玖足手帖-アニメブログ-

富野由悠季監督、出崎統監督、ガンダム作品を中心に、アニメ感想を書くブログです。

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思い出のマーニー感想後編(ネタバレ気味)百合と真実の愛とは

っていうか、僕は百合が好きなので、百合姉妹巻頭から買ってたくらい百合厨なので、もう何でもかんでも百合として見るのです。プリキュアエアマスターも百合です!
早速、「マーニーは百合だ!」「思ったほど百合じゃない」などと言う百合論議がネットで起こったり感想が書いてあったりしている。でも、僕としては百合と言うのはもっと懐の広いジャンルであってほしいし、老若男女も百合を愛でてほしいと思うので、百合定義論争で百合の枠を狭める行為は百合の可能性を積んでしまうことではないのかと思うので、やっぱり百合でいいと思うのですよ!

私は百合男子が百合姫で連載される前からの古い百合男子OBなのだ。ふははは怖かろう(ラフレシア男子)。
とりあえず、公開前あらすじ
「思い出のマーニー」をどう見る? 複雑なストーリーにはミステリーの要素も
公式サイトのあらすじは短い割に分かりやすいし、読んでから見たのでミステリーパートのオチが読めてわかりやすかったのですが、結構ネタバレでした。
http://marnie.jp/index.html


マーニーが百合かどうかって言う議論で一番取りざたされるであろう事がセクシュアリティの有無なんですけども。
レズじゃないんですよ。セクシュアリティはない。マーニーと杏奈に性的な交流はない。だけど、百合です。そこが百合の奥深い所でね。性的な関係が無くても、心の底の方で何かの指向性があれば、それは百合です。
まあ、特にパートナーも得ないまま30代に成ってしまった男性の僕が少女の同性愛をどうこう言うのはおかしいのだが、まあ、ここはチラシの裏だからねえ。



以下、ネタバレ



ぶっちゃけた話、これ、TARITARIだよね。


はい、解散。


TARITARIとは!
作品の神は細部に宿る。圧倒的情報量の統合『TARITARI』 - 仮想指定
教頭|アニメ「TARI TARI」公式サイト
ジブリの筆頭アニメーターではなく声優の方の田中敦子声の教頭が!百合関係にあった大原さやか声の坂井まひるが死亡した後、その娘で自分の学園に入学した高垣彩陽声の坂井和奏になにかと愛憎から来る試練を与えたりアプローチをしたりする世代を超えた百合アニメである!

TARITARIのもっとも素朴な見方 - まっつねのアニメとか作画とか




マーニーと杏奈の百合って言うか、久子とマーニーの老女百合を彩香と杏奈のヤングユリップルが見て、百合友情を深めるきっかけとなるって言う。


江の島からTARITARIの男子部員が居なくなったようなありさまが思い出のマーニーのあの入り江なんじゃないかと。


なので、マーニーと杏奈は「あなたのことが大好き!」って言い合うけど、実は微妙にずれがあるんですね。そのずれについてはパンフレットの三浦しをんさんも指摘しているけど、実はそれは性差による百合とかレズとかの感覚じゃなくて、見ている相手がそもそもずれているんだよね。




今から重大なネタバレをします。






パンフレットの解説では三浦しをんさんはクリエティカルなことは書けないだろうけど、ここは僕のチラシの裏なので書いてしまうと、マーニーって湿っ地屋敷に住み着いた思春期の残留思念の亡霊で、マーニーの日記に書いてあったことを自動再生するスタンド能力じゃないですか。


だから、マーニーって過去に起きた久子か和彦と過ごした体験しか再生できないわけですよ。アバッキオのスタンドのムーディー・ブルースがノトーリアス・B・I・Gみたいに死後も自動再生し続けているような。
だから、マーニーが杏奈に「今まであったどの女の子よりもあなたが好き」って言うけど、それが杏奈かどうかは謎って言うか、どっちかと言うと久子に言った台詞を杏奈に置き換えたような感じですね。こう、夢小説のように登場人物が読み手の名前を物語に入れ込んでセリフを変えるような感じで。だから読み手に合わせて読み手の愛情をくすぐるんだけど、でも実際の登場人物は読み手なんか見ていなくて単に自動的に入れ替えているだけなんだな。で、微妙に展開に矛盾点があると消滅したりシナリオが途中で切れて、杏奈は気絶する。
脚本も手がけた米林宏昌監督は16年前のserial experiments lainの原画も担当されて、そういう中村隆太郎監督のシニカルなサイバー性や人格の曖昧な世界観も受け継いでいるとかいないとか。
マーニーのプログラムにバグが発生するところではジブリらしからぬサイバーなCGノイズが出たりするんだが、そういうアレなのかな。
原作では、アンナは幻想のマーニーとのそういう関係性を卒業してから現実的な友人のプリシラ(アニメ版では彩香)に向き合うように成長していく、って言う構成なんだと思うけど(未読だけど)。アニメ版では屋敷の妖精であるマーニーの妖艶さや不思議さを大きな核として再構成しているために、彩香はチビで眼鏡で年下の女の子と言う風になって、百合ヒロインレースから格下げになっているんだな。


だが、待ってほしい。チビで眼鏡の女の子は百合ヒロインたりえないのか?(そもそも、魔女の宅急便のトンボはチビで眼鏡だった)
太った女の子は百合になれないのか?(紅の豚は豚だった)精神と肉体、身分や性別が愛にどうかかわるのか?
そういうことは、直木賞作家桜庭一樹先生が原作を書かれ、先日無事単行本が完結したタカハシマコ先生の萬画版「青年のための読書クラブ」に描いてあり、これはこれで百合なのである。

私はタカハシマコ先生の百合萬画を愛読しているのである。(兄妹のエロ漫画も愛好しているのである。ただ、BLはやっぱりちょっと苦手なのである。こんな男はいないよーって思うのだ。しかし、タカハシマコ先生のボーイズラブ萬画でも老年の男が青年に昔の同性愛のことを語る短編(しかし電子コミックで読んだためにタイトルは忘れた。なんだったかなあ)は好きだし、スズラン手帖では老女百合も書いてあったし、青年のための読書クラブもそういうところがある)
なので、世代を超える老女百合って言うジャンルは割とあるし、老境を迎えて青春時代を思い出し、時間や性別を超えるというのは痴呆の症状でもあるが、文学のモチーフでもある。


そういうわけで、話を戻すと思い出のマーニーのアニメ版はパッと見はマーニーとアンナの百合のように見えて、マーニーと久子の老女百合でもある。また、杏奈は彩香からの(憧れの人に間違えられる)アプローチに気づいていないけど、そういう一方通行百合でもあるし、また太っちょの信子とのひと夏のすれ違い百合と言う伏線もあって、色んな百合があるなーって。
また、久子は結婚した後のマーニーとは疎遠だったけど、マーニーが夫と子供を亡くした後はその孫を見守りつつ、マーニーとの子供時代の思い出の屋敷を描き続けるとか、執念百合!マーニーが男と過ごしていた期間はすっ飛ばして少女時代の思い出のマーニーを描き続ける老女なー。百合だよなー。


それだけでなく、寡黙な十一が最後に「青い窓に閉じ込められた少女…」とだけ言うので、彼がマーニーに若いころに不器用に惚れて言い出せなかったのかもしれんと言う想像も成り立つわけで。
こういう微妙な伏線は高畑勲っぽい。
男性キャラクターはほとんど出てこない今作だが、杏奈の札幌時代の男性の先生の真面目な雰囲気とか、杏奈の絵を除こうとする男子の粗雑な振る舞いの戯画化した感じやPTAのおばさんやいじめる悪いババアの戯画化した感じは高畑勲監督のじゃりン子チエの雰囲気に似ている。(まあ、赤毛のアンからの地続きでもあるだが)
何より、杏奈と久子の得意なのが絵画と言うのが、じゃりン子チエのヒラメちゃんですわー。


で、杏奈が幻想のマーニーと互いに永遠の愛を誓い合ったけど、マーニーの告白は過去の久子に向けられたものだったわけで、杏奈のマーニーへの愛情は宙ぶらりんになりそうなものだが、そこは久子の語りがフォローしたのか。
そこで、過去のマーニーの愛人だった久子への百合的な嫉妬心に成らずに、肉親の愛情にスムーズに感情の位置エネルギーを保ったままスライドさせて観客を盛り上がらせるのは原作からの構成かもしれないし、巧みに配置された伏線を利用した演出テクニックかもしれない。
実際、私が映画館で見た時には、母娘連れの母親さんの方が感涙してらしたし。ある程度歳の行った婦人層の方がこういう高齢百合とか肉親の情とかにはもろいのかなあって思った。しかし、そういう風に「バケツ一杯泣かせるんだ!」って言う、観客を泣かせるけど自分は計算ずくって言うのは割と高畑勲監督の母をたずねて三千里のペッピーノ的な所がある。
なので、宮崎駿監督と高畑勲監督の関わらないジブリ映画って言うけど、割と宮崎駿監督の絵柄(あと髪の毛が感情でぶわーって成る所)を受け継ぎつつ高畑系の「感情移入ではなく異化効果で泣かせる」演出技法も使っていている。まっつねさんの受け売りだが。
児童文学研究家の宮崎駿氏だとまた違ったアプローチで演出しそうだけど…。
しかし、パンダコパンダのミミ子はおばあさんにマメに手紙を送っていたけど、思い出のマーニーの杏奈は手紙をあんまり送らないし養母も電話しないので、パンダコパンダのオマージュのような手紙の束かと思わせて、微妙に演出の温度感を変えてるなあと言う印象。パンダコパンダほど素直な関係の家族ではないのだ!という思春期っぽさ。魔女の宅急便もマーニーの杏奈と同年代の思春期前期だが、魔女の掟とかで手紙を出さないんでしたっけ。
ナウシカは母に愛されなかった。千尋の親は豚だった。トトロは母に手紙を届ける話。
あと、ボートに蝋燭が置いてあるのはポニョのオマージュですね。でも魔法の力で船をこぐんじゃなくて、人力で舟を動かすんですね。でも舟をこいでいるマーニーは・・・。というシニカルホラーな雰囲気もある。崖の上のポニョクトゥルー神話的な恐怖感はあったけど。


そういうわけで、色んな方向からの百合の関係性が楽しめたし、宮崎駿高畑勲の要素を融合させてまた違うものを作り出した感じがあるし、最近はアナと雪の女王マレフィセントのように姉妹百合、親族百合などがブームであるし、ジブリの世代交代も今度こそ上手く行くといいですね、って思うけどどうなんですかね。
ガンダムもなんだかんだ言って未だに富野監督が作ってるけど。でもサンライズは原作付とかアイドル系とかロボットもの以外の活路も見いだしているか。タツノコプロガッチャマンの実写がアレだと思わせて意外にクラウズがヒットしたわけで。
東映は昔からあるマスプロだから既に世代交代は何度も行われているっぽい。

  • 愛されることの信頼性

しかし、まあ、マーニーの一家はタタリガミの怒りを買ったのかと言うほど短命で病弱で不幸な一族でやべえよなー。
まー、ジョーン・G・ロビンソンの原作は読んでないが、児童文学やお伽噺って割と人命が軽く、「翌年死にました」とかサラッと流してあるケースが結構ある。しかし、マーニーの家族は不幸に見舞われまくりですね。
keyのゲームかよって感じ。
うん。すごく鍵ゲーな感じがしますね!CLANNADは人生、鍵ゲーは児童文学!
療養だの、交通事故だの、残留思念だの、幽霊の家族との絆とか、欠けたシナリオを探していくクエストとか、鍵ゲーによくあるアレだ…。Kanonとかリトルバスターズ!で見たアレだ…。
なので、麻枝准さんもジョーン・G・ロビンソンも文学!うん!あとタカハシマコ先生とか桜庭一樹先生も文学だし、はるき悦巳先生もTARITARIも文学なんだな。
こう、普遍的な愛すること愛されることというテーマを描いてるんじゃんよ。
しかし、ここでもマーニーと杏奈の時間を超えた齟齬のようなものがある。
三浦しをん先生はパンフレットで『「いま」を生きるすべての人に』『自分を囲い込む息苦しい「輪」を、自分の体と頭と思いとでなんとか打ち破るほかない。その時に救いや支えになるのは、「誰よりも」大切な相手(それは親族や異性に限らない)と過ごした、かけがえのない時間の記憶』って書いてるし、監督も「この映画を見てくれた人が、自分は誰かから愛されているということ、愛されていたということを思い出してもらえたら」と書いてるんですが。
マーニーと杏奈のクライマックスでの「泣き」の「あなたを許すわ」「決してあなたを忘れないわ」という愛の告白の言い合いは、実際は時間がずれているので、相思相愛の関係がずれてるんですね。ハウルの動く城の「未来で待ってる」とも違っていて、マーニーの告白は「久子」に向けられたものかもしれないという齟齬がある。
なんだけど、そこは上手くはぐらかして、実はおばあさんだったマーニーが子守歌を歌ってくれたという愛された記憶、って言う風に感情の盛り上がりはそのまま、事実をすり替えてスライドさせてるんですねー。ここら辺のアクロバティックな劇構成はすごいなあと。
で、そのアクロバティックな感情の持って行き方を視聴者に意識させないように、久子の語るマーニーのその後の人生は昼ドラ並みの不幸の連続が疾走する。ここの計算も上手いなあ。しかも、マーニーの娘で杏奈の母の絵美里や夫の和彦の死や命の重さが演出的に軽く扱われて杏奈とマーニーの関係性の引き立て役にとどめる、と言う作家の冷徹な計算が技巧的だ。
なので、杏奈は祖母のマーニーに愛されていたかもしれないけど、和彦の描写があっさりしすぎているのでマーニーは夫との関係が上手く行ったのかよくわからないし、娘との関係は破綻して娘は死んだ。(また、その描写があっさりしているので杏奈の方も無力に死んだ親と祖父への感情が薄い)実際はサイロに助けに来たのは和彦で、日記にも和彦のことをたくさん書いていたので、和彦を愛していたのかもしれない、と言うのは感じられる。だが、その後に久子との関係を書いたページを破って取っておく、ということがあるので、マーニーの心の中では結婚相手の和彦よりも久子の方が重要だったのかもしれない。花売り娘として誘い込んで二人で夜に踊った久子の方を百合的に愛していたのかもしれない。(また、マーニーの日記がどれだけ彼女の本心だったのか、と言うのも怪しいのだ)
と、一見すると杏奈はマーニーと相思相愛、だから愛されてよかったね、と言う風に見えるんだが、マーニーの杏奈への愛情は和彦や久子などを経由して、かなり屈折して伝わっている。そういう余韻の伏線が散りばめられていて、考え直すとちょっと歪なんだけども。それを一見ではあまり感じさせられなくてストレートな泣きに持って行くのは上手い。
そうやって上の世代からの愛情を受けた杏奈が成長して田舎を去る時に成長していく、というのもビルドゥングスロマンとして児童文学のセオリーっぽい。
だけど、マーニーの方は果たして、愛されていたのだろうか?すっごい不幸だった。
でも、老いたマーニーは幼い杏奈に笑いかけていたのだ。彼女を愛していたのは久子?和幸?絵美里?赤ん坊の無垢な愛情?そこら辺を曖昧にするのも映画としての手腕だ。


しかし、はっきり言ってしまえば、僕は「人間は愛されて生まれてきた」なんていうきれいごとは大嫌いな心の歪んだ人間です。この稿では延べないけど色々とプライベートは破綻している。だけど、「杏奈が祖母や養母に愛されていた」、って言うことの対比として、「マーニーは親に放置され使用人にいじめられていて愛されていなかった」という不幸が置かれているので、その点は僕のような心の腐った人間でも安心できた。愛された人間だけが価値を持ち、愛を育む資格がある、って言う話だと、僕のような屑はますます救いが無い。
だが、マーニーは親に愛されず、いじめられ、優しい夫にも娘にも先立たれ、子供時代の友人の久子とも大人になるにつれて疎遠になった。それでも老境のマーニーは愛情を生み出すことが出来た、と言うのは良い。まあ、多少は理想化しているし、実際の老人はもっと臨終行儀が逝き汚いと思うんだけど。
愛されなくても愛を産むことが出来る、って言うのは希望ではある。それをできる女性の復元力は素晴らしいな。そういう意味では老女百合は文学的に重要。
ただし、三浦しをん先生は「結婚によってマーニーは屋敷から自由になった」とフェミニズム的に言うが、取り残された久子はずっと死後のマーニーの絵を描き続けている老女百合の妄執となっている…。
いや、しかし、それはそれで久子が納得しているならいいだろうし、養子でも絆が育てられる、って言うラストだったので、かなり「結婚して両親がそろうのが幸せ」という価値観から離れた所にある映画ですね。むしろ両親がそろって贅沢をしているマーニーの方が不幸だったという。
大岩夫妻が健康で愛し合って子どもも育て上げて田舎暮らし、と言うわけだが、それはそれで「おもひでぽろぽろ」的なファンタジーとしての田舎のように見える。


なので、百合の深みをジブリで見せてもらった感じがあります。(となりのトトロの姉妹百合は百合候補生がサツキとメイに絞られていたので、もっとシンプルだった)
ごちそうさまでした。


だけど、青年のための読書クラブでは乙女の園が崩壊するラストに、老人の男性が「私は男子校でしたが、それもそれで悪くなかった」と言う。
だから、百合、あるいはBL、というかそもそも文学は男性と女性の垣根を超えて、絡み合い混じり合う物なのではないのかな、と思った次第で。

百合作品を見ている間は、僕は男であることを忘れて一個の純粋な魂に成れるのだ!


しかし、やっぱり杏奈は男とは違って女の子だな、って思ったのがあって、泣いたカラスがもう笑うように、突発的に不機嫌になって暴言を吐くと思ったら、ちょっといいことがあるとケロリとしているような場面が多い。情緒不安定。理想は高いけど、裏切られることが怖く、でも叶えられると調子に乗るような不安定な自我の持ち主だ。僕も患っている精神疾患だがボーダーライン症候群など、こういう極端な感情を持つ人は多い。
そういう感情の不安定さを積み上げてきているので、マーニーに裏切られたと思って「絶対に許さない!」って言っていたのに、マーニーの顔を見ると「許すわ!」って言っちゃったり、する言動のコロコロ変わる感覚は、逆に今の若い子、思春期前期の女の子らしいな、って思う。
また、養母が自治体からお金をもらっているとか、周りの男子がうっとうしいし、クラスの女子とも馴染めないとか、他人との距離感がつかみにくいとか、杏奈の悩みはメンヘラ女子っぽくもあるが、30代の男性(無職)の僕から見ると「ガキは小さいことで悩んでやがるなあ」って感じです。
でも、そういう子供の悩みの小ささ、小さいことをこの世の終わりのように思いつめる思春期っぽさや言動の不安定さもひっくるめて、愚かで小さいものを見守るような萌え感情が芽生えてきますね。
あと、やっぱり彩香の好意(引っ越した先で話し相手になったのが杏奈だけと言う淋しさの裏返しかもしれないが)を杏奈が完全にスルーして気づいていないすれ違いとかも、視聴者と言うメタ視観から見ると百合萌えになるなあ。


と言うわけで、少女達の百合萌えを見守るオッサンのような気持ちで見たので、やっぱり、ジブリロリコン映画を作っていくスタジオになっていくんでしょうか…。


米林宏昌画集 汚れなき悪戯

米林宏昌画集 汚れなき悪戯