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玖足手帖-アニメブログ-

富野由悠季監督、出崎統監督、ガンダム作品を中心に、アニメ感想を書くブログです。旧玖足手帖から記事・ブクマを引き継ぎました。


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Gのレコンギスタ最終回の予習としてハンナ・アーレント映画

ガンダム Gのレコンギスタがこの原稿を書き始めてから、あと2時間半で終わる。何ということだ!
Gレコは富野監督に言わせると「ハンナ・アーレントの思想を参考にしたうえで、全体主義をアニメで描く」ということだったのだが。

全体主義の起原 3 ――全体主義

全体主義の起原 3 ――全体主義

結局、僕はこの半年間、Gレコの中で何が全体主義を表しているのかがはっきりとはわからなかった。分かっている人もいるんでしょうね。富野ファンなのに頭が悪くて申し訳ない。
ジオン公国がドイツのナチスを真似ているというのは分かる。これは分かりやすく全体主義的な記号の描写だ。
しかし、Gレコで描かれる組織は、どの国家も内部分裂しており、全体主義から連想される「挙国一致」というイメージとは違う。
そう言うわけで、Gレコの最終回を見る前の駆け込み需要として、2013年に公開されたハンナ・アーレントの映画を見た。
ドイツ人の映画監督が、50年前にユダヤ人哲学者のハンナ・アーレントが元ナチス将校のアドルフ・アイヒマンをエルサレムで裁く裁判を傍聴した記録を出版したことにまつわるドラマを映画にしたもの。ドイツ語と英語とヘブライ語、1960〜1963年を主な舞台にしつつ戦前戦後の回想シーンも織り交ぜられていて、よくわからなかったので2回見た。

  • 主だった感想

ハンナ・アーレント 映画 感想」でググるか、次の記事を読んでください。
考える人

視点・論点 「ハンナ・アーレントと"悪の凡庸さ"」 | 視点・論点 | NHK 解説委員室 | 解説アーカイブス
フェリス女学院大学教授 矢野久美子

 
 今から50年ほど前の1960年代前半、ナチスの犯罪をめぐる裁判レポートが、大きな論争を引き起しました。これからお話しするのは、その裁判レポートの著者が何を語ろうとしたのか、ということについてです。


中略


アーレントにとって、人間の無用化をはかったナチスの犯罪は、ユダヤ人に対する犯罪というよりも、「人類に対する犯罪」でした。政治によって生きる価値のない人種が定められ、官僚によって行政的に大量の人々が殺戮されるという現代の悪は、アーレントにとって許されざるものであり、なぜそのようなことが起こったのか、徹底的に向き合い、考えなければならない問題でした。しかし、それは被害者たちにとっては普遍的すぎる視点であり、アーレントユダヤ人同胞から、ユダヤ人への愛はないのか、と批判されます。論争のなかでアーレントを擁護した社会学者のダニエル・ベルさえ、「彼女が要求する普遍的な正義は、世界を判断する物差としては厳しすぎる」と述べました。


 アーレントは、「悪の陳腐さ」という言葉で何を言おうとしていたのでしょうか。批判への応答のなかで、彼女は、「悪の表層性」を強調しています。悪は「根源的」ではなく、深いものでも悪魔的なものでもなく、菌のように表面にはびこりわたるからこそ、全世界を廃墟にしうるのだ、と述べています。アーレントは、20世紀に起こった現代的な悪が、表層の現象であることの恐ろしさを、述べようとしたといえるでしょう。「悪の凡庸さ」という言葉で「今世紀最大の災いを矮小化することほど、自分の気持ちからかけ離れたものはない」と、アーレントは語りました。「底知れない程度の低さ、どぶからうまれでた何か、およそ深さなどまったくない何か」が、ほとんどすべての人びとを支配する力を獲得する。それこそが、全体主義のおそるべき性質である、とアーレントは考えました。


 アーレントにとって「思考の欠如」とは、表層性しかないということでもありました。
怪物的なものでも悪魔的なものでもない、表層の悪が、人類にたいする犯罪、人間をほろぼしうるような犯罪をもたらすという、前代未聞の現代の悪のありよう。それが、彼女の導き出した結論でした。


 アーレントはそうした悪に抵抗しうる可能性として、思考すること、考えることを追究します。「ものごとの表面に心を奪われないで、立ち止まり、考え始める」ことを彼女は重視しました。

  • 個人的な感想

まず、これは無職で無能な僕のやっかみに過ぎないのだが、ハンナ・アーレントと言う人は恵まれた人で、だからこそ傲慢だと人に思われる面もあったのだろうな、と思った。
実際、映画の中でもアーレントは記者、読者、同僚大学教授、友人、思想家、などから「あなたは傲慢だ」「君は冷酷だ」「あいつには心が無い」と何度も言われていた。
で、ハンナ・アーレントは父親を早くに亡くしてフランスでナチスのせいで抑留キャンプに入れられた不幸な経験を持つが、才能に恵まれ、恩師のハイデガーに恵まれ、友人に恵まれ、夫に恵まれ、アメリカでの哲学者としての執筆活動の評価に恵まれていた。作中ではアーレントが夫や若いころに恋人関係にあったハイデガーに熱烈なキスをもらったり、同性異性の多くの友人たちとハグしあったり、愛情を受けているシーンが印象的だった。本当に、冷たい日本人から見ると「なんであんなに白人はべたべたしているのか」と思うくらいキスをする。50代の女性が60代の夫と、である。
そんな恵まれた人間のアーレントがアイヒマンという元ナチスの死刑に成った人間に対して「人間であることを拒絶した」と言うのは、非常に残酷なことなのではないだろうか、と思った。当時はベトナム戦争以前で、広島長崎の原爆を落とされた日本の外交的な価値も低かったので無視されているが、人間を大量に殺戮していたのはアメリカや連合国も同じではないか。
アイヒマンも「連合軍がドイツの都市を空爆して女子供や老人を虐殺したのと同じです。部下は(一般市民虐殺の命令でも)命令を実行します。もちろん、それを拒んで自殺する自由はありますが。」と証言している。
たしかに、20世紀中盤には「組織的な悪」とか「大量殺戮」に対する哲学的な善悪の判断に人間が慣れていなかったのだろう、とは思う。
映画の中でアーレントが「西洋社会には”悪とは利己的な物である”という先入観がありました。しかし、今回の人間に対する悪は、悪魔的な深さを持っていない、凡庸なものだったと気付かされました」という趣旨のことを言った。
「悪は悪魔的である」という認識は非常に中世的で伝奇的な価値観だと思う。21世紀の日本に生きる私は善悪とは相対的なものに過ぎないと思っているのだが。1960年代に「悪は悪魔的なものではなく、人間の行為から発生する」というごく当たり前のことにアメリカに住む人々が気付き始める、というのは意外だった。20世紀にもなって原子力も実用化された時代において「悪は悪魔じゃなかった!」とか言うの、そこまでアメリカ人や西洋思想は原始的だったのか、と驚いた。さすが、今になっても進化論から否定している国民だ。まあ、日本人も八紘一宇、進め一億日の玉だ、靖国で会おう英霊とか、精神注入棒とか言ってたんですが。人間の認識と言うのは50年前からも非常に変化していると思った。現代がそれだけ情報化されて相対主義無神論が横行する時代ということでもあろう。なので、現代の人間観が正しいとも言い難い。


しかし、非常に個人的であるし私がドイツ人ならば言論統制されることだと思うが、私は個人的にアイヒマンという人が好きである。
「百人の死は天災だが、一万人の死は統計にすぎない。」などの裁判での発言は非常にニヒリズムが徹底していて一種の美意識があると思う。

処刑前に「最後に何か望みが無いか」と言われ、「ユダヤ教徒になる」と答えた。何故かとたずねると「これでまた一人ユダヤ人を殺せる」と返答をした問答の逸話

これは本当にあった事実かどうかは曖昧なのだが、自分の死に際して最期にジョークを言える才能は非常に知的でユーモアセンスと言う人間が持ちうる最高の価値を持っていると思える。そして、そういうセンスや思考力を持った人間でも数百万人単位でぞろぞろと生まれ、ぞろぞろと殺されたという事をアイヒマンは分かり、自分の死も客観的に評価できているのではないかなと思う。
また、アイヒマンが逮捕されるに至ったきっかけも「偽名を使っているアイヒマンがドイツから呼び寄せた妻に送る誕生日の花の日付からバレた」という話も、非常に人間臭い。
もちろん、人間臭い人間だから人間を殺すわけがない、ということもなく、殺せるなら人は誰だってどんな理由でも殺すし、アイヒマンは殺害の実行犯や刑務官ではなく書類上の責任者であるにすぎない。
私の母親は資本主義者の投資家に借金を背負わされて自殺したのであるが、私の母親を死に追いやった銀行家や不動産屋も、わたしを過労死寸前に追いやったKLab株式会社も、凡庸な悪であり、人間は誰でもアイヒマンになりうる。
「アイヒマン問題は過去の問題ではない。我々は誰でも等しくアイヒマンの後裔、少なくともアイヒマン的世界の後裔である。我々は機構の中で無抵抗かつ無責任に歯車のように機能してしまい、道徳的な力がその機構に対抗できず、誰もがアイヒマンになりえる可能性があるのだ。」(哲学者ギュンター・アンデルス(Günther Anders)


そんな人間臭い、人間であるからこそ生活して家族を守るための仕事として他人を大量に殺害したアイヒマンである。大量に殺戮した書類上の責任者だと言われても、彼は書類上の責任者であったにすぎない。そして、第二次世界大戦が起きたのはヒットラーが悪魔だったからでもない。経済上の必然と政治的力学があったのだ。ヒットラーを支持する多くの民衆がいたし、彼を政治的に利用しようという諸外国の政治家の意図もあっただろう。
人間がバカみたいに生まれて増えるのも、それを大量に殺戮するのも、どちらも人間的な営みに過ぎないのではないか、と思う。
そんな誰よりも人間臭いアイヒマンに対して、ハンナ・アーレント

彼の語るのを聞いていればいるほど、この話す能力の不足が考える能力――つまり誰か他の人の立場に立って考える能力――の不足と密接に結びついていることがますます明白になって来る。アイヒマンとは意志の疎通が不可能である。それは彼が嘘をつくからではない。言葉と他人の存在に対する、従って現実そのものに対する最も確実な防衛機構(すなわち想像力の完全な欠如という防衛機構)で身を鎧っているからである。(『イェルサレムのアイヒマン』大久保和郎訳)

イェルサレムのアイヒマン――悪の陳腐さについての報告

イェルサレムのアイヒマン――悪の陳腐さについての報告

と、切断操作を行った。「アイヒマンは人間ではない」とすることで自身たちの正義を保とうとしたのではないか。
ただ、情報化社会が進んだ21世紀の私にとっては、それらの20世紀中盤の正義もすべては相対的なものに過ぎないと思えるだけではないか。(ここで私は私自身も客体化している)


また、先に「ハンナ・アーレントは恵まれた人である」と書いたが、ハンナ・アーレントはまさしく哲学者として「考えることに恵まれた人」だと思った。映画でもユダヤ人の友人、ニューヨークの出版会やアメリカの大学、社会主義者の夫、小説家の同性の友人と闊達に議論をしており「アーレントは考えることが習慣化されている」という印象を受けた。
つまり、「考えることを習慣づけている人」から見て「考えないことを習慣づけていた人」は「想像力の完全な欠如」として認識される相対的な位置座標の違いに過ぎないのではないか?アーレントは話す能力に恵まれただけで、アイヒマンはそれが足りないだけなのでは?
そして、我々の大量消費大量物流社会は、自分の仕事で関わっている商品の行方やユーザーの顔がますます見えないし、自分の仕事がどういう意味を社会にもたらすのか考えていては何もできない社会になっている。つまり、社会システムとしてはアーレント的な「個人的、熱情的思考」ではなく「大衆的、没個性的思考停止」の方が普及しているのが現代なのだろう。だからして、この映画のラストシーンも現代のアメリカの摩天楼を映して終わるのであろうなあ。


なので、「アーレントは自ら考えることが大事だと主張した」と映画で描写されているし、それは彼女の著作の通りなのだろうが、それが正しいかどうかという判断は保留されるような、彼女の反対者もユダヤ人としての考えや感情を持った人間として相対的に平等に(史実も取り入れながら)描かれるような映画で、そこは注意深い作風だと思った。


ただ、僕が一番唾棄するべきだと思っているのは「考えている人の映画」を見て「自分もものを考えているような錯覚をする大衆」である。そんなものは高倉健やくざ映画を見て自分もヤクザに成ったような気になっていた団塊の世代と同じにすぎない。僕は自分の脳が単なる肉塊に過ぎない、自分の思考は単なる反射に過ぎない、私の母親も首を吊って数十秒で死んだという事実を意識していたい。


また、一つ付け加えるならば、フェミニズム的な平等論や人類普遍論で見ることもできるが、この映画の大学、知識階級の世界には「黒人」が全く登場しないという時代背景も見ることができる。
ユダヤ人に対する罪は人類に対する罪」と語る大学には黒人がいない。唯一登場する黒人は、アーレントの住むマンションの管理人か郵便配達人で、彼は自動的にアーレントに「10階の老紳士からです」と言って「地獄に落ちろナチ女」と書いてある手紙を渡した。
つまり、僕が言いたいのはアーレントは白人の知識階級として考えることを許され恵まれた人で、黒人や労働者階級のように(アーレントの周りの大学の食堂で自動的に食器を片付けるメイドのように)考えることを許されない人々も居るということ。
考えないで仕事をする人や考えを持っていると扱われない人もいる。そう考えると、アーレントも「たまたま考えただけの単なる自動的現象」に過ぎないのではないか。とも思える。

  • 映画的な感想

ああ、もうあと20分でGレコが始まる。
なので、雑にいきますが。
2時間の映画を大きく分けて、前半はアーレントが友人たちに恵まれ期待されてアイヒマンの裁判を傍聴して記録を出版するまで、後半は出版して批判され友人を失っていく場面。
この対比構図は分かりやすい。
また、初老の女性思想家が原稿を書く、というだけだと退屈なのだが、冒頭のアルゼンチンでのアイヒマンの拉致、アメリカニューヨーク、大学、エルサレムアーレントの別荘、ニューヨーク、エルサレム、大学、とアーレントが場所を移動しながら取材したり執筆したりすることで、ロードムービー的な面白さも付け加えているのが上手い。
アーレントが恩師であり恋人でもあったハイデガーを思い出すシーンが映画的に挿入されていて、初見では意味が分からなかった。
しかし、噛み砕いて見ると、「アーレントハイデガーナチスを支持したことにショックを受けた」「アーレントハイデガーから情熱的思考を教わった」「ハイデガーに幼くして死んだ父親の代理のような思慕を抱いていた」「戦後再会したハイデガーに“私は政治的な才能が無い”と言われ、“世間にあなたは考えを発表すべきです”とアーレントが反論した」
つまり、アーレントが社会に対して強く自論を発表したのは「ハイデガーが断念した社会との対峙」を自分がやることで「フロイトの言うエディプスコンプレックスの超越」を目指すという個人的な情熱があったからなのではないか。
そんな風に読み取れるようにハイデガーのシーンが挿入されていたと思う。
ハイデガーのことを思い出す際のアーレントの自嘲的な笑みは「今の自分はあの時のハイデガー先生と同じだ」と思っているように見えたのだが。
まあ、白人の演技や映画理論については私はあんまり詳しくないのだが。

  • Gレコに対しての感想

あと7分でGレコが始まるので本当に雑に言うのだが。
アーレントがなんであんなに批判されたのかと言うと、「役割を演じることを放棄して個人的に行動したから」なのでと思った。

つまり、哲学者として、全体主義の起源の著者として、ニューヨーカーの派遣員として、ユダヤ人として、戦後アメリカやイスラエルの政治的なスポークスマンとして、「あの人はこういう風にナチスを断罪してくれるだろう」という大衆や友人の役割への期待感をアーレントが裏切ったから嫌われたのだろう。

そして、その「役割を演じろ」という社会の感情を体現し、その通りに遂行したのが他ならぬアイヒマンなのだろう。
なので、アイヒマンにユダヤ人虐殺SS中佐としての役割を与えた全体主義と、それについて書いたアーレントを批判した人たちの「人に役割を押し付ける社会的願望」は同根なのではないか。


で、Gレコの話につなげますが。

キャピタル・ガードのタブーとか、マスクを被るマスクとか、列車の運行局とか、ムタチオンしながら千年も黙々とバッテリーを作る金星の人とか、姫であることを期待されるアイーダとか、「役割」への意識はGレコにもあるだろう。

そして、「恵まれた物への憎悪」もマスクとしてあるだろう。


ガンダムの名言から、アーレントに近いもの。
シャア・アズナブルクワトロ・バジーナ

個人的な感情を吐き出すことが、事態を突破するうえで一番重要なことではないかと感じたのだ

「世直しのこと…知らないんだな。革命はいつもインテリが始めるが、夢みたいな目標をもってやるから、いつも過激なことしかやらない!」(アムロ・レイ
「しかし革命の後では、気高い革命の心だって、官僚主義と大衆に飲み込まれていくから、インテリはそれを嫌って、世間からも政治からも身を引いて世捨て人になる。だったら…」(アムロ
「私は、世直しなど考えていないッ!愚民共にその才能を利用されている者が言うことか!」(シャア)

富野発言。


ナチスの大量殺戮を可能にしたのは鉄道と言うシステムである」って言う発言がどこかであったかと。

今回その事をG-レコでは25話26話で端的にやっています。便利すぎる道具が出来てしまったりしたら、人間っていうのは要らなくなるんですよ、という事をそろそろ思い出して下さい。
AnimeJpan2015 G-レコ関係メモ - シャア専用ブログ@アクシズ

「ラストシーンの意味」 原作・総監督 富野由悠季 >ガンダムを使って脱ガンダムをするというテーマを自分の中に据え置きながらも、それができたのは“戦争の起源”を考えたからです。戦場で生き死にをしなければならなくなった兵士やパイロットたちは、お互いに憎悪はありません。
戦争が起こり、そのような局面に直面せざるを得なかったから、戦ったにすぎないのです。
ですから、兵器という殺しの道具や戦場そのものがなくなってしまえば、一人のパイロットも普通の人になります。それは古今東西の戦場の真理です。
ですから、なぜ戦争が起こるのかといえば、その背景に政治や経済の問題があるからなのです。政治家たちの考え方次第ともいえるのです。そして今回の戦争は、大規模なテロであったのかも知れないのです。このような考え方を知って欲しい、と、次の世代の少年少女たちに申し伝えたいのです。
TVアニメ「ガンダム Gのレコンギスタ」、最終話に向けて総監督・富野由悠季がコメントを発表! 「ラストシーンの意味」 - アキバ総研


では、テレビでGレコを見ます。