玖足手帖-アニメブログ-

富野由悠季監督、出崎統監督、ガンダム作品を中心に、アニメ感想を書くブログです。

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どろろ 3、4話 万代の巻・その一、その二(富野コンテ)

どろろ 3、4話 万代の巻・その一、その二(富野コンテ)


gyao.yahoo.co.jp

GyaO!でやってる(僕の知る限り3、4回目)し見る。
言うまでもないことだがカルピスまんが劇場の第一作で手塚治虫原作、虫プロ製作で杉井ギサブロー監督に富野喜幸出崎統高橋良輔などが参加した名作だ。


nuryouguda.hatenablog.com

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以前一部富野と出崎統回の感想を書いたが、書き漏らしがあったので、今回また感想を書いてみようと思う。


それで、この3、4話は1話で出会って2話で過去を回想した百鬼丸どろろが最初の夜に初めて大妖怪の万代と戦う前後編で富野絵コンテ。


もちろん、杉井ギサブロー監督の色もあるし、脚本とか手塚先生の原作もあるので富野絵コンテの要素を考えるのはなかなか難しいのだが。


そして、僕も最近はアイドルのソーシャルゲームで忙しいのであまり込み入った感想を書く気力がない。


とりあえず、3、4話の演出的見どころ。


・動画がショボい白黒テレビの時代なので、ほとんど止め絵、カット割り、ズームアップ、横パンで表現されている。
その中で印象的なのはやはり、顔のアップだ。手塚治虫の原作は基本的にコマが小さい。(もちろん、映画的カメラを意識した漫画技術を高めた手塚論というのはあるし、原作に準拠したアニメのレイアウトもある)それに対して、テレビ画面いっぱいに百鬼丸や万代の顔、特に目のアップがバーン!と出るのは迫力がある。
もちろん、音楽や演出、野沢那智の演技による原作とは違ったシリアスな雰囲気も迫力を増している。


・やはり映像の原則
基本的に僕の富野話はほぼほぼ映像の原則ですが。
映像の原則 改訂版 (キネマ旬報ムック)

まあ、上手下手と中央でキャラクターの印象を見せていくという話ですが。
大妖怪万代の前に、金小僧という妖怪が出てくるのだが、その金小僧は害をなす妖怪ではなくただ埋められた財宝の位置を教えるだけの妖怪なのだが。その妖怪金小僧は基本的に画面の中央に映っていて視聴者の「この怖い妖怪は敵なのか味方なのか」という判断しかねる効果を出している。ここら辺の判断ができないから怖い、という妖怪の怪しさが表現されている。
万代も登場するときは顔のアップが中央から出てくるが、戦闘が開始されると下手側の悪の位置に行くし、百鬼丸がピンチの時は妖怪の方が上手に行くので、アクションのわかりやすさがある。
また、どろろと百鬼丸が出会ってまだ一日二日しかたっていないし、また子供アニメということで野沢那智が演じる渋い百鬼丸よりは子供のどろろの方が子供の視聴者が感情移入しやすいのですが。3話の前半はどろろ目線で「百鬼丸は下手に映っていて、どういう男なのかわからない。むしろ怪しい」という、こういうどろろと百鬼丸の関係性もレイアウトで出てくるのがいい。
しかし、どろろは男装ロリだし、百鬼丸ベルセルクのガッツだし、いろいろと先進的だ。


・戦闘シーン
鬼女モードになった万代との戦闘は原作では歌舞伎モチーフの舞台劇のような見開きで表現されているが、アニメでは舞台っぽさというよりは黒澤明っぽく表現されている。それが蜘蛛の巣城のような弓矢とか雷光で表現されている。また、原作では特に意味もなく娘道成寺パロディとして万代が鐘の上に上るが、アニメでは「近づけばこの鐘の下敷きにしてやる百鬼丸」と万代が叫んでいて地形を生かした戦闘という富野らしい殺陣になっている。そして、近づかないで槍を投げて瞬殺する百鬼丸の強さが際立つし、万代を倒したとたんに雨が降り出すタイミングも映画的だ。(原作では万代が鬼女になるところですでに雨が降っている)


イデオンっぽさ
村に寄生していた妖怪の万代を倒して村を解放した百鬼丸だが、「妖怪を倒したお前も妖怪の一味では」と村人に言われて追い出される。ここら辺の勝ったのに嫌われる展開や行き場所のないところは伝説巨神イデオンに通じる。
また、原作とは違って、妖怪を倒した報酬として百鬼丸の本来の義足ではない足が生えるシーンで、百鬼丸は超喜んでるのに村人は褒めてくれないし滅茶苦茶気味悪がってる温度差も、人の分かり合えなさを表現し続けることになる20年後の富野作品に通じる。
百鬼丸可哀想すぎる…。
百鬼丸が「誰も喜んでくれないのか!」って叫ぶシーンは雨と俯瞰のカメラワークと村人に百鬼丸と妖怪の死体が上から囲まれるようなレイアウトで百鬼丸のみじめさが強調されている。この圧迫感みたいなのが富野演出だなあ。あと、差別意識とか。


・力ある主人公は怪物と同じ
原作ではカムイ伝の影響からか、どろろが泥棒だからという理由で村人に嫌われて村を追われるが、アニメでは百鬼丸が化け物の同類に見られるという理由で村を追われる。
原作は割と階級闘争的な左翼的な内容で「民衆のために立ち上がろう」というテーマだったのだが、アニメはもっと個人的な百鬼丸の物語になっている気がする。これは杉井ギサブロー監督の感覚っぽい気がする。
そして、万代の巻解決篇のラストカットで、村を去りながら画面中央の顔のジワジワアップになった百鬼丸が徐々に暗転フェードアウトしながら「フフフ・・・化け物か…」と呟いて終わる。金小僧や万代など妖怪が初登場するカットで中央ポジションに映していて、「上手でも下手でもないから怪しい」という感覚を出していた演出の3、4話のラストで主人公の百鬼丸も中央ポジションで暗転しながら「俺が化け物か…」と自嘲するのは彼のダークサイドを表現している。この暗転と声を使った演出は萬画ではできない映画的なものだ。
また、「力のある主人公は自分が善だと思っていても民衆からは怪物と同じように扱われる」という、海のトリトン勇者ライディーン無敵超人ザンボット3ガンダムイデオンに通じる富野的な感覚の先駆けともいえる。

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そういうわけで、ベテラン監督が若い頃の作品を見るのはいいものです。
でも僕がティーンの時の演出家も今ではベテラン監督になってる時代なんですよね。水島努監督とか。
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