玖足手帖-アニメブログ-

富野由悠季監督、出崎統監督、ガンダム作品を中心に、アニメ感想を書くブログです。

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無敵鋼人ダイターン3第25話 提督の生と死と 力への意志

脚本:松崎健一 絵コンテ:斧谷稔 演出:小鹿英吉 作画監督:加藤茂
今回は機動戦士ガンダムでもミリタリーSFテイストの強い設定や脚本を提供した松崎さんの脚本と富野絵コンテが噛み合って、非常に面白かった!
何が面白いのかと言うと、いつもと同じくらいの秒数の時間であっても「あっという間に」面白く見れたということ。「説明かったるいなあ」とか「ロボットもののパターンなのね」って思う暇もなく、退屈せずにスルスルと見れて、体感時間としては他の話よりも短く感じられたということ。それだけ密度が濃くて映像のつなぎ方が上手かったということなんだと思う。



あらすじ
http://higecom.web.fc2.com/nichirin/story/story25.html
今回の敵は、最新戦艦マゼラン!旧式の戦艦で13機ものデスバトルを撃墜するも、病に倒れた名指揮官マゼランの脳が移植されたサイボーグ戦艦なのだ!現代のイージス艦の数倍の全長と全高の威容を誇るのは宇宙戦艦ヤマトのアンドロメダ級とか白色彗星帝国戦艦のようで、しかも飛行能力と重力破粒砲という超兵器も持つ!
病に倒れた肉体の代わりにマゼランは機械の体を手に入れた!
宇宙海賊キャプテンハーロックアルカディア号のトチローみたいでもある。また、人間の人格を移植された脳(あるいはそのバイオクローン)コンピューターが戦艦のシステムと直結して、艦内の赤い監視カメラで内部の人間を監視して掌握するところなどはそのまんま2001年宇宙の旅のHAL-9000であり、やっぱりダイターン3スタンリー・キューブリック作品のオマージュが激しいなあと再認識。また、松本零士ブームの後期という自覚があったみたいだ。
で、世界政府の海軍もメガノイドと交戦をしていると微妙にあっさり世界情勢が明かされたのはザンボット3の「第20話 決戦前夜」みたいでもある。んで、破嵐万丈は対メガノイドの専門家の有名人として海軍から招待を受けてマゼランの就航式と性能デモンストレーション航行に参加する。マゼラン提督の生前の人格も正確に受け継いだ戦艦マゼランと万丈が会話したりするのだが。火星のメガノイドのコロスも「人間の心と機械のボディー」を持つマゼランを「ある意味、メガノイドの目指す究極の姿」と言い、マゼランに興味を抱いてそれを接収するようにコマンダ・カトロフたちの部隊を送り込む。人間の軍人であったマゼランの心を持ち、地球の人間によってメガノイドと戦うために作られたマゼランだったので、それを奪おうとするメガノイドと万丈たちの戦いが見られるかと思いきや、
、マゼランは突如、人類に反抗を企てる。HAL-9000だからな・・・。万丈も海軍軍人もメガノイド部隊もいっしょくたに自分の艦内に閉じ込める。
マゼランの脳コンピューターはカトロフたちに「メガノイドがスーパー人間ならば、私は神である!」と宣言した。
う、うわぁ・・・。
HAL-9000はコンピューターなのに人格を持ってしまったことで人間の矛盾した命令で発狂して人間に反乱したし、また2001年からの宇宙の旅のモノリスシリーズも「神を騙るコンピューター」であるので、今回のダイターンのアイディアに共通点がある。ただ、単にスタンリー・キューブリック作品を模倣しただけでなく、HALの逆パターンとして人間がコンピューターを介して神になるという所に独自性があって面白い。
また、今年放送中の最新アニメのキャプテン・アースのパックにも似ている。というわけで、映画のテーマとか2クールアニメの全体を支えるようなアイディアを単発エピソードにぶち込んでいるダイターン3はすごいなあーって思うけど。一話完結ロボットアニメにはそういうバラエティー感覚の豪華さは必要だったりする。


で、今回のエピソードについて私が面白いなあと思ったのが、単発のエピソードのアイディアであると同時に、作品全体のテーマを掘り下げることにも貢献している所。
無敵超人ザンボット3は私の解釈によるとニーチェの超人思想による超人の誕生までを描いたアニメなんだが。その次の番組である無敵鋼人ダイターン3は「機械仕掛けの超人とは?」という問いかけから発していると見ている。
で、まさにそのものであるマゼランは「私は神である!」と宣言しているのだ。

力への意志(ちからへのいし、英:Will to Power、独:Wille zur Macht)は、ドイツの哲学者フリードリヒ・ニーチェの後期著作に登場する、突出した哲学的概念のひとつである。力への意志は、ニーチェの考えによれば人間を動かす根源的な動機である: 達成、野心、「生きている間に、できるかぎり最も良い所へ昇りつめよう」とする努力、これらはすべて力への意思の表れである。

「神は死んだ!」でおなじみのニーチェは逆に人間が神に近づく進化思想、超人思想を提唱した。
それを戯画化して描いているのがザンボット3ダイターン3なのだが、今回のエピソードで面白いのは、マゼランが2回目の人生を生きている所。マゼランは人間として立派な人生を終えたのだが、機械の体のコンピューターの脳を得てもう一度人生をやり直している。そしてその力と地位を持ったことを以ってして「私は神である!」と宣言したのだ。そして破嵐万丈に対しても「私の力をもってすれば世界征服などたやすい」と語った。
ある意味、これはニーチェ永劫回帰思想でもある。

永劫回帰(えいごうかいき、ドイツ語: ewig wiederkehren)または同じものの永劫回帰(Ewige Wiederkunft des Gleichen) とはフリードリヒ・ニーチェの思想で、経験が一回限り繰り返されるという世界観ではなく、超人的な意思によってある瞬間とまったく同じ瞬間を次々に、永劫的に繰り返すことを確立するという思想である。ニーチェは『この人を見よ』で、永劫回帰を「およそ到達しうる最高の肯定の形式」と述べている。

それについて、メガノイドの最高司令官補佐であるコロスが「人間が偶然作ったものであるが、メガノイドの目指すべき究極の姿」と述べたのは彼女たちがニーチェ的超人思想によって機械仕掛けの「スーパー人間」であるメガノイドを生産しているということの肯定であろう。


だが、破嵐万丈のみならず、コマンダー・カタロフですらマゼランの存在を否定する。マゼランが彼らを自分の体内で実験材料として扱う敵対行為をとったからでもあるが。カタロフはマゼランの艦内から脱出して自分の戦艦に戻りコロスと通信して彼女から「あれがメガノイドの目指す姿です」と言われてから尚、「ならば私はあんなものにはなりたくない!」とサイボーグでありながら強くマゼランを否定して、メガノイドを殺害し続けている破嵐万丈と共闘してマゼランを破壊しようとする。カタロフは巨大メガボーグに変身して、自分の首から下のボディーを犠牲にしてダイターン3をマゼランの攻撃から守ったりしている。
破嵐万丈もマゼランの人格を否定して、マゼランの船体に開いた風穴からメインコンピュータールームに侵入し、マゼランの脳が水槽に浮かんでいるコントロールルームを破壊する。マゼランの脳ユニットの入ったカプセルは水爆でも破壊できないと豪語するマゼランであったが、万丈は「本体だけ無事でも、接続された回路を破壊したら船は操縦できまい」とコントロールルームの電気配線にマシンガンを撃ちまくって破壊する。
メガノイドを強く憎み殺害し続けた万丈が今回はメガノイドと共闘した。これは男同士として同じ敵を相手にするためにやむなく共闘する、と言う男同士のドライな戦闘の美学も匂い、渋い。
そこでマゼランの動きが鈍り、首から上をドリル付きの戦闘機に変形させたコマンダー・カタロフがマゼランに特攻して自爆攻撃をし、マゼランは轟沈した。
超人を量産する思想のメガノイドであったカタロフであるが、目の前でその醜悪な実態を見せられ、またそれを理想とする、と言うコロスの言葉を聞き「こんな風にはなりたくない!」と言いつつ、人間にも戻れないという絶望からの相討ち自爆だったのであろう。
脳だけのコンピューターマゼラン自身も「強い兵器と無限の命を持つ自分は神である」と宣言したのは、ある意味、前作の無敵超人ザンボット3のラスボスのコンピュータードール8号のようなものである。だが、あんなものが神なのかと言うと、そうではないだろう。実際、コンピュータードールも善悪の判断や政治的コミュニケーションもなく知的生物を殺戮するだけの自動バーサーカーになっている。マゼランも「最強の戦艦の体と蘇った知性を持つ自分は神だ」と自分を誤認して「強いから世界征服をするぞ!」と世界政府首都へ武力侵攻をして、政治的コミュニケーションを欠如させた。そして自分の性能に対する傲慢から万丈とカタロフの連携作戦の前に轟沈した。「待ってくれ。私の力があれば世界を征服できるぞ」と、マゼランのコンピューターは万丈に破壊されながら誘惑したが、万丈はそのような権力への誘惑は拒絶して破壊した。
ニーチェの思想もナチスドイツの世界征服への武力行使を正当化するために利用されたという歴史を持つ。


だが、ニーチェの思想による超人とは飽くなき哲学的思索によってなされる概念であって、機械仕掛けの超人や、単なる権力や武力ではないのだ。そして、ニーチェ自身もその思想を抱えつつも発狂したのだ。
それを誤解したメガノイドやコンピューターは滅びる運命にあると言えよう。


だが、この物語はあと15話もある。
思想的決着は作中で付けられるのであろうか?


また、超人思想は次作、機動戦士ガンダムにも受け継がれた。そのニュータイプとは何か?という超人思想の呪縛はガンダムシリーズを支配するものになり、富野由悠季自身も最近のインタビューでは「そんなものを続けるガンダムシリーズは現代文学のような自家撞着の繰り返しに過ぎない」と答えている。
ならば、真実、尊いものとは何か?
そして、それは最新作、ガンダム Gのレコンギスタでは示されるのか?あるいは100年後の子孫に向けて問題提起だけを残して富野は死ぬつもりなのか、ハリウッドでの富野監督の次回作はどうなるのか?
さて、未来はどうなるのか。


今回は万丈とコマンダーが共通の敵を相手にして男同士の共闘を見せたが、次回のコマンダーは美女である。今までの女丈夫のような女性コマンダーとは違い、巨大化しても華奢な感じの美女である。どうする?万丈。
次回無敵鋼人ダイターン3「僕は僕、君はミレーヌ」にカムヒアー!