玖足手帖-アニメブログ-

富野由悠季監督、出崎統監督、ガンダム作品を中心に、アニメ感想を書くブログです。

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アイドルマスター劇場版 感想4 鏡演出〜後編 距離と視線で春香の成長を見る その2(可奈編)

アイドルマスター劇場版 感想4 鏡の映画演出法〜 前編 春香がリーダーでプロデューサー! - 玖足手帖-アニメ&創作-
アイドルマスター劇場版 感想4 演出法〜 中編 鏡と愛の心理学(コフート、フロム) - 玖足手帖-アニメ&創作-
アイドルマスター劇場版 感想4 鏡演出〜後編 距離と視線で春香の成長を見る その1(千早編) - 玖足手帖-アニメ&創作-
続きです。長すぎるけど、まだまだTHE IDOLM@STER MOVIE 輝きの向こう側へ!について書きたいことがあるし、書きます。
シーンごとに演出意図を勝手に解説するという、もはや感想と言うよりは自家製フィルムブックと言うか勝手なファンジンみたいになりつつあるが、公開から1か月が経ってるし、きっともうみんなネタバレをしても平気だよね…。
というわけで、長文アニメブロガーとして書きたいように書きます。(1円の得にもならないのに徹夜して書いてます)

  • 春香と可奈の電話越しの交流



これが、春香と可奈のクライマックスの前編。
そして、もう一段春香が愛するということのステップを上るシーンだ。
この感想4の前編で、春香はアイドルなんだがリーダーに選ばれプロデューサーとしての役割を期待されていると書いた。
では、THE IDOLM@STERのプロデューサーとアイドルの違いは何だろうか?
それは、メールです。
アーケード版THE IDOLM@STERでは、プロデューサー役のプレイヤーのリアルなガラケーにアイドルからメールが来る。
こんなの

Re:合格バンザーイ!! - 玖足手帖-アニメ&創作-
>やよいでーす☆(^O^)オーディション合格、信じられません!!今回はキビシイかなーって思ってましたから。
>でもでも、合格なんですよねっ。えへへ、これからもドンドン合格して、トップアイドルまでまっしぐらです!

>ご期待ください、ですっ!(^o^)/

このメールでのやり取りがTHE IDOLM@STERっぽさを出してる。
簡単に言ってしまえば、アイドルマスター世界において、メールを送るのがアイドルで、メールを受け取って行動するのがプロデューサーです。
だから、春香さんは可奈にメールをすごく送る。可奈にメールを送って、「私を気にしてよ」「レッスンに来てよ」と言う態度は、プロデューサー的と言うより、アイドルの立場から抜けきっていない。この映画では春香さんにアイドルを導くプロデューサー的役割が期待されているんだけど、メールを送ってるだけの春香さんはまだプロデューサーとしての自覚が無くて、アイドル視点から。
可奈もメールを送るが、それは春香さんではなく同輩の杏奈に向けているので、春香をプロデューサーとかリーダーとしては認めていない。むしろ、可奈は春香のことを「遠い憧れのアイドル」として、別物として見ている。
つまり、可奈も可奈で、春香にプロデュースされるという気構えが出来ていない。
だから、メールは双方向にならずに一方通行なんだ。

アニメ版THE iDOLM@STER 第十二話 「一方通行の終着点」 も、美希からの一方的なメールとディスコミュニケーションを経て、赤羽根プロデューサーが星井美希に会いに行って、コミュニケーションして、アイドルとして立ち直らせるという話だった。いわば、アイドルマスターにおいて、メールを貰ってから会って話すというのはプロデューサーとアイドルにとっての通過儀礼である。
アケマスもそう言うゲームだったし。


で、あるが、春香は社長と赤羽根Pの魂胆ではリーダーに任命されて、プロデューサーの「アイドルとのコミュニケーション」という仕事の部分を期待されているが、自分自身もアイドルなので、そのことに気づいていない。(実務面でのプロデューサーの仕事は秋月律子嬢に割り振られている)
だが、前項までで書いたように、エーリッヒ・フロムの「愛する技術」に沿って考えると、それは春香が命令されてやるんじゃなくて、自分で自覚せねばならないことだ。そして、社長と赤羽根Pはそれが春香ならできると信じている。
この感想連作の前編で、赤羽根プロデューサーが春香をリーダーに任命することで、春香にプロデューサーとしての役割を託したと書いた。
また、社長のたるき亭での言葉から、それは単にプロデューサーの人数が足りないからアイドルにプロデューサーを兼任でやらせるということではなく、「新人の面倒を見させることを彼女たちに受け入れさせ、成長させよう」という意思によると書いた。
物語構造的に考えると、アイドル映画でプロデューサーの出番よりもアイドルの出番を増やすためにアイドルの春香にプロデューサー役をやらせた方が映えるというのも論理的だ。
観客の側からはそれは分かる。だが、映画の中の春香にはそれが分からない。ここが映画的な見どころで、春香と観客の視点の違いが意識される。スクリーンを漫然と見ているのではなく、スクリーンに映っている春香を客観的に「見ていて観客は手出しできない」というもどかしさを自覚的に感じさせる演出。
ここから連想的に、春香とプロデューサーの視点の違いや春香と可奈の視点の違いなど、劇中でのキャラクターの人間関係のずれも意識させられる。
特に、「もどかしさ」は春香自身も言っていることだけど、重要な感覚。
ゲームのTHE iDOLM@STERはプレイヤーがアイドルと対話するゲームだった。で、映画を見に行く観客の多くもゲームでプロデューサーをやったり、アニメ版で赤羽根プロデューサーに感情移入した経験があるはずだ。そんな観客たちはアイドルを助けてやりたいという意識を持っているわけだが、スクリーンの向こうの彼女たちを助けてやれない、ということを無意識下に感じさせられると、鑑賞体験が単に映像を見ているというだけでなく、プロデューサー的な感情への疑似的体験として深まるのだ。
だから、春香さんが可奈に会いに行くまで色々と逡巡したり、赤羽根プロデューサーが手助けしてやらなかったり、という点で「後半の展開が遅い」とか「シリアスパートが長すぎてダレた」と、言う感想を持つ人が出るのも仕方がないのだが、その「映画を見てる自分では春香に手出しできない」という映画を見る時の感覚を強調する映画なので、その「もどかしい」感覚こそを楽しむべきマゾ映画なのだ。
その「もどかしいなー」というシリアスパートのストレスがあるからこそラストのライブシーンの圧巻の映像の光と歌と音の奔流がカタルシスとして感じられるわけで。20分で起承転結を付けなければいけなかったTVアニメ版ではできなかった劇場版ならではの尺を活かした映画らしい作りだと言える。そう言うわけで、やっぱり劇場で拘束された状態で一気に見るための映画だと思いますので、みんな、劇場に行こう!
3月からは上映館数が増える!
THEATER | 劇場版『THE IDOLM@STER MOVIE 輝きの向こう側へ!』公式サイト
もちろん、これは僕みたいなリピーターのプロデューサーが何度も見て興行収入5億円を突破させた成果です。同僚の皆で勝ち取った上映拡大だ!手作りの武道館だ!

やったぞ!


あと、劇場版で「手出しできないもどかしさ」を味合わされたので、その反発力としてゲームの新作のワンフォーオールでプロデュースしたいなー、という客の誘導にもなっていて、そこら辺のバンダイナムコゲームスの商魂たくましさですね。

汚い!さすがバンダイ汚い!
課金は計画的に…。

(もう、バンダイ商法が汚いってことはバンダイ自身もネタとして開き直ってる気がするなあ・・・)


話を戻して。
映画の構造として、可奈のことで悩んでいる春香が「もどかしい」「辛い」と感じる時に、観客もそれを見てるだけで手出しできないという状況に置かれることで、「もどかしい」「辛い」という気持ちを共有して、増幅させるって言う効果のある演出です。だから、この後半の長さや重さは作品の芸術的完成度とか感情を揺さぶる興行として必要なんですよ!
で、赤羽根Pも「春香に自分で考えさせて成長させるために」手出しを控えてる。彼自身ももどかしさを感じて律子に悩みを打ち明けたりしたんだが、観客も赤羽根Pと同じく手出しできない気持ちを味わう。



で、最終的には伊織や美希が言ったように春香を「信じるしかない」という状況に、Pも観客も陥る。
これも、エーリッヒ・フロムの愛の技術に沿った心理的操作で、実にうまいなーって思う。
この感想連作はエーリッヒ・フロムの「愛するということ」をサブテキストにしてるんだけど。
名著30 フロム「愛するということ」:100分 de 名著

エーリッヒ・フロム『愛するということ』を83ツイートで読む : 八嶋聡ブログ
「信じる」ことの習練。
理にかなった信念とは自分自身の思考や感情の経験にもとづいた確信である。
信念は、人格全体に影響をおよぼす性格特徴であり、ある特定の信条のことではない。
この信念は、自分自身の経験や、自分の思考力・観察力・判断力にたいする自信に根ざしている。


愛に関していえば、重要なのは自分自身の愛に対する信念である。
つまり、自分の愛は信頼に値するものであり、他人のなかに愛を生むことができる、と「信じる」ことである。


他人を「信じる」ことのもう一つの意味は、他人の可能性を「信じる」ことである。
その信念があるかどうかが教育と洗脳のちがいである。
他人を「信じる」ということをつきつめていけば、人類を「信じる」ということになる。
信念にしたがって生きるということは、生産的に生きることなのだ。


勇気。
信念をもつには勇気がいる。
勇気とはあえて危険をおかす能力であり、苦痛や失望をも受け入れる覚悟である。
愛されるには、そして愛するには、勇気が必要だ。


信念と勇気の習練は、日常生活のごく些細なことから始まる。


人は意識の上では愛されないことを恐れているが、本当は無意識の中で、愛することを恐れているのである。

劇場版THE IDOLM@STER MOVIE 輝きの向こう側へ!は恋愛映画ではないが、愛と勇気の物語で、精神分析的にも非常に普遍的な人間賛歌なのだ!


赤羽根プロデューサーは社長と話し合って、テレビ版の終わりからさらに春香を成長させるために、アイドル候補生って言う他者と春香を交流させて、ある意味問題を起こさせて自己解決させようとした、と言う面もあって、これを企業の研修として考えると、すごくブラックだ。
実際私も某ライブ!のソーシャルゲームを作ってる某b株式会社の新人研修で長距離歩行をさせられ罵倒され大声でのトラウマ暴露大会などをさせられ洗脳に近い仕打ちを受けたので、企業が従業員の心の内面に土足で踏み込むようなことは本当に嫌いです。実際、土足で心を踏みにじられたし、過労で死にかけたし。
念 新入社員研修


だが、フロムが言うように、THE IDOLM@STER劇場版のプロデューサーと春香の心の成長とブラック企業の「会社に逆らわない従順のしもべ」を作る為の洗脳行為には、仲間を信じる信念と愛の有無の点で大きな違いがある。
(ちなみに、私個人はミルキィホームズやマイリトルポニーやヴァンガードやわたモテは応援しています)


プロデューサーは春香が成長することを信じて託したし、765プロの仲間たちも春香を信じて、同時に春香が転びそうになっても自分たちが助けるという信念を持っていた。

正直、KLa某で私が過労になって死にかけた時は誰もメールくれなかったし、死にかける前も上司に縮小プロジェクトの後処理を押し付けられ(愚痴の部分は5行削除)、退職を余儀なくされた。


そう言う汚い現実の企業とキラキラしたフィクションの中の765プロを一緒にしては、いけない!
僕はKLabは嫌いだ。THE iDOLM@STERの話をしよう。


(だから、本当にTHE IDOLM@STERの中の人、特に女優さんには幸せになってほしいな、要らない苦労をしょわないでほしいな、とは祈っています)

  • プロデューサーとしての役割に気づく春香

話がダークサイドに逸れた。
とにかく、プロデューサーと765プロの仲間たちは「春香がどうしたいか」という春香の内発性を信じて待つことにした。
そして、千早もカフェでデートして春香の目を見つめて「春香のおかげで私は立ち直れた」とか伝えて「春香がどうしたいか」「間違ってるかどうかは関係ないの」と、合宿中と同じ言葉だけど、春香が他の女の子を気にするということを千早なりに受け入れて、改めて愛情に裏打ちされた信頼を春香に伝えて、春香の心に愛を伝え直した。

愛に関していえば、重要なのは自分自身の愛に対する信念である。
つまり、自分の愛は信頼に値するものであり、他人のなかに愛を生むことができる、と「信じる」ことである。


他人を「信じる」ことのもう一つの意味は、他人の可能性を「信じる」ことである。
その信念があるかどうかが教育と洗脳のちがいである。

そして、春香が自宅で可奈からの返信を待つシーンに続く。
自分からメールを送って、センター問い合わせをしまくって気にする春香はメールを見てもらうこと、つまり「愛されること」を重視するアイドルという立場だったと言える。春香はアイドルなので、メールを一方的に送る立場であるのはアイマスの世界観的にも正しい。エーリッヒ・フロムの精神分析の文脈で言えば「愛する事より愛されることを望む態度」だったと言える。

幼稚な愛は「愛されているから愛する」という原則にしたがう。
成熟した愛は「愛するから愛される」という原則にしたがう。


未成熟な愛は「あなたが必要だからあなたを愛する」と言い、
成熟した愛は「あなたを愛しているからあなたが必要だ」と言う。

だから、春香が自宅で可奈からの返信を待つというシーンは、春香が送り手から受け手になる、アイドルからプロデューサーになる、というパラダイムシフトのシーンなんですね。
また、可奈に送ったサイン付きのパンダのマスコットを突き返されて、「愛されてない」と思った春香が、それでもなお「可奈ちゃんを愛するよ」という「信念」を持つに至るシーンでもある。
愛の話なんだよ!!!
で、春香は「もう一度話をしたいです」というメールを可奈に送った後、「ちょっとくらいなら、自惚れてもいいよね…」と呟く。春香は「周りの皆といっしょに!」っていうのが好きな子って、テレビ版から描かれていたけど、その分「自分のことは曖昧」という欠点があった(だからよく転ぶ)。
そんな春香が「自分の気持ちには可奈から返信がくるくらい価値がある」って自惚れるのが、すごい大事。まず、自分を愛することが他人を愛するために大事。
で、「お願いっ!」と春香は電話が来るまで待つ。自分を愛するけど、相手がそれに答えてくれるかどうかと言うのは、相手にゆだねて信じて祈るしかない。これもフロムの言う愛の技術に合致する。


そして、可奈から非通知で着信がある。ここで非通知、というのも大事で、可奈も春香に愛されるか、気づいてもらえるか、ということをすごく気にしてる。
また、電話番号を残さないことでこの電話を最後にしてもいいという気持ちも働いている。
で、可奈はとにかく「レッスンをサボってすみません。私のせいでみんなに迷惑をかけてすみません」と謝罪の言葉を繰り返す。追いつめられて、どうしたらいいのかわからない可奈は、とにかく紋切り型の定型文での謝罪を繰り返して春香との関係に終止符を打とうとする。とりあえず、形式上で謝って、形式上で別れて、一区切りつけて、それでおしまい、と言う愛のないドライな自動的な関係に逃げようとする。
「私も、このまま天海先輩とお別れするの、嫌だったから」と言うのは、もう、別れ話なんだよ。別に恋愛関係でもレズでもないのに、別れ話テンプレを持ってくることで、会話の緊張感を上げる、よく練り込まれた脚本だ!


「テレビで春香さんを遠くから応援するだけでいいです」「最近は友達とカラオケで充実してます!」みたいに言うのも、思いっきり別れ話。すごく・・・マリア様がみてるの姉妹解消っぽいです・・・。
で、遠回しに別れ話を切り出された春香は、「諦められるのかな…アイドル」「それでいいの?」と可奈の本心を聞こうとする。
ここで春香が攻め手に出れたのは、千早の後押しがあったから。正妻の千早とのデート中に可奈のメールを気にするという浮気を見られたのに、千早の愛にそのことも含めてやりたいようにやって良いといわれたので。
可奈は「私のせいでみんなが困るのは嫌です」と、礼儀作法としてはテンプレの嘘でごまかそうとする。春香が愛情よりも儀礼的な形式を重視するなら、可奈がこうやって諦めると言った時点で可奈を抜いてもいいとなる。だが、そうじゃない。この映画は愛の話なんだ。
春香はその声を聴きながら、壁に貼ってある写真のみんなで合宿中に撮った記念写真の中の可奈と、その隣に貼ってある765プロのテレビの最終回の集合写真を見比べる。

この、二つの写真を見比べると言うのも、この連作感想で強調してきた鏡の演出の一つと言える。写真に写る過去は現在の鏡。そして、過去の写真の中の笑顔と現在の震えた声を見比べる、って言うのも鏡っぽい。
で、映画と言うのも鏡のようなものなのだし、映画技法モンタージュ理論そのものって感じで、すっごく「映画らしいなー」って思うし、僕みたいな富野アニメみたいなめんどくさいアニメばっかり見てるキモオタも「映画を見たなー!」という充実感が得られて、こんな長文で感想を書いたりするの!

エイゼンシュテインモンタージュは、当時流行し始めたソシュール構造主義の影響を受け、台本の言語的要素を映像に置き換えて編集していく手法。映画編集理論の主流とされた。
たとえば、小津安二郎は代表作『東京物語』において別撮りのカット・バックを多用している。バンクを用いる日本のアニメもこの系統に属する。
モンタージュ - Wikipedia

<正面向きのショット>
 
 これも小津映画の大きな特徴となるショットであり、構図優先の小津らしいショットといえる。
 ほとんどがカメラに向かって正面に近い角度でセリフをしゃべる。
 それはまるで一枚の肖像写真を撮るかのような端正なショットである。
映画監督・考NO.5

この、春香さんがベッドで可奈の話を聞くときの、ド正面の顔、ちょっと小津安二郎っぽいアングル。小津はアップは嫌いらしいけど。

真正面の春香の顔と、斜め横の壁に貼ってある写真を正面で見比べるカット割り、ちょっと小津っぽい。写真の映像を映して「過去の思い出」って言う言語的要素に逆算させるのもモンタージュ理論っぽいなー。
鏡の演出、って本稿では書いてるけど、相似形や反復のモチーフを多用してる所も、小津映画とTHE IDOLM@STER MOVIEとの共通点ですね。だから、アイドルマスター劇場版は萌えキャラ映画って言うだけでなくて、かなりスタンダードな人間ドラマ映画なんです。
静かな会話シーンの緊張感を上げるためにこういうの。基本的な技法ですが、大事なシーンで基本を使うのはえらい。
で、春香がベッドの上で可奈の「アイドル諦めます」って話を聞くとき、カメラがまた小津安二郎みたいなローアングルなんすよー。ここぞという所でローアングルを使ってくるのが憎いなあ。(テレビ版の終盤で春香が寝込んでいた時と相似形のアングルでもある)
で、春香がベッドから降りる時に、小津安二郎はあんまりやらない春香の生足のドアップにつなげる。色んな映画の技法を使ってる。この絨毯を踏むアイドルの貴重な生足の一歩がすごい大事で、春香が可奈の心に一歩踏み込む、って言うことの記号ですな。
で、足のクローズアップでインパクトを大きく一歩踏み込んだ春香を、一転してカメラが部屋の外から俯瞰で窓越しに映して、春香を小さく映す。春香の心が一歩大きく踏み込んだけど、まだ不安定だ、って言う少女らしさを演出してます。実に良い。
で、春香はためらいがちに「すごく、身勝手なことを言うみたいだけど、許してね」と告げる。で、どんな身勝手なことを言うのかと思うと、「私、可奈ちゃんが無理してるように思う。違うかな?」と、自分のことを押し付けるんじゃなくて、ためらいがちに相手のことを思いやる。
ここ、ゾクゾクした。
春香にとっての「身勝手なこと」は「相手の気持ちを予想して言うこと」なんです。すごく春香らしいと同時に、春香が変わったな、と言う一瞬。
春香はこの感想で書いたように、春香は自分の気持ちに無自覚で相手と同調する事ばかり重視する癖があった。だから、相手に自覚的に反論するのはすごい春香は下手くそだった(本能的な反論はできた)。それを、劇場版の後半で春香はやっとできた。

テレビ版からもそうだったけど、テレビ版では「やっぱり765プロは団結してるよね」という事と「春香はみんないっしょの765プロが好き」という事を確認して大団円を迎えた。

でも、それじゃダメなんです!

今回は、美希や千早が少し遠くへ行くことやPと長い別れをしなければならないこと、さらには可奈の脱落や志保の言葉、そして「自分達もまた未来へ進む事で変わっていくんだ」という実感を前にして、あの時の不安が再びちょっぴり頭をもたげてきた。それは、生きていく限り当然に生まれる感情で、そういう不安を持つ子達だからこそ自分は彼女達の存在を熱い感触を持って信じる事ができる。
【100%ネタバレ】アイマス劇場版見てきたけどなんてことはなかった。いつものアイマスだった。:そんなことよりアイマスの話をしようぜ - ブロマガ

テレビ版の春香は「変わらないで一緒にいる765プロのみんな」という一種のユートピアで終えた。が、劇場版は変わり続ける人間関係で新しい人や他者と向き合って前に進む春香、という成長を見せた。
だから、そのためにはずっと同じ事務所で気心の知れている765プロダクションの仲間同士の関係だけではだめで、今回の劇場版でミリオンライブ!出身のアイドル候補生と触れ合う事で成長する、ってのが必要で、そのために社長が計画した。
人格の発展のために他人と関わらなくてはいけない、って言うのは新世紀エヴァンゲリオン終盤の人類補完計画みたいだし、劇場版で新キャラが出てレギュラーキャラクターの関係性が変わる、と言うのもヱヴァンゲリヲン新劇場版真希波・マリ・イラストリアスみたいです。
そんなわけで、錦織敦史監督のアイマスもやっぱり、ステラ女学院C3部やキルラキルと同じくガイナックスアニメの系譜に属すると思う。
アイドルマスター劇場版 感想3 ガイナックス・クズ系主人公の系譜としてエヴァ、ステラ女学院、キルラキルとの対比(ラブライブ!も?) - 玖足手帖-アニメ&創作-


話を戻す。
春香はすごく個性が無くて、周りの顔色をうかがって、周りに変化があると自分の行動パターンも見失うような、そんな未成熟な思春期の女の子だ。すごく普通すぎるほど普通だ。普通すぎるほど普通な主人公と言うのはエヴァンゲリオン碇シンジ君のキャラクター原案でもある。
でも、だからこそ春香は他人の痛みを自分の痛みとして感じることが出来る才能も持ってる。だからライブの心理的なリーダーに選ばれた。だけど、春香は「みんないっしょ」が大事で、「みんなの意見」とか「みんなのしたいこと」をまとめるのがリーダーだと思ってて、「自分のしたいこと」は出さなかった。すごく、戦後日本人的な調整型のリーダーになろうとしたし、実際春香の性格からすると我を出すのが下手で相手の顔色を伺う行動になりがち。で、後輩を集めて学級会みたいな挙手で意見を聞いたりする。
それでも、上手くいかなくて、可奈へ連絡を願ったのも、「みんなの中の一員の可奈」の意見を聞きたかったからだし、それも千早という仲間の後押しがあってやっと出来た事で。
春香はすごく、周りの顔色を伺う子なので、相手の気持ちを大事にするし一緒にいることを幼児のように願う子だった。
そんな子が「可奈ちゃんの言ってることは本心じゃないと思う」と、相手に踏み込むのはすごく勇気のいることだったと思う。20話で千早ちゃんに「ほっとかないよ!」と言ったのは、千早のことをよく知っていたからだし、千早が本当は歌が大好きで歌いたいということを知ってて、千早の母や赤羽根プロデューサーと話し合って千早が「どうしたいか」「歌いたい」ということを知ってた上でのこと。
今回の可奈に対しては千早の時と違って、相手がどうしたいかが分からない付き合いの浅い相手で、その上相手の言ったことを否定して「どうしたいか」を聞くので、ハードルが高い。何度も言うけど、春香は普通すぎるほど普通な主人公だ。そんな普通の女の子にとって、グループの違う、一度自分を拒絶した相手の気持ちに踏み込むのはすごい勇気が必要だったことだろう。
もちろん、そんな気分に春香が成ったのは、やっぱり可奈と自分が似ているから、でもあって、そこは違うタイプの人の気持ちを決めつけるよりはハードルが低いし、結果的には春香は可奈の本心を分かっていたんだけども。
でも、春香は「リーダーとして」ふるまおうとしていた時は、可奈と自分が似ていると感じていても「可奈ちゃんと私の気持ちを重ねちゃいけないって思うんだけど」と、その自分の共感能力を理屈で封じていた。
春香は自己像が曖昧だから他人の痛みを自分の痛みとして共感能力が高い、それ故に無意識的に気配りができる、と書いた。そういう性格だからこそ、無意識的にやってた共感を意識的に、リーダーとしてやろうとすると、迷いが生じる。
そして、いつもは本能で自然に相手に向かっていた春香が柄にもなく理性で行動したので、可奈の気持ちを直感的に分かっていても「可奈ちゃんと自分を重ねて考えるのは、自分を押し付けることだ」って思って禁じていた。この思春期の女の子の相手との距離の手探り感がすごく、十代の子らしい。
だから、春香にとって「すごく身勝手なこと」は「相手の声が無理しているように聞こえる、と指摘すること」なんだな。「あなたの気持ちが分かっています」って言うことは、責任も伴うし恐れを乗り越えなければいかん。
エーリッヒ・フロムは言う

愛は能動的な活動であり受動的な感情ではない。
そのなかに「落ちる」ものではなく「みずから踏みこむ」ものである。


人は意識の上では愛されないことを恐れているが、本当は無意識の中で、愛することを恐れているのである。

春香が「可奈ちゃん、無理してる?」と言うのに散々迷ったのは、意識的にグループのリーダーとして周りの顔色を伺うと同時に、無意識的に愛して、可奈との距離が縮まることを本能的に恐れていたからでもある。
だから、「すごく、身勝手なことを言うけど、許してね」には重みがある。
で、「愛することを恐れる」描写を入れることで、春香が愛に対して未熟で恐れを抱いているという印象を強調して、結果的にアイドルとしての処女性も描いてるんですね。恋愛を書いてないのに、処女性を匂わせるって言うのはなかなかの高等テクニック。処女性と言うか、思春期の子供っぽさでもあるが。
そういう子供がちょっと成長するって所に、ロマンがある。
また、愛することをプロデューサー役を引き受けることと置き換えると、その立場や役割の変化への恐れや戸惑いとも取れる。


で、可奈も子供なんだ。
春香に対して「短い間でしたが、ありがとうございました」って社交辞令を言って別れようとするのも、大人になり切れてない、言葉づかいに慣れてない子どもが必死に社会性のある言葉を借りてきて言ってるような感じで逆に可奈の子供っぽさを強調してる。


それで、子どもの可奈は電話を切れなくて「どうして…!?どうして私なんかに構ってくれるんですか」と絞り出すように言ってしまう。ここで、春香から可奈への流れが、可奈から春香へ切り替わった。
逆説的に可奈は春香に「構ってほしい」と言ってるのと同義。THE iDOLM@STERの世界において、構ってほしいってメールや電話を寄こすのはアイドルの方。
なので、ここにきて、やっと関係は「似た者同士」とか「先輩後輩」から、「アイドルとプロデューサー」に成りつつある。が、まだ可奈の中では自分がアイドルということが飲み込めていない。それを強調するのが、「天海先輩はもうトップアイドルなのに。私は天海先輩とは違うのに…」という言葉で、春香を過度にアイドルとして見ることで、可奈は「自分もアイドルで春香と同じステージに立つ」というビジョンが見れなくなってる。
ここで可奈が見てるのは、部屋の壁に沢山貼られたポスターの中のアイドルとしての虚像の春香。これも鏡の演出なんだが。
対して、春香が見ているのは壁に貼ってある「765プロの無礼講のお花見の集合写真」と「合宿終了後の765プロとアイドル候補生の集合写真」。仕事と楽屋裏、外向きの顔と仲間向けの顔の対比。
だから、春香は自分がきれいで憧れられるアイドルだとは思えなくて、「そんなことないよ、一緒だよ」と、言う。アイドルアワードを受賞したのに、まだ自分が魅力的なアイドルだという自己像が出来てないというのが春香の春香らしい無自覚な所。
で春香はみんな一緒が好きな子でもあるし、アイドルがどういうものかも曖昧だし、アイドルと普通の女の子の違いもまだ分かってない。だから、「そんなことないよ、いっしょだよ!」と可奈に言ってしまう。これ、ある意味すごくて、アイドルアワードを受賞してファンもたくさんいる春香なのに、まだ自分がアイドルだと理解してないのがすごい。同時に、「可奈との問題を解決する」に於いて、「アイドルとしての魅力」を道具として利用しなくて、あくまで「普通の女の子」が「普通の女の子」に接する人間と人間の問題として進行している。
アイドル映画なんだから、アイドルとしての春香の凄さに触発されて、可奈が奮起する、という構成にしてもいい。(実際、11話では猛練習する竜宮小町を見て雪歩が奮起した。春香さんは無自覚だったけど)
だけど、春香が可奈に対する時は、アイドルとして、ではなく「普通の女の子同士」という会話になってる。
人間としてぶつかっていく春香の全力ぶりもすごいけど、アイドルアニメなのに問題解決にアイドル性を使わないという制作側のディレクションの判断もすごい。だから、アイドル映画ではなく人間ドラマとして感じられる。
春香は「私だってトップアイドルに憧れて…ううん、今だって、ずっと憧れてる」って可奈と同じ目線に降りようとする。ここでのトップアイドルが誰か、ということはよくわからんのだが、DSの日高愛ちゃんの母の日高舞さんと言うよりは、765プロの仲間たちに常に春香が憧れ続けている、って言う方がアニメ版っぽい。春香の周りのアイドルたちは、仲間であり、同時に憧れ。だから劇場版コミック0巻で春香がアイドルアワードを「自分名義じゃなくて765プロ名義にできませんか?」とアホなことを言って美希をブチ切れさせたのに通じると思う。


でも、「私たちはアイドルに憧れる同士だから一緒に頑張ろう」という話には簡単にいかなくて、「違うんです、私は天海先輩みたいに強くない、キラキラしてない!私は春香ちゃんみたいに成れない!」と、電話を切られる。


ここで、春香は話しながら無意識に窓ガラスに近づいていて、窓を流れる雨粒が、まるで鏡に映った春香の涙のように流れる。


これが、この映画の鏡の演出の極地なんだけど、これは「可奈ちゃんに気持ちを重ねる春香」が「可奈ちゃんの涙を感じた」という演出でもあり、押し殺した春香の涙とも見える。


ここで、エーリッヒ・フロムではなくハインツ・コフートを解釈したはてな村のシロクマ先生ことロスジェネ世代の精神科医()の熊代亨氏のホームページを参照してみよう。

自己愛を充たしてくれる対象を「自己対象」と呼ぶ――汎用適応技術研究
コフート自己心理学では、こうした、[自己愛を充たす為に必要とされている対象][自己愛を充たしてくれると体感できている対象]のことを[自己対象]と呼んでいる。
この[自己対象]を、[1.鏡映](自分の行動の成果を反射してくれる人)であれ、
[2.理想](アイドルなど)であれ、[3.自分に似た誰か]であれ、
まるで自分自身の一部や、自分自身と地続きの存在のように体感できている最中には、私達の自己愛はグンと充たされるし、充たされているうちは心強くなって、メンタルヘルスが維持しやすくもなるのだ。

春香は可奈に対して自分とよく似た双子自己対象として接しようとしていたのだが、可奈に「あなたはトップアイドルだから自分とは違うんです!」と電話を切られる。可奈は春香を理想化自己対象として見ているんだな。
だから、可奈はテレビ越しに春香を応援するだけで良い、って言ってしまう。


だが、春香から見たらどうだろう。春香は自己像が曖昧な子だけど、その分、自分に似てる子と共感して双子自己対象として、相手を大事にすることで自分も大事にするような子だった。
だけど、自分と似てると思っていた可奈に「あなたは私とは違うんです」って言われたのは、春香にとっては自己愛の危機で、身を切られるような痛みだったように思える。
「あなたはトップアイドルだから普通の女の子とは違うんです!」と言われるのは、ある意味「春香は人間とは違うんです」と言われるようなもので、それは普通の女の子らしさを持ってる春香には、キツイ言葉だっただろう。


しかし、この話の流れもすごいなあ。
アイドルアニメなのに、「あなたはアイドルだから!」って言われることが「人でなし」と言われるのと同義の痛みになる、っていう流れはアイドルアニメらしからぬ普通指向ですごい。アイドルだけど、その前に人間の天海春香だから、という話の持って行き方はアイドルの超人性をオミットして人間味を見せてく。なかなか思いつかないし、伊織や美希や貴音みたいなアイドル性の高いキャラが中心だと絶対無理で、普通すぎるほど普通な春香だけができるシナリオだ。普通すぎるほど普通な春香がリーダーだからこそ、という生っぽい実在感と説得力を強調するためのシナリオだ。


また、この生々しさを出す女の子同士の未熟な心のすれ違いも、非常にコフート心理学っぽくて面白い。
私はシロクマ先生のオタク煽りとかネットの風潮の強調した商業スタイルはあまり評価してないんだが、医師の資格を持って専門家として私の代わりにコフートの本を読んで紹介してくれる人、としては利用しているので引用しよう。(世相の流行を追ったロスジェネ心理学の執筆が一段落したら、コフート学派としてのもうちょっと学術的な成果を上げてもらいたいものだ。いや、とりあえず本を売って人脈を作るのも大事ですけどね)

未熟な自己愛の処世術(2)水平分裂――汎用適応技術研究
未熟な自己愛の人によくみられるもう一つの処世術は、“高い要求水準を相手に期待して失望や不満に陥るのを端から避けるために、自己愛を充たしたい気持ちに蓋をしまくる”処世術だ。こちらは、自己心理学の用語としては「水平分裂」と呼ばれている。


自己愛の成熟度合いが未熟で、ハイレベルな要求水準で自己対象を求めていても――否、ハイレベルに求めるせいでぬか喜びに終わってしまうからこそ!――欲求に対して消極的・警戒的な意識になるのが「水平分裂」の特徴だ。


普段は非常に控えめな人が、自分を認めてくれた異性や、高い理想を仮託させてくれた同性などに対して、突然トーンの高いラブレターを送ってみたり、極端にハイレベルな要求水準をみせはじめて相手をびっくりさせやすい。

可奈が「天海先輩はハイレベルな人だから、私は離れます!」と言うのも、また、前半の合宿の途中でプチシューを隠れて食べすぎてた所を春香が認めてくれてから舞い上がってサインをねだるのも、水平分裂型の精神っぽい。
もちろん、可奈は中学生だし未熟な自己愛の成熟度で良いし、それが紆余曲折して成長していく紆余曲折の家庭こそがこの映画で大事な所なんですね。


対して、可奈と対照的な北沢志保は垂直分裂タイプですね。

未熟な自己愛の処世術(1)垂直分裂――汎用適応技術研究
一つめの処世術は、“尊大で誇大な態度をとり、自分がさも偉いような自意識を維持し、高い要求水準をクリアしている自己対象だけを受け入れて、そうでない相手は眼中に入れないか見下すスタイル”だ。この適応スタイルは、コフートの著書のなかでは「垂直分裂」と呼ばれている。

残りのバックダンサーメンバーも完璧ではなく、未成熟な十代の女の子たちだ。その子たちが、映画とライブの練習を経て少し成長するのが、この映画ですね。




まあ、ゲームやアニメは元々が絵にかいた理想なので、生々しさを出してバランスを取るために、アイドルの超人性を自分で否定して「私は人間だから」って春香が言うのは演出論としては順当ではあるんだけど。
現実のAKB48も舞台だけでなく、舞台裏でぶっ倒れる所や過酷な努力とか泣き顔をメイキングで見せたり、ゴシップとかスキャンダルとか丸刈りとかを使って人間味を調整してる所がある。いや、僕は宇野常寛さんや小林よしのり先生や東浩紀先生や山本寛監督と違ってAKB48には詳しくないので、そこら辺はWake Up, Girls!に任せる。


でも、THE IDOLM@STER劇場版は春香の泣き顔は見せない。

可奈に電話を切られた春香は顔を見せず、後ろ頭だけ映される。
春香の脳裏に浮かんでいるように、春香を信じる仲間たちや、765プロについて報じるテレビや雑誌、ジュピターや小鳥さん、そしてどこかに電話をかけている赤羽根プロデューサーが映る。
そして、春香は「今を、大切に…」とだけ呟く。
合宿最終日に赤羽根プロデューサーから送られた言葉。
「未来は今の延長だ。だから、今を大切に」
そして、春香はついに可奈に会いに行くことを決意します。
ここで、やっと春香は赤羽根プロデューサーの意志と同調して、プロデューサー的な会いに行く行動に出る決意をする。
ミニライブ後に声をかけそびれてから、再度会いに行くまでの決意を決めるまでの、この遅さは春香の成長の遅さとも見えるし、それだけアイドルがプロデューサー役を引き受けることとか、リーダーとして仲間との関係を自覚することの重さとも取れる。自己像の発達が鈍い春香が自分と他人の関係を咀嚼するのはこれくらいの溜めが必要だった。
アニマスの春香は自分と似たようなアイドル仲間と無自覚にいっしょにいることを心地いいと感じる子で、同時にそれがすごい弱点にもなってた。テレビ版終盤では仲間の側が呼び戻してくれたし、春香が自分の中の子供時代のアイドルへのあこがれを再認識したので解決したように見えた。が、映画版では春香の方から仲間未満の可奈に呼びかけて、春香が自覚的に可奈の中のアイドルへの憧れを刺激する話になってる。
だから、春香が他者を認識する話なんだ。
また、アイドルは「愛される存在」だとすると、春香が愛されるアイドルから、愛を与える側に立つ自覚を持つという事で、フロム的な愛を自覚する成熟の話ともいえるんだなー。


で、プロデューサーから春香へのバトンタッチの話とすると、愛することが世代を通じて受け渡される話とも見える。たった1年の中で疑似的な親子関係が社長、赤羽根プロデューサー、春香、可奈と四代分の積み重ねに成ってる。人間ドラマでは家族の話も大きなジャンルだけど、アニメのTHE IDOLM@STERは世代間コミュニケーションを取り入れることで、アイドルアニメでありながら家族の成熟を疑似的に描いたドラマ、とも見ることが出来て、多面的に味わい深い。



しかし、この「今を大切に…」って春香さんが言う時、赤羽根プロデューサーは誰かと電話してる映像が入るんだけど、春香はプロデューサーに電話して相談したのか?それとも赤羽根プロデューサーは仕事の段取りで他の人と話中で、春香が自分でプロデューサーの言葉を思い出して気づいたのか?
どっちとも取れる映像ですね。


まあ、この翌日、765プロと残りのバックダンサー組が全員で矢吹可奈を探しに行くとき、赤羽根プロデューサーが千早と打ち合わせしてたり、春香が事務所に全員を集めた所にプロデューサーもいたので、この晩にプロデューサーに連絡して他のアイドルとの調整をしてもらったのは確実なんですが。そこら辺のプロデューサーの裏方仕事の苦労は徹底して映さないことで重みを想像させるに任せるのが劇場版の赤羽根Pの仕事ぶりですね。

  • 可奈との対面

可奈と電話した翌日、春香が強い意志で全員を説得して、可奈を探しに行くと宣言する。
この事務所での集合の時、プロデューサーがアイドルたちの輪から離れているが、信頼感のある視線を送っている。また、中盤で春香との距離が開いていた千早も輪の外側にいた。しかし、千早は中盤の嫉妬心や苦悩も交じっていたような顔とは違い、プロデューサーと同じように春香の行動を肯定し、全体を支えるような穏やかな顔をしている。ダンスレッスンスタジオでみんなが揉めていた時、一人だけ輪から外れて無言で俯いていた千早とは表情が違う。
可奈を探し出す時、千早が可奈の自宅のベルを鳴らしに行って、春香と一時別行動するが、千早は最終的に春香と合流する。
これで、如月千早も「春香べったりで、春香が他の子を気にすると嫌がる」という段階を脱して、離れていても気持ちや行動が重なるし精神も安定する、っていうより成熟した愛情の段階に成長したと示されてます。
もちろん、春香の行動をリーダーとして認めて行動に移すように周囲を促した水瀬伊織も成長してる。
だから、春香と可奈の関係を描く可奈の捜索の場面でも他のキャラの成長も拾っていて群像劇っぽさがある。


で、可奈と対面した春香は語る。
「どうしても、アイドルをあきらめるって言う可奈ちゃんの言葉が信じられなくて。アイドルって、そう簡単に諦められるものじゃないから。そういうものだって、思いたいから…。そう、信じたいの」
ついに、春香は自分の口でアイドルがどういうものか、言った。自己像が曖昧で、どういうアイドルを目指してるのかもよくわかってないような春香が、自分以外の人間に対して、(24話の幼少期の自分の幻ではなく実際の相手に対して)、アイドル論を口に出した。これはアニマスの春香にとってはすごい成長です。春香も雨に濡れて半分涙ながらに、自分の心を絞り出すようにアイドルへの憧れを可奈に伝える春香。
でも、可奈は太ってしまった自分の顔を見せて、「私だって諦めたくない、でもダメなんです!」と、気持ちと実情をさらけ出した。
そして、過食症で太るまで追いつめられた自分のダメな経緯を春香に訴えた。これは合宿でプチシューを隠れて食べていたところを春香に見られたことの反復で、恥部を見せる場面。合宿の頃は春香はそんな可奈を肯定してやったんだが、太ってしまった可奈は「こんな自分は今度こそ春香に見捨てられるに決まってる」と思って自己否定的に語る。実際、ストレスで太るって言うのは自分で自分がダメだって常に自分の体から言われ続けるようなものだから、可奈の自己愛はズタズタになってる。
でも、春香は「諦めたくない気持ちがあるんなら、大丈夫!」と、再度肯定してやる。
ここら辺も、自己愛の成熟のステージとして上手く段階を踏んでると思う。
シロクマ先生のホームページで自己愛の成熟の段階的方法について書いてある。

どのようにして自己愛は成熟していくのか――汎用適応技術研究
 1.乳幼児期の、両親の弱点や欠点にまだ気付きにくい年頃から、
 2.子どもにとっての自己対象としての役割を引き受けている親のもとで
 3.親を自己対象として体験しつつ、“適度な欲求不満や失望”にも遭遇しながら
 4.それでいて欲求不満や失望の程度・頻度が極端ではない

この、両親って言うのをアイドルへの憧れ、に置き換えると、春香と可奈の成熟度の差も説明が付きやすい。
可奈はステージも人間関係も練習も上手くいかず、太ってしまった自分を見て、自己像がアイドルの理想像から離れてしまった、と極端に失望して自己愛の危機を迎えた。
対して、春香は仲間たちのアイドルに憧れて、理想化自己対象にしつつ、彼女たちの失敗や苦労を一緒に体験することで、適度な欲求不満や失望を受け止めて成長してきた。
だから、春香の方がアイドル経験があって、成熟度が高い。その上で可奈に「それくらいの太り方なら大丈夫。気持ちで取り返せるよ」と、言ってやることが出来た。
むしろ、アイドルを目指す事という概念を理想化自己対象として可奈に自分に似た部分を感じている春香にとっては、「自分に似てアイドルに憧れている子がアイドルをあきらめる事」の方が「気持ちが沈んで練習に来ない事」よりも失望が大きいし半身を切り取られたように感じるだろう。
春香にとって、「春香ちゃんに憧れてます」って言ってくれた可奈が自分と同じようにアイドルを目指すと、自分が肯定されるように感じる。可奈がアイドルになることを諦めて「テレビの向こうから応援するだけで良いです」と本心で言ったら、春香は自分がアイドルを目指そうとした気持ちそのものを否定されたように感じただろう。
だから、春香は太って泣いている可奈を見て、逆に安心したのだ。「アイドルを諦めたいわけじゃなかったんだね。だったら、私も同じようにアイドルを目指してていいんだね。良かったー」って。
他人と向き合うのがこの映画での春香の課題だったけど、やっぱり「いっしょに頑張ろう!」と言うのが行動原理になるのがアニメの春香の春香らしいところだ。いきなり他人との関係が上手でなんでも割り切れる大人になるんじゃなくて、一歩ずつ、少しずつ変わっていくというのがこの映画らしさなんだな。
春香はプロデューサーみたいな役割を担って、可奈のケアをすることで自分自身の内面を違う角度から見つめ直して、アイドルを目指すという自分の生き方が間違ってないと再確認できた。リーダーを任された春香は、プロデューサーみたいな考えが大事だという経験をして、赤羽根プロデューサーから託された言葉を心の底から実感して行動した。だが、それはプロデューサーや仕切り役になって会社に貢献するためじゃない。春香のアイドルとしての自信をさらに強めて、春香自身がアイドルとしてさらに強くなるためだ。


そう言うわけで、春香は可奈にアイドルを目指すこと自体を否定されてないと確認できて、春香の自己愛はある程度回復した。
しかし、可奈はそんな春香とは経験が違うので、春香がなんでダメな自分を信じてるのか、わからない。
春香さんは直感型で生きてる子なのでそこら辺の説明は下手。
そう言うわけで、頭の良い伊織ちゃんが「じゃあ、アリーナを見に行きましょう。実際に見たら、どうしたいか、わかるかもよ」と助け舟を出してやる。こういう性格の違いによる支え合いはホントいいよねー。


最後まで行きたかったけど、無学なくせにコフートやらフロムを引用したせいでアホみたいに長くなった。


その3、アリーナ編へ、つづく