玖足手帖-アニメブログ-

富野由悠季監督、出崎統監督、ガンダム作品を中心に、アニメ感想を書くブログです。

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Gのレコンギスタ第23話「ニュータイプの音」NTと人の流動する境界

フルムーン・シップと接触しようとするマスク。その援軍に出るベッカー部隊。阻止のため動いたアメリア軍とドレット軍は艦隊戦に突入。その戦いに巻き込まれたベルリは、ロックパイのガイトラッシュと対決するが…。

脚本: 富野由悠季
絵コンテ: 高橋敦史
演出: 居村健治
作画監督: [キャラ]玉川真吾 [メカ]中谷誠一  [戦艦]仲盛文 
キャラ作画監督補佐:田頭真理恵

  • 今回のテーマは流動

毎回ガンダム Gのレコンギスタの「今週のテーマ」をお題にして感想を書いてきたこのブログ。
(というかGレコは多岐にわたるので、毎回1テーマに絞らないと書けない)
「はじめたいキャピタルGの物語」・「ガンダム Gのレコンギスタ」感想目次 - 玖足手帖-アニメ&創作-
最終月に入り、そろそろネタ切れかとも思ったんですが、本編が面白かったのでテーマが見つけられました。
前回のテーマが「変化と不変」(ムタチオンする体や移動する舞台、それに対する変わらない人の営みや恋心)でした。
Gのレコンギスタ第22話「地球圏再会」変化と不変 - 玖足手帖-アニメ&創作-
それに対して今回は「徐々に変化する」とか「一つのものが違った面を見せる」とか「動く」、それを総じて「流動するさま」という風に感じた。
前回が相転移的なデジタル的な断絶というか、変わった、変わらなかった(完了形)、だったのだが、今回は「変わっていく」(進行形)というアナログ的な接続された地続きな感覚を見せていたと思う。
それが人の死であったり、パーフェクトパックの可変性能だったり、混戦だったり、ベルリのニュータイプ的な感覚の芽生えだったり、「色々と変わっていく」という表現で見せて行ったと思う。
そんな「流動変化」を観点に感想を述べたい。変化という観点では、落ちているのか、飛んでいるのか?という第7話、とっ散らかった第11話「突入!宇宙戦争」にも似ているんだけど。
7話や8話は飛行の空戦エネルギーの上下移動のポテンシャルの変化で、11話や12話は宇宙空間戦闘でのバラバラな団体の位置の変化と言う感じ。
で、今回は移動の変化と言うより「性質」の「変化」、しかもそれが流動的に起こるカオス、という風に見えた。
毎回お題、というか一番心に残った要素を書き残すことで、あとから読み直す際にも日記として記憶が呼び覚ましやすいかと思う。

  • いろいろな面を見せる人

まあ、今回はぶっちゃけるとラスト前に向けて人が死んでいく富野ガンダム(というか、Zガンダムなんだけど)らしい人員整理が始まった話で、人が死ぬ回です。
なので、生きてる時の人と死ぬ間際、の生き物が死体に、そして爆裂する炎に消えていく変化がすごい強調された話なんですが。
だが、それだけではない。死ぬ人だけでなく生きている人にもいろいろな面があると見せることで「人が変わっていく」と感じさせている。それが今回目立ったのがマッシュナー。

アメリア軍のサラマンドラにも水着画像が流出してしまっているマッシュナー・ヒューム中佐。
何でグラビア?元々は軍人ではなくグラビアアイドルだったのか、プライベートの写真がSNSで流出してしまったのか?
ともかく、軍人や指揮官というだけではない彼女の面が見える。

上官としてロックパイだけでなく他の兵士にもハグをしてやるけど

ロックパイ・ゲティだけは変えてひいきして他の兵士よりも濃厚に抱く。ロックパイも元々はモランのパイロットに過ぎなかったが(カラーバリエーションの専用機体には乗っていたけど)、マッシュナーに好かれることで重用されるように変化したのかもしれない。

化粧を直すというのも変化。同じ人の見た目が変わる。これはG-セルフの色変わりを人間にも置き換えてみせていると思える。
また、マッシュナーとロックパイ(クリムとミックも?)セックスしていたっぽい。セックスもまた「連結」「つながり」だね。

死に対してニュータイプ的な感応をするが、泣きながら声を震わせながらでも指揮官として指示を出す。
ニュータイプの感覚に溺れたり、悲しみだけに支配されるのではなく、死によって影響を受けながらでも軍人の仕事を同時にこなすことで「変化しているけど同じ人」と感じるし、それが「同じ人にもいろんなことが降りかかってぐるぐる流動する」という、ウェットな、ねばっとして繋がっている感覚を感じた。デジタル的に「死んだ!悲しい!」ではなく、「仕事をする、死んだ、悲しい、仕事をする、死んだことも踏まえて行動する」と、いろいろと連結と言うかアナログ的な、分断されえない人生や意識を感じさせる。そこら辺が死っていう不可逆変化だけど「割り切れない」ぐちゃっとした境界が曖昧な感情を見せるように作ってるんじゃないかなと思う。
ちょっと、自分でも何を書いてるのかよくわからないけど、そう言うよくわからない、うねうねとした感情とか人生の事件が起きる感覚はリアルだなと思う。





マッシュナーだけでなく、第3話で強圧的に登場して第10話ではコメディー的に負けたベッカーが、今回は堂々と編隊砲撃を指揮していたのも、練度のじわっとした変化だなと思う。


で、地球軍を圧倒していたガイトラッシュがクリム・ニックのミサイルなどで戦力を削られる。
クリム・ニック大尉はガイトラッシュのビームマントを半壊させただけで撃破せず、「潰し合いなどほおっておけ」とキャピタル・アーミィに戦いを譲った。
それがベルリの勝利に知らず知らずに影響していたので、これも状況が流動的につながりながら変化していくことの表現だと思った。


そして、死ぬ際に子供のようになる兵士…。


クノッソスとブルジンの接近によるモビルスーツ戦から砲撃戦に戦況が流動的に動いてしまってマッシュナーの判断が追い付かなかったって言うのは悲しいなあ。
ガイトラッシュを半壊させただけで自分たちの作戦は達成されるって言って鮮やかに引いたクリムは意外と本当に天才なのかも???


ガイトラッシュを撃破したG-セルフの隣のG-ルシファーからのメガキャノンの砲撃が逆にマッシュナーの乗るクノッソスをキャピタル・アーミィの軍艦から守るという裏腹な感覚はデレンセンの死後の第6話のクリムを救助するG-セルフにも似ている。
何が吉とでるか凶と出るか、戦場では流動的だし紙一重なんだ。

  • 追記メガファウナという特別な船




グシオン・スルガン総監に何度も「なんでそんな面倒なことを言うのだ」と言われながら、「アメリア軍ではなくメガファウナに居ること」とアイーダ、ベルリ、ラライヤ、ノレドが主張した。「地球にいる誰かさんの言うことを聞くんじゃなくて」。おそらく、これも「流動する事態に臨機応変に対応するようにしたい」という金星まで行ってきて世界を広げた若者たちの流動的な態度何だろう。
だけど、アイーダには父に育ててもらった感謝はある。
そして、アイーダとベルリの血のつながりは???

  • 作画、動画などの表現としての可変性

今回のテーマが「流動だなー」って感じたきっかけは物語の構成要素と言うより、むしろアニメーションとしての表現の感じだった。
絵コンテの指示か演出の指示か作画監督なのか原画マンの仕事なのかわからないのだが、今回は作画も密度が濃く見えた。
で、いつもGレコはソリッドで密でぎっちり詰まった印象の作品なんだけど、今回はむしろ粘っこく見えた。アニメオタクっぽく言うと「ぬるぬる動く」です。
最終決戦は大体2,3話かかるのでその前哨戦の23話は作画的に手を抜くんじゃないかと思ったら、けっこう中割が多くて意表を突かれた。
大丈夫か?(まあ、前回はそんなにみっちりとしたメカ戦闘は無かったんだけども)


特に印象的にぬるぬるっと動いていると思ったのは、髪の毛。



戦闘に勢いがあるし、感情的に見える。今回はベルリの前髪も割となびいていて、感情を表現するための「予備動作」を強調していると見える。割とこれはアニメの基本なんですけど、今回は目立った。
Flashアニメ作家・青池良輔の「創作番長クリエイタ」 (25) アニメーションの特徴的な技法「予備動作」と「後追い」を学ぶ | マイナビニュース



第1話以来のアイーダの髪の毛の凄いなびきも、キャラクターデザイン設定にはないアドリブの作画だと思うけど、アイーダとスルガン総督の再会シーンを心情的に生っぽく盛り上げている。



ここのイヤリングも、涙に負けないくらいじんわりと動画を使って動いていて、アニメーションならではの心情表現だと思う。



今回の冒頭のサラマンドラとガランデンの3Dの立体パースによる画面奥への移動も事態の流動性を絵として見せているし、単純にスター・ウォーズっぽい豪華さでもあるし、見ていて「オッ」って引き込まれる。




メガファウナに同行して地球の戦争を見学するポリジットに乗っているパイロットの顔は映らないけど、MSの姿勢やロボットのアームの動きの雰囲気で感情を見せている。
ベルリが「あの動き、怖がっているのか」って言うのはGレコにしては割と説明が丁寧だと思ったんだが。



Gレコでこういう「オバケ」(残像)が描かれるのは珍しいなって思った。しかもオッサンの体。金田伊功



火炎竜!火炎竜じゃないか!髪の毛のうねりもそうだけど。流動感あふれるなー。



ガイトラッシュのビームマントも火炎竜っぽい。
ロックパイはガイトラッシュの性能を台詞でも丁寧にアピールしていたが、動画だけ見てもなんかすげーなーって思う。流派東方不敗のビームクロスみたいだし。



Gレコらしい(勇者ライディーンらしい)アブノーマルカラー!(ちなみにここではG-セルフのパーフェクトシールドは残っていたので、その後の射撃をリフレクターした時か、高トルクパンチをした時に吹っ飛んだ様子)



今回はこのカット以外にも、流線タッチの集中線や効果線が多かった。これも動的感覚を止め絵に付けようとしてる意図。



ここら辺のハイコントラストの絵は萬画っぽい。



富野監督には珍しい三角では無い四角のカットインはコマ割り萬画っぽいんだが、それが引きの移動で連続的にポップアップして出入りするのは動画の流動性と言う感じ。萬画っぽい絵もあるんだけど、萬画じゃなくて「動画」という見せ方がいい。


ポリジットが戦争の光に引かれて混乱して飛び出して、それを追おうとしたG-ルシファーのノレドとラライヤに向けてベルリが
「戦争は無駄死にを呼ぶから…」と言う哀しげな表情から

「ノレドとラライヤはそこにいな!」

と言う決然とした表情に切り替わる中間の

この顔が「流動変化の瞬間」って感じで、すごくいい!!
マンガだと「ノレドに言い聞かせる温かみのある顔」と「決然とした戦士の顔」が2コマに分けられて描かれそうな場面だが。アニメーションだとそれを繋げて流動的に表現できるんですねー!アニメーションと言うメディアの特性を生かした非常にグッとくる主人公の内面の描写。



その後に、「僕はG-セルフの義務を果たす!」ってカミーユみたいな自覚的な殺人もいとわない戦闘行為に突入していくのは、ベルリの心の流動的変化と言う感じ。
で、流動的で感動できるのは、ベルリは「戦士に成ったんだ!戦うぞ!」ってパッと切り替わったんじゃなくて、やっぱりこの期に及んでも「戦争は嫌だし、無駄死にだし辛いし、女の子にそんなことはさせたくない」という良心の粘つきを引きずっている所。感情が粘っこくて、気体と固体の昇華のようにさっぱりと切り替わるんじゃなくて、液体みたいな流動的などろっとした感覚を持ちながら戦いに突入していく…。
だからパーフェクトパックで次々と技を繰り出して勝利しても、どこか割り切れないし、ベルリは戦いながら辛そうだし、やっぱり殺すのは嫌だね…、と言うのを生っぽい感覚として見せてくれる。これが映像媒体だ!


ベルリはパーフェクトパックのリフレクターモードでモランに対しては手首を狙い撃ちにして戦闘力を奪ったが、ガイトラッシュには前回の対戦でバックパックを一瞬で破壊されたので強敵と認識して、殺さないで勝てる相手ではないとして高トルクと全方位ビームとアサルトモードビームのフルコンボで一方的に惨殺した。だが、ベルリも「金星の技術の粋を集めたパーフェクトパックをここで失うわけにはいかない」という意識があった。「バックパックを温存する」という判断を「相手の命を奪わないように戦う」よりも重視したので、それは人よりもものを重視する冷酷な考えだし、頭のいいベルリはそれを自覚していたわけで、だから苦しがりながら殺す。つらい・・・。
「戦争の根っこをどうにかする」ってベルリは理想論を述べているけど、結局は殺人でしかないし、そもそも争いの現況が都合よくあるのか?流動する世界で、戦争を起こすものだけを大衆や時代と区別できるのか?って言う話でもある。挫折しそう。やはり、まだベルリは認識が甘かったんだろうけど、ロックパイを殺したことで、また変わるかもしれない。


そういう戦場の一瞬たりとも隙を見せたら死ぬ状況での切羽詰まった判断と感情をスピード感と密度を同時に持たせて見せる「アニメ」と言う媒体って、すげえなーって思う。
絵コンテもいいし、演出とか作画、タイムシート云々もすごくいい。
あと、今回はGレコの各話のキャラ作画の中でも目が小さめでリアルっぽいので、シリアスさを増幅していた。

ニュータイプ議論はガンダム業界の鬼門なんですが。新訳Zガンダムからの流れで、Gレコも「精神的な超能力よりも身体感覚の延長線上での理解力」と言う風に描いていた。
なので、そんなに超能力っぽくは見えなかった。
マッシュナーの反応も虫の知らせってレベルだったし。


ベルリが気持ち悪くなるのも、「殺した相手の破片が降りかかったので気持ちが悪い」だと思えば当然の生理的反応だし。
なんか、オールドタイプと地続きっぽいんですね。
前回のムタチオンも変化なんですが、今回見せたニュータイプの描写はもっと流動的であいまいな変質に見える。
で、動画や演出の雰囲気とかも今回は連続性とか流動性をアピールした作りになっているので、余計に「ニュータイプとオールドタイプはハッキリと分けられるものじゃない」「人間は人間だ!」という風に見えた。
まあ、機動戦士クロスボーン・ガンダムからの富野監督のニュータイプ論としてはそうだよなーって感じですが。
機動戦士ガンダムではニュータイプの描き方は主人公が戦闘マシーンとして生き延びるための道具であり最後には未来への希望になって、Zガンダムから逆シャアまでは「そんなに便利なセンサーなら戦闘マシーンとして実用化してやろう」という動きとそれに対する反発があって、F91ではサイボーグの親父と思い人を探す恋人の対比で、Vガンダムではサイキッカーと人工野生児、∀ガンダムではアデスカの民の神話、とかいろいろと変遷をしてきたのですが。
ファーストのセイラさんのセリフやZガンダムヤザンですら幻視する場面などの時点でも既にあったけど、「ニュータイプとオールドタイプは簡単に分けられないよ」と言うのはある。
で、今回のGレコ23話でも全体的な演出が流動的であるのでニュータイプがそんなにはっきりしてない。残り3話でベルリがニュータイプとしてさらに進化するのか変化するのかはまだわからないんだが。


エースパイロットとしてのニュータイプでも、ラライヤがダメ押しで

「敵のパイロットも同じです。G-セルフのベルリだって戦死することはありますから」と言ったので、生と死や勝敗は決定的な差ではなく連続して流動する戦場での紙一重のものだと強調している。ラライヤはベルリに対して「あなたも死にかけたんだから相手を殺しても仕方がない」みたいに慰めて励ました気持ちがあったんだろうけど。
ニュータイプ論とかアニメの演出として見るとニュータイプもオールドタイプも、ガンダムも敵メカも流動的にぐちゃぐちゃになりながらどうなるかわからないし区別しにくい、って印象を受ける。


パーフェクトパックって仰々しい最終装備に対して「名前で勝てたり生き残ったりします?」「名前なんて希望でしょ。名づけた人の保証じゃないよ」とラライヤとノレドに言わせるのは、V2アサルトバスターガンダムが割と不憫だったことにも似ているし、富野監督らしいセルフツッコミ。
だから主人公メカでも安心できない…。(しかも今回はアイーダとダブル主人公なのでベルリが生き延びれるかどうかも…。どうなんだ…)
勝敗も流動的に連続している。境界が見えない。


身体的な感覚としてのニュータイプも、境界がぼかされている。
ベルリは人の死を直感して汗をかいたり寒気を感じたり、意識が飛んだりパニック障害っぽい症状を起こした。
しかし、ニュータイプではなく普通にストレス障害に罹患している僕も職場で叱責されたり親が自殺した時は自律神経がぶっ壊れた。
で、アメリア軍のトップとして色んな人を死地に追いやっている立場のグシオン・スルガン総監も「最近乾燥肌に成った」と、ストレス障害を訴えていた。あ、僕もストレス性のアレルギー皮膚炎になったりしています。
だから、ニュータイプだなんだって言ってもそういう過敏な感じ方は全く違う生き物とかじゃなくて、人間の延長線なんだよなあ。
そういうニュータイプと人間の連続性を感じさせるために、グシオン・スルガン総監の半裸が描かれたわけで、決して誰得サービスシーンではない。ちゃんと意味があるんだよ!

ちなみに、誰得サービスシーンではドニエル・トス艦長が女子のシャワー室に乱入してノレド・ナグさんにちんちんを見せたのが印象的ですが。

ベルリ・ゼナム君のチンチンを見た記憶でノレド・ナグさんの記憶が上書きされるといいですねw


で、僕は前々から「ベルリは自分をごまかす」とか「デレンセン大尉を殺した後に『大尉が小手先のことをするからでしょ』って言い訳した」とか書いていた。
第4話でカットシー編隊を殺傷した後にもベルリはニュータイプ的反応なのか、生理的な寒気を感じて服を脱いでいたが、それをクリムとの会話で誤魔化していた。
ベルリ・ゼナムはアムロ・レイほど戦争という現実に慣れた戦士に成ったわけではない。アムロは人の死を感じながらも冷静にギュネイなどを抹殺できるエースパイロットに成った。
また、ベルリはカミーユ・ビダンほど殺人マシーンとしての自分を自覚的に割り切っているわけでもない。
ベルリは殺人をしたくないし殺人が嫌だと感じながら、それでも殺人をする。で、前々回にキア・ムベッキ隊長の玉砕を見たからなのか、ベルリは心境が変わったようだ。
今回はベルリは殺した後に目を閉じて嫌がる反応は残しつつも、生き残ったビーナス・グロゥブのポリジットに対して「止められなかったのは僕の責任です」と、自分の中に罪悪感をため込んで誤魔化さずに外に出した。それで、ケルベス・ヨー中尉が「貴様こそ体を張った。褒めてやるよ飛び級生!」と承認してもらった。
TV版のカミーユは罪悪感を自嘲的に抱えこんで破滅したが、新訳Zガンダムでは罪を死んだ人たちと分け合って生きている恋人に承認された。ベルリ・ゼナム君は人を殺した事の重みや嫌悪感は感じている。感じているから誤魔化したりもしていた。
ビーナス・グロゥブでの見聞を通して、ベルリは「G-セルフの義務」という騎士道的精神に目覚めたのか。殺人をノレドやラライヤにさせないためにベルリは自分の手を汚し、それを周りの騎士であるケルベス・ヨー中尉を証人として正々堂々と明かすようになったのだろうか。
殺人者としてのニュータイプが一人で抱え込むか周りに支えられるかで変わるんだろうなあ。
アムロ・レイニュータイプでありながらも殺人を必要に応じてやれたのは、ララァを殺したという大きすぎる罪の意識とシャアというライバルの存在があったからだろう。アムロは色々と特別だ。
さて、それに対して「ニュータイプはそんなに他の人と大差ないし紙一重だし流動的」と強調したGレコの世界のラストで、ベルリ・ゼナム君はどんな帰結を迎えるのだろうか?
クロスボーン・ガンダムのトビア・アロナクスは「俺は自分をニュータイプではなく、人間だと思うことにする」という、ある意味「否認」に成ったのだが。(クロボンでは貴族主義も否認している)
「人間もニュータイプも区別しにくい」という価値観では否認することもしにくいだろう。しかし、エスパーブームだったころのファーストガンダムのように、「地球へ…」とか「2001年宇宙の旅」のように「スターチルドレンは進化した新しい種族」とも言えないだろう。
じゃあ、どうするんだ???
「G-セルフと言う重課金装備を使っている俺は特別な騎士だ!」という意志も、ラライヤに「G-セルフのベルリだって戦死することはあります」ってくぎを刺されたので、能天気な貴族主義のノブレスオブリージュにもならなさそう。
ガンダムを全部見た僕ですが、非常に興味をそそられる終盤だ!

マッシュナーも虫の知らせだったし、ベルリも断末魔を聞いたわけではない。じゃあ、なんで音だったのか?
それは多分、私の私見ですが。「音は連続的な波動の変化」だから、ニュータイプも振動する人類の変化の一つ、と言う気分なのかな。

  • ニュータイプが差別されない世界で、差別されるクンタラ、劣化する金星人

「ビーナス・グロゥブとクンタラって似たようなもの同士なんですよ」
「ルイン・リーと申しますが、マスクが通り名です」
「力を合わせて新しい世づくりを」

公式サイトの先行ネタバレで、マスクがジット団から新型MSのカバカーリーやユグドラシルなどを提供されると知らされたが、正直GIT団とキャピタル・アーミィのマスク部隊の接点が分からなかった。
もちろん、地球に降りてからの居場所や補給線を確保するために現地の勢力と結託するのはあり得るとは思う。(ロルッカとミラジはアメリア軍に寝返る相談をしているし、公式サイトでダーマ、トリニティなどのメカは…)
だが、今回を見て分かったのだが、単純に現地勢力と同盟するというだけでなく、差別されてきたクンタラと宇宙の果ての箱に押し込められてきた金星人が地球の主流派に対して叛逆を企てる、と言うのもレコンギスタの要素のようだ。
機動戦士ガンダムスペースノイドとアースノイド、ムーンレィスと地球人、ニュータイプとオールドタイプなどの差別感情から引き起こされる戦争を描いてきた。
で、今回は「ニュータイプも同じ人間だ」という連続性が描かれたと同時に、「同じ人間のはずなのに差別されてるクンタラ」と「人間らしさを劣化させられていくのを嫌った金星人のジット団」の同盟を次回の戦いの予告として描いたのは非常にスリリングだ。
「マスク」として変身して前回までガランデンの艦長にも本名を隠していたルインが、フラミニアに対して「ルイン・リーと申しますが、マスクが通り名です」と、一言で自分の流動性を明かしたのも印象的。それくらい強くジット団との共闘を望んでいるのか。


地球連邦は国による差別は無くしたけど、スペースノイドニュータイプと言う新しい差別を生んだ。
リギルドセンチュリーはみんながスコード教やフォトンバッテリーで一つになっている世界なのに、やはり依然としてクンタラと言う差別は残っている。
何でそんなのが残っているのか?それも人の変わらないサガなのか?


だからこそ、やはり、ベルリとルインは最後に激突する宿命なんだろうな…。ラストに向けてそんな予感が匂ってきています。予感はできるが予測はできない。緊張感を持って臨みたい。こんなにハラハラドキドキ毎週見れるアニメはとてもよくできていると思う。

  • 小ネタ

エンディングのラインダンスでロックパイがベルリの隣だったの、大して仲も良くないのに何でだろうって思っていたら、エンディングでベルリと腕を組んでる人は死ぬって言うサインだったのか…。
マスクを追いかけるように歩くベルリは…?
クリムはプライドをつかめるのか?

  • 勧誘と言い訳

NHK文化センター青山教室:監督富野由悠季、語る。〜『Gのレコンギスタ』で学んだこと〜 | 好奇心の、その先へ NHKカルチャー
監督富野由悠季、語る。

〜『Gのレコンギスタ』で学んだこと〜

こういうイベントがあります。富野監督が放送終了直後の4月12日に反省総括会を公開でやります。
でも僕にはお金がありません。と言ったら、一緒にオフ会をすることとか、無償で交通費をカンパしてくれる人がいらっしゃいました。ありがたいことです。そしてまだまだ募集中です。
go_ryougu_daあっとまーくyahoo.co.jp
義援金の応募はこちらから。
いっしょに富野に会いに行きませんか?
しかし、面白ブログを書く代償としてお金をもらうとか…プラネッツを読者のカンパで出版する宇野常寛さんみたいなことをやってしまった!有料メルマガとか嫌いなんですけどね…。(トミノ流のトミノは宗教上の理由で購読した)
う、うわああああああ!
読者の人に支持されてお金を貰えるからと言って自分の言っていることが正しいなどと慢心する大人にはならないように、お金のために宣伝RTばかりでTwitterをするような芸術心を無くした人にならないように、気を付けていきたい!
あ、あと、富野監督の講演会では質問コーナーがあるそうですが今回は僕は質問しないつもりです。
っていうか、公式サイトで質問を募集していて、それに対して「Gレコで学んだことは何ですか?」ってグダちん名義で質問したので、今回のイベント自体が僕に対するアンサーだから。僕は富野監督とニュータイプ的な交感を…。慢心!


で、そんな風に金が無いので仕事を探したり対外活動をせねばならず、そのせいでストレスが溜まって頭痛がひどいので、今回のブログはかんたん作画です。


ブログもたくさん書く、たくさん睡眠もとる、創作活動もする、仕事もする、というワークライフバランスが難しいんだけど。結局、大学生活が上手くいかず、スクフェス運営のKLabで過労死寸前になって精神を病み、履歴もガタガタ、という人間はおもしろブログコンテンツを書いても生活は苦しいし奴隷労働かニートか、って言う選択肢で…リアルは地獄!