玖足手帖-アニメブログ-

富野由悠季監督、出崎統監督、ガンダム作品を中心に、アニメ感想を書くブログです。旧玖足手帖から記事・ブクマを引き継ぎました。


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無敵鋼人ダイターン3 12話遥かなる黄金の星 無敵超人から無敵鋼人へのニーチェ思想の関連性について

脚本:星山博之 絵コンテ・演出:貞光紳也 作画監督:富沢和雄


破嵐万丈の過去を知る男、ワールド銀行の頭取ウェナーが今回の敵。彼は破嵐万丈が火星を脱出した時に持ちだした大量の金塊の在処を問い詰めるために万丈を砂嵐の拷問にかける。その苦しみの中で、万丈は火星を脱出した当時の戦いを思い出す。


今回の演出は前回に引き続き、スタンリー・キューブリックの作品の影響が強い。
モノトーンで描かれる回想シーンの市松模様の宇宙基地の壁や、宇宙船(マザーロケット)のシーンや精神世界での幻覚攻撃などは2001年宇宙の旅を連想させるし、その催眠術シーンに入る前の早回しで実写の写真が何枚も見せられるのは2001年のラストシーン的でもあるし、時計じかけのオレンジっぽくもある。Aパートラストの白抜きに顔だけが浮き上がっている破嵐万丈の顔も時計じかけのオレンジのポスターっぽい?


金田伊功によるメカ作画やアクションシーンはスター・ウォーズの影響もあるんだが。

  • 無敵超人の思想的続編としての無敵鋼人

無敵超人ザンボット3に対して「そもそも無敵超人とは何か?」という疑問はある。富野アニメの副題については、割と諸説あるのだが。機動戦士は、機動隊をモチーフにしているからである。
で、無敵超人の意味については氷川竜介先生の名著「20年目のザンボット3」にも記載されていないので、私は先日、ザンボット3を見終わった時に考察してみた。
無敵超人ザンボット3最終回 最終感想後編 作品テーマ対話篇 - 玖足手帖-アニメ&創作-
この時期の富野作品はスタンリー・キューブリックと共に、2001年の原作者であるアーサー・C・クラークにも影響を受けている、と見た。
そして、ザンボット3のテーマは「乳離れ」と富野監督が仰っているので、「幼年期の終わり」と関連付けて考えた。

幼年期の終わりと言う作品では「オーバーロード」という宇宙の知的生物の全てを見守る宇宙人の保護から地球人が巣立つ話だった。

知的生物の全てを見守る「オーバーロード」と全てを殺す「バーサーカー」はSFの中で対になる存在とも言える。だから、バーサーカー的なガイゾックのコンピュータードール8号を粉砕した勝平は親の洗脳や家族の理念も破壊されたが、宇宙の秩序という大きな父なる律法からも解放されたと言える。

富野監督の言う「乳離れ」とは、「規範からの解放」なのだ。と、私は読み取った。

ニーチェは著書「ツァラトゥストラはこう言った」にて、人の道徳観が成長していく過程をロバ、ライオン、赤子の3つの状態に例えていた。すなわち、人は何ももたない赤子として生まれ、まず他者から与えられた規範に従う不自由なロバとなる。つづいて、他者から与えられた価値観のみならず自身の価値観をすら疑い、抵抗するライオンへと変化する。


そして、十分に自身の価値観を噛み砕き血肉としたならば、もはや「価値観」などという言葉にとらわれる必要はなくなる。なぜなら、もはや自身の内にある道徳観に従うだけで十分だからである。


この状態をツァラトゥストラは「赤子」と表現した。赤子の状態では心に従うことがそのまま正義の体現となるはずであるから、もはや与えられた規範など不要である。むしろ規範は積極的に打ち捨てられるものとなるのだ。そして、赤子の境地に到達した人は、どんなに好き勝手に行動したとしても全ての行いが正義であり肯定されるのだから、これこそが真の自由を獲得したということである。


実際には、赤子の境地に到達するのは至難の業である。そこで、ツァラトゥストラは赤子の境地に到達するための方法論として、「超人」という偶像を思い浮かべよと説いた。超人とは、自分の価値観をもとに想像した最善の理想像であり、赤子の境地に到達した自分の姿である。

そして、生まれ直しの儀式を行い、赤子のような無垢な顔で目覚めた神勝平はニーチェのいう所の超人となったのだ。


無敵超人の誕生である。

無敵超人と言う副題は、つまり、ニーチェ思想だったのだ!

宇宙の秩序をつかさどるバンドックの神は死んだ!
無敵超人ザンボット3最終回 最終感想後編 作品テーマ対話篇 - 玖足手帖-アニメ&創作-


無敵超人ザンボット3は生まれ直しの儀式を行い、赤子のような表情で無敵超人として目覚めた神勝平の表情で終劇した。


無敵鋼人ダイターン3はその後の富野監督ロボットアニメである。(放送は1978年3月末にザンボットが終わった後、ダイターンは6月3日から放送スタート)
当然、思想的にも関連性があると考えてみた方が面白かろう。(実際に富野監督がニーチェに影響されたかどうかの真偽は分からないし、富野監督自身もこの時期のことはもう忘れているだろう。ちなみに、富野監督は「絶望は死に至る病と言うのは、ニーチェの言葉です」と、講演会で何度もキルケゴールニーチェを取り違えた経歴が残っている程度の哲学知識です。一昨年くらいに、やっと直った)


で、鋼人と超人の違いは何かというと、超人は修行によって達せられた境地であるのに対し、鋼人は人工物であり手軽だということです。
神勝平が最終回で超人の境地に至るまでには、睡眠学習、激闘、親しいものとの度重なる死別、バンドックとの思想的対話、秩序の破壊などの段階を経ている。
対して、破嵐万丈は母親にマサアロケットとダイターン3と一生遊んで暮らせる金塊を、何の修行もなく与えられている。


演出面においても、ダイターン3ザンボット3に比べて非常にライト。ロボットが道を歩くと道路交通法で規制されたり、ロボットが戦うと周りの避難民が流れ弾で大量に死亡したりと、非常にハードな世界観を1970年代のリアルな日本の駿河湾や太平洋を舞台に描いたのがザンボット3だが、ダイターン3は21世紀中盤で人類が火星に進出し地球は恒久平和となっている明るい未来が舞台。ダイターン3の戦闘もザンボット3のように悲惨になることもなく、10話のように映画として消費されたり、大衆のリアクションも気楽だ。
リアルな戦争のように戦ったザンボット3と比べると、ダイターン3は芝居がかった口調で「世のため人のためメガノイドの野望を打ち砕くダイターン3。この日輪の輝きを恐れぬのなら、かかってこい!」と口上を述べて戦う。なので、作り物めいているのだ。
破嵐万丈が自分の過去やメガノイドへの憎しみを隠して表面上はヘラヘラしているのも、演技であり、作り物っぽい。


私は富野信者なので、富野監督の行動や作劇には意味を見いだしたい。「ザンボットでリアルをやったから、今度はスーパー系でやろう」という以上の意味を読み取りたい。それが誤読であろうとも。


それで、無敵鋼人を無敵超人の続編として考えると、結構面白い意味づけが出来た。
つまり、ザンボット3の50年後、ザンボット3で提示された問題が全て解決された未来において、ロボット・ヒーローは存在しうるか?というのがダイターン3のテーマだったんじゃないかと。
「70年代のリアルな現実にロボットは存在しうるか?」「存在した場合、どんなふうになるのか?」と突き詰めていったのがザンボット3だと思う。


それで、「人間同士で戦争をするほうが、宇宙人より悪ではないか?」とか「人は闘争本能や感情的な確執を乗り越えられるのか?」とか「ロボット超人を大衆は受け入れられるのか?」という疑問が発生したのがザンボット3の終盤である。


それに対して、ダイターン3では「明るい未来には戦争はなくなっている」という世界観でザンボットの疑問を打ち消した状態で物語がスタートしている。
また、無敵超人になるために神勝平は過酷な戦闘や訓練や洗脳を重ねたが、無敵鋼人ダイターン3の世界観におけるメガボーグは「人間を超えたスーパー人間」と第1話で明示されるように、「機械じかけでお手軽に超人になったもの」と解釈できるだろう。
ザンボット3では一人の超人を生き延びさせるために神ファミリーの半数が死亡した。対して、「超人が量産された未来ではどうなる?」と、思考を飛ばしているのがダイターン3なのである。
だからして、「ダイターン3ザンボット3ガンダムの間の息抜き」と思っていたら非常にそんで、むしろ超人への人の革新という物語モチーフの文脈ではダイターンはザンボットとガンダムを連結する役割を果たしている。というか、同じ富野監督が作っているので、思考実験として関連性はあるのだ。


時計じかけのオレンジでは、不良少年が洗脳実験によって闘争本能を抑圧されるが、紆余曲折を経て暴力を取り戻すという物語である。ザンボット3の神勝平は逆に、洗脳によって闘争本能を研ぎ澄まされた戦闘マシーンとなったが過酷な最終戦闘を経て痛みや恐怖を思い出し、超人となる、という物語である。


では、平和な未来世界で誰もが機械で超人に成れる世界はどうなるのか?
という思考実験がダイターン3においてなされている。


さて、万丈は子供のころから火星のメガボーグ開発の破嵐家の御曹司としてメガボーグを観察し、親から力と金を与えられて、勝平のような試練もなく、そのまま大人になった男である。
中学生の神勝平は大人になるための乳離れという儀式をするために非情な戦闘や人間との確執を経験して超人となった。
破嵐万丈はそのようなイニシエーションを経ずに財力と体力と美貌と兵器を手に入れた。お手軽に力を経たが、それは作り物の演技であり、本当の意味での大人や超人ではない。
だが、偽物の振る舞いでも大人や男を演じなければいけない、というのも人間の生活の一面の真実でもある。
では、大人になるというのはどういうことなんだろう?
勝平のように大人になるために世界のほとんどを破滅させるほどのイニシエーションを経験する、というのも現実的ではないだろう。平和で安定した社会の中で、経験すべき試練や精神的葛藤を経なくても大人になっていくのが現実である。
それを、破嵐万丈はどう見せるのか?


2クール目からはそこに焦点が当たるだろう。


WEBアニメスタイル小黒祐一郎氏は

僕は、アムロモビルスーツのパイロットとして経験を積むうちに一人前の戦士に成長していく、すなわち、成熟した大人になっていくのだろうと思っていた。しかし、アムロは大人にはならず、ニュータイプになってしまった。第20回『機動戦士ガンダム』でも書いたように、僕は『ガンダム』第1作最終回に物足りなさを感じた。それはシリーズのクライマックスで、彼が戦士として大きな成果を残す事がなかったからだ。


 『ガンダム』第1作の放映から10年近くが経って、『逆襲のシャア』が公開された。劇中では10数年が経っており、劇中のアムロは29歳になっている(ただし、劇中でははっきりとは年齢に触れられていない)。設定的な理由は別にして、アムロが鬱屈したまま年齢を重ねてしまったのは、『ガンダム』第1作の頃の現代っ子が、すなわち僕達が、10年近く経ってもまるで大人になっていない事を反映させたものではないのか。


(中略)
フィルムを通じて作り手は、「君たち、大人になりなさいよ」と言っているわけだ。
 さっきも書いたように、『ガンダム』第1作で、自分達に近しい存在であったアムロが大人にならなかった事に不満を感じたわけだが、彼が大人にならなかった事が、こんなかたちで自分達に返ってくるとは思わなかった。その意味でも『逆襲のシャア』は苦い。
WEBアニメスタイル | アニメ様365日 第471回 大人にならなかったニュータイプ

と、書いている。
さて、万丈は大人の男として美女を侍らせ、プレイボーイとして振舞っているが、それは大人なのか?どうなんだ?
大人としての振る舞いは本質的な成長を経た物なのか?それとも単なる社会適応における演技、芝居に過ぎないのか?


お気楽娯楽アクションアニメ、無敵鋼人ダイターン3だが、そのような苦さを前提にして見ると、また違った面白さが発見できるのではないだろうか。
(無駄な人生を重ねているので、僕はこの年になっても憂鬱ミュージアムは未読)