なんですが、描かないことで想像させるというのも大事なんですね。(実際全部描いていたら尺が足りなくなるし、面白みが散漫になるし、リアルとリアリティは違う)
ガイナックスアニメの話に戻ると、ステラ女学院は先輩から上手く継承できてなくて後輩がフラフラする話で、キルラキルやグレンラガンは先輩や兄貴や綺麗に死んだ親から継承して前向きに進む話。
で、ガイナックス川尻監督やトリガー今石監督にバトンを渡した庵野秀明監督は何をしているかと言うと、やっぱりヱヴァンゲリヲンで汚く死んだ母親の化身のロボットに乗ったシンジ君が母親代わりのミサトさんと喧嘩別れしてダメな父親の基地に幽閉されてホモと交流するがホモのカヲル君もアダムとかリリンみたいな親の因果のせいで死んじゃって、母親のクローンのアヤナミと、いつの間にか母性キャラになったアスカに手を引いてもらう、って、延々と親の話をしてるわけです。
(キルラキルの皐月様が親とごちゃごちゃしているのは、流子=今石監督から見た庵野監督かもしれん)
んで、錦織監督はそこのラインをちょっと横から見て「親を出すと必要以上にこじれるから主人公にフォーカスした話にして、大人の話は裏方のプロデューサーの電話や千早の手紙などで匂わせる程度にしよう」という、冷静な判断になってますね。
そういう、キャラの親子関係やスタッフの人事関係からも作品を見ると、また違った味わいが出てくる面もあります。
まー、色々揉めても最後に女の子のライブが楽しそうだったらオールオッケーって言うのも、またこの映画なんですが。
まっつねさんのブログから多量に引用したわけだが。
THE IDOLM@STERのプロジェクトiM@sをどんどん追い上げて、昨日今日とさいたまスーパーアリーナでライブをしたラブライブ!の話も引用しよう。
ラブライブ12話〜渡邊哲哉の望む永遠part2 - まっつねのアニメとか作画とか
"修羅場"絵コンテマンが存在する!それが渡邊哲哉だ!
いまでは、「白富野」などと呼ばれて好々爺をやって親切にオタクの質問に答えるお禿御大だが
かつては「皆殺しの富野」の異名とった男。
その男の最後の弟子が最強の”修羅場”演出家であるということはいわば必然!
このラブライブ12話を担当するのにこれ以上の演出家はいない。
まさに、踏んできた修羅場の数が違う。
その意味では、この回を評して「まるで交通事故のようだ」と言ってのを見たが、まさにその通り。
穂乃果に降りかかる悲劇の「どうしようもなさ」は、
かつて渡邊哲哉が監督した「君の望む永遠」の主人公
「皇帝」の二つ名をもつ鳴海孝之を彷彿とさせる。
彼はこう言われる
「境遇は理解できる、同情はする、だが死ね」
「きっと、インベルは……ううん、iDOLでも人でも、好きな人と一緒になるって、そういうことじゃないよ。好きな人と一緒になるって、その人と同じになるんじゃない。きっと、違うところをお互いに見つけていくことなんだよ。だから、わかんないことも、キライって思うこともいっぱいあるかも知れないけど、でも、きっとそれでいい。それでよかったのに。インベルは千早さんを見てたのに。千早さんは、インベルに見てもらおうとするだけで、インベルを見なかった。それはきっと……愛じゃないもの!」
また、アイドルマスターの劇場版の仲間に支えられた自己愛についても、ラブライブ!のアニメは触れている。
ラブライブ12話〜自己愛イリュージョンセオリー - まっつねのアニメとか作画とか
アイマスガールズも田村ゆかり王国のライブを挟んで埼玉スーパーアリーナSSAで再来週にライブしますけど。
劇場版THE IDOLM@STERの人間関係の悲劇の「どうしようもなさ」は「交通事故」のような降ってわいた不幸ではなく、人間が人間同士として最善を尽くしているのに避けられなかったすれ違いの「どうしようもなさ」として描かれているので、現時点ではラブライブ!1期の終盤シリアスよりアイドルマスター劇場版の中盤シリアスの脚本の方を評価したい。
で、まっつねさんがラブライブ!12話を修羅場と言ったことに対して、私はコメントして、まっつねさんが答えてこう言った。
高坂 穂乃果と革新的リーダーに求められる5つの条件 - まっつねのアニメとか作画とか
そして最後の第五の条件「修羅場」の経験
穂乃果はこれまで非常に幸せに育ってきたように見えます。
例えば、富野信者のグダさんが12話の展開について
「富野ファンから言わせると母親が優しく、学校外の人が出ないため、
修羅場としては全くぬるい。都市型現代っ子向けに薄めた修羅場。」
と言ってますが、
まさにその通りで、そのくらい、穂乃果は修羅場を経験せずに幸せに生きてきた女の子だったのです。
戦争を経験している富野さんや、難しい家族環境であったグダさんに比べて、
彼女はヌルイ世界で生きてきた。
絶対的に「修羅場」の経験が足りないのだ。
正直なところ、13話の展開は、私はヌルイと思った。
ヌルイと思ったが、これで良いのだと思った。
4月1日に放送されるアニメとして、
新社会人の門出を祝うアニメとして、
恐れずに修羅場にぶち当たり、そして打開してほしい。
意志力で修羅場を打開できるという希望を持って欲しい
しかし、アイドルマスター劇場版の修羅場は世間の風当たりは描いているし、親の顔は出ないが親との確執は匂わされているので、修羅場としてのレベルはラブライブ!1期よりは格段に上。そして、親は出ないが、親の手助けなしでアイドル同士で人間関係を決着するので、強さも上。
ラブライブ!は2期で全国大会編に行くまではよくわからんですね。
- ここからは完全な私怨なので読まなくていいです
難しい家庭環境とか他人に言われると、ぐちゃぐちゃした気持ちが湧きますが、まあいい。母親は自殺した。
そして、ラブライブ!のソーシャルゲームのスクールアイドルフェスティバルを手がけているKLab株式会社に昔勤めていて、研修で修羅場を経験した。
日テレのNEWSリアルタイムを見ていたらKlabというIT企業の新入社員研修の様子を放送していました。
バスで千葉に連れて行かれ、名刺交換や電話対応、そしてブラック企業の鉄板技、大声発生や長距離歩行等の研修を泊り込みでやらされていました。
長距離歩行等、仕事に全く必要性のない研修を行うのはなぜでしょう?
それは
「会社に逆らわない従順のしもべ」を作る為の洗脳行為だからです。
グループを組まされてなんかミスをしたら連帯責任ということでグループ全員にペナルティを課します。
無理難題、理不尽な扱い、飛び交う罵声。
精神的にも肉体的にもヘロヘロにして抜け殻状態させ思考停止にし、洗脳ドォーン。
これを研修中ずっと行うことによって会社に逆らわないYESマンを作ることが出来ます。
http://xlis.tumblr.com/post/10724206808/news-klab-it
そして、その修羅場は仕事のための修練ではなく、まさに洗脳のための作られた修羅場に過ぎず、「真田哲哉社長は素晴らしいんだ!」と叫ぶ人事社員はしれっと半年で退職し、研修のプログラムを組んだ外注の人材育成会社の社員は研修後の飲み会で「キレたのは演技だから」とへらへら笑い、研修で「仲間に心をさらけ出せ!」って言われて「同期はみんな仲間だ!」って大声で叫んだ社員たちも、実務では自己申告評価のポイントを稼ぐために私にめんどくさい仕事を押し付け、サービス終了が決定したプロジェクトから先輩たちは逃げ、私は潰れかけのSNSのyumyの運営や掲示板ユーザーの性器の自撮り画像の削除やクレームメール対応をほぼ一人で延々と続け、修羅場は意志力で打開できず、私は過労で精神を病み、死にかけて退職した。検査では何の異常もないのに、熱が半年続き、嘔吐が止まらず、死にかけた。人間の体って本当に不思議!
そうやって引きこもったけど、自己啓発セミナーみたいな研修で心をさらけ出した自称仲間は誰一人私の東京のアパートに見舞いに来ないで、外注の関東ITソフトウェア健康保険組合のメンタルヘルスケア(カウンセリングなど)、Dr.KLab(産業医)も名ばかりの臨床心理士で全く頼りにならず、実家に戻ると母親が「あんたの病気を私が直してあげる」と泣いて、福祉の障碍者支援雇用で再就職したが給料が安く、母親は自殺した。
現実では、アニメのように手を差し伸べてくれる仲間も先輩も女の子もおらず、屑は屑のまま朽ちていくだけで、誰も助からない!
ガッチャマンクラウズのベルク・カッツェを受け入れる一ノ瀬はじめみたいな人も天海春香みたいなリーダーもいない!
だから、僕はミルキィホームズやマイリトルポニーは大好きですが、ラブライブ!だけは楽しめない。私怨がすごい。僕が過労で精神病になって実家に戻って母親が子育ての失敗に悩んで自殺したと考えると、KLabに間接的に親を殺されたという、千早よりもひどい暗黒の気持ちが湧きます。
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そういうわけで、アニメのスタッフ考察やアニメキャラの人間関係鑑賞も周りまわって、自分の働き方や人間関係をえぐることにもなるので、あんまりアニメのスタッフと仲良くなるとヤバいかもしれませんね。
特に私は自分のもともといた会社がアニメに関わり始めちゃったんで、キツイですね。でも、プロの映画監督やアイドルの人はファンの中傷や報道だけではなく、そういう因縁のなかで頑張ってるので、偉いですね。
でも、僕はやっぱり、精神病で睡眠もまともにできない自分も嫌いだし、僕をこういう状態に成るように関わったみんな、誰が欠けても、全員に憎悪を持っています。多かれ少なかれ。だって、母親を殺したんだから、他の人を好きになったり大事にしたり、そんな資格、無いです。
そう言う意味では、僕はいまだにエヴァの呪縛に囚われてる世代なんですねー。
さっさとベルばらみて少女革命ウテナを見ればいいんですかね。
でも、親を乗り越えようとしても、親は勝手に死んだり老いてボケたりするから、なんかどうでもいいですね。
そんで、自分も三十代になってどうでもいい世界を作る大人の一人に成っちゃって、もう、なんか全部クソです。誰も助からないよ。
だから、アニメの中での虚構の救いは美しいですね。尊いですね。
うーん。
アニメのTHE IDOLM@STERの素晴らしさや人間賛歌を感想に書くつもりが、やっぱり自分の気持ちを出すと暗黒に…。
それで「ステマ記事」とか「親を自殺させてアニメ見てるクズ」とかコメントを書かれたりするんだよなー。
で、そういう人を見て僕は改めて現実の人間は屑だなーって思うわけで。
あー。
ダメだダメだ。
とりあえず、KLab株で全財産を溶かす矢澤ニコと譲崎ネロの顔を見たい。
3656 - KLab(株) - 株式掲示板 - textream
そして全財産を失ったアップルジャックは奴隷労働をするんじゃよ…。フヒヒ…。私がモテないのはどう考えてもお前らが悪い!レインボーダッシュ!!!!!レインボーダッシュ!!!!!
とかめちゃくちゃ言ってるけど、徳井青空さんは好きですし、三森すず子さんのてーきゅうでの後輩である押本ユリ役の渡部優衣さんがアイドルマスター劇場版の横山奈緒役で天海春香さんの後輩になってるし。
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アニメスタッフ考察とか人間関係ウォッチはホント、意図しない所でこじれたりするし自分に跳ね返ってくるんで大変ですね。
だから、匿名ブログが流行るんだな。
でも、私はグダちんだから。
悪意も世間や政治や経済やブラック企業の闇も含めて、この醜くも美しい世界だから!
(と、無理やりガイナックスに戻して今日は寝る。明日は私でも仕事に出なければいけない。仕事内容は秘密だ。今後はネットやアニメに名前の出る仕事とは関わらないで生きていきたい。関わると、僕の暗黒が伝染して腐らせてしまうからな…。とか言うと、中二病っぽいんですが、恋がしたいというよりは、むしろ恥知らずのパープルヘイズですね。みんな腐らせる。僕は自動的なんだよ。KLabは世界の敵だ。そして僕も自動的という点では同じだ)
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