玖足手帖-アニメブログ-

富野由悠季監督、出崎統監督、ガンダム作品を中心に、アニメ感想を書くブログです。

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かぐや姫の物語 感想その二 高畑勲監督は原作の良さを自己中心的に曲げたダメ映画

以前にも悪評を書いたのだが、今回テレビ放送を受けて、改めて批判するとともに、原作を読み直してみた。

ちなみに、今まで黙ってたけど、かぐや姫の物語な、表現としては最高に評価しているけど、物語としてはインテリ左翼のダメな部分が出過ぎていて大っ嫌いです。


なんだよ、あの御門の露骨に差別的な顔。あの不自然に長い顎。


色んな人がいて、キャラクターの顔を声優を戯画化したものに似せて書いているのだが、御門だけ、中の人よりも数倍顔が長く、気持ち悪い成金趣味のキンキラ金の権力者としてわざとらしく書いてある。本当に、インテリ左翼が帝王に対して抱く理屈が先走って、キャラクターを歪めている


月に帰すための段取りとして、「御門を生理的に嫌う」って言うのを入れて、その説得力を「顔の気持ち悪さ」にしているのが、本当にストーリーテリングとしてダメダメ。
数か月越しにかぐや姫の物語のストーリーの感想。 - 玖足手帖-アニメ&創作-

そして、やはりこの映画は高畑勲監督の自己中心性のせいで原作の魅力が全く失われた駄作になっているというしかないと思った。


高畑勲「かぐや姫の物語」についてのCDBさんのツイート - Togetterまとめ
CDB @C4Dbeginner 2015-03-13 09:50:29
うわ、今夜の金曜ロードショー高畑勲の「かぐや姫」なのか!
みなさんこれ必見ですよ!
批評家が当時ビビってメディアでほとんど言わなかったけど
完全に天皇制とフェミニズムがテーマなんだから
隠喩とかカルスタ的な深読みとかじゃなく
直接「帝の性暴力と女性性の収奪」が描かれる超名作れす

アホか。
もちろん、フェミニズム的な要素は入っている。だが、描き方が致命的にダメで。
天皇=文明=男=権力=性=暴力=悪!」
「姫=自然=女性=弱者=被害者!」
って思考停止して雑に描いているのが本当に本当にクソ。
だいたい、「現代に通じる人間ドラマが〜〜〜」とか言って、現代の問題を昔の人にやらせるのは卑怯でしかないだろ!昔の人は昔の人の環境と文化で生きてるんだ。それを踏みにじって「かぐや姫の物語には現代のフェミニズムの要素がありますね〜」とかふざけているのか?


#かぐや姫の物語 感想その一 (作画印象の面で)美術展 - 玖足手帖-アニメ&創作-
表現技法としては褒めている。だが、ストーリー、てめーはダメだ。

  • サマリー

・ダメな点、1.第一声がダメ
・ダメな点、2.時代背景がダメ
・ダメな点、3.感情移入のさせ方がダメ
・ダメな点、4.台詞が致命的にダサい
・ダメな点、5.和歌の使い方がへったくそ
・ダメな点、6.恋と命の熱さが無い(御門や男をバカにしている)
・原作の素晴らしい所!!!!

  • ダメな点、1.第一声がダメ

「今は昔、竹取の翁といふ者有りけり。野山にまじりて、竹を取りつつ、よろづのことに使ひけり。名をば讃岐造(さぬきのみやっこ)となむ言ひける。その竹の中に、もと光る竹なむ一筋ありける。あやしがりて寄りて見るに、筒の中光りたり。」
有名な、みんなが教科書でならう古文の一説ですね!
竹取物語の原文・現代語訳はこちらで読める。
http://www5f.biglobe.ne.jp/~mind/knowledge/japan/literature.html#TAKE
http://www2s.biglobe.ne.jp/~Taiju/taketori.htm


なんで、おばあさんがナレーションをやってんの????まず、その段階でダメ。で、その後ナレーションのおばあさんはなんとなーく何の理由もなく現代語を喋るようになり「この不思議な赤ん坊はおじいさんとおばあさんの手で大切に育てられることになりました」「しかしその明日は姫にも捨丸にもくることはありませんでした」とか言う。
は?
古語か現代語かどっちかにしろよ!だいたい、ナレーションはどういう立場なんだよ?なんで原作にないこともナレーションしてるの?なんで後半はナレーションが減って女童が噂話を聞かせてるの?明らかに脚本を書いてる期間が長すぎて途中で演出プランが変わってますよね?

特集 アニメーションとしての『かぐや姫の物語』西村義明プロデューサー インタビュー第3回 コンテ作業の長い旅 | WEBアニメスタイル
── コンテの段取りとしては、例えば高畑さんがラフを描いて田辺さんに渡すとか?

西村 いやいや、そういうレベルじゃないです。例えば、高畑さんが「あの……竹ってなんで光るんでしょうかね」って言い始めるんです。

── え?

西村 で、僕が「いや、だって『もと光る竹なむ一筋ありける』って原作にあるじゃないですか」と言うと、高畑さんが「竹の光源ってどこにあるんですか」と。「光源は、姫じゃないんですか」「いや、かぐや姫が光源だとしたら、竹を光が貫通するんですか」って。高畑さん、自分で脚本を書いてるのに聞くんです。

── (笑)。

西村 「光、貫通しないですか」と言っても、高畑さんが「いや、貫通しません。この竹はまず孟宗竹じゃありません。真竹です。真竹であっても、皮がこんなに分厚いんですよ。だから、姫が光源だったら光は貫通しません。つまり竹は光りません」。以上。ここでコンテが止まるわけです。


── それはコンテ打ち合わせ中に言い出すんですか。

西村 言い出して、考え始めるんですよね。どうやって竹を光らせるか。仮に、姫を光源として光らせたとしても、節と節の間しか光らないはずだとかね。こっちとしては「アニメなんだから、光ればいいじゃん」って思うんですけど(笑)。でも、悩み続ける。2ヶ月ぐらい考えてから、言ってくるんですよ。「分かりました。光源を外に持っていって、外から光らせましょう」って。どういうことですか? と聞くと、筍の先端に姫がいて、そこからボワッと光が発していれば、そばにある竹の根本が光って見えるはずだと。「もと光る竹なむ」になるはずだ、と。

── ああ。

西村 ホントに「ああ」としか言いようがないですよ(笑)。

考えるところはそこじゃないだろ!!!!!!!!!
ナレーションを原文で行くのか、おばあさんにさせるのか、ナレーターはナレーターとして同じ声だけど別人として割切るのか、そこら辺の演出判断や切っ掛けが全然できてない。
どうも「最初の『いまはむかし、たけとりのおきなといふ〜』はみんな知ってるだろうから入れた方が格好がつくだろう。でもその後はどうせみんな知らないから適当に原体語で喋らせとけ」という気分が見えてきて、本当に、本当に、憎い。
視聴者をバカにして舐めてるんだよ!あのインテリは!

昨年「文藝春秋」2月号に掲載された宮崎・高畑・鈴木の鼎談では、『かぐや姫の物語』の感想を尋ねられた宮崎は開口いちばん、こう話し出す。

「『かぐや姫』を観たときにね、長く伸びた竹を刈っていたでしょう。筍というのは、地面から出てくるか出てこないときに掘らなきゃいけないんじゃないかとドキドキしたんですけど」

 作品の感想を訊かれているのに、竹の話。高畑は「真竹だからあれでいいんですよ。孟宗竹だったら宮さんの言うとおりなんですけど、当時、孟宗竹は日本にはまだ入ってきていない。ちゃんと調べたんです(笑)」と反論している
宮崎駿が高畑勲『かぐや姫』を「あれで泣くのは素人」とディス!? でも本音は…|LITERA/リテラ 本と雑誌の知を再発見

どっちでもいいよ!

西村 高畑さんは、ご自身の作品を「クソリアル」と表現することがあるんです。リアルには「リアリズム」と「リアリティ」があるじゃないですか。高畑さんって、ある時期まではリアリズムを追求してきた方だと思うんですよね。『おもひでぽろぽろ』なんかも、いろいろ整理はされてますけど、やっぱりリアリズムで描かれている。でも、それから時を経て作られた『山田くん』は、リアリズムじゃないですよね。あれはリアリティだと思うんですよ。

── そうですね。

西村 高畑さんとも話したことですけど、日本語でリアリティと言うと、リアリズムとあまり意味が変わらないんじゃないかと。高畑さんが『山田くん』で求めたのは、やっぱり「実感のあるリアリティ」なんです。そのものは本物じゃないかもしれないけど、「あっ、感じが出てるね」「人間ってこうだよね」と思えるような、もっともらしさみたいな感じを描こうとしてますよね。今回の『かぐや』もそうだと思います。

特集 アニメーションとしての『かぐや姫の物語』西村義明プロデューサー インタビュー第1回 線の向こうにある本物を | WEBアニメスタイル

そんな風にナレーションの第一声から一貫していないので、そんな作り手にリアリティがどうのと言われても真摯な印象が無い。その割に竹が光るのどうのとクソリアルの方向性がおかしい。

特集 アニメーションとしての『かぐや姫の物語』西村義明プロデューサー インタビュー第4回 おとぎ話の衣をまとったリアルな人間の物語 | WEBアニメスタイル
西村 うん。1ヶ月ぐらい、ずっと悩んでました。要は、最後に月の画が出るだけだと、物語が締めくくれないんですよ。何かが最後に必要だと思ったんでしょうね。そういうとき、高畑さんって得意技じゃないですけど、何か現実を脅かすような映画にしたい。

── 分かります。

西村 現実との地続きであってほしい。例えば、キャラクターがこちらを向くというのが、いちばん分かりやすいと思うんですけど。

── 『平成狸合戦ぽんぽこ』のラストとか。

西村 『おもひでぽろぽろ』も、タエ子がこちらを見て終わるじゃないですか。『火垂るの墓』もそうだし。それはお客さんに対する問いかけですよね。今回のラストシーンに映る赤ん坊が、いったい何を問いかけてるのかというのは、おそらく作り手である高畑さん自身も分からない部分があると思うんですけどね。

── あれは分からなかったですねえ。

西村 でも、何か問われている感じはするじゃないですか。

── じゃあ、観る側がいろいろ考えればいいことなんですね。

西村 それを意図した結末なんじゃないかな、と思うんですよ。

── あと、かぐや姫がふるさとの山を模した箱庭を作るじゃないですか。あれも、きっと何か現代的な意味合いがあるんですよね。

西村 企画会議では、あれはインターネットだと話していましたね。

── インターネット!? そんなに露骨な喩えなんですか(笑)。

西村 いや、バーチャルな世界ってことですよね。要は、自分のなかで現状に対して何か思うところがあって、にもかかわらず一歩踏み出すことがなかなかできない時代になっちゃっている。

── はい、はい。

西村 苦しいことも悲しいことも人生で、そこで踏み出さなかったら何も経験できないだろうと。でも、先々のことを考えて、何もしない。何もしない代わりに自分が安心できる場所を作って、そこにずっといる。かぐや姫にとっての安息の地は山だったけれども、山に戻ってみたら誰もいなかった。それで、坪庭に自分の理想的なアジールを作ったんですよ。個人の聖域というか、逃げ場を。そこで、媼という優しい理解者が傍らにいる空間で、なんらかの幸せを得ようとしてみたんですね。まあ、厳しい言い方をすると、逃げたんです。引きこもったんですよ、バーチャルな空間に。

「この作品は時代劇だけど現代も昔も人は変わらないなあ」と思える作品と、かぐや姫の物語のように「昔の人の皮を被せて現代人に教訓を垂れてやろう」という作品は違う。
なんか、僕は嫌なんですね。ネット世代にものを申したいならデジモンとかゲームチャンプとかのアニメを作ればいいわけで。原作付の昔話なのに「知名度だけ借りて、俺が現代人に向けて語るための道具にしよう」という考え方は本当に汚い。


  • ダメ 2.時代背景がダメ。

かぐや姫の物語で描かれるのは十二単を着た高貴の姫君のしきたりに反発するかぐや姫…。なんだが。
そこがおかしい。
竹取物語』は平安時代(9〜10世紀頃)に成立したと推定されている日本最古の物語文学。遅くとも平安時代初期の10世紀半ばまでには成立したとされ、通説は、平安時代前期の貞観年間 - 延喜年間、特に890年代後半に書かれたとする。元々、口承説話として伝えられたものが『後漢書』や『白氏文集』など漢籍の影響を受けて一旦は漢文の形で完成されたが、後に平仮名の崩し字に書き改められたと考えられている。
作者は、源順、源融遍昭紀貫之紀長谷雄、他に文章博士などを歴任し、仁和2年(886年)から仁和6年(890年)まで、竹取の翁の名・讃岐造と同じ讃岐国の讃岐守に遷任したことがあり、自身の出生も余呉の羽衣伝説で語られる菅原道真など数多くの説が提唱されている。
ってwikiに書いてある。
で、ちょっと調べたり注釈つきの古典分を読むとわかるように、五人の貴公子にはモデルがいる。
竹取物語には壬申の乱で活躍した実在の人物が登場していることも本作品の特徴である。5人の貴公子のうち、阿倍御主人大伴御行石上麻呂は実在の人物である。

また、車持皇子は藤原不比等とされ、不比等天智天皇落胤との説があり、母の姓が「車持」であるためといわれる。

石作皇子のモデルは多治比嶋と推定され、多治比嶋宣化天皇の四世孫で、「石作」氏と同族だったためである。


この5人はいずれも壬申の乱の功臣で天武天皇持統天皇に仕えた人物であることから、奈良時代初期が物語の舞台だったと考えられている。


つまり、「今は昔」と9世紀後半から10世紀ごろの平安時代前期で書いている竹取物語の作者からすると、「昔」は8世紀前半のの奈良時代初期がモデルなんですね。まあ、里見八犬伝忠臣蔵などを見るに現代劇を描く時にちょっと昔の人の話に置き換える作法は日本文学にはよくある手法なんですが。(シェイクスピアも似たようなことをしている)
で、原作は文字文章だし、そんなにはっきりと奈良時代とか平安時代などの建築や衣装の描写もしていないのだが。アニメーションでははっきりと平安時代の衣装習俗建築文化として描いています。
何で平安時代になっちゃったんだろう?
原作では平安時代から奈良時代を「今は昔」として見て、作中のエピソードから

男たちは夜もほとんど眠らずに出歩いて、屋敷の周囲の垣根や門に穴をこじ開け、中を覗き見してはうろうろとしていた。
この時から、このような行動を『よばい(夜這い・求婚)』というようになった。
あの偽物の鉢を捨てて、また言い寄ったことから、厚かましいことを指して『恥(鉢)を捨てる』と言ったのである。
目的を遂げられずに落胆する様子を、『あへなし(阿部無し)』と言うようになったのである。

などと書いている。原作は平安時代当時の現代習俗、特に恋愛やセックスに関する行動を相対化して、「今のこういう風習や慣用句は、このような昔話があったから生まれたのである」というユーモラスに語る視点がある。訓話小説でもある。おとぎ話と言うか、大人が大人の恋愛とかに興味を持つ子供にそれとなく例え話で聞かせて教育するような機能が、原作の当初からあったと思われる。
なのだが、アニメのかぐや姫の物語はユーモラスな相対化ではなく、「男は支配欲があってダメなんだ!これがかぐや姫のほんとうの物語なんだ!」って変にシリアスでインテリぶった描き方をしているでしょう。そこがダメなんだよ。


また、オリジナルキャラクターの捨丸は木地師です。轆轤(ろくろ)を用いて椀や盆等の木工品を加工、製造する職人。轆轤師とも呼ばれる。

9世紀に近江国蛭谷(現:滋賀県東近江市)で隠棲していた惟喬親王が、周辺の杣人に木工技術を伝授したところから始まり、日本各地に伝わったと言う伝説がある。
(ソースはウィキ)

やっぱり奈良時代じゃない…。奈良時代には木工用のろくろは無い!
平安時代を描くぞ!という確固たる意志があって捨丸を出したんだろうか?
しかし、惟喬親王から木工技術を伝授され、また木々を伐採することも許可されていた特殊技能一族の木地師の捨丸が都で盗人をするほど落ちぶれたりするのも説得力が無いし。落ちぶれた後にまた木地師の一族に復帰しているのもおかしい。


まあ、十歩譲ってかぐや姫の物語のアニメ版は平安時代が舞台、ということにしましょう。
だが、ここで問題なのは平安時代が長いってことです。
原作が書かれた9世紀ころが舞台とします。
ですが、姫がお歯黒や引き眉を嫌がるのは『堤中納言物語』の「虫愛づる姫君」から来ている。で、『堤中納言物語』は平安時代の後期、12世紀ころに成立したものなんですね。虫愛づる姫君の(父親の)モデルは蜂飼大臣と呼ばれた藤原宗輔(1077〜1162)太政大臣なので平安時代の最後の方の人。



いつだよ!!!!



うーん。なんか、9世紀(源氏物語が描かれる以前)から8世紀の奈良時代を批評的にユーモラスに伝奇的に見つめる原作があって、それをアニメ化する際にざっくり平安時代を舞台にして、9世紀も12世紀もいっしょくたにしたのだろうか。
「雑」。
雑な割に木地師の作業場のディテールが異様に細かかったり、平安時代の宮廷をクソリアルに描いていて、ファンタジックなおおらかさが無い。色んな時代をいっしょくたにするんだったら、それなりにおおらかな雰囲気を印象付けるための演出が必要だったと思うけど、それをやらないで竹が光るのどうのと言う些末な所にこだわるのがダメ。
原作は「最近みんな夜這いしてるけど、その元ネタはこの話なんですよー。”恥を捨てる”っていう流行語の元ネタもこの話ですよーw」と、教養を元にしたおおらかなユーモアがあった。が、高畑勲監督版は全般的に張りつめた感じで、原作のおおらかさを殺している。


ああ、女の童っていうパタリロみたいなのが出てましたね。で?
そういうオリキャラで原作を崩したバランスを取ろうとしても浮いてるだけに見えたなあ。だいたい、あの女の童ってかぐや姫以上に存在が謎の異形の生物じゃないの月人の攻撃にも耐えてたし。なんか、すごくテキトーな便利キャラって感じがするんだよなー。


また、「虫愛づる姫君」の時点で「お歯黒や引き眉はめんどくさいよね」という、文化を相対化する視点はあった。(お歯黒は一応虫歯予防に成ったらしいんだが)。「竹取物語」の原作でも慣用句の語源を物語の中に置くことで、当時の恋愛習俗を相対化して見る視点があった。そういう習慣の中に身を置きながら絶対視しない態度と言うか。
なんだが、高畑勲バージョンでは「笑ったり走ったりしない高貴な姫君は人間じゃないのね!」って「絶対的な貴族の習俗に立ち向かう現代人思考」を繰り出していて、しなやかさがない。だいたい「人間」を「ヒト」の意味で使うのは江戸時代以降では???
平安時代全体を書きたいのか、平安時代のいつの何を描きたいのか、それを利用して現代を批判したいのか、もう、ごっちゃごちゃで整理されてなくて良くない。

  • ダメな点3.感情移入のさせ方がダメ

なんだか高畑勲監督は思いの丈を綴っているのだが。
パンフレットより引用

高畑勲
前略
竹取物語』は心に響く面白い物語なのかどうか。深層心理学的には興味深い側面があるし、知名度は満点だが、身近な人たちに聞いても、印象には残ったけれど面白かったとか感動したとかの記憶はないと言う。中略 古典だからと言って、人々があまり面白いとは思わない物語をそのままにして、いくら細部で目新しい工夫をしてみたところで、いい映画にはなりようがない。中略
筋書きをそれほど変えないまま、あの物語をいかに劇的で面白い物語にできるか、かぐや姫を感情移入さえ可能な、心に残る人物として描けるか、その目算が立たなければ『竹取物語』の映画化など、しない方がいいに決まっている。
じつは、私は東映動画に入社して間もなくの頃、会社から与えられた課題として、かぐや姫の物語の企画案を考えたことがあった。『竹取物語』が特に好きでも、強い関心を抱いていたわけでもなかったにもかかわらず、「かぐや姫はいったい何故、何のために地上にやってきたのだろうか」という疑問を考えているうちに、俄然興味がわいてきた。そして、かぐや姫は月からやってくる前に、概略以下のようなことがあったのではないかと推測するに至った。


中略


もしこれが真相だったとすると、『竹取物語』には「隠された物語」が内包されているはずである。
中略
そのときどきのかぐや姫の感情もそのままに、面白くてかなり今日的な物語を語ることができるのではないか。
中略
それはとりもなおさず、地球に生を受けたにもかかわらず、その生を輝かすことができないでいる私たち自身の物語でもありうるのではないか。

と、
・感情移入
・真実の物語
・今日的な物語
・私たちの物語


が主眼になっているようで、だったらそれって竹取物語じゃないですよね?
感情移入しにくい変な女が主人公の話だし、そもそもフィクションだし、昔だし、平安時代の人が奈良時代を引き合いに平安時代の現代を批評的に描いた物語(藤原氏の権勢に対する批判でもある)の竹取物語を「現代のスタジオジブリの映画を見る視聴者が感情移入しやすい今日的な物語」にしちゃったら、そりゃあ原作の良さを殺すよ。


それに、高畑勲監督って感情移入の演出が下手なのでは?

私が監督したものでは、「赤毛のアン」「じゃりん子チエ」「平成狸合戦ぽんぽこ」がそうです。「ホーホケキョ・となりの山田くん」なんかも今のアニメの風潮に対するアンチテーゼとして出しています。でも日常生活の中の小さなことを扱っていて、壮大なものではなく没入型でもありませんから、ヒットしにくい。
 めくるめく世界に没入させてくれるのはディズニーランドです。お客さんを乗り物に乗せて現場の中に突っ込んでいきます。自分がその中の一員になれたような感じがするわけです。そういう没入型のディズニーランド方式をアニメで成功させたのが宮崎駿さんだったとも言えるわけです。没入する方が、観る方も満足です。気持ちが面白いように翻弄されるわけですから。
 
―没入させないということは、観る人の自律性を考えておられるのですね。
http://www.jicl.jp/hitokoto/backnumber/20050110.html

今のアニメの傾向は感情移入型の「思い入れ型」と私は勝手に呼ぶ。主人公に思い入れをするのに、やや眼が曇っていても平気になっている。思い入れてなければ、主人公や世界に対して違う発見もできるんだろうが、主人公がどういうものに遭遇して自分も一緒にドキドキしていくかが大事とされる。曇らない眼で見てるんじゃなくて曇りたいらしい。世界を見て、その中で登場人物に対して自分があの立場ならどうふるまうだろうか、どう違う行動を起こすだろうか、といった「考える」余地を全く与えられていない。
http://kyo-eisa9.sakura.ne.jp/space/modules/ivent/index.php?content_id=10

そういう風に感情移入させずに、視聴者に考える余地を残す作風の人が「これが真実の物語!」って描いちゃうと、そりゃあおかしいものになりますね。


  • ダメ4 台詞が致命的にダサい

「高貴な姫君は人間じゃないのね!」とか言っちゃうの、もうどうしようもないダサさなんだけども。
何がダサいってセリフで説明した上に、それに監督の主義主張を載せて喋らせてキャラクターの人格を殺しているのがダサい。
おばあさんが序盤で
「これからこのように美しい姫に成るのだからとお示しになって、しっかり育てなさいということなんです」
とか超常現象を前にした婆の言い方として滅茶苦茶説明臭い。
でも、ジブリ好きの女性は「母性があるから女の子の育て方は何でも分かる」とか思うんでしょ?ダサいなあ。
赤ん坊のころの姫が通りかかると梅が咲いて、姫も大きく重くなるという描写があるんだが、そこで
「梅がもう!」(ホーホケキョ)というセリフがあって、どうしようもなくダサい。梅を成長させるくらい不思議な姫様なら、別に梅が開花して重くなる描写をすればいいだけであるのに、そこで「梅がもう!」って説明されるの、滅茶苦茶ダサいな!で、セリフで説明しちゃってるから、不思議なことが起こっているというインパクトも薄まっている。
「なよたけのかぐやひめ」という名前を付ける時にも、わざわざ「光り輝くという意味の言葉を添えて、かぐや姫」ってだらだら説明してさあ!
姫が成人式の晩にイメージシーンの中で疾走するのはアニメーションも駆け抜けていて爽快なシーンだったのに、イメージの中での失踪欲求を描くだけでいいのに。なんか炭焼きにジジイに出会って「山は春を待っているのだ」とか説明セリフをされてしまう。致命的にダサい!!!なんで、姫が山と月を幻視するだけに留めないで言葉を入れてしまうのか???
ガンダム0080とかガンダムUCみたいな「旅先のバーで会った酔っ払いやバーテンに良い話をされて心が動く」という作劇が、個人的に滅茶苦茶嫌いなんだ!(使い捨てのキャラクターに重要な話をさせてはいけないって言うの、ミステリの原則にありませんでしたっけ?「ヴァン・ダインの二十則」端役の使用人等を犯人にするのは安易な解決策である。その程度の人物が犯す犯罪ならわざわざ本に書くほどの事はない。)
五人の貴公子に難題を吹っ掛けた後、
「私のせいでみんな不幸になってしまった…」「あなたのせいじゃないわよ」クソダサ。
「帝に抱かれた時思い出したのです…私がなぜこの地に…」の長台詞、クソダサ。
「あめつちよ私を受け入れて!」クッソダサいなあああ!!!アニメーターが一生懸命イマジネーションな画像を作ってるのに、プレスコで入れちゃったセリフをカットしないだけで全体的にダサくしている!
なんなの・・・。なんでこんなに高畑勲監督はダサくなっちゃったの…。三千里はあんなに切れが良かったのに…。赤毛のアン・シャーリーは元々多弁で癇癪持ちで空想家なのでべらべらくっちゃべってもいいんだが。かぐや姫は高貴の姫君であらせられるのに、なんで下賤の視聴者に受け入れられやすいような説明セリフをダラダラ重ねるのか?
かぐや姫には親しみよりも憧れを持ちたい、と言うのは僕の個人的な感想でもあるんだが。原作のかぐや姫は要所要所でしか喋らない。高畑勲版のかぐや姫は・・・。やっぱり処女厨だからなのかなあ・・・。女の子に親しみを持たせたいのかなあ…。自分の気持ちをベラベラべらべらと喋る。ホントダサいよな。そんな女が天女だって言われても別に何の魅力も感じないよ。
フェミニストが「男性に利用される女性の気持ちを描いている」とか言うけどさー、そういう気持ちをベラベラ喋る女は、僕は嫌いだし、女であっても沈黙を金としてプライドを持ってほしい。

  • ダメ5 和歌の使い方がヘッタクソ

万葉集』巻十六の第三七九一歌には、「竹取の翁」が天女を詠んだという長歌がある。
で、竹取物語の作者(平安時代前期の人)はおそらく、その万葉の頃(759年まで)を参考にしながら、竹取物語を作ったと思われる。
んで、竹取物語は五人の貴公子のエピソードのラストに「○○の語源は〜〜なのです」って入れるなど、本文はかなり文芸としてテクニカルに作ってある。駄洒落というか、掛詞の手習いのような感じで書いている。
ですが、割と作中の和歌のレベルは低く、そんなに掛詞や枕詞などの技巧は使っていない。
一番テクニカルなのがかぐや姫中納言に宛てた「年を経て 波立ち寄らぬ 住の江の まつかひなしと 聞くはまことか 」くらいでしょうか。
作中の設定時代が万葉時代なので、それに合わせているのか素直な歌が多い。で、作中の人物も平安時代よりはちょっと古めのメンタリティで貴族も割と単純に生きている感じがする。


対して、アニメ。
天女の歌「まつとし聞かば今帰り来む」
在原行平(818〜893)「古今和歌集」だーーー。
「立ち別れ いなばの山の 峰に生ふる まつとし聞かば 今帰り来む」(小倉百人一首16首)
万葉じゃないなあ…。っていうか、迷い猫のおまじないじゃないんだからさあ…。


原作は平安時代の視点から万葉の奈良時代を「今は昔」と言って見据えて、素直な歌を載せつつも本文はテクニカルな語源駄洒落を入れて、「ああ、今は昔のような素直な歌は減ってしまったなあ。時代が変わってしまったなあ…。昔は素直に呪いを信じていたのに、今の俺はこういうシニカルな宇宙人SFを書いちゃってるんだよなあ…。夢が無くなったなあ…。末法だなー」と時代の移り変わりを月に託してじんわりと描写したのがとても”あわれ”なんですが。



うーん。
まあ、天女は未来人だから古今和歌集でもいいんですかね・・・。まあ、アニメ版は平安時代が舞台ですからね。ていうか、作曲・高畑勲、楽器・初音ミクだし・・・。未来感を出したかったんだろうか・・・?


ラストの女童の「せんぐりいのちがよみがえる〜〜〜」で翁と媼がはっと目を覚まして天人に対抗するのは笑うしかない。
なんで、原作にないオリジナルキャラクターで何の説明もない単なる下女に過ぎない女童が天人の洗脳に屈しないで歌を歌っていられたのか?は???ふざけているのか?
ヴァン・ダインの二十則」端役の使用人等を犯人にするのは安易な解決策である。その程度の人物が犯す犯罪ならわざわざ本に書くほどの事はない。
あーーーあれですか?純粋な子供には汚れない純粋なパワーがあるっていう理屈ですか???偉いねえ〜〜〜???
っていうか、かぐや姫が成長するにつれて汚れてしまって、捨丸も別に家庭を持ってっていう時間経過を描いているのに、なんで下女の女童は純粋な子供のままなの???幽霊なの???節子なの???かぐや姫よりもヤバい存在だろそれ!


あー、あと、原作でのかぐや姫は竹取の翁と媼に「老後の面倒を見てやれなくて哀しい…。月の都の人たちは老いることを知らないので、老いた親の面倒を見るということを分かってくれないんです…」
(親たちの顧みをいささかだに仕うまつらで、まからむ道も安くもあるまじき。)(かの都の人は、いとけうらに、老いをせずなむ。思ふこともなく侍るなり。さる所へまからむずるも、いみじく侍らず。老い衰へ給へるさまを見奉らざらむこそ恋しからめ)
って言う。
原作ではかぐや姫の成長とともにおじいさんとおばあさんの衰えも描いている。(設定年齢は50歳から70歳)
アニメではおじいさんとおばあさんはずーーーーっとおんなじくらいおじいさんとおばあさん。
原作の方が老人介護とかに踏み込んだ描写があるよね。
その点、∀ガンダムのロランはディアナ様を介護していて偉いよなあ…。

  • ダメ6 恋と命の熱さが無い(御門と男をバカにしている)

かぐや姫の物語」豆知識②
この作品がどれくらいすごいかというと、
当時まだ痩せたり太ったりペラペラよくしゃべるクソ野郎だけど人間的にはそこまでのクズじゃないだろうと思われていた時代の岡田斗司夫が作品の美術を絶賛するだけでフェミニズム的テーマにはほとんど触れなかったくらい凄い。

まあこの映画何も感じない人には確かに「かぐや姫のストーリーをそのまま延々なぞるだけの駄作」として見えるように、
そうでない人には「うわああ、『あの感じ』をよくここまで描いたな、大丈夫か」ってなるように作ってある。
そう仕掛けたのが女性監督ではなく渥美清に似たおっさんという奇跡。
紫綬褒章まで受け取っておいて「おい帝のアゴ長くしようぜ」と平然と提案する巨匠高畑勲
桑田佳祐も今の50倍くらいアナーキーになっても罰は当たらない。
高畑勲「かぐや姫の物語」についてのCDBさんのツイート - Togetterまとめ

は???


帝 ※正式名称は御門(みかど)

声はなんと「中村七之助」さんが担当。
下顎の尖った容貌をしている。漢詩の屏風を飾り、椅子に座るなど「中国かぶれの人物」として描かれている。

ノックスの十戒」”中国人を登場させてはならない”


別に、まあ、中国は良いんだよ。それまで平安時代っぽく描いていたけど、まあ、ギリギリ遣唐使廃止前なんだろう…。
アカのパクさんがミカドを中国かぶれにしても、まあいいんだよ・・・。そう言う財宝を集めるのも王族だし。東映動画も初期は中国民話の白蛇伝だったし。


あごは何だよ・・・。ハプスブルク家関係ないやろ…。



っていうかさ、「天皇が女を抱く」事の生理的な拒否感を描くために「それ以外は完璧でも、あごが長いからダメ」って、天皇制差別に反発しながら「性格は見た目に出るから、見た目が悪い奴はダメ」という容姿差別になってるよね。「生きろ、そなたは美しい」って言うもののけ姫と同じ轍を踏んでるよね。


違うのか。求婚されることが嫌なのか?女の子を薔薇の花嫁のように所有しようという結婚制度自体が嫌なのか?その「イエ制度」の頂点である「王子様」とか「クニ」が嫌なのか?
はあ。
だったら少女革命しろよ!走れよ!
って、アニメのかぐや姫も成人式の夜に疾走したけど、なんかよくわからん炭焼きジジイに会って「春を待ったらいいんじゃないの?」って雑なコメントを言われてぼけーっと過ごして、五人の貴公子を追い散らした後、雑に田舎に帰って違う人が住んでるってだけで勝手に不貞腐れて、帰り道で捨て丸が盗人をしてボコボコにされていたら、カッコ悪いと思ったのか助けなくて、貴公子は三年間放置して、貴公子が帰ってきて失敗して、御門に言い寄られて抱かれて人生を否定して、また適当に田舎に帰って「捨丸兄ちゃんとなら私、幸せになれた」と雑なことを既婚者に言って、夢落ちで逃げて、迎えが来たので羽衣を着せられて、原作では養父母と御門にきちんと落ち着いて手紙を残したのに、そんなことも無く、雑に従って帰る。
クズじゃん。
強さと気高さが無いので少女革命をする気力もないクズじゃないですか。そんな女に、僕は憧れたりしませんよ!


まあ、親近感を覚えるフェミニストの女性はそれでも仕方ないのかな。僕もNHKにようこそ!とかライムギ畑で捕まえてとかボンクラの男がボンクラのまま終わっていく小説が結構好きだし、そういうクズの女バージョンだと思えば、まあ仕方ないかなー。
でも、そこには強さも気高さもないよね。

特集 アニメーションとしての『かぐや姫の物語』西村義明プロデューサー インタビュー第4回 おとぎ話の衣をまとったリアルな人間の物語 | WEBアニメスタイル
── この作品の捉え方として、ある1人の若い女性が、男性から物扱いされることにショックを受けて、反発しているうちに婚期を逃す、みたいな類型を描いているようにも見えますよね。それは想定してるんですか?

西村 う〜ん、婚期っていう視点で観ちゃうと違いますね。結婚というのは、この映画のなかで言えば、あくまで小道具ですよね。それが物語の本質ではなく、求婚譚を通して見えてくるものが本質なわけで。女性の婚期というものを物語の中心に据えているとは思わないです。
 ただ、女性を物として扱う男性への痛烈な批判は含まれてるでしょうね。いまの社会でも、多分そうなんじゃないんですか。男性ってやっぱり支配欲もあるし、権威主義だし、そういうことに対する批判は確実にある。それはこの映画に含まれた普遍的なテーマのひとつだし、女性観客の多くはそう感じてくれているらしいですから。多分、男性からすると観ていて居心地悪いでしょうね。出てくる男は、どいつもこいつもろくでなしですから。翁だって、悪気がないとはいえ、結果的には姫を追いつめたわけだから。

── あの愚かなところがいいですよ。

西村 うん。だから、みんな人間っぽいんですよね。捨丸もそうだし、求婚者たちもそうだし。ヒーロー、ヒロイン像を描いてないんです。だから、ファンタジーの枠組みをまとってますけど、やっぱりこれはリアルなお話なんですよ。


何が権威主義への痛烈な批判なんだよ?かぐや姫もろくでなしのぼんくらでクズじゃん!
クズが自分を物扱いするなって言うんだ。容姿だけでちやほやされてた女が、「御門はいろいろ持ってるけど、あごが変だしキモい」って。「相手の顔も知らないで結婚はできません」って言ってた女が相手の顔を自分から見ようとはせずに。
「ちやほやされるのが嫌だから逃げます。処女でいたいっす。美しいものは子供時代だけです。赤ちゃん人間でいたいっす」
クズじゃん。いや、俺もクズの独身男性なんだけどさ。だからこそクズの気持ちはよくわかる。
まあ、それを「リアルなお話」って言ってしまうのは仕方ないのかな。リアルは地獄!


フェミの人は

「真面目な話をすると、あの帝のデザインっていうのは別に本当にアゴの長い人をバカにしてるわけじゃなくて、「そこ以外はハンサム」っていうとこが重要なんれすよ。別に鼻でも歯でもなんでもいいの。「見た目は綺麗に整っているけど何かが狂っている」っていう人間の隠喩。高畑勲はそれ判ってるんれす。」
https://twitter.com/C4Dbeginner/status/576405753616969728

って言うんだが。
あー、それを揶揄って言うんだよ。

世界が「食わせる側の都合」で動いていること、大量に生産し効率的に供給する側の論理で動いていること。そしてその結果「そうでない人」に深刻な結果が生まれること。高畑勲の天才的な演出が観客に教えるのはそのようなことれす。1935年生まれ、まもなく80歳。天才としか言いようがないれす。
https://twitter.com/C4Dbeginner/status/576515455218663425

いや、御門へのかぐや姫の主観的な嫌悪感を描写するために「こいつは見た目が変だから嫌っても当然だからね」「権力者って言っても成金の延長に過ぎないんだからね」と揶揄するのを手段にするのは、下手くそな演出だと思う。
ターンエーガンダムのグェン・サード・ラインフォードはイケメンじゃないですか。でもクズじゃん。顔の見た目ではなく行動で「グェン卿はディアナ様と同じ道を歩まれる方ではないようですね」って見せるのが演出なんだよ!なんでパクさんが8年かけて、16年前の富野由悠季が出来たガンダム程度の演出ができないんですよおおおおっ!!!


「かぐや姫の物語」テレビ放送の影響で『顎祭り』が大発生w - NAVER まとめ

大衆はこういう雑なコラを作って帝の高貴さをバカにしているよね。本当の高貴さや国を統べることの意味を知らないからこういうことをするんだ。


なんというか、かぐや姫も貴公子も御門も、アニメ版はちゃんと恋をしてないよね。
恋って言うか大人になる、交わる、自分は死ぬけど子孫を残すって言う。
まあ、その補完として「せんぐりいのちがよみがえる〜〜〜」って言う女童のラストの歌を付け足してるんだろうけど。蛇足だよ。何の伏線もない下女にテーマを語らせるとか、下手くそすぎるだろ。
で、「結婚とか結局、所有欲や権威主義にすぎないっしょー」「捨丸は雑に子供を作るけど、美女が現れたら雑に家族を捨て丸っしょー」「永遠の処女で所有されない不細工の女童は超人的なメンタルで新曲を月人にぶつける。理由はない」とか。
なんか、みんなちゃんと生きてない感じがします。
いや、まあ、僕は「俺の遺伝子は俺が食い止める!!!」って思ってるメンヘラだから確固たる信念をもって結婚しませんけど。
で、ちゃんと生きてないし命を繋ぐために家族を作るって言う「恋」が描かれていないので、かぐや姫が地球で体験したかったであろう「鳥虫獣草木花人の情け」、すなわち生命観の熱さが伝わってこない。友達も作らないし、婆と箱庭しか作らないし。枯れた竹で編んだ細工のような乾いた感触しかしない。
でも、フェミニストは「あの時代の女性は抑圧されていたから自分で友達を作ったり恋したりできないんですよ。仕方ないんですよ」みたいに言うのかなー。女性天皇とかいたし、清少納言紫式部小野小町も恋愛してたんですけどね…。


いやーターンエーガンダムのディアナ・ソレル様は竹取物語がモチーフなのに洗濯もしたし、マロングラッセも作ったし、猟銃も振るうし、戦争にもけじめをつけたし、妹もケンカ友達もできたし、人生をエンジョイできてよかったですね!
やっぱ、かぐや姫の物語の最大の汚点はガンダムがいないから、、、なのでは???

  • 原作の良さ!!!!

原作では天皇陛下、時の帝が大変強く気高い人物であらせられるのです。
近代文明の戦後教育の人、「当時は天皇を賛美する描写が必要だったのでしょう」とか原作の帝に対してすごく雑に片づけることが多い。
いや、でも、五人の貴公子のモデルは藤原氏の祖先だったりしたわけで、原作の「天皇は立てるけどその周りの藤原氏はボロクソに書く」と言う態度は藤原氏が権勢を振るう平安時代前期においてはかなりアナーキーだと言える。ダンテの神曲っぽいよね。
それに対して高畑勲監督は「当時は天皇を賛美していたけど、それは間違い!現代では権力者は平等に悪い奴として描いて、山で生きる農民が正義!農業で自活できない支配者階級は全員悪だからカリカチュアして、高貴なものは全部偽物として嘲笑してやる!」という農村主義。
ポル・ポトかよ・・・。パクさん、一応東京大学文学部仏文科卒のインテリなのに21世紀にもなってポル・ポトとか・・・。悲しい・・・。高畑勲監督はベルリンの壁バブル崩壊、武蔵野地区開発と同時に、狸と一緒に死んでしまったんや…。


原作の帝は単に賛美されているだけの存在ではない。一人の男であり、誇りと気高さを持つ政治家でもあるのだ。あの時代の古代の貴族を「民に寄生する権力者」と、フランス革命レベルの近代的意識で批判するアニメは明らかにおかしい。竹取物語が成立したころはまだ天皇と国と民の結びつきはもっと土着的だった。
で、竹取物語は月の都の姫と地上の国王の対決によって地上の権力を相対化する話でもあるので、原作は「あごやセクハラが気持ち悪い」ではなく、もっと強く気高いレベルでの権力批判なんだよ。


というか、竹取物語ってラブストーリーとしても上手くできている。
アニメのかぐや姫の物語の五人の貴公子はいずれも貴公子とは言い難いオッサンばかりで、声優もオッサンで、キャラクターデザインも声優に似せたオッサン(若い石上中納言ジブリの社員)。で、かぐや姫を好きになった理由も「回春」とか「名誉」なので、愛ではない。イケメンの上川隆也さんも浮気者として描かれている。


で、原作の五人の貴公子は元々最初から浮気者で恋愛好きとして作中では描かれている。そんなことは原作のかぐや姫は先刻承知で、とても賢い。
翁が「この世の人は、男は女にあふことをす。女は男に合ふことをす。その後なん門も廣くなり侍る。いかでかさる事なくてはおはしまさん」(結婚して子孫を増やして家を大きくするのが当たり前なのです)と言うと、かぐや姫は答えて、
「深き心も知らで、あだ心つきなば、後悔しきこともあるべきをと、思ふばかりなり。世のかしこき人なりとも、深き心ざしを知らではあひがたしとなむ思ふ」(知らない人と付き合って浮気されたり後悔するのは嫌なので会いません)
と、最初から翁に言う。
アニメのかぐや姫だけが現代人感覚と言うわけではなく、原作からかぐや姫平安時代の結婚制度に問題提起をしている。(モデルは奈良時代だけど)その上、「なんで人は子孫を残すのかが分からん」と言うレベルで価値観が違っている。宇宙人!
また、面白いのはかぐや姫がいることで「垣間見」や「夜這い」の言葉や風習が生まれた、とする「文明開化創世神話」みたいな描写もある所。アニメのかぐや姫はほとんど引きこもりだったが、原作のかぐや姫は噂のファッションリーダーで流行やムーブメントを作っていくスターだった。
高畑勲監督はスターを書くのが好きじゃないんだろうな、と言うのは分かる。


で、原作ではまず石作の皇子(アニメは上川隆也さん)が登場して、三年かかって一人で仏の御石の鉢を拾ってきて「恥を捨てる」と熱情を示してはねつけられる。
続いて庫持の皇子(橋爪功)が蓬莱の玉の枝を職人に作らせて作ってきて料金を渋ってばれて、「恥ずかしがってたまさかる(魂離る)」、振られた後に外聞を気にして困る。
阿部右大臣(伊集院光)も火鼠の皮衣を作らせてきて料金は払うのだけど燃えて、「あへなし、」「なごりなく 燃ゆと知りせば 皮衣 おもひの外に おきて見ましを 」(ダメになる恋ならやるんじゃなかった)、振られた後に後悔する。

http://www5f.biglobe.ne.jp/~mind/knowledge/japan4/taketori012.html
大伴大納言(宇崎竜童)は寝所から起き上がってきて、『お前たちが竜の首の珠を取ってこなかったのは良いことだ。竜は雷の類であるから、その珠を取ろうとして大勢の人々が殺されるところだった。まして竜を捕らえようなどとしたら、私などはあっさりと殺されていただろう。お前らも捕まえなくて良かったのだ。かぐや姫とかいう大悪党が私を殺そうとしたのだ。今はあいつの屋敷の近くも通りたくない。お前たちもあの家の周りを歩くんじゃないぞ。』とおっしゃり、屋敷に残っていた金品を、竜の首の珠を取ってこなかった家来たちに与えてしまった。


これを聞いて、離縁されていた元の妻たちは、腹がよじれるほどに大笑いした。屋根を葺いた五色の色鮮やかな糸は、鳶・カラスが巣を造るためにくわえて持って行ってしまった。世間の人々は、『大伴の大納言が竜の首の珠を持って帰ったようだ。』『いや、そうではない。(海の嵐で遭難して)ただ両眼に二つのスモモのような腫れ物が出来ただけだ。』などと噂をしていた。『あな食べ難(あぁ、そんなスモモは食べられやしない)』と言ったことから、世間の評判と実際の姿が合わないことを、『あな耐え難(あぁ、おかしくて笑いを我慢できない)』と言い始めたのである。

と、武士の部下や船を危険に晒して「あの女は魔女だ!」と言いだして、離縁されていた妻や世間の人はその言葉を真に受けずに笑う。
だが、石上中納言が大勢の部下を率いて燕の子安貝を取りに行って事故に遭って死ぬ。
死ぬ前に

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中納言は子供のような幼稚な振る舞いをして腰骨が折れたことを、世間に知られたくないと思い、隠そうとして気疲れしてしまい、更に病気が悪化して弱っていった。日にちが経つにつれて、子安貝が取れなかったことよりも、人から笑われることを気にするようになり、ただ病気で死ぬことよりも恥ずかしいことをしてしまったと思って悩むようになった。

これをかぐや姫聞きて、とぶらひにやる歌、

年を経て 波立ち寄らぬ 住の江の まつかひなしと 聞くはまことか


とあるを読みて聞かす。いと弱き心に頭もたげて、人に紙を持たせて、苦しき心地にからうして書き給ふ。


かひはかく ありけるものを わび果てて 死ぬる命を すくひやはせぬ


と書き果つる、絶え入り給ひぬ。これを聞きて、かぐや姫、『少しあはれ』とおぼしけり。それよりなむ、少しうれしきことをば、『かひあり』とは言ひける。

5人の貴公子は同じようにダメになっていくんじゃなくて、どんどん世間の評判や巻き込まれる被害者の数や金額が5段階で増えて行って、ついに石上中納言が死ぬ。最初は恥とか料金踏み倒しで済んでいたのが、貴族が事故死するという最悪の穢れを巻き起こす。
また、かぐや姫は逆に内面で人間に対して心を開くというか、男が自分の前でどうなるかを学習していく。それで、最後に中納言に見舞いの手紙を送る。(中納言が一番身分が低いのに一番最後で、また唯一姫に同情されたというのも批評的である)
アニメのかぐや姫では最後が石作皇子の正妻の怒り→石上中納言の死の知らせ、となっている。で、ヒステリーを起こして箱庭を壊す。
つまり、恥をかくイケメン→死んだ知らない人→箱庭の破壊、と、アニメのかぐや姫は内向して幼児退行していっているんですね。原作のかぐや姫は男女の恋愛ゲームを通じて「人間社会とはこういうものか」と、男たちを破滅させながら学習して人間的になって行っていくんですが。
アニメのかぐや姫は「本来の人間社会で必要なことは全部子供のころの砂場で思い出にしかないんだ!!!」って幼児回帰していく。


そこで、ミカドの登場となります。
アニメの御門は「色んな男を振った女はつまり国王である私のことが好きなんだな」と、能天気に思い込む。視野の低い王様として描かれている。
原作の帝は「多くの人の身を徒らになして合はざなるかぐや姫は、いかばかりの女ぞと、まかりて見て参れ」と、内侍中臣房子に命じる。さすが、帝なので自分では動かずに女の部下を使って見させる。ここで、帝が恥を捨てる恋愛バカではなく、順序立てて動く配慮のある人と見るか。
あるいは、流行を作り世相を騒がし人死にを招く女に対して、国家の長として「私がなんとかせねばならんのか」と、恋愛ではなく政治的な危機感で興味を持ったとみるべきか。


で、房子がかぐや姫の顔を見ようとして怒る。

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内侍、『かならず見奉りて参れと仰せ言ありつるものを、見奉らではいかでか帰り参らむ。国王の仰せ言を、まさに世に住み給はむ人の、承り給はでありなむや。言はれぬことなし給ひそ』
(姫を見ないままでどうして帰れるでしょうか。国王のご命令なのに、この国に住む人間が、その命令を聞かなくても良いというのでしょうか。言われたことをきちんとしなさい。)
と、詞(ことば)恥づかしく言ひければ、これを聞きて、ましてかぐや姫聞くべくもあらず。


『国王の仰せ言を背かば、はや殺し給ひてよかし』(国王の命令に背いているというのであれば、早く殺して下さっても構いませんよ)

ここで、もう恋愛がどうのと言う話では無くて、秩序を破壊するばかりか新しい文化をもたらすかぐや姫は「違う国の元首の襲来」として帝に立てつく形となる。「私は違う国の貴族なので、日本人の国王の命令には従わない。使者であるお前は私を殺せるものなら殺してみよ」と挑発している。
原作のかぐや姫がなんでこんなにプライドが高いのかはよくわからないのだが、「生まれながらに美しい」と同じく「生まれながらに気高い」ということだろうか。


そこで帝は『多くの人殺してける心ぞかし』『多くの男を殺したという強情な性格だけのことはあるな。』
『この女のたばかりにや負けむ』『この女の謀略に負けて諦めてたまるか』
と、秩序を維持する高貴なるものの義務としてかぐや姫に対する。同時に、「男としての意地」も芽生えてくる。「女を支配する男」の社会権力の構図じゃなくて「女なんかに社会を壊されてたまるか」と言うわけで。イザナギイザナミ古事記の神話とも同じく「女性の乱暴なエネルギーへの畏れ」がある。


そこで今度は帝は翁に「官位を授けるのでかぐや姫を宮仕えさせよ」と、命じるとかぐや姫は「官位が授かった後に死にます」と翁に断る。
「あまたの人の、志おろかならざりしを、空しくなしてこそあれ、昨日今日帝ののたまはむことにつかむ、人聞きやさし」(私は多くの男性の熱心な求婚をことごとく断ってきたのです。それなのに、昨日今日で、帝がおっしゃっている事に従ってしまったら、世の人に悪く思われる)
ここで姫は「私は世論の代表であり周りの人間に悪く思われないために、帝には従わない」と、反政府勢力の代表のようなことを言う。
ここで、原作ではかぐや姫は帝には難題を出さなかったように見えますが、よく読むと帝に「私に国譲りをするのなら」と、超壮大な難題を出しているとも見える。

愛とまぐはひの古事記 (ちくま文庫)

愛とまぐはひの古事記 (ちくま文庫)

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で、おじいさんの屋敷に狩りをしに行く振りをして帝は忍んで来る。姫が警戒心を解いている所を捕まえるのは、セクハラと言うより「八岐大蛇退治」や「日本武尊」のようなものだ。
鬼退治や鬼婆征伐に帝が手ずから赴いているわけで、戦争です。アニメの御門はどうも他の貴公子と同じような求婚者の一人として描かれているが、原作は国家を率いてる高貴な天皇が新しく渡来し人心を惑わす他国の貴族と対決する話なんです。
演出助手:高畑勲にとっての「わんぱく王子の大蛇退治」なんだが。
なんか、権力に対して権力で対抗する「安寿と厨子王丸」みたいな話は高畑勲監督はやりたくないみたいだった。
だから、かぐや姫も高貴で人心を惑わし掌握する女王としてではなく、孤独な箱の姫君で田舎者によそ者扱いされるだけで傷つく少女として描いている。アニメは器が小さくなっている。


そして原作の帝は後ろからいきなり抱きすくめるのではなく、袖をつかんで顔をちらりと見る。いきなり抱くアニメの御門の方が嫌悪感が大きいしバカっぽい。


かぐや姫、『おのが身は、この国に生まれて侍らばこそ使ひ給はめ。いと率ておはしまし難くや侍らむ』と奏す。

帝、『などかさあらむ。なほ率ておはしまさむ』


かぐや姫は『私がこの国に生まれた人間であれば、陛下の思い通りにすることができるでしょう。しかし、そうではないので私を無理に連れて行くのは難しいですよ。』と答えて申し上げた。

帝が、『どうしてそんなことがあるだろうか。このまま連れていくぞ。』と言って、御輿を呼び寄せると、かぐや姫はぱっと姿を消して影になってしまった。


顔を見るとか、国の生まれで支配するとか、かなり呪術的な要素が濃い。男が腕力や権力で女性を支配するって言う話じゃなくて、姫のクニと帝のクニのどちらが主導権を握るか、という緊迫した政治的場面なのである。


なんですけど、政治的場面で恋に落ちるって言うのも日本神話的なんですよね。国産みという、カミがクニを産むという神話の色が濃い平安時代前期なので。


というか、女性に対して天皇が身一つで対峙して主導権を争うのは、

籠もよ み籠持ち 掘串もよ み掘串持ち この丘に 菜摘ます児 家聞かな 名告らさね 
そらみつ 大和の国は おしなべて われこそ居れ しきなべて われこそ座せ われこそは 告らめ 家をも名をも
美しい籠やヘラを持って、この丘で菜をお摘みのお嬢さん、君はどこの家のお嬢さんなのか教えてくれないか。
大和の全てを私が治めているのだ。私こそ教えよう、家柄も名も。

という万葉集の巻頭を飾る第二十一代天皇雄略天皇を連想させる。
「今は昔」で始まる竹取物語なのだが、いろいろな言葉の語源がかぐや姫から生まれたと主張するのは神話の体裁にのっとっている。雄略天皇大和朝廷のクニを武力で制圧するとともに、和歌の言葉の呪術で万葉の言の葉を始めた文武に猛った人だ。西暦478年、高句麗を除く韓半島全域の軍政権を求めて、当時の宗主国であった南宋に上表文を送った倭王・武に比定される天皇
竹取の翁の説話も万葉集に収められており、古事記にある迦具夜比売命かぐやひめのみこと)は第十一代垂仁天皇の妃の一人。


なので、竹取物語の帝とかぐや姫の関係は、雄略天皇そのものではないにしろ、平安時代から万葉の[今は昔]を振り返っての民話や実話を交えた神話なのだと思う。
また、五人の貴公子のモデルが奈良時代だが、帝のモデルや行動がさらに古い万葉様式だとすると神話性も高まる。


そして、雄略天皇の「女よ、われは大王なり!」と言う恋と権力を賭けた和歌に帝の行動が似ているとすると、かぐや姫を見初めていきなり恋に落ちた帝の情熱のワイルドな熱さも感じられる。
だから、僕はアニメのかぐや姫の物語に対して「熱く恋をしていない」と思ったのだ。女と国を自分の器量で抱える!って言う王の器な。国を惑わす魔女を折伏して国を交わらせて新しい秩序を作るって言う。そういう豪族の熱い血潮がほとばしる戦いのような恋!


決して帝はアニメの御門のような「中国かぶれの成金の延長線上の勘違いイケメン」ではないのだ。


でも、雄略天皇百済と同盟して高句麗と戦争して新羅に負けたりしたので、左翼の高畑勲監督は描かないんだろうなー。


対して、出崎統監督は源氏物語千年紀-Genjiで熱く戦い舞い踊り恋をする皇子を書いたね。

朱雀帝の舞・・・。アツい・・・。


で、原作の帝が格好いいのは姿を消したモノノ怪そのものであるかぐや姫を討伐するのではなく、和歌を交わしたところ。
和歌はそれまでの貴公子とも何度か送っていたが、姫から送信したり何度も返歌を送ったのは帝だけ。
ここで、それまでの貴公子で恋愛をテストしてきた姫の伏線が生きるし、帝が姫を引き付ける力が権力や腕力ではなく「気高さ」や「言の葉」として描かれているのも感動的。


かへるさのみゆき物うくおもほえてそむきてとまるかぐや姫ゆゑ(行幸からの帰り道は憂鬱な気持ちでいっぱいだ、これも私の命令に背いて一緒についてきてくれないかぐや姫のせいなのだよ。 )
御返事を、
葎はふ下にもとしは經ぬる身のなにかはたまのうてなをもみむ(雑草が生い茂る貧しい家に育った私などが、玉で飾り立てられた宮殿で過ごすのは身分違いというものですよ。 )


和歌を送られた後、かぐや姫の美しさに他の女性に興味が失せた帝はかぐや姫の御もとにぞ、御文を書きて通はさせ給ふ。

御返りさすがににくからず聞こえ交わし給ひて、おもしろく木草につけても御歌を詠みて遣はす。


雑草が生い茂る貧しい家に育った私などが」と自分を卑下しているかぐや姫に対して、帝は植物の話題で三年間文通するんですよ!
アニメの御門は草木花から遠い成金趣味として描かれたけど、原作の帝はおもしろく木草につけても御歌を詠みて遣はす。
尊い!!!国の長でも、草木花を愛する心があるのだ。


で、割とラブラブになったところで、(帝とはその後一回も再会してないのに)かぐや姫は月を見ては憂鬱そうになる。


かやうにて、御心を互ひに慰め給ふほどに、三年(みとせ)ばかりありて、春の初めより、かぐや姫、月の面白う出でたるを見て、常よりももの思ひたるさまなり。

ある人の、『月の顔見るは、忌むこと』と制しけれども、ともすれば、人間にも月を見ては、いみじく泣き給ふ。七月(ふみづき)十五日(もち)の月に出で居て、切にもの思へる気色なり。


これでかぐや姫が月に帰る前兆となるのだが。
『月の顔見るは、忌むこと』がなぜなのかと言うとそのまま歳月の移り変わり、すなわち死の予兆を意識することだからだ。


八月十五夜の帰る時に、かぐや姫は養父母に「かの都の人は、いとけうらに、老いをせずなむ。思ふこともなく侍るなり。さる所へまからむずるも、いみじく侍らず。老い衰へ給へるさまを見奉らざらむこそ恋しからめ」と「自分は老いることが無いのだが、老いるあなたたちを看取れなくてつらい」と言った。
求婚者が現れた時に「何で人間は家族を作って子孫を残すの?まずそこがわからない」と言った姫が「老いを看取れないのは辛い」と言うの、本当に成長を感じさせるし泣ける。
アニメ版は「子供時代が尊い!大人はクソ!」みたいな描き方だったのに、原作だと「人は死ぬからこそ大人になって子をなすのだ」ということを不死の宇宙人が学習する話になっている。


そして、かぐや姫が月に帰ることになった理由がアニメ版と全く逆だとわかる。
アニメ版は「帝に抱きすくめられて、大人になりたくない!ここに居たくない!帰りたい!」とテレパシーを送ったからと高畑監督は言うのだが。原作ではむしろ「歳月の流れ、老いていく人を止められないから辛い。翁と媼と、そして御門の命が縮まるのを待つのが辛い」という短命な時代の人らしい哀しみを感じたんじゃないか?それを実感させるのが姫に対する罰だったのではないか?と私は思う。だから姫は帝に再会せずに文通だけにしたのではないか。



『文を書き置きてまからむ。恋しからむ折々、取り出でて見給へ』とて、うち泣きて書く詞は、

この国に生まれぬるとならば、嘆かせ奉らぬほどまで侍らで過ぎ別れぬること、返す返す本意なくこそおぼえ侍れ。脱ぎ置く衣を、形見と見給へ。月の出でたらむ夜は、見おこせ給へ。見棄て奉りてまかる、空よりも落ちぬべき心地する。

と書き置く。


かぐや姫が泣きながら「同じ国に生まれなくてすみません。月を見たら私を思い出してください」って手紙を書くの、めっちゃ泣ける。あれかなあ。朝鮮との戦争で引き裂かれた異国の恋人や家族の伝説も入れてるんだろうか。


で、天人が姫に天の羽衣を着せようと急く。アニメのかぐや姫はおじいさんとおばあさんと泣いているばかりで特に抵抗するでもなく、着せられて記憶を失う。
だが、原作では貴い身分なので天人を制止する。


その時にかぐや姫、『しばし待て』と言ふ。『衣着せつる人は心異になるなりと言ふ。もの一言いひおくべき事ありけり』と言ひて文書く。天人、『遅し』と心もとながり給ふ。
かぐや姫、『もの知らぬことな、のたまひそ』とて、いみじく静かに、朝廷に御文奉り給ふ。あわてぬさまなり。


翁と媼に対しては泣きながら手紙を書いたのに、いみじく静かに、朝廷に御文奉り給ふ。あわてぬさまなり。 高貴だ…。最後の文通だが、それは高貴な者同士の政治文書として贈る。
ここで恋心に乱れるのではなく、高貴な姫君として帝に対している態度は本当に貴族。

http://www5f.biglobe.ne.jp/~mind/knowledge/japan4/taketori023.html


このように大勢の兵士を派遣して下さって、私を引き留めようとしておられますが、この国に居ることを許さない月の国の迎えがやって来て、私を連れて行こうとしますので、残念で悲しく思っています。宮仕えをしないままになってしまったのも、このような煩わしい身の上だったからなのです。勅命に逆らって物事の道理を心得ない者だと思われたでしょうけど。強情に命令を受け入れなかったことで、無礼な者だと思われてその印象を残してしまったことが、今でも心残りとなっております。

恋人ではなく、あくまで「宮仕えをできず不心得者と思われたようで心残りです」「私は違う国の貴族であるからあなたの国に仕えることはできなかったのです」と、外交儀礼のような言葉を残しているのがもどかしい。


で、

いまはとて 天の羽衣 着る折ぞ 君をあはれと 思ひ出でける


ふと天の羽衣うち着せ奉りつれば、翁をいとほし、かなしとおぼしつることも失せぬ。この衣着つる人は、物思ひなくなりにければ、車に乗りて百人ばかり天人具して昇りぬ。

翁をいとほし、かなしとおぼしつることも失せたのだが、帝の事をあはれと思い出すことは消えたのかどうか表現がぼかされている。ここのクライマックスの絶妙な間合いが、非常に文学的。
アニメだと、ガって振り向いて、月にバーーーン!って赤ちゃんが浮かぶじゃないですか。
原作はあはれが消えたのか消えてないのか分からない、というふわっとした表現なのが沁みる…。


で、アニメはおじいさんとおばあさんが兵士を集めてたけど、原作はもちろん帝が二千人派兵した。本当にアニメの御門は何にもして無くてヤバい。というか、御門が抱きすくめたおかげで記憶が戻ったっぽい。
原作は帝に会う前から高貴な異国の代表という意識があったようだ。


そして、不死の妙薬を天人から授けられるのだが。
原作のかぐや姫は「(自分が不死なのに)愛する人が老いる様を見るのが辛い」と言う気持ちだったのに、別れる時に翁と媼と帝も不死の薬を得る。ここですれ違いの演出をするのが憎い。


だが、翁と媼はかぐや姫を失った悲しみで血の涙を流し、薬も飲まず、病になった。
帝は


あふことも 涙に浮かぶ わが身には 死なぬ薬も 何にかはせむ


と、読んで富士山の頂上で薬を燃やさせた。


このラストは色んなものが重層的になっている。
アニメでかぐや姫が好かれたのは「回春」で寿命を延ばそうという気持ちだった。(実際おじいさんとおばあさんは元気になった)だから不死の薬は本当にみんな欲しいし、かぐや姫自体が不死の薬のようなものだった。だから、アニメでは不死の薬そのものは天人から与えられない。


逆に、原作だとかぐや姫は「歳月は過ぎてみんなは老いて自分は取り残されていくのだなあ…」という天人の哀しみがあった。その哀しみと引き換えに不死の薬を天人から人間に与えられるのだが。
帝は「かぐや姫に会えないのなら不死でも仕方がない」と薬を焼き捨てる。これには仏教の「極楽浄土に転生すること」の否定でもある。
いや、天人の世界が六道の天道なのか、極楽浄土なのかははっきりしないのだが。とにかく「永遠の命を持つものに解脱したい」という仏教徒の願いを放棄している。仏教以外にも、日本には常世の国と言う概念があるのだが、こちらは海の向こうの世界なので、月の世界とはまた違う気がするが。


ともかく、成立年代が平安時代初期とすると奈良の大仏以降で仏教信仰の勢力が強い時だ。そこで、オピニオンリーダーの帝に「浮世のわが身には死なぬ薬は意味が無い」と不死を捨てさせるのは非常に反体制的だし政治的意図を感じる。
皆が仏教を信じて永遠の命や成仏を願っている時代に、「そんなものより、愛が大事だった」と死を選ぶことで、ラブストーリーが結実している。


と、同時に故事にもこのようなものがある。

大生部多は駿河国の不尽河(富士川)辺の人。皇極天皇3年(644年)にタチバナやイヌザンショウにつくカイコに似た虫(アゲハチョウ、一説にはシンジュサンの幼虫)を常世神であると称し、それを祀れば貧しい者は富み、老いた人は若返ると吹聴した。


やがてこの騒動は都のみならず周辺の地方にも波及し、私財を投じて財産を失う者が続出して社会問題となる。渡来系の豪族であった秦河勝(渡来系豪族で聖徳太子の側近)はこの騒動を懸念して鎮圧にあたり、騒乱を起こし民衆を惑わす者として大生部多を討伐(生死不明)した。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E7%94%9F%E9%83%A8%E5%A4%9A

不死の常世神を信仰する騒動が富士山近辺で起こり、それを鎮圧するという事実があった。
帝はかぐや姫を愛してもいたのだが、やはり政治の責任者なので哀しみだけで行動するわけにはいかない。
そこで、不死の薬の処理ですが。二千人もの兵士を動員し月の軍勢と戦って、姫は失ったものの不死の薬を得たと、大勢の兵士が見た。
そんなのは、みんなが欲しがるに決まっているので絶対騒乱の元に成る。
なので、世の秩序を守るべき帝はかぐや姫を守るために出動させた兵数千人を改めて証人として富士山で不死の薬を焼くのに立ち会わせたのではなかろうか。
かぐや姫に会えないので不死の薬は要らない」というだけでなく、「世の安定のために捨てざるを得ない帝王の義務」も見られるのではないか。
そして、この説話を作ることで、不死の薬を求めようとする大生部多などの新興宗教を戒めようという作者の意図もあったのではなかろうか。
そう考えると、高貴な姫と高貴な帝はお互いに背負う国や民の動向に責任を持っていたので、婚姻で外交をしつつも異国が融和したり分裂していくことを止められない高貴な者の恋の切なさのようなものも感じますね。国分寺建立や平安遷都で大和朝廷は一定の安定を得たが、その時代から見て「今は昔」の国と国のぶつかり合いの時代の記憶は竹取物語に取り入れられていたのではないだろうか。

竹取物語 (岩波文庫)

竹取物語 (岩波文庫)


と、このように色々な愛と高貴さ、異文化交流などの妄想、伝記や説話や歴史が原作には込められているとわかった。
そんなクニと王の壮大な物語を「一人の少女がキモイ上司にセクハラされて男社会から消えたいと思った」というスケールに縮めてしまったアニメ版のかぐや姫の物語は、描写が美しい分、非常に残念な作品だと思えます。


うーん。
テレビ放送に合わせて軽く原作のダメな点をあげつらって炎上マーケティングをするつもりが、割とマジで原作の方に感動しなおしてしまった…。
国と命を賭けた恋・・・熱い・・・。
こんな風に原典に興味を持たせるという点では、アニメ化も悪くはないのかなあ。

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