玖足手帖-アニメブログ-

富野由悠季監督、出崎統監督、ガンダム作品を中心に、アニメ感想を書くブログです。

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ガンダム Gのレコンギスタのベルリの殺人考察第1部1~2話

 かくしてアニメーションの卓越性(徳)には二通りが区別され、観客による「多数決的卓越性」「大衆的徳」と、作品による「倫理的卓越性」「作品論的徳」とがすなわちそれであるが、多数決的卓越性はその発生をも成長をも大衆的数字に負うものであり、まさしくこのゆえに娯楽性と大衆肯定を要するのである。これに対して、倫理的卓越性は学習づけに基づいて生ずる。
 このことからして、もろもろの倫理的な卓越性ないしは徳というものは、決して本性的に、おのずからわれわれのうちに生じてくるものでないことは明らかであろう。


 Gレコが売れなかったという富野監督の発言を踏まえて、なぜ売れなかったのかは前項で述べた。

  • なぜGレコが売れなかったのか

大衆に媚びなかったからです。
売れた作品は媚びています。以上。

nuryouguda.hatenablog.com

Gレコのあらすじをベルリの視点でまとめると
・信じていた世界が毎回崩れる
・やることなすこと裏目に出て何とかリカバリしようとするけどその度に人をぶち殺す
・仕方ねーから悪い奴をぶち殺したら何とかなるだろ!って思って最終決戦に臨んだら、そこに待っていたのは世界の黒幕ではなく「単にお前の態度が気に入らない」ってだけで自分を嫌ってた学校の先輩だった。
・あーもー、めちゃくちゃだよー。
・でも世界は広いってことはわかった。これからもがんばるぞ。
・明日がどうなるかはわからん!君たちががんばって明日を作ってくれ!
 完

です。
「明日は大丈夫」なんて要素はない。


「明日はどうなる?」っていう子供は
大人に「大丈夫だよ」って言ってほしいのです。
「頑張って明日を作れ」なんて原発をふっ飛ばして国債を破たんさせ年金を流用して不正ばかりする大人に言われたくないわけです。
 嘘っぱちだとしても子どもは「明日には希望がある」って言ってほしいの。ゴジラの血液凝固剤を作るためにずさんな製造過程で危険な二次化合物が全国で生成されたとか、そういうヘドラみたいなサヨク映画は望んでないの!大衆は「お上がきちんと原発も処理してくれる」「日本はスクラップビルドで発展するから大丈夫」っていう安心感が欲しいんだよ。人は安心するために生きている。by DIO withポルナレフinジョジョの奇妙な冒険
 「君の名は。」も「きっと二人の明日はしあわせなんだろうなああああ~~~ぽわゎ~~」っていう安心感がヒットの要因だったの。そういう風に夢に酔わせるのがアニメなの。
 富野監督みたいに

・Gレコのテーマは、現在の科学技術の進歩と金融資本主義に汚染されてしまった現代の問題
https://twitter.com/char_tweet/status/721624740528570368

 とか民草の子どもに不安を与える作品が売れるわけないじゃん。
 子どもは「なんかおそとはこわいけど、おとうさんおかあさん、せけんさま、かみさまがきちんとまもってくださるので、しあわせです」「ただしいくにをつくりませう」っていう話がアーキタイプなんですよ。
 東映動画わんぱく王子の大蛇退治から50年間、アニメは進歩していません。


 とにかく、ベルリ目線で「信じていた世界が崩れ続ける」っていうのがGレコの持ち味だけど、だからこそ大衆が一番欲する無批判な安心感、自己を肯定される感覚が足りてないんだよなあ。「進むにつれて信じていた世界像がスクラップビルドされて傷を負いながら進んでいく」っていうことに一般の臣民は耐えられない。ゴジラが暴れても内閣と言うシステムは存続するって思いたいじゃん。隕石が落ちてきてもサマーウォーズとか地域の家族とか伝統は守られるっていうファンタジーを信じてマイルドヤンキーしたいわけじゃん。
 いや、まあ、キャピタル・テリトリィの一般人から見ると、「レイハントンの皇子と皇女はご苦労なさったが、宇宙と地球の絆がより一層強まってクレッセントシップが出港して盛大なお祭りが行われました」と言うところで世代の申し送りと政治基盤の強化という安心感を感じさせられる内容だった。
 でも、ベルリやマスクという目線で見ると、「常に流動する世界の不安定さにさらされる」という内容だったわけで。


 前項において、充分な習慣づけがなされていない数多くの大衆に向けてヒットするアニメーション作品は、生物的本性としてわれわれヒトが持つ闘争本能の快楽原則を刺激する殺害とか狩猟とか獲得のメタファー、もしくは生殖本能の快楽原則を刺激する授乳経験や生殖行為や群れの中での生存に類似する愛や肯定感を提供することで大衆にヒットすると述べた。


 対してGのレコンギスタは、そのヒトの快楽原則そのものについて批評的な態度であり、無条件に大衆を安心させ楽しませるものではないためにヒットをしなかったのではないだろうか、という仮説の下に本項を展開する。
 そして、ガンダム Gのレコンギスタに通底する「不安感」を説明するために、とりわけ主人公のベルリ・ゼナムの「殺人」に対する態度の観察をする。なぜなら殺人をしたりされることは多くの人にとって不安を感じるものだからである。そして、この論を書くことで「ベルリは不殺を貫いた人物である」という「Gのレコンギスタオフィシャルガイドブック」の一面的な説明を批判して視聴者をさらに不安にさせる。


 これは昨年の夏にトミノアニメブロガーナイトのトークショウにおいてスライド説明によって論じたものであるが、再度文章の形として整理するものである。
nuryouguda.hatenablog.com
nuryouguda.hatenablog.com
 シン・ゴジラとか君の名は。という大ヒット作の時事ネタを利用した前項は多くのアクセスやブックマークを集めたが、あれは「Gレコはハラハラさせた後に安心を提供するヒット作とは違うつくりをしている」という話の枕にすぎない。
 では、まず1話から6話までのベルリ・ゼナムの殺人に対するリアクションを逐一解説していく。字幕はバンダイチャンネルによる。もちろんネタバレだ。そして、びっくりするほど長文だ。具体的に言うと3万文字。


 ベルリ・ゼナムの初登場、初台詞がこれである。
「常日頃 臨機応変に対処しろ」
 という大尉殿の教えを受けてそれを日常的に実践していることを自覚して、自分がそのような人格と能力を持っていることを恩師に述べるベルリ。機動戦士ガンダムシャア・アズナブルが一番調子に乗っていたのはガンダムと出会う前の第1話の冒頭なのだが、それと同じく、ベルリは初登場の時点で自信と自己肯定感に満ち溢れている。


 そんなベルリに対して、周囲の先輩や女学生も肯定的な態度を示してくれている。つまり、人間は本性的に自分の能力を誇り他人に認められることで安心感を得るのだが、キャピタル・ガード養成学校の生活を通じてベルリはすでにその安心感を得ている。多くの物語が不安定状態から安心感を得る報酬のメタファーで構築されているのとは逆で、Gレコはその安心感がスクラップされ続ける「懐疑」を提起し続ける構成である。なので、ヒットしなかったのである。



 デレンセン・サマター教官殿の授業を聞き流しているベルリ。

 デレンセンの質問をつまらないと言う。

 千年続いているキャピタル・タワーの保守点検をする仕事に志願するベルリにとって、世界とは教えられ分かり切ったことであり、そのレールに沿った人生はつまらないと思っているが、その閉じた世界の中でも臨機応変に対処できるし、自分の能力の範囲内にあるもの(タ・エピ・ヘーミン)についてのみ選択肢が提示される世界の中で人生を全うするのだから、自分はけっこう幸せな人生をおくれるような気がすると安心している。というか人生をナメている。これはリギルドセンチュリー11世紀における、宇宙からの恩寵とタブーに守られている世界観を持つスコード教の信者としての信仰と習慣に基づく態度であり、西暦21世紀の日本人の思考パターンとは多少ズレがある。


 その安心感を破壊してエキサイティングなGレコの本編の物語を始動させるのがガンダムG-セルフの到来である。で、あるがそれを受けてベルリ・ゼナムが最初にしたことは「女の顔色を窺う」である。


 女性キャラクターのチアリーダーが男性を応援する、そして生殖と結びついた婿探しの習慣のあるキャピタル・ガード養成学校とセント・フラワー学園の関係において、「女子からの賞賛」は男性にとって子孫を残し永遠の命と言う本能的快楽を志向する生殖願望と結びついたものである。なので、この時点のベルリがガンダムや事件に立ち向かう行為を「良い」と評価するにはベルリ個人の利害だけではなく周囲に賞賛されること、承認されることが「よさ」を保証する価値なのである。



 なので、噂の宇宙海賊に対して立ち向かうことはベルリがそれによって利益を得るというよりも、それによって周囲に認められて女にモテるためになるので、ベルリは海賊の襲撃を喜んでいいのだ。ドラゴンボールサイヤ人の純粋な闘争欲求自己充足やワンピースの懸賞金による評価とはまた違っていて、ベルリは女性や周囲に評価されて「よい」と認められたい、それによって生物として生殖をする欲求を満たし安心を得たい、というのが基本的な行動原理だ。
 ベルリ・ゼナムに先行してG-セルフにレクテンで向かって行ったトリーティを見て「いいのかよ!」とベルリが評したのもそれである。トリーティは飛び級生のベル、クンタラながら首席のルイン・リーのメインキャラ2人を除くとおそらく一番候補生の中で賞賛されてモテている、彼女を持っている。(だが男の娘だが)トリーティは評価されている人物であり、評価を欲して授業を真面目に受けて教官の質問に答えて率先して戦闘行動する勇敢な人物である。なのですごい性欲とか強くて男の娘と交際していると思う。生殖欲求に従えば男の娘と交際するのは論理的ではないのかもしれないが、それこそが彼の性欲や承認欲求の超過を表現しているのかもしれないが、トリーティはすぐに退場する脇役なのでこれ以上は述べない。




 そういう観点から見れば、ベルリが海賊行為に反対するのは特に殺人を忌避するとか正義を掲げているから、と言うよりは既存のキャピタル・タワー中心の価値観を保全する側に立つことで周りから評価されると思ってやったのだろう。




 後に姉弟であると判明する二人の「回転」の、ぶつかり合いが第1話のアクションシーンのハイライトだ。
nuryouguda.hatenablog.com


 リアルタイム感想でも述べたが、この台詞の対比は二人のこの時点での世界認識の差異を詩的に表現している。
 ベルリ・ゼナムは直線であるキャピタル・タワーを軸として「敵のまさかと思うポジション」が存在すると考えている。スコード教の信者のベルリは直線的で静的な世界認識の下で世界は規範的に保守されると考えている。なので、ベルリは直線に沿った最適な「位置」を重視する。
 対して、アイーダ・スルガンは「世界は四角くない(直線的ではない)」のだからキャピタル・テリトリィを軸にした世界の保全ではなく曲線運動をする宇宙艦隊イノベーションさせつつあるアメリア軍の進出に伴う世界状況の「変動」を推進していきたい、と考えている。
 これは総監督の富野由悠季監督が宇宙エレベーターを研究しつつも幼少時から宇宙ロケット技術にも造詣が深かったこと、作品の内部の情報ではなく作家の人となりを踏まえていないと気づきにくい。現に「Gのレコンギスタ オフィシャルガイドブック」は詳細なムック本だが帯にでかでかと「地球は四角くない」と堂々と誤字を掲示している。いくらアイーダさんがアレでも「球が四角ではない」という幾何学の基礎をわざわざ叫ぶほどアホではないと思う。問題なのは地球が四角いかどうかではなく、世界認識を直線的・継続的にするか、曲線的流動的に考えるかどうかなのだが。しかし、世界と地球を取り違える程度の編集者が宇野常寛程度の批評家と富野監督が4時間半対談したことを偉そうに宣伝するんだよな!


 まあ、宇野某のことはともかく、Gレコが表現したいのは幾何学的な状態を云々することではなく、行動的な活動を通じてである。



 また、ロボットアニメの第1話としては分かりにくいが、ここでベルリが「MMF(の直線的領域)を外れたら地球に引っ張られる」と外部世界の強要(ビア)的な状態が「不随意的」(アクーシオン)だと主張して、逆にアイーダが「この機体はそんなふうにはなりません(動ける)」と「随意的」(ヘクーシオン)な端初(アルケー)に自信を持っているのがニコマコス倫理学的にも両極端な価値観を示していると分かる。軌道エレベーターを描いた機動戦士ガンダム00に対しても批評的であるGのレコンギスタギリシア哲学(ダブルオーのガンダムのネーミングは天使などギリシャ系哲学用語を使っている)、の影響にあるということは推察できる。ただし、第1話においてアイーダとベルリのどちらが「善」であるかの判定はなされない。(というか、Gレコの全編を通じて「善」を明示することは、おそらく無い)
ニコマコス倫理学〈上〉 (岩波文庫)





ベルリのレクテンのパワーウェルドの直線的な突きはアイーダG-セルフの曲線的な斬撃によって、アイーダのサーベルはベルリの影響を受けたG-セルフの不調によって、それぞれ未遂に終わる。この両極端な価値観を象徴する運動のぶつかり合いがすれちがって流れる、すっぽ抜けたような印象の強調は先行上映会において配布された第1話の絵コンテのカット番号312、313でも重点を置いて表現されている。
 また、ベルリのアイーダに対するこのたびの行為には、宇宙海賊に対する明確な殺意や攻撃意欲やは全くない。ベルリがMMFから外れることをアイーダに警告してレクテンとG-セルフが共同してタワーの近くに戻ろうと動いた(後にキャピタルの宇宙憲章において遭難中のビーグル類はほぼ無条件で救助されるという伏線が回収される)し、顔を焼いたり殴ろうとしたG-セルフへの攻撃が不発に終わってもベルリは怒りの感情はなく、気安くアイーダに声をかけている。
 ベルリはアイーダを殺したり海賊を排除したり傷つけたいとか戦いたいとは全く思っておらず、「正しいことをして褒められたい」と思っているだけの青少年です。
 大人であり軍人でもあるデレンセン・サマターアイーダ・スルガンに対して国家同士の戦争の近似としての捕虜の尋問、教え子のトリーティを叩かれたことによる憤激をアイーダにぶつける。デレンセンにとってアイーダのやった海賊行為は国家間の紛争の一部であり、戦争であり、殺人もやむを得ない処罰の対象なので、すごく怒る。アイーダも拒否権を云々したり海賊と自称したりしてデレンセンと言葉で戦おうとした。
 その二人の行動に対して、ベルリは「そういう気分でいるから殺し合うようなことが起こるんです」と評した。

 アリストテレスがニコマコス倫理学で言ったように、ある人が何に対して怒るか、怒らないかはその人の倫理観にとって重要である。
 ベルリは学生でありキャピタル・ガードという保守保全の職業を目指す人物であり、殺人や戦闘をしようという考えは持っていない。むしろベルリは直線的な世界観の保全規範意識として持つ性格なので、戦争や殺人によって事態が流動化する、という気分それ自体を「よくない」と考えている。
 しかし、デレンセン・サマター大尉は発足しつつあるキャピタル・アーミィに自分が調整役として必要であろうと思ってもいるし、大陸間戦争をしている世界情勢も認識しているので、戦争や殺人もやむなしと考えている。なので、アイーダに対して憤激したのである。が、ベルリは学生気分で教えられた世界の中にいればいいというスコード教の信者でもあるし、世界は分かりきったものでつまらないけど、そういうものだと思っていて、「自分は教官殿の教えを守りつつ教官殿よりもうまくやれる」と人生をナメているし平和ボケしているので、デレンセンがなぜ海賊に対して怒ったのかも分からず、「そういう気分」を批評する目線で「殺し合いは良くない」と言う。このベルリの世界に対する安心感に基づく世の中をナメた態度が彼の人生最大のミステイクの伏線になっている。
 また、GレコのプロトタイプでGレコの第1話とほぼ同じ展開の「はじめたいキャピタルGの物語」のラストではべリル(小説版のベルリの名前)はGを鹵獲してアイーダがゴンドラの中で尋問を受けている時に、彼女との出会いを受けて「人の出会いって言うのは、別れの始まりって言うじゃないですか…」とか妙な連想を言葉にしてしまうので、そこはアニメ版の台詞とは違うのだが、アイーダとの出会いがデレンセンとの別れの伏線になっているということはなかなかわかりづらい。
nuryouguda.hatenablog.com
 小説版のベリルはすぐさま教官(この時点ではデレンセンという名前を与えられていない)から「何を言ってるんだ!」と叱責されるが、アニメではデレンセンはベルリのこの「批評的に偉そうな少年の独り言」に対して返答をできなかった、ということで、アニメの6話が作られるまでに小説版から富野監督も人物描写を考え直したのだろうかと推察できる。


 平和で紛争地帯から外れて一応は法治国家資本主義国家である現代日本にとって「殺し合い」は最大のタブーであるし、Gレコに対しても批評家も多くは「ベルリの不殺の信念に感動した」と言うのだが、Gレコの第1話のエキセントリックな所は、そのベルリの「殺し合いは良くない」という考えを「世の中をナメてる学生の願望」として、しかも「平和ボケした日常が破壊される!」というロボットアニメによくある強調表現を使わずに描いてしまったところなのだが、あまりここに注目する人はいない。なぜなら日本人の多くは「殺し合いは良くない」ということに対して疑問を抱くこと自体に不感症で「殺人は絶対悪」という常識に捕らわれているからである。(平和ボケしていないと思い、自衛隊の軍備拡張を願望する人も、敵国やテロリストが殺人などの絶対悪をするからそれに対処するのが絶対善だと反応しているだけだ)



 ただし、「レールから外れないで分かりきったつまらない世界の中で臨機応変に対処していれば、けっこう幸せな人生を送れるんじゃあないか。自分はノレド・ナグ程度の美人過ぎることもないそれなりの女たちにモテて適当な時期に結婚してほどほどの人生を送るんじゃあないかな」とジョジョの奇妙な冒険4部の吉良吉影のような考えで静かにあまり動かないで暮らすことを望んでいたベルリだし、MS越しの出会いでは世界を保守する規範意識に則って行動していたが、アイーダ・スルガンの髪のにおいをかいでしまう、という身体的接触をすることで近親相姦の恋心に「落ちて」「心を動かされれてしまう」という所から彼の転落人生の物語が始まるので、そこがGレコの面倒くさい所だ。恋に対して行動するのが随意的な行動なのか受動的な反応なのか、それは非常にめんどくさい問題なのです。
 「はじめたいキャピタルGの物語」でもベリルは優等生で親がキャピタルの要職に就いているため、学校の中で浮いてしまうしやっかみを受けるから、目立ちすぎてさらに反感を買ったりしないように感情などを出さないように気を付けている、という吉良吉影のような処世術を持っていた。そんな彼らが恋愛や殺人の衝動に駆られてしまうと事件が起こる。それが物語なんですね。
 ただ、Gレコはジョジョの吉良ほどベルリの行動が奇妙だとか強調する演出がなくて、売れなかったのはそこら辺のリズム感が分かりにくかったからなのかなあ。

nuryouguda.hatenablog.com


 で、第2話なのだが、この文章で表現したいのは「ベルリは最初は世の中をナメていて自分は臨機応変に上手くやれると思ってるけど、劇中でなにかするたびに当てが外れて困る現実に直面してしまって、スカッと気持ちよくなれないのがGレコ」と言うことなんですが。
 第1話の静的なベルリと動的なアイーダの対比がここでも表されていて、ベルリは「海賊のグリモアの空襲を受けて、自分で動ける海外の要人よりも、自分で動けない囚人の塔のアイーダを助けるべき」という規範意識で恋心を正当化している。この時点のベルリにとって世界は動かないし、動けない相手を自分がちょっと助けて安定させる、という行動原理だ。
 しかし、ベルリが「動かないでくださいね!」って言ってもアイーダは勝手に落ちるので、そこら辺が女性の復元力を描きたいと言った富野監督の意志なのかもしれないんだが、「ベッドから落ちた」っていう程度でそこまで視聴者が読み取るべきかっていうと、それもなあ…。
 スカッと気持ちよくなるアニメなら主人公は颯爽と落ちそうになっているヒロインを颯爽と助けてヒロインに胸キュンされてモテモテになりそうなものだが、Gレコは地味にアイーダさんが勝手に落ちてノレドが尻にパチンコを当てたのどうのとどうでもいい口論をしてベルリはヒーローっぽく振る舞わせてもらえない。




 ここでも二人の両極端な意見の対立が描かれている。アイーダはキャピタルの不変の動かない独裁を批判している。それに対してベルリは彼なりの世界認識で反論するのだが、「カーヒルの空襲のカットイン」と「有無を言わさない姉のビンタ」という演出の暴力的な動きによって台詞を封印される。この演出は本当にひどい。ベルリの意見を通じて視聴者にも二つの意見がせめぎ合う、コードギアスのニッポンとブリタニアの対立のような、ガンダムらしいスペースノイドアースノイドの意見の対立のある世界観の紹介をするべき第2話なのだが、ベルリの意見は演出のカット割りという暴力で排除される。
 ここで、演出家が表現したいのは「ベルリが信じてる世界観が空襲とか姉の暴力でボコられる不安感の情念(パトス)」であって設定を紹介するロゴスではないと感じたら、そういう演出なのか、って視聴者も納得できるのだが、そこを読み取れないと「なんだこれ?なんで台詞を途中で切るの?」というモヤモヤ感が残って、「Gレコってなんかよく分かんねーアニメだしトミノ爺ハゲが好き勝手やってるだけじゃん」って思われる。大体の視聴者は分かるものを分かりたいと思うので、よくわかんないものを「よくわかんねーな」って思うのはあんまり気持ちのいい体験ではない。しかし、富野監督が表現したいのは「世の中よく分かんねーな…」という気持ちなのでスカッとジャパンとかで物事を割り切りたい、シン・ゴジラでも原子力のことはよく分からなくても、ゴジラ冷温停止できるかどうか、君の名は。で隕石から助かるかどうかの二択で判断したい、わかりやすいものを求めたい現代の視聴者の世相には全然合わない。(ただ、これも世相があって、バブル景気のセーラームーンなどの直後のTV版新世紀エヴァンゲリオンは逆に「考えるアニメが見たい」という世相にマッチしてヒットした。(ビートたけしとんねるずと共演したオウム真理教とかもあったわけだが))


 ただ、個人的には「姉は理不尽に弟を叩く」という姉感、姉のイデアは非常によく表現されていると思う。(富野監督のお子さんは女性お二人らしい。次女の富野幸緒さんはGレコのアイキャッチの原案のダンサーとして参加。なので「姉」を観察していたのはあるか。富野監督ご自身は男三兄弟の長男だったかと)
 (∀ガンダムのソシエさんをビンタするディアナ様と牛のセルフパロディかもしれない)




 会話が噛みあわないということを表現するための会話は演劇として表現たりうるのか。


 姉と弟は分かり合って同調してほしいというのが一般的道徳的感覚だが、ブレンパワードの「ごめん覚えていない」とか、シャアとセイラとかカララとハルルとか、富野作品では「分かり合うべき親子兄妹が違う環境で育って全然違う主張をして困る」っていうシチュエーションは多い。で、そういう富野作品らしい手癖を利用して、ニコマコス倫理学にあるような両極端の価値観をすり合わせてアウフヘーベンして中庸の善を目指せるのかどうか、みたいなのを提示したいんだろうなーって思うんだけど、(最近、僕は自律神経が悪くて光るデレステとかグラブルの液晶画面を見るのがしんどいので岩波文庫ばかり読んでいる)(富野監督自身の言によれば、無敵超人ザンボット3無敵鋼人ダイターン3機動戦士ガンダムの三部作、それと伝説巨神イデオンニーチェの超人思想とかサルトル実存主義とか構造主義の影響が深かった時代の産物らしい)
 Gレコは演出で悪い奴とかスゴイ奴とかを強調しないし、まずこの二人が両極端の価値観を持っているのかどうかを読み取るのが難しい。「世界は四角くないんだから!」っていう謎の一言で「なるほど、直線的価値観と放物線的価値観の対立を宇宙エレベーターと宇宙船の対比を通じて物語にしたいんですね」とか分かってあげられる僕のような富野オタクばかりが視聴者じゃないんだよなあ…。宇野常寛を推す学研の編集者も「世界は四角くない」を「”地球”は四角くない」ってオフィシャルガイドブックの表紙で誤字ってしまうくらい、この主張の重要性は認知されてない。球が四角なわけないだろ!死ね!
 ジョジョの奇妙な冒険はなんだかんだ言って悪い奴は悪そうに描かれているし、種とか00とか鉄血でも世界のゆがみの人は狂人っぽく振舞っているんだけど、Gレコはそういう演出の強調がない。あの、僕は実は国立学力調査の国語の採点官の仕事をしていたことがあるんですけど。
 (なんで理系なのに国語の担当をしていたのかっていうと、数学の採点官は男が多くて鬱陶しいからです。女子大生に囲まれて仕事したいよな)
 受験の文章の読解テクニックは「プラスとマイナス」「肯定的と否定的」の判断が多い。んで、テレビのニュースとかバラエティとかも、落語家や講談師がしゃべるように「肯定的な内容は明るい口調と音楽で」「否定的な内容にはおどろおどろしい音楽と低い声や急転する口調」と、まあ、ワイドショーと言うのは現代の瓦版売りや世相浄瑠璃なので、落語っぽい口調なのは仕方ないんですけど。大体の現代の視聴者はアニメとかを見る時も「内容や物語の流れ」よりも「その時の口調や音楽の雰囲気」で作品を肯定的に見るか、善悪を判断するかする。
 ぴったんこカン★カンなどのテレビバラエティや情報バラエティバンキシャ情報ライブミヤネ屋でも報道ステーションNHKのニュースですらも、視聴者のほとんどは情報の善悪をそれ自体を自分で判断できず、ナレーションの口調やBGM、ワイプやコメンテーターの表情、爆笑問題タモリなどの芸人の合いの手のリズム感、ADに指示された顔のない観客の笑い声や「えーっ」っていう叫び声の印象で本能的に軽挙妄動する。そこに思考はない。いや、僕も嫌いじゃないですけどね。タイミングよく動くアイドルのリズムゲームシンデレラガールズ4th行ったし。歌と踊りに合わせて動くこと自体は楽しい。しかし、それは娯楽として楽しいだけであって、楽しいものがすべて善かというとそうではない。(それが超自然的に善だという河森正治監督のアクエリオンシリーズやマクロスシリーズやAKB0048などのアニメもある)
 ガッチャマンクラウズinsightやカウボーイビバップでテレビを消費する視聴者を批評的に描こうという試みがアニメの一部にもあるが、難しい。(なぜならアニメやテレビの視聴者はまず自己の快楽を第一の目的としてテレビを見るのだから、そこで自分自身を批評的に顧みさせられることは大部分の人が嫌がる)
 僕のマイブームのFateイスカンダルの師匠のアリストテレス先生も政治や幸福や徳の議論において

 まことに、よき仕方で悦びや苦痛を感ずるか、或いはまたあしき仕方でこれを感ずるかということは、われわれの行為に対して少なからぬ関連を有している。
 さらにまた、快楽と戦うのはヘラクレイトスのいわゆる「憤激と戦う」以上に困難な事柄である。(ニコマコス倫理学岩波文庫上巻80P)

 と、おっしゃってて、今の時代の日本でも古代ギリシャのポリス社会と同じく快楽と善をごっちゃにしている人が政治に関わっているという問題提起を感じる。「気持ちのいいものは即ち善であり、気持ちよく聞こえる甘言令色を聞いていれば正しい」と、勘違いする選挙民が民主国家である日本やアメリカの公平であるべき選挙でも多いし、政治家や官僚も政策やシステムについて理論で大衆を説得するよりも大衆の感情や、顔役のパーソナリティに訴えかける戦略を用いることが多く見える。大統領選挙ですら議論の理よりもイメージ戦略だしな…。ケネディ大統領は自分が暗殺されるところすらショーにしていた。(個人的には早く政治は機械知性(”人工”知能に非ず。なぜならクソの人間には正しい知能を工作する能力がないから)に処理してほしいのだが)
 欅坂46ナチスの紛争や沖縄の基地問題、右翼と左翼の絶え間ない衝突、政治家の醜聞に対するツイッターやテレビや「お騒がせされる」世間の反応も、理論ではなく怒りに駆られて善悪を糾弾する「観客の」気持ちよさの快楽だけをひたすら追求しているだけに見える。アリストテレス先生も「しかるべき時にしかるべき期間、しかるべきものに対してしかるべきやり方で怒る人は善であるが、そうではない人は悪しき人である」とおっしゃっている。しかるべきでなくとも、面白ければ怒って他人を叩いて世間を騒がせて本質的な政治を見失って、匿名性の中で責任逃れしているのがハンナ・アーレントの言うモッブ化した大衆の現代人なのですが。
 僕もアイドルマスターシンデレラガールズをしているのでモバゲーやGREEからメールが届くがニュースでトップでよく踊っているのは「お騒がせ芸能人に非難の声が殺到」というものである。なぜ非難すべきなのか、非難することで世の中を良くしよう、と考えることは世間の人の目的ではない。ただひたすら目立つ人を非難することで悪を糾弾する快楽をむさぼることが現代人の主要な娯楽に見える。推理小説や殺人サスペンスがなぜ人気のコンテンツなのか考えたことはあるかい?それは殺人は多くの人にとって糾弾していいと思われる悪であり、同時に犯罪が暴露される犯人の失敗は嘲笑できる悪であり、その二重の悪を消費することで観客は快感を感じる。芸能人の犯罪がニュースとしてアクセスや部数を稼ぐコンテンツとなっているのはこのためである。(本質的に人間が悪を糾弾する快楽そのものではなく、悪を是正することで善を世の中に広めようとする性質を持つのならば、このようなセンセーショナリズムが蔓延したネット広告にはならないはずだが、大衆は目先の快楽を追う人が多い)
 長谷川豊アナウンサーが「人工透析患者を殺せ!」と「本音・本気論」ブログを書いたことでツイッターやネットやワイドショーで炎上し、番組を現実として降板させられることになったわけだが。(これに対して僕は「合法的に殺人を指示していいのは日本では一応法務大臣ということになっている」程度のことしか表明しない)(非合法的には誰が誰を殺しても物理的には可能だと思っている)
 こういう記事がある

https://bylines.news.yahoo.co.jp/nakajimayoshifumi/20161002-00062792/bylines.news.yahoo.co.jp
■長谷川氏はブログジャンキー?

フジテレビを不本意な形で退職した長谷川氏はその経緯をブログで書いたところ、上記のように多数のアクセスを集めました。これは本人にとってもこれまで味わった事が無いほど刺激的なものであったのかもしれません。ブログで異例を通り越して異常というほどにアクセスを集めた経験が長谷川氏に強く影響を与えたのではと思われます。

テレビでも多数の視聴者に毎日見られていたと思いますが、目の前にあるのはテレビカメラと視聴率という数字だけです。一方、ウェブであればアクセス数が表示されるだけではなく、ツイッターフェイスブックでも多数の反響をダイレクトに、そしてリアルタイムに得ることが出来ます。

経験をした事が無い人は分からないかもしれませんが、これは極めて楽しい状況です。自身が書いた文章を誰にも直されることなく公表できる、ついさっきまで書いていた記事が日本中で爆発的に読まれる。このような状況はテレビや新聞、雑誌といった従来のメディアではありえません。ブログだからできることと、そこで得られる快感に長谷川氏がハマったのはこれがきっかけではないかと思われます。

 長谷川豊のようなワイドショーの司会者は「人々がセンセーショナルに感じることについてタイミングよく快感を煽るようなことを言う仕事」である。なので、その煽り仕事の延長として「医療費を増やす奴を殺せ!」というのは彼の主観としては間違っていると認識されない。むしろ悪を糾弾する快楽を増進する言説として彼は書いたのであろう。しかし、その長谷川豊自身が糾弾(面白がられる)の対象になった。

「ウェブは馬鹿と暇人のもの」の著者でウェブメディア編集者としても有名な中川淳一郎氏も、長谷川氏が批判への反論記事の中で「世の中には、歪んだ正義感を振りかざす、ネット上でしかうっぷんを晴らすことのできないバカが田舎の公衆便所の小バエのごとく、大量にいます」と酷い書き方をしていることについて、以下のように指摘しています。

比喩を用いるのにはある程度のセンスが必要なんですよ。センスが悪いと途端に偏見が透けて見えてしまい、いらぬ反感を買う。それが、長谷川氏書くところの「田舎の公衆便所」という表現なのです。これは、都会に住む長谷川氏が田舎の衛生状況をバカにしていると捉える人もいるかもしれない。田舎の公衆便所を一所懸命毎日磨いている人が気分を害するかもしれない。

~中略~

とにかく、炎上させないためには余計なツッコミポイントを与えないことが重要で、そのために心掛けなくてはいけないことは、「当事者の感情を悪い方向に揺さぶらない」ことなのですね。だとしたら、関係者がいそうなものをどうでもいい文脈で出さないというのが重要です。

出典:炎上しないための文章作法 余計な比喩を使わず、具体的関係者がいそうな単語を極力外せ おはようさぎ(中川淳一郎氏のブログ) 2016/09/25

 関係者の悪い感情を揺さぶると、世間から自分が悪いと言われるが、世間の大衆と関係のない叩いていい対象に向かって「あいつが悪い奴だ!」ということをさも正しいかのようにタイミングよく言うと世間から共感を得られる。これがワイドショーのコメンテーターやネットの記者というものだが。
 なので、長谷川豊は「人工透析患者は世間一般の大衆ではなく、医療費を庶民から奪う悪なので、タイミングのいい語調で激しく糾弾することで庶民感覚の共感を得られて褒められるに違いない」と思ったのだが、世間は逆に「田舎の公衆便所をバカにする長谷川豊は庶民感覚から外れているので、彼のいうことを逐次、タイミングよく糾弾するのが正しいし楽しいし快感が得られる」としてオモチャにした。どちらも「タイミングよく悪を叩く楽しさ」に従っているのである。そして、大多数の人にとって完全なる善も悪もほぼ観測不能な物であり、その時々、その人々の状況によるポジショントークでしかない…。


話がガンダムGのレコンギスタから大幅に逸れてすまない…。しかし、僕のこういった政治的な意見はアニメの感想に紛れ込ませないと誰も読んでくれないでしょう?アニメの公式ムック本などの著者の人はこういう雑文を書かないようにしてくださっているが、僕のこれはチラシの裏なので。チラシの裏にはチラシの裏にしか書けない文体がある!アニメ感想と個人の感想をごっちゃにするぞ!(飲酒しながら書いてます)



 Gレコはそこら辺の「リズム感や雰囲気の演出に即した」「善悪の分かりやすさ」「悪を懲らしめるのを見る視聴者の爽快な快感」が意図的にフラットなので、(∀ガンダムもそうなんだけど)瞬時に理解しにくいんだよなー。まあ、善悪の相対化が富野監督の手癖だし、ザンボット3でそれをやる前の長浜ロマン時代に善悪の直感的表現をさんざんやりまくったので。(長浜ロマンロボットも革命的な思想的な内容はあるんですが)(善悪の相対化でヒットをして金を貰った富野監督が「善悪の相対化をすれば受ける」と成功体験をなぞっているだけ、という可能性も無きにしも非ずなので、そこは気を付けたい)
 今のスマホゲームとかやってる視聴者って、本当に全体の流れとかじゃなくてその時にかっこいい音が鳴ってきれいに光ったら課金するとか、そんなんですよ。詐欺サイトとかあるけど「なんかちゃんとしてるっぽい」って見た目に騙されてエロサイトのワンクリック詐欺とかグラブルコインが無料で貯まるやつとかゴルスタでアイドルとかに判断ではなく反射神経で動くのが現代の大衆ですよ。そこを外すと、そりゃあ富野さん、売れないっすよ。イケメンがイケてることをしてたら売れるんですよ!映画『HiGH&LOW THE MOVIE』とか普通に犯罪者なんですけど、動きや音楽がイケてたら売れるんです!シン・ゴジラも科学的政治的にどうだろうと伊福部昭のマーチが気持ちよくて気持ちいいタイミングで爆発したら何となく面白いんですよ!
 つべこべつべこべと!なぜ映像の原則のテンポ通りに作ったら何を描いても何となく面白いって言えんのだ!
 だからラッシャイの13話とかテンポが回想でちょっと乱れたら袋叩きに遭います。それがアニメを見る程度の大衆の庶民”感覚”というものです。感覚の快楽原則は映像の原則のような理論も無く、さらに単純で、しかも自己矛盾すら無視する。


 長谷川豊アナウンサーの話題の前に「ニュースを語るワイドショーのナレーターはタイミングよく感情を揺さぶっているだけで、そこに論理性はないが観客はその語調で情報の善悪を感じる」という話題を述べたが。
 最近僕はアニメになった「昭和元禄落語心中」という漫画で石田彰が落語をやってるのを聞いて「ワイドショーのナレーターみたいに不幸を語るなあ」って思ったのだが、ぴったんこカン★カンの初代ナレーションの滝口順平さんも落語をやってた声優なんだよな。

外郎売り 滝口順平

外郎売り 滝口順平

 落語は現代でこそ伝統芸能として、そのテンポの良さなどの技術がアートとして見られているが、江戸の頃はまさにそれが心中事件などを面白おかしく伝えるワイドショーだったわけだが。

 なので、現代のワイドショーや情報バラエティのナレーターが落語家のような話し方をして、録音笑いの入れ方が落語や狂言囃子方に近くなるのも環境における進化の類似としては正しい。
録音笑い - Wikipedia
 そして、現代のテレビが生まれたころからある視聴者や、落語の技術を元にした滝口順平などの声優の技術を意味も分からず真似ている二代目モノマネタレントを使えば売れると思っている程度のテレビのディレクターは、その技術の善悪や元々の意味や原典ではなく表面的に受けるかどうかという惰性で面白いとか悪いとか言う。自分でそれが面白いとか正しいとか、逆に悪いと判断できる人は少ない。自然状態ですべての面白さを子供が判断できると思っている人は文化的に下手である。そういう粗製乱造されたコピー文化、資本主義社会で我々テレビ視聴者は娯楽の文脈を刷り込まれているわけだが。


 で、話をGレコ2話に戻す。




 ケルベス・ヨー教官がルインとベルリにテンポよく「ルインは艀のエンジンをスタートさせろ」「ベルリはそいつ(G-セルフ)を動かせ!」と指示を出し、ベルリが「えぇーっ?!」といったん驚いた後、「ハイ!」と返事をしてガンダムを起動させる盛り上がるシーンの批評だが。
 とてもテンポがいい。驚いた後に高揚して行動するベルリのテンポなどは富野由悠季監督がGレコを制作する前にメルマガで「尾田栄一郎森鴎外である」とまで絶賛したone-pieceのノリに近い。
www.kinokuniya.co.jp
 富野由悠季、映像の原則で絵コンテの割り方の教科書を著したくらい、動画のタイミングに対する感性と経験値は非常に高い人間である。
 私は前述で「快楽と正しさを混同するのは良くない」「タイミングよく動く芸は快楽だ」と述べた。しかし、だからと言って「ここちよいテンポの動画は必ず悪である」とまでは言っていない。
 ナチスの演説は心地よさで大衆にアピールしたが、だからといって欅坂46ナチスのコスプレがユダヤ人に怒られるのが面白おかしくTwitterのおもちゃになったからと言って、ワーグナーの心地いい音楽が即刻悪だ、とまでは言えないのだ。(個人的にはシベリウスの方が好きです)
 僕が「ジャパネットタカタ社長はテンポのいい喋り方で安物を高く売るから注意しよう」と思っているからと言って「テンポのいいやつは全員悪人だ」と考えるのは短慮であろう。
 だから心地よさと善悪の判断は別系統の理性で行うべきなのだが、動物としてのヒト脳はそこを混同してしまう。(私も炎上記事で遊んだりする悪いアフィブロガーなのでこういう文脈トリックは意図的に用いている)(私の祖父は陸軍中野学校卒業の戦争犯罪人のスパイなのだが、スパイにとって一番危険なことは「自分が任務で扱っている嘘情報を自分が真実で重大な物だと思ってしまうこと」なのです。いくら情報で多くのものを動かせると言っても情報は情報に過ぎない。しかしヒト脳は自分が大事にしているものは正しいのだと誤認しがちである)
 

 で、僕の自分勝手な世相批評の文章で、読者の大多数を振り落としながら話題を逸らしたがベルリがG-セルフに乗ることを決意する場面は絵コンテの時間経過、カメラの流れ、キメ顔のベルリの構図なども全てテンポがいい。「ここで主人公が主役メカに乗らないと嘘だよな!」という動画としての文法を滅茶苦茶駆使して「ベルリは当然G-セルフに乗るんだぜー!」「ガンダムの主人公がガンダムに乗るのは当然正しい」という流れを作っている。
 ベルリ的にも「善人で事態を俯瞰してくれていて段取りのいい、キャピタルガードの信頼すべきケルベス教官がモビルスーツを動かせという命令は当然正しいだろう」と思うし、「動かせと言われて、ちょっとびっくりしたけど、自分がG-セルフを動かせるのは自分の才能であるし、そのことで周囲の共感や先輩やアイーダやノレドたち女性に評価される材料になろう。よし、乗ろう」「僕は正しいことをしているぞ!」という考えになる。
 で、最終回まで見た結論としてはベルリはここでガンダムに乗ってしまったことで半年にわたって地獄を見て世捨て人になるわけですが。
 キャピタル・ガードでデレンセン教官が教えた「動体視力が必殺の武器」という「タイミングよく世間の流れに乗っていれば成功するし褒められる」という現代人テレビバラエティのような処世術で動いたせいで、ベルリは友人や先生と殺し合いをして好きな人に恨まれることになりました。


 僕もGレコを1年ぶりに通しで見て、ベルリが初めてG-セルフに乗るシーンの異様なテンポの良さはテレビ媒体でテレビを批判しているっていう多重的な演出のヤバさにやっと気づいたんですが。なんでこんなに構成が入り組んだ演出なの?富野監督狂ってるの?密度高すぎだろ。ぱっと見は明朗快活な主人公がロボットに乗ってるだけなのに、よくよく考えると「テンポよくハキハキ快活にロボットに乗った青年は流れで人を殺してしまって最悪な気分になる」という闇を見せられる…。そしてそれは子供向けアニメだという富野…。
 ワンピースとか進撃の巨人とかシン・ゴジラとかたいていのヒット作は「タイミングよく面白いアクションをすることで登場人物が成功して、観客もそれをみて喜ぶ」という構図なのだが、そして富野監督もタイミングのいい快感のある動画を作る能力は滅茶苦茶高いのだが、
Gレコの富野、「タイミングよくやれば成功するって思いこんで短慮する奴は地獄に落ちてね☆そんな風に思ってるテレビの視聴者は愚民だから死んでね☆」ヒットするわけないだろ!富野監督、マジでこんな内容と演出の流れがどういう社会だとヒットすると思ってたんだろう?(Twitterで評価の高い三谷幸喜さんの真田丸はバラエティ的演出のテンポと脚本の手練手管を使い分けているので、富野監督は嫉妬しています)


 いくら大衆が短慮でタイミングに左右される視聴者だと言っても、「タイミングよくベルリが動いたのに」「一見いい人そうに見えるカーヒル大尉をうっかりぶち殺して」「女性に怒られて気まずい」という「動画のタイミングは気持ちいいのに、起きている内容はなんとなく気持ち悪い」という齟齬の感覚は持つわけで。
 そりゃー、Gレコをこれでヒットさせようっていうのは富野監督も虫が良すぎると思うな。人類はそこまで賢くないんだよなー。


 帰ってきたウルトラマンとかエヴァンゲリオンみたいな起動シークエンスのテンポの良さのワンダバ感、ポンポンするする動いていく感覚もすごい。

 アイーダさんに対してベルリが「僕は優等生だから事態が分かっているし、謎のモビルスーツも国際基準のものだと知っているし扱えるんですよー」っていうドヤ顔で世の中をナメた感じがすげえな。しかも、こういうことをするキャラは大体のラノベアニメだと「嫌な奴」扱いされるしもっと芝居がかった醜悪なキャラとして演出される(魔法科高校の劣等生のライバルとかみたいな)のが割と最近の風潮だが、Gレコは一見素直そうに見える主人公がこれをするんだからな…。こわい。


 そういう「自分は倫理的にもタイミングとしても文脈としても正しいし善人」だと思っているベルリは顔も知らないカーヒルアイーダの事情なんか知るわけないし、空襲を仕掛けるテロリストとしか思わない。



 グリモアの中でのカーヒルの視点の、こういうアイーダしか動かせないと思っているG-セルフに対する一連の葛藤はベルリには知る由もない。


 むしろベルリにとっては(もしかしたら最終回の後も事実確認はせず?)無法な無差別空襲を行う海賊は悪いので仲間のアイーダさんをも無差別に殴り殺そうとするテロリストなので、正義の側であるベルリ自身は退治するのが正しいのだ、という認識の文脈だ。



 この前後に第三の視点としてベルリに撃破される1台目のグリモアパイロットのジョバンニがG-セルフカットシーと見間違えるというワンカットが挟まって、それだけで「このアニメの登場人物は戦闘中は興奮しているのでロボットの機種も間違うし誰が乗ってるのかもあんまりよく分かってないし、人は間違えるっていう世界観のリアリティレベルです」という説明を終えたことにしている富野演出の闇な…。えっ。ワンカットでそこまで理解させたことにしてるんですか?(ワンカットで理解させるに足る演出とは言ってない)

 だいたいロボットアニメの第2話でロボットの機種の名前とか視聴者も理解してないのが当然のテレビアニメで、「機種を誤認するパイロットの認識レベル」を視聴者に理解させた”ことにしてる”ってのがヤバいな…。しかもそれが主人公の初殺人っていうメインストーリーに絡んでくる修飾っていうのが…。
 僕は20回くらい富野アニメ見てるし慣れてるからいいけど、世間一般の人はそんなにガンダムを20回も見ないだろ…。「見直すたびにガンダムには発見があります」って言う芸能人もいるけど、そういう人に限ってキングゲイナーとか近年の富野作品は見てなかったりするじゃんよ…。最新作のGレコでも35年前のテレビアニメの本数が少ない時期にみんなが繰り返し再放送を見たガンダムと同じくらいの理解力を要求する富野…。
 まあ、本放送ではミノフスキー粒子が架空のものかどうかとか、ルゥム戦役がいつだったのかとか、エゥーゴがA.E.U.G.の略だとかザンスカール帝国チベットの山にインスパイアされてるとか全く説明がないのがガンダムなんですけど!


 映像の向きとしてベルリが→向きでグリモアに対していて、


 

 ベルリの視線と斜めに交差するように、カーヒルアイーダの恋人同士の視線のラインが一瞬繋がって


グリモアG-セルフのロボットとしての身長と違ってカーヒルの方がアイーダを見下ろす表現になっているのは、カーヒルの方がベルリよりも大人の男だ。少年のまっすぐな熱気の暴力に、恋人や国の間で責任を負いガンダムに困惑する大人の軍人が負かされるのだ、という粋な表現なのだが、そんなの0.5秒で表現されても困る)
(MSのカメラ越しにアイーダを見るのは荒木コンテに対する10話の富野追加シーンのベルリでもあるんだが、そこではアイーダを見上げる感覚になっているんだよなあ。そこで伏線を貼られてもなあ…)



カーヒルが死んだ後に画面の左から右へ海賊の飛行機が移動することでワイプみたいな効果で画面の方向性をリセットした後に

ベルリの視線の向きが逆になって、死んじゃったカーヒルの機体と泣いてるアイーダの間で板挟みになって絶句する感覚。これは富野監督の書いた絵コンテの教科書の映像の原則を初版も改訂版も台湾語版も10回くらい読んでる僕のような気持ち悪い富野信者は、こういう演出を見ると「Oh….映像の原則…。画面の方向性の逆転…パラダイムシフト…萌え…」ってしみじみと感じ入るんだけど。
映像の原則 改訂版 (キネマ旬報ムック)

 普通のエンターテインメントを期待している世間一般の視聴者は「せっかく主人公が初めてロボットに乗ってかっこよく戦って勝つのを期待しているのに、なんで梯子を外したようにもやもやさせるの?」「なにこのよく分からないアニメ!」「富野は老害!老人のオナニー!」って思うじゃん。
 しかも、機動戦士ガンダム 鉄血のオルフェンズの昭宏が弟を死なせるくらい運命的な悲劇っていうほどこってりと因果関係とか強調して「これは悲劇ですよー」「泣くところですよー」ってガイドラインも入れてくれないのがGレコ。
 カーヒルの死がどういうものだったのか、視聴者に正解を教えてくれないしキャラクターはバラバラのことを言って総括しないし混乱させっぱなし。



(「人殺しをするわけない」というノレドと「自分で仕掛けた結果」というマニィも微妙に論点がずれてる)


 アイーダさんの嶋村侑さんの泣き声もすごすぎるし。あーもーめちゃくちゃだよー。
 第1話では「間違った考えでいるから人を殺すようなことになるんですよ」とアイーダを達観して評したベルリだが、「正しいと思って殺したらアイーダに滅茶苦茶怒られる」「ノレドたち女子や他の大人もカーヒルを殺したことを正しいと言ってくれるには不十分」という地獄に落とされる。「人を殺すような気分は間違っている」って言った翌週に自分が間違った殺人者だって好きになった女性にボロクソ言われるとか、エリート面していた公務員志望の高校生にはきつい。


 そして有無を言わさず調査部の連中が来たと思ったら能天気に「元気元気!」っていうエンディングテーマで脳をリセットされる。

 さっき殺した相手に連行されながら「元気のGは 始まりのG」とか意味の分からないことを言われる。なんで死人に連行されてるのに元気なの?何が始まるんですか?



 あのさあ…。
 テレビ番組でタイミングのいいお笑い芸人の喋りとかワイプの笑い声で視聴者は快感を得ると書いたが。タイミングの良さや表情や語調のいいバラエティ番組の他に今の地上波テレビで多いものはクイズです。クイズバラエティ番組において、多くの場合、出演者は反射神経と直感で回答します。そこには思慮や調査と言った考察の手続きはない。考察はなくヒントもなく博打のように芸人が適当に言ったことを「アンケート」とか「会場の皆さんの判定」とか「個人の感想です」で「大正解!」「大当たり!」ってして、視聴者が「当たった外れた」と子どものように言うのが今の地上波テレビなんですが。
 そして、オリンピックやスポーツ中継や政治のニュースとか、アカデミー賞を取った千と千尋の神隠しノーベル賞ですら思慮や調査などはなく「当たった!外れた!」レベルで盛り上がっているのを見ると現生の地球人は熟慮することや話し合いで正しさを積み上げていくよりも、「権威」とか「多数決」とか「市場」とかの場当たりで脊髄反射的に提示される正しさ(というか一見正しそうに見えるものであって本当に正しいかを判断する能力や興味は大衆には無い)、を消費するだけの人が多いのだろう。映画や料理店についても、自分で面白さを吟味するよりはネットの誰か知らない人のアンケートの点数とかまとめサイトとか知らない誰かが買ったBDの売り上げとかで評価するじゃん。
 (もちろん、数学の基礎研究をしていたり、自分で創作をする人も絶滅したわけではないが、数学の基礎研究でオリジナリティのある正しさを求めている人が衣食住の全てで正しさを自己判断している余裕はないだろう、と言うのが現代社会なのである。僕もなんだかんだ言って個人商店とかよりものっぺりしたショッピングモールを利用してしまっている)


 つまり何が言いたいのかと言うと、テレビ番組を視聴するにあたって多くの人が期待しているのは「正しさ」であるが「なぜ正しいのか」は求めていない。多くの人は勝ち馬に乗りたいだけであって自ら勝つ方法を自分で考える脳みそは持っていない。むしろついてない誰かが失敗した時に後から文句をつけることで自分が正しいと錯覚する程度の正しさに心地よさを感じるのが人間なのだ。
 「この場面ではこういう感情を持つのが正しい」と分かりやすくガイドしてくれる娯楽バラエティやアニメが心地いいのであって、Gレコのように「正しさ」に積極的にジャミングをかけてくる演出は正反対。
 富野監督の作品は善悪の相対化が特徴と言われることが多い。ザンボットの人類の方が悪いのかもしれない、とか、ファーストガンダムはそれまでのロボットアニメとちがって敵にも善人がいるのが新しい、とか言われる言説。(まあ、21世紀にもなって79年のガンダムと72年のマジンガーを比べてそれまでのロボットアニメとか言っちゃうガンダム芸人っていうのもどうかと思うんだけど)
 そういう「富野アニメの相対化はすごい」っていう世論に富野監督が気を良くしたのか、いつも通りなのかは知らないが、Gレコは善悪の相対化という1次元論から一気に「善悪は人や場所や時間で向きも温度も全員違う」という善悪の超多元化に進んでいるので、「ジオンの方が連邦軍よりもかっこいいよね」くらいの認識でガンダムファンを名乗れる現状の日本ではGレコはハチャメチャですよね。(僕はテレビ版の頃からジョニー・ライデンの帰還を読まなくてもゴップ提督は有能だと思ってたよ。提督なめんなよ)

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 機動戦士ガンダム第1話は新世紀エヴァンゲリオン庵野秀明監督をして「セーラームーンの1話と同じくらい完璧」と言わしめるくらい完璧なのですが。
 機動戦士ガンダム第1話の要点をものすごく搔い摘むとアムロがジオンの兵士をぶち殺すって話なんですが。
 「しかるべき時にしかるべきことをするのがいい」「過超も不足も良くない。中庸がいい」というアリストテレス先生の倫理学に照らし合わせると、ファーストガンダムの殺人はとても分かりやすい。
 ジーンのザクは戦場で手柄を立てて出世をしたいと言って過剰な暴力をふるって民間人を虐殺する。地球連邦軍テム・レイは規則通りにガンダムを運用しようとして人間よりもモビルスーツの方が大事みたいな振る舞いをする(これはアムロの誤解であって、ブライトとテム・レイの会話を見るとテム・レイは長期的には人命を守るためにガンダムを作ったのであるが)。
 なので、しかるべき時にしかるべきやり方でガンダムを動かしてジーンのザクを殺し、続けて爆発させないようにより正しいやり方でデニムのザクを殺害したアムロは非常に勇敢で「良い」「正しい」と見える。なんだかんだ言ってアムロもデニムを焼き殺した時に、Vガンダムのシャッコーで子安ライオール・サバトを焼き殺したウッソと同じような気持ち悪さを感じたのだが、ファーストガンダムはVガンダムやGレコのように視聴者にまで気持ち悪いとは思わせない匙加減だった。
 サンデル教授のトロッコ問題ではないが、ファーストガンダムは「民間人の人命尊重のために兵士を殺害する」という分かりやすい人命尊重があった。
 Zガンダムカミーユガンダムに乗る理由も結構やばいんだが、カミーユガンダムに乗る前からヤバい人間として描かれていたし最後までヤバかったので、ヤバい奴がヤバいことをするのは「しかるべき描写だ」と視聴者は一応の納得を得る。
 Gレコのベルリは「僕は人命尊重のために正しいと思って敵を殺して女性を助けたのに、助けた女性に滅茶苦茶怒られた」という理不尽を初殺人でぶち込んでくるので価値観の保証が全くない。
 まあ、機械とか鉄砲で殺し合うんだったら特に知らない相手を特に考えなしにでも殺せるし、それが現実だし、っていう言い方もできるが、それを物語でやるのは因果関係が整理しにくい。

  • Gレコは分からない


 これをどう受け取ったらいいんですか?全く分からない。ソクラテス無知の知っぽくやるしかなさそうなんですが。子供向けロボットアニメ(自称)でソクラテス的な態度を取らないといけないって結構ハードル高いぞ?



 私の知人のあでのいさんもGレコのブログを書いてるんだけど。

 『Gレコ』では画面上で展開されているドラマに我々はポジティブな印象を受ければ良いのか、ネガティブな印象を受ければ良いのかを明示してくれない。どう受け止めるべきなのかは自分達で判断するしかない。()
 こうした『Gレコ』の特性は、見ている側にとっては居心地の悪さを感じざるを得ない面がある。しかし、価値判断が明示されないことこそが、逆説的に「自分で判断できるようにならなくてはダメだ」という強固なメッセージなのではないだろうか。
d.hatena.ne.jp

 という意見もある。それももっともだと思う。


 しかし、第2話の段階でここまで言うのは危険なので黙っていたけど、「人間の認識能力には限界がある」(脱ガンダムニュータイプ論!)
 前述のとおり僕はテレビのバラエティやニュースでディレクターごときに快不快や笑いどころや泣き所を指示されて飼いならされている愚民どもに対して批判的な態度を取ったのだが。そういう僕もツイッターで1000人くらいフォローしてるけど個人として認識しているのは20人くらいですよ?そもそも人間が人格などを持っていると認識して認知して扱えるのは一人につき100人くらいが限界なんじゃないかなあ。それ以上はもう群体とかシステムとか組織として塊としてふんわり感じるくらいだろう。そもそも20人くらいのサルの群れの生活だった石器時代に設計されて、特に肉体をアップグレードされてないまま外付けハードウェアの文明でごまかしてきているヒト脳は世界70億の人口のインターネットとか情報化社会って言われてもだね、何でもかんでも自分の目で判断できるようになれるわけないじゃん。そりゃあ、理想を言うと世界70億の人口と宇宙150億年の歴史と数学と物理学の大統一理論と数億冊にも及ぶ歴史や文学の書籍を理解して自分で考えて判断できる人に成れたらいいよね。あでのいさんが何でも自分で考えたいって言ってるならいいんじゃねーの?俺は無理だけど。(ウシジマくん風に)
 


 じゃあ、Gレコは分からないアニメだし分からなくなるような作りをしてるからダメかっていうと、そうじゃあないんだよなあ…ニタニタ
 僕は富野作品の好き者なのでこういう味わい深いアニメとか、それこそビームライフルの一発の発砲の角度とか秒数とかを前述のとおり長々と解説するくらい、Gレコ大好きなんだよなあ…。カミュの異邦人の囚人のように、よくわからない演出について2年がかりで考えて、なんとなく感じられるくらいで1日は退屈しないで過ごせる。でも、そういうのは本当に数寄者の領域なので富野監督が「シン・ゴジラとか君の名は。みたいに世間に爆発的にヒットしなかったしガンプラブームが起きなかったのでGレコは売れなかった」と発言すると(BDは6500枚は売れたのでギリギリ黒字です)、
 「えっ。富野監督、この内容でジブリ越えができると思ってたんですか?マジで?深夜に放送されたからとか言うレベルじゃないですよ?7年も構想して2クールに完結しただけでも詰め込み過ぎな内容なのに?売れたかったんですか?」って混乱する。いや、これは売れないだろ…。俺は買うけど。
 だって、Gレコについてカット毎に解説して考えるたびに、とにかく細かい要素の一つ一つの段階から、世間一般に広く流布しているテレビバラエティ的な分かりやすさや消費のしやすさや親しみとか、富野監督のいう「芸能」とは違うワイドショーや世間での「芸能界的な物」の文脈にアンチテーゼとか逆を行こうとしてるのがGレコの構造だと分かる。善悪の是非を個人がどうこう言う次元ではなく、とにかく世間の数億人からなるテレビの前の人っていうのは、Gレコと違うものを求めているの。そういう社会に成っちゃったんだから。富野監督がこれを大ヒットさせるには、もう社会を根底から覆さないといけないレベル。



 でも、反戦映画とかイデオロギーメッセージドキュメンタリーとか、そういう社会運動になっていこう!っていう雰囲気もGレコにはないじゃん。
 アニメ新世紀宣言の時は「機動戦士ガンダムを見てる新人類世代の我々はニュータイプだ!」みたいなうねりみたいなのがあったんですが。オタキングとか庵野秀明監督とかアオイホノオがノスタルジーになっちゃった今…。ガンダムレコンキスタ運動できるかっつーとな…。いや、僕は面白かったけど。


 たぶん、今の若い子の文化のメインストリームは歌い手とかボカロとかYouTubeとかを見てると、富野監督が批判するような「オリジナリティや個性を尊重する」というゆとり世代からまた変わっていると思う。今の若い子にはオリジナリティはないよ。生まれた時からドラえもんガンダムもテレビの芸能人もアイドルもオリジナルではなく2代目のコピーで、昭和に粗製乱造されたコピー文化のさらにコピーの劣化コピーが今の日本の文化だと思う。そして、コピーがコピーだということにも頓着しない。そして何がオリジナルか考えようともしない。なのでナチスのコピーや右翼的なアイコンのコピーを特に歴史認識もせずに何んとなーく使う。
 プリクラやツイッターの自撮りなど、自分自身すらコピー可能で代替可能なモブであると認識しながらも自分以外にはなれないけど自分を加工してネットにアピールして、宮台の援助交際論など知ったことでもない子供たちが、戦争のコピーの艦これのコスプレのコピー品を着てコスプレ売春する。だれもだれかを見ようとしていないのに、自分は誰かに見てほしい、しかし何をどう考えていいのかというオリジナリティもなくすり切れたコピーや大量生産品しか知らないまま状況に流されているのが現代の若者だ。そして大人は発展しすぎた機械や技術の正しい使い方の継承や教育に失敗し、ブラックボックス化した文明やインフラの大部分は高級な人工知能に整備してもらうこともできず予算が削減されて朽ちていくんだろうね。


 そう考えると、やはりGレコの「いったん文明がダメになって、中途半端に残ったよくわからない機械のある未来に若者が放り出される」という富野監督の認識は間違ってはいないのかもしれない、と思う。


 でもなーーーー。それが売れるかっつーとなーーーー。


 あと、富野監督が自称しているようにGレコは近代資本主義社会や広告文化への批判だとは、僕も思う。
 でも、ガッチャマンクラウズ輪るピングドラムとかヴァルヴレイヴがまさに現代日本のテレビとか宗教とかネットとかに似たようなものを出して、「これは現代社会への批判ですよ!」って反戦ドラマみたいに「みんなで社会問題について考えましょうね」感を出しているんだけども、Gレコはまた、そこともズレている。
 テレビとかネットとかへの批判もあるんだけど、そういう現代のものの表層の事象への批判だけじゃなくて、富野監督が影響を受けたというハンナ・アーレント全体主義の起源が問題視したナチスという現象よりも、Gレコはもっと基礎に近い方のレイヤーの「タイミングよく流れに乗って、正しいと思い込んでいることをすると心地よいと感じる人間の本能的な反射神経」というレベルまで切り込んで批判してる。富野監督はGレコの事前インタビューで「全体主義を描く」って言ったけど、ナチス的な物はファーストガンダムのザビ家と比べてもGレコには一切無い。だが、その母体である人間の本能的なダメさは描いている。
 


 テレビやネットとかナチスという機械や現象や組織は何とかなるけど、それをダメにしている主体である人間の本能的な反射神経、人間の脳神経のハードウェア部分は、いまさらガンダムを26話見ただけで治るわけないじゃん!ニュータイプになって人と分かり合えたらいいねーっていうふわっとした願望のファーストガンダムの方がまだ口当たりの良い思想だよ。本当に、どうしたらいいんだ…。そして、富野監督はこんな非常によく分からないアニメをまだ劇場版のドラマに直したいという…。


 でも、「分からないものは分からないのだ!それが世の中なんだ」ということを分かりにくく描くこと自体がGレコらしさだとも思うので、じゃあ、それを分かりやすくしちゃったらGレコじゃなくて単なるベルリとアイーダの冒険アニメになってしまわない?(この文章もわかりにくいな)
 富野監督はテレビ版は設定紹介に過ぎなかったっていうけど、じゃあ劇場版Gレコはどうするのか全く分からない…。

  • どうしてこんなことになってしまったのか

 最初に書いた通り、この文章は昨年、大阪で開催したトミノアニメブロガーナイトで私がやった「ベルリの犯した全ての殺人に対するリアクションの画像解説」を文字起こししたものだが。抜粋で15話分を、時間にして30分くらいで喋った気がするんだけど、いざ文字にすると2話まで書くだけで数週間潰れました。やっぱりテキトーに紙芝居で喋り流すのと文章に整理するのは違うな…。(デレステFGOもしてました)
 まだG-セルフ対レクテンとG-セルフ対グリモアの2試合しか解説してないわけだが…。
 トミケットであでのいさんが富野アニメの講演をする前に全話全撃墜スコアについて解説するつもりが…。次回からは時事ネタを減らすぞ!でもGレコ自体が時事ネタを微妙に織り込んでるからな…。
 とりあえず、11月5日、富野監督75歳の誕生日おめでとうございます。3/4センチュリーですね!century color! million colorを目指して頑張ってください!
 千年後もガンダムを人類に語り継がれるように頑張りましょう!たぶんガンプラの金型は頑張れば千年くらい保存できますぜ!セル画は劣化するとして円盤やテープの再生技術は…。
1/144 HG ガンダム G-セルフ (大気圏用パック装備型) (ガンダムGのレコンギスタ)

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11月5日(土)・6日(日)に開催される早稲田大学の学園祭「早稲田祭2016」では、『機動戦士ガンダム』の総監督である富野由悠季氏の講演会が、11月6日(日)14:30より東京・新宿区の早稲田キャンパスにて開催される。


本講演会は、「将来への不安を抱く若者たちに、様々な逆境を超えて今なお作品を作り続ける富野監督からヒントを受け取って貰いたい」という思いから生まれた企画で、早稲田大学の公認サークルである「早稲田ガンダム研究会」が主催するもの。
サークル公式サイトでは、富野監督への質問を事前募集しており、当日会場でいくつかがピックアップして回答される予定。働き方や人生観についてなど監督に聞いてみたいこと、富野監督に聞いてもらいたい将来の悩みや不安などがある人は、ぜひともチェックしてみよう。


チケットはイープラスにて好評発売中。10月19日(水)より早稲田キャンパス内の販売ブースでも販売予定。価格は500円(税込)。
講演会の詳細は、早稲田ガンダム研究会の「イベント特設ページ」をご覧ください。


僕は母親を自殺に追い込んで、一緒に富野監督についての批評系同人誌を作ろうと相談していた矢先に宮台真司門下のメンヘラ文筆家の、はるしにゃんが自殺したのでいまさら富野監督に不安や悩みを相談したところでどうしようもないくらい破たんしている三十代(最近は肝臓と前立腺がヤバいです)なのですが、大学生くらいの人はまだやり直しが利くので富野に訊け!僕は、まあ、自殺するまでは自殺しないでアニメとか見ます!
富野に訊け!! (アニメージュ文庫)



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