玖足手帖-アニメブログ-

富野由悠季監督、出崎統監督、ガンダム作品を中心に、アニメ感想を書くブログです。

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ガンダム Gのレコンギスタのベルリの殺人考察第1部第6話 殺してはいけない人、殺してもいい人とは?

 ついに来てしまった。殺人考察第一部のクライマックス、第6話「強敵、デレンセン!」。この話は本当に感想を書くのも解説をするのもつらい。
 しかし、富野由悠季ファンとしてはGのレコンギスタ活動はまだ終わってない!ガンダム Gのレコンギスタはまだ再構成版作業が残ってるんだ!だからそれまでにテレビ版のファンを増やすためにブログで応援しなきゃいけないって分かれよ!
 だからGレコは分かりにくいという愚民どもにGレコを解いてやると言っているのだ!


 い、いや、まあ、別に僕はアニメーターとか演出家じゃないし素人なのであの、申し訳ないんですけど個人の感想です。なので、この解説は正しいGレコの正解ではありません。オフィシャルではございませんぞ!でも、一人ひとりが自分なりのガンダムを見つけるきっかけになるためにいろんな人がガンダムについて語ってガンダム界を元気にしたい!


 ネタバレがあるのでいったん閉じます。
 あと、かなり好き勝手に書いたし他のアニメをdisっているし僕は増え過ぎた人類や俗物が嫌いなので愚民どもには不快な表現もあります。
 あとテキストファイルで100キロバイトあります。画像ファイルかよ…。5万5千文字です。画面右のスクロールバーが横長になります。

  • 前回の殺人考察

nuryouguda.hatenablog.com

  • 今回のテーマ 殺していい人とは?

 Gレコは本当に情報量の多いアニメーション作品なので、毎回どこから語っていくのかテーマ設定を決めないとこんがらがるのですが。
 この殺人考察シリーズでは「全26話のベルリ・ゼナムの殺害、戦闘シーンにおける全てのリアクションに解説をつける」という切り口です。そして、今回のデレンセン・サマター戦では特に「殺していい人と殺してはいけない人の演出的な違い」をアニメファンの視点から書いていきたいと思います。


 結論から言うと、戦争のリアルは地獄だし自分も相手も動くので、裁判をして絞首刑やギロチンにかけるような平和な時に行われる合法的な殺人と違って、戦場では殺したい人を都合よく殺せるわけがないのです。そして、殺されていい人というのは多くの場合、相対的なもので実際には存在しないことが多く、また、大抵の人は自分は殺されるべき人間ではないと主張します。さらに、多くの人は自分の行為を正当化したがります。




 また、殺人は合法的な場合においても不快感が伴うことが多いです。(これは個人の性格や状況にもよると思うけど)

執行ボタンと言われているスイッチの押しボタンは3つあり、3人の刑務官が指名される。

通電されているのは1つだが、事実上の殺人ボタンを押したという精神的苦痛を3分の1に軽減しようとする配慮らしい。

だが、坂本氏によると軽減というより、3人が「最後のボタンは俺が押した」と同じ苦しみに苛(さいな)まれるという。

つまり、苦痛は3人分になっているのだ。
news.livedoor.com


 なので、ベルリ・ゼナム君は非常に不快感を感じるわけです。新世紀エヴァンゲリオンでも庵野秀明監督は「敵の話を書くと終わらないから使徒の話はしない」って決めて作ったけど最後の使者が日本語をしゃべる使徒だったからシンジ君の精神が限界を超えますからね。


 しかし、機動戦士ガンダムは戦争ロボット殺人残虐ファイト娯楽アニメなので、殺人シーンを楽しくスリリングでエキサイティングなエンジョイムービーとして描くジャンルなのです。ここに矛盾がある。人間ドラマとして「殺人ってなんかつらい」と思うような割と普通の感性を持った人間を描こうとすると、戦争ロボットアニメという娯楽はできないわけです。
 さあ、どうする?

https://www.kyoto-up.org/archives/1669www.kyoto-up.org
9月26日、時計台記念館・百周年記念ホールで第54回未来フォーラムが催され、京大出身の作家・貴志祐介氏が「なぜエンターテインメントに残虐な表現が必要なのか」と題する講演を行った。


貴志氏は京大経済学部を卒業後、生命保険会社を経て作家に転身。1997年に『黒い家』で日本ホラー小説大賞、2008年に『新世界より』で日本SF大賞を受賞。また第1回山田風太郎賞に輝いた『悪の教典』の映画(監督:三池崇史)が今年11月に公開予定である。


講演ではまず、現代エンターテインメント小説が残虐な場面や表現を主題として取り扱う必要性について貴志氏が持論を展開した。


なぜフィクションにおいて残虐行為が求められるのか。貴志氏はその要因として、登場人物を徹底的に追い詰めることによって読者に与える緊張感、そして、「死」を通じて「生」を描く可能性を挙げた。私たちの生きている社会は暴力の上に成り立っており、社会が揺らぐ局面においては暴力がその修復のために発動する。したがって、人間の攻撃的な部分が暴露されるとき、はじめて社会、そして人間の生の本質も明らかとなるのだという。

nuryouguda.hatenablog.com
私は先日京都大学でこのアニメの原作小説の作者である貴志祐介氏にお会いして来て、その時に彼から「エンターテインメント小説にとって残虐なシーンは読者の関心を引くために必要です」と、聞いた。


曰く、「残虐なシーンや生死に繋がる描写は読者に感情移入させ、読ませるのに必要。我々エンタメ作家にとって一番大事なのは読んでもらう事で、怖い事はページをめくるのを辞められる事だ」


「死というのは大抵の読者にとって関心事項なので、関心をひきやすい。文体だけによって読ませる町田康氏のような作家もいるが、文体の力だけで読ませるよりは関心を惹かせる小説の方がエンタメになりやすい」


「私はかつて、小説家になる前、文章教則本をいくつも読んだが、大抵は役に立たなかった。ただし、『主人公に徹底的に辛く当たれ、危機を与えろ』という教えは役に立った」

とのこと。

おそらく、登場人物を徹底的に追い詰めるというのは、ディーン・R. クーンツの「ベストセラー小説の書き方」の一節だったかと思う。


貴志氏によれば、「登場人物が100苦しんで、やっと読者の関心を1惹くかどうか。」との事らしい。


 この論法には狡さがあります。「小説家が生活して生きていくために、読者の関心を惹くために登場人物を殺す。生きるためだから仕方がない」と言われても、僕にとっては大して仲が良くもない小説家の命よりも非実在青少年の方が可愛いし命が大事だと思う。小説家が生きようが死のうが知ったことか!バイトしろ!


 また、大抵の普通の人は殺したり殺されたりすることに不快感や嫌悪感を持っているにも拘らず、フィクションの中の殺人を娯楽として享受する文化があります。これは現代人だけの問題ではなく、江戸時代の浄瑠璃がワイドショー的に心中や放火殺人や赤穂浪士のテロを娯楽にしていたので、どうも人間は「自分が死んだり殺すのは嫌だが、他人が死ぬと面白い」というゲスな性質を持っているらしい。まあ、群れの中でついてない誰かを生贄として天災とか肉食獣とかに捧げて生き延びてきたのがホモ・サピエンスなのでそういう生存戦略しましょうか?って言う感じは本能としてある。


 そういうわけで今日も画面の中で書籍の中で殺人が行われていて、ウテナや高倉兄弟は消えてしまい、普通の人もそれを悦んで楽しんでいるわけですが、その中で殺人をしたりされる人も非実在の存在とはいえ一応は人間なので(もちろん怪獣もいます)、殺人をするとストレスを感じます。そこで殺人をしたり殺される人のリアクションをどうくみ取っていくのか、という切り取り方の角度の違いで爽快アクションだったり社会派サスペンスだったり哲学的名著だったり、という違いが発生します。
 しかし、そういうジャンル分けは劇中の外の読者や視聴者にとっての物にすぎず、劇中の人物にとってはやはり死は死でしかない。


 で、前述の貴志氏は殺人娯楽小説を書く際に、殺人者をサイコパスとして描いているらしい。

──工夫のしがいはキャラクターにある?

読者はキャラクターが好きだ。SFでよくあるのは、SF的なアイデアにこだわるあまりに登場人物がどれも同じような科学者タイプになること。これは読み進めるのがつらい。例が同じになるが、『悪の教典』の場合、かなりキャラクター小説の色が強い。ある種、誇張した戯画的なキャラクターもいるが、ぱっと読んで前に出てきたあのキャラクターだとすぐにわかってもらえなければいけない。


──『黒い家』は菰田幸子という大阪の怖いおばさんが主役でした。

実は何作にもわたっているテーマの一つに、サイコパスという心理的な類型がある。共感能力が著しく低く、それがために残虐なこと、恐ろしいこともできてしまう人物がいる。一つの類型が『黒い家』の菰田幸子。サイコパスも殺人者に限定すると犯行状態から無秩序型と秩序型に分かれる。無秩序型の菰田に対し秩序型が蓮実聖司だ。ある意味、対をなしている作品だといえる。
toyokeizai.net


 共感能力というものが果たしてなんなのか?というのはかなり難しい問題だ。たとえば今はインターネット時代であり世界の裏側で進行中の内戦の参加者のツイッターや日記を日本から読むことができ、また、芸能人と同じ土俵で素人もインスタグラムをして自己アピールをしている。ネトウヨやテレビワイドショーや中国の影響を受けた新聞や地縁血縁などの利害関係が交錯して主張し合う民主主義、資本主義社会で、そしてそれによって経済が変動するらしい。
 このような高度情報化社会ではいちいち一人一人に共感していられるものかと思うのだが。なので、私は貴志祐介氏の「サイコパスは普通の人と違って共感能力が低いので人を殺す」という差別的な考えには反対だ。私も複数の人格障害を発症している精神障害者3級なのだが、サイコパスと健常者の線引きとはそんなに明確な物だろうか?また、「あいつが人を殺したのはサイコパスだからだ」と言って人を殺すときの事情を無視する態度こそ、殺人者に対して共感を拒否するサイコパス的態度なのではないか?


 と、別に貴志祐介氏批判がこの文章の主軸ではない。
 Gレコの話をしよう。ベルリ・ゼナムは天才パイロットだがサイコパスではないし、サディストでもない。Gのレコンギスタは戦闘ロボットアニメだが、ファーストの機動戦士ガンダムと違って「戦時下」ではない。そんな普通の学生がどうしようもなく殺人をしてしまう時の心の動きこそがGのレコンギスタを一過性の娯楽ではなく物語として高めているのではないだろうか。そして、現代に対する文学的批評としても、誰しもが殺人者になり得るという危機感を想起するGレコはモータライゼーション、機械化社会インターネット社会の現実に重要なんじゃないのかという。富野由悠季監督の対談インタビュー本を読んでいるが、富野監督はそういう問題意識を持ってアニメを作っている人だ。

mantan-web.jp
荒木さんは念願の“巨匠”とのアニメ制作となったが、絵コンテを書いて、富野監督に渡すと、100枚以上の付せんが貼られて返ってきたという。中には「ヘドが出ます」「劇を演出することを分かってほしい」などという厳しいコメントもあったといい、荒木さんは「刺激的だった」と振り返る。

 劇を演出することとは何だろうか?


 荒木哲郎監督の甲鉄城のカバネリ機動戦士ガンダムをオマージュしていて、第1話で主人公がビームライフルを自作してガンダムになったとたんに新人類として覚醒する圧縮具合がおもしろかったけど、劇として敵を殺す罪悪感はすごい薄めていて、僕みたいに人の死に接してきた自死遺族の精神障碍者としては甘っちょろいなーって思うんですよね。

――『甲鉄城のカバネリ』は、ジャンルで言うと広義の「ゾンビもの」かと思いますが、そのあたりはどのように決まったのでしょうか?


荒木:主人公のドラマはこういうラインでいく――、ヒロインはこういうキャラクター性でいく――といったことを決めた後で、じゃあ何と戦うのかと。それを自分がいくつも考えて、プロデューサー陣に毎週、「こんなのどうですか」と提案していました。そこから、ダメ出しを食うという試練がしばらく続くものなんですけれど……。その中で、最もみんなの反応が良かったのが、やはりゾンビ路線だったんですよね。自分としても、残忍で獰猛で愚かしいような敵というのはいかなる時にも大好物なのですが、ゾンビものにかけては信用があるということなのかもしれません。


あと、ヒロインがバンバンなぎ倒しても、その子のことを嫌いにならないような敵にするというポイントも、意外に大きかった気がします。敵とはいえ、ねぇ……みたいな(笑)。そういったところから、ゾンビものでいくか! ということになりました。色々な設定は、そこから定めていった感じですね。
www.animatetimes.com

 おいおい、こちとら帰宅部難民あいまいみー勢やぞ?今さら人を殺したくらいでボンちゃんやまれいたそを嫌いになるわけないじゃん!




 アニメの生と死はファッションなんだよ。僕にとってはね。


 現代においても殺人を娯楽とする映像作品は多い。それに対して個々人の好き嫌いはあると思うのだが、僕はポルノも好きなので表現規制には反対の立場ではある。んで、そういう殺人娯楽のアニメでは「殺してもいいやつ」を「殺されるべきではない人」が殺すと観客は喝采し、「殺されるべきではない人」が殺されると悲劇だとか不条理だと感じる。しかし、現実にはそのような区別はないのだ。ないのだが、アクション娯楽作品では幼少期から「いいもの、わるもの」の区別がなされているし、ティーンエイジャーや大学生のアニメファンが見るようなアニメや大人向けの映画でも「感情移入の対象、それ以外の邪悪」が区分けされる演出が多い、と個人的に私は感じる。
 そこで富野アニメなのだが、富野ファーストガンダムザンボット3のエポックメイキングの一つに善悪の相対化がある。これは富野監督の年代に影響を与えた実存主義の特徴でもある。(なにしろ、無敵「超人」ザンボット3である。ニーチェです。)
 そして、ザンボット3から40年も前線に立ち続けた富野由悠季の最新作のGのレコンギスタは相対化からさらに進んで善悪の流動化という領域に入り込んだように見える。これは一般視聴者から「分かりにくい」と言われる原因の一つなのだが、ファンとしてはこれが富野監督が半世紀かけて練り上げた個性として尊重したい。


  • アニメは殺していい悪役を必要とする

 前期のオリジナルアニメーションで「終末のイゼッタ」というのがあった。これはなかなかクオリティが高く、真中らぁらと高垣楓の二大アイドルの競演も良かった。
 しかしながら、第二次世界大戦パスティーシュしたパラレルワールドでスイスのような国の魔女のイゼッタがドイツのような国の戦車兵士を殺害しまくるアニメなのだが、イゼッタが敵兵を殺害する時の葛藤はほとんど描かれなかった。というか、ほとんど敵兵の顔は描かれない。逆に、地元のエイルシュタット公国の民は「守るべき人たち」としてきれいに描かれていた。


 敵と味方のどちらも「ヒト」なのだから、どっちが生き残ろうが誰かが死ぬことには変わらないので、ガタガタ戦争して無駄に火薬や石油を消費するよりは自殺すればいいだろう、というのが僕の反戦主義の意見なのですが。(人命が大事だから反戦ではなく、人命よりも石油の節約の方が大事だから自害しろ、というのが僕の戦争に対する意見。ただし、平和な時でも石油を消費する人類が増え過ぎると困るので、自害もできない愚民どもは腐らせ焼き潰すしかないと思う)


 終末のイゼッタのドイツっぽいプロイセンナチスの悪いところ取りをした敵国は如何にも醜く狂人の集まりのように描かれていた。(まあ、ゲルマニアにもイケメンの戦闘機パイロットの細谷ンとスパイの諏訪部を配置していた配慮はある)


 もちろん、イゼッタはエイルシュタットの国民の全員を愛しているわけではなく(むしろ差別されてた)、エイルシュタット公王のフィーネ陛下に幼少期に救われたからレズっぽく慕っているだけで、フィーネ陛下のためなら誰だってぶっ殺すっていうある種のサイコパスなのだが。百合尊いから百合のためなら他人を殺すし、殺す相手のこと、サーベルをぶっ刺す戦車や戦闘機の中の兵士のことは想像もしない。
 だから、イゼッタの殺人はやっぱりサイコパスの狂行としてある種正当化されているのだが。


 んで、物語の中盤にイゼッタの祖先のクローンでイゼッタと同じ魔女であるゾフィーというライバルが出てきて、「やっと顔の見える相手と殺し合いを演じてくれるのかな」と思ったのだが、



 変顔、しちゃうんだなあ…。ここで「主人公が殺す相手は汚く、感情的で、自己中心的な狂人なので殺してもいい」という切断操作が行われる。
 あと、コードギアスの終盤でルルーシュがすごい執着していた母親とどう折り合いをつけるのか、という興味がすごくあったのに、ルルーシュの母親が変顔をしたから殺してもいいキャラ、みたいに扱われるとか、そういう雑な演出で物語を端折るのはアニメにはよくある。 PSYCHO-PASSのシビュラシステムがどうかなーって思ったら「正体はキモイ脳みそだから悪い」みたいな誘導が行われたり。
 甲鉄城のカバネリの美馬様が唐突に「俺がメンヘラになったのはこんなつらいことがあったからなんや」と語りながら殺人したり。カバネリはファーストガンダムのリスペクトがあるし、美馬様も多分ジャブローズゴックみたいな感じで生きてると思うので続編が楽しみではあるんだけど。シャア・アズナブルアムロに対してサザビーがぼこぼこにされるまでは、ほとんど言い訳や過去の辛さを語ったりしないじゃん。でも、美馬様はなあ…。


 もちろん、娯楽作品としては「きれいな主人公が汚い奴をやっつけるとスカッとする」という勧善懲悪の快感というのがあることは否定しない。なので、そういう作品があることを僕は否定はしない。


 アクション娯楽映画を盛り上げるために殺人シーンは必要だが、主人公が悪人に見えるような殺し方は避けたいので、主人公が殺す相手は醜く描く、という差別主義の快感の事情もあるだろう。銀河英雄伝説のモブとか。水戸黄門の悪代官とか。


 逆に最近だと魔法少女育成計画がバトルロワイヤルものとまどマギのテンプレを開き直って出してきて、殺す奴も殺される奴もゲスな奴も善人も美少女!ってやっていて、少女が壊れるのを見る面白さがあった。まほいくはラストシーンで社会派を繰り出してきて驚いたけど、2000年の映画版バトルロワイヤルも深作欣二監督と山本太郎と仲間たちが社会派を繰り出すところがあったから、そこも含めてジャンルのテンプレなのかもしれない…。


 と、他の作品を批判したが、別にこれはGレコを称揚して他の作品を貶める意図ではない。単にGレコという巨象を批評するのに、隣に比較対象となるマッチ箱を置く、という写真の技術に過ぎない。もちろん、イゼッタやカバネリのファンはマッチ箱扱いされるのも嫌かもしれないんだけども。
 いや、それならほら、売りスレでGレコの売り上げをマッチ箱として君たちが大いに語るといいじゃあないか。





 いや、ガノタは種でシャア専用板が割れる以前からZとかガンプラとかリアルタイム勢力とかで内紛を繰り返してきた(そして今も安彦と富野の暗闘が)民族なので、Gレコをアゲるために鉄血のオルフェンズを下げるのは空しい争いの火種だと思うので避けていたけど、先にオルフェンズにしっぽを振って裏切ったのは天津だからな!
 これはもう天津はあいまいみーの中で毎週死ぬしかないな。


 だいたい鉄血は言い訳がましいんだよ!女が脚本書いてんのか?!

 三日月は共感能力に乏しい人物だからー

 敵は醜く、


 身体障碍者で、

 裏切者で、

 人類の敵!


 って、そんな言い訳をするくらいならガンダムの看板を下ろせ!
 敵が悪い奴だから殺す主人公というのは、主人公ちからが「敵の悪さ」に依存しているので、「主人公だから悪かろうとよかろうと殺す」という独立した殺人者の方が強い。
 敵を殺すかどうかなんか気分とか地形効果とかで良いんですよ。
 それを描いてきたのがガンダムじゃないですか。


 「相手がザクなら人間じゃないんだ」とか言って発砲したアムロククルス・ドアンとかエルラン中将とかの敵と交流しつつもやっぱりジオン兵を日常的に殺害しまくって、でもかわいいララァをうっかり殺したら「取り返しのつかないことをしてしまった!」とか勝手なことを言うのがガンダムの伝統じゃないですか。ニュータイプとして覚醒したアムロに導かれたカイ・シデンとかが小銃でジオンを殺して逃げるところとか最高。
 逆に在邦外国人に「飢え死にしろ!」って言う地元民に対して朝鮮系の朴璐美が「命を大事にしない人とはだれとでも戦います」とか言い放つ∀ガンダムもある。
 気持ち悪いモテないおじさんオタクとしては、命の価値を美醜とか声優の人気で決める鉄血キッズのノリは否定する。
 韓国に美化された慰安婦少女像を設置するんならモンゴルの強姦と侵略が大好きな偉大なるチンギス・ハーンの像(とても大きい)を拝みに行け!
http://yuseisuzumura.com/archives/1900yuseisuzumura.com

ある日、チンギス・カン重臣の一人であるボオルチュ・ノヤンに「男として最大の快楽は何か」と問いかけた。
ノヤンは「春の日、逞しい馬に跨り、手に鷹を据えて野原に赴き、鷹が飛鳥に一撃を加えるのを見ることであります」と答えた。
チンギスが他の将軍のボロウルにも同じことを問うと、ボロウルも同じことを答えた。するとチンギスは「違う」と言い、

「男たる者の最大の快楽は敵を撃滅し、これをまっしぐらに駆逐し、その所有する財物を奪い、その親しい人々が嘆き悲しむのを眺め、
その馬に跨り、その敵の妻と娘を犯すことにある」と答えた。(モンゴル帝国史)

現在知られている、固有名詞のわかっている自分の遺伝子を最も多く残した男性はチンギス・ハーンだといわれています。Y染色体などのDNA検査により彼の遺伝子を持つ人間は世界中に1千万人以上いるとされています。征服した部族や他民族の女性を次々にレイプし、その子供が王になりさらに征服の旅をしました。
チンギスハーン自身も若い頃には別の部族の王に妻を奪われています(奪った王は当然子供を生ませています)から、普通に行われたことです。
detail.chiebukuro.yahoo.co.jp


 そして日本の菌糸類はアッティラ・ザ・フンを粛々と女体化したソーシャルゲームをする…。銅像銅像。フィギュアはフィギュア。英霊は英霊。
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 ていうか、これ、何の話だっけ?
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 Gレコは(サディストの監督が書いた小説版がないので)レイプシーンはないですよ!被差別階級のノレドとかマニィや、知的障害状態のラライヤが殴られたり触られたりするシーンはあるけど明確なレイプはなかった、はず…。

  • Gレコには悪人がいない

 うーん。なんかGレコについて語る前に話がすごい逸れたのだが、おそらくそれは僕が回避性人格障害なのでデレンセン・サマター大尉の死について語るのを延期しようとして他の作品をdisってるところある。


 ともかく、Gレコには悪人面した悪人が少ない。
 もちろん、完全な善人もいないのだが。軍拡をしているキャピタル・アーミィーのジュガンやベッカーはマッチョな性格と体躯の人であって、別に悪人じゃないし、彼らは彼らなりに世界情勢を鑑みて首都防衛をしようと思ってる。キャピタル・アーミィーを焚きつけたり戦争したそうな敵同士に軍事技術を横流ししたクンパ・ルシータとかピアニ・カルータは悪い面もあるんだけど、彼なりに人類に希望を持っていた面もあるし、自分の手は汚してない。ていうかヘルメスの薔薇の設計図を貰って、それを平和のために使わず、資源を奪い合ってお湯のあるシャワーを使いたいからって言って戦争しまくる地球人の全員が悪いわけで。クンパに騙されたからって言ってもやっぱり引き金を引いたりモビルスーツで戦争をする兵士一人一人にも罪はある。罪はあるんだけど、高層ビルがジャングルに飲み込まれてるようなポストアポカリプスのアメリア国で地面を這いずるように生きてきたアイーダとか兵士一人一人はやっぱり豊かな国造りの理想を持ってる面もある。大統領にそそのかされたと言っても、やっぱり自ら殺し戦う意志を放棄するのは人間としていかがなものか。


 Gのレコンギスタは子供向けアニメである、と富野監督は言う。これは子供でも分かる情報量の少ないアニメ、という意味ではない。富野由悠季監督は虫プロ出身の手塚治虫の弟子筋の人物である。

 昭和30年代当時、マンガは子どもに悪影響を及ぼすものとして教育関係者やPTAから激しく攻撃されていた。中でも目の敵にされたのが、表現がどぎつく俗悪とされた貸本マンガだった。今年話題になったNHKの朝ドラ『ゲゲゲの女房』にも、PTAの団体が貸本屋へ抗議に押しかけるシーンがあったのを覚えている方も多いだろう。
 そこで手塚先生は、そうした人々の誤解を解こうと、あえて自分から批判にさらされながらも一貫して力強くマンガを弁護し続けた。

 そして手塚先生はここ会津でも、わずかな機会をとらえてマンガの楽しさや大切さを地元の人たちに伝えようとしたのだろう。翌日開かれた集まりの様子を、白井義夫さんはこう語ってくれた。


「手塚先生は、出席した先生やPTAの役員さんたちに『マンガはおやつです。主食だけでは子どもたちは心も体もバランスを失ってしまいます』と語り出しましてね、質疑応答にも1問1問ていねいに答えておられました。
tezukaosamu.net

 という逸話があるのだが、漫画はおやつに過ぎない、と言うわけではない。

児童文学を書くためのハウツーものを読んだ時にあった1行が、僕にとって現在までの信条になりました。「その子にとって大切なことを本気で話してやれば、その時は難しい言葉遣いでも、子どもはいつかその大人の言った言葉を思い出してくれる」という1行でした。つまりアニメのジャンルに関わらず、「子どもに向かって嘘をつくな。作家の全身全霊をかけろ」と僕は理解しました。
bizmakoto.jp

 子供の頃に食べたおやつは子供のその後の人生を豊かにするんだ!っていう。


 そういうGレコなので、かなり富野監督の子供に対しての道徳観が出ている。「悪い奴は醜く愚かなので殺していい」というスタンスではない。これはザンボットやイデオンもそうなのだが、逆に「善だと思ってやったことで身内を殺すこともある」という厳しさも描いてきたのが富野。
 そういう意味では、このGレコ6話はイデオンの第14話 「撃破・ドク戦法」の「カミューラ・ランバンのかたきだーっ!」に相当すると思う。

第14話 撃破・ドク戦法

第14話 撃破・ドク戦法


 どうも最近は景気の悪化やグローバリズムの反動で「地元愛」とか「マイルドヤンキー」を賞賛して外国人を差別する機運が日本だけでなく各国で高まっているのだが。Gレコはキャピタル・テリトリィの地元愛に溢れる公務員志望のベルリに諸国遍歴をさせることで、そういう内向した差別意識を突破させるきっかけを子供に見せようという富野監督の志を感じる。手塚、石ノ森章太郎藤子不二雄などトキワ荘萬画家のコスモポリタニズムは富野作品にもあると思う。(同時に、小田原と東京と新座市に対する屈折した郷土愛もあるし、リーンの翼ダンバインでは「日本軍人」も描かれたわけだが)


 富野由悠季監督の孫はヨーロッパ人との混血児なので、生存戦略としても国粋主義とは戦うのかもしれない。しかし、ガンダムファンは「ジークジオン!」とか言って「国士ごっこ」をするのが好きな人が多いので難しいものがある。
 ガンダム00ソレスタルビーイングが国際組織だから、とか、鉄血のオルフェンズ鉄華団が火星から地球に行ったから、国粋主義に囚われない広い視野を獲得できた、って言う話ではないんですよね。ここら辺のガンダム国家主義とコスモポリタニズムの相克は結構問題意識としてあると思う。
 (Gガンダムは逆に国粋主義の塊だけど同盟の絆みたいなのはあった。あとXのエスタルド編とか)

  • フィルムに沿う

 とにかくここで他の作品を長々とディスったり時事問題に噛みついたところで一向にGレコの解説と言う主旨から外れるので、とりまバンダイチャンネルに月額1000円課金してGレコを見ますね。


 6話のファースト・シーンは海賊船メガファウナキャピタル・タワーに対して囮作戦をするために大気圏上層まで弾道飛行をするための加速をして、操舵手のステアがエンジンの調節をするシーンです。
 もう、ここで映像の原則を読んだアニメファンは気付くべき。


富野由悠季が段取り芝居を描いている!」

富野監督は、そのカットが、キャラクターの決まり切ったポーズ、アニメーターの描きやすいポーズから始まるのを嫌う。そうするといかにも段取り通りにお芝居をしているようになり、意味のない「間」が生まれるからだ。とはいってもアニメーターが作画をする場合は、お芝居の最初から順番に描いたほうが描きやすい。
www.excite.co.jp

 6話のしょっぱなは、海賊部隊がキャピタル・タワーに軍事行動を仕掛けるぞ!というヤバい状況なのに、そこをあえてヤバく描かず、「普通にエンジンをかけたり止めたりする黒人美女」「各自の用を済ませるように指示する艦長」

「着替えを用意する白人美女」がメガファウナを運用する「段取り」から淡々とスタートしている。メガファウナが威勢よく出撃するシーンを5話のラストで描いたので、逆にスリリングすぎるから見なくてもいいと予告した6話の冒頭は普通っぽく入る。むしろ、美女が働いている姿をスッと描くことで海賊の悪役感を減らしている。ここの技巧にオタクはもっと気付くべき。
 そして、海賊部隊の軍事行為は国際犯罪だが、ステアもマキ・ソールも美女だし、ドニエル・トス艦長は普通のおじさんっぽいし、復調の諏訪部の声もイケボだ。まったく悪役っぽくない。洗脳されてるようにも見えない。


 この入りの美学がいいんだよなあ…。このブログも落語のように近況や時事などの話の枕から文を導入することが多いのだが、「ヤバいこと」を始める前にまず普通っぽい枕を置いて相手を油断させて、刺す。こういう暗殺技術みたいなアニメ大好き。
 こういう風に富野アニメの演出を云々するの、蒟蒻問答のそしりを受けても仕方がないのだが、ここはチラシの裏だし、僕はアニメーターでもない門前の視聴者に過ぎないので勝手に書く。


 んで、我らの主人公、ベルリ・ゼナム君の登場シーン。

「宇宙でも歯茎のマッサージをするためにガムじゃなくて歯ブラシを使う」
 という、すごくどうでもいい主張をしながら出てくる。お前、今から恩師を殺しに行くのに歯磨きの仕方から始めるのか!教育番組Eテレのキッズかよ…。



 この、「普通っぽい日常行動の延長に戦争がある」というこの世界の中心のタワーを目指している海賊船の片隅でなー。
 (いや、鉄華団には日常がない、とかそこまで言うつもりはない)



 で、ベルリはノレドに「アメリア軍の宇宙艦隊の数を確認していないんだ」と言うわけだが、あくまで「数を確認」であって、ベルリに殺意や戦闘意欲は全くない。この殺人考察シリーズではベルリが「訓練は受けているが軍人ではないので(あとアイーダさんが美人なので)、同級生が襲われてもアメリア軍や海賊に対して全く闘争心や怒りを持っていない」と読み解いてきた。
 ベルリは4話や5話で射撃の中を飛ばされる地獄の体験をしたが、基本的に天才なので自分の身が危なくなっても怒らない。天才だし恵まれて育った優等生なので、自分が脅かされるという概念がないっぽい。前回マスクと対戦したのに今回もハッパさんに「G-セルフに乗れよ」って言われても「なんとかなるんじゃないかな」くらいの姿勢でいる。危機感がない。


 ガンダムは戦闘ロボットアニメだし、戦闘本能には危機感や防衛意識や怒りが関わっているのだが、ベルリのこの殺気の無さは逆にすごい。戦闘マシーンになろうとしている三日月や刹那やヒイロと違って、勝たなければいけないドモンや怒りに燃えるガンダムカミーユと違って、ベルリは「数を確認するだけで何とかなるっしょ」という気分。ゆとりやべえな。


 ノレドとのこの会話も、アイーダさんに「G-セルフで逃げ出す相談ですか?」と普通に立ち聞きされてその場で言われて、ベルリは「ハッパさんが僕を出すつもりなんですよ」と普通に躱しているので、危機感が劇として盛り上がらない。
 

「ノレドとボクが殺人集団の海賊船から逃げ出さなくてはいけない!ピンチ!」という風にはならない。そういう展開になるかなーって思ってたけど、そうしない。

 じゃあ、逆に「強敵、デレンセン!」の本人であるデレンセンやキャピタル・アーミィが主人公の偽りの日常を作っていた悪の組織みたいに描かれるのかって言うと、そうではない。
 いや、危機感っぽいBGMがアンダーナットの宇宙空間から見た映像に合わせて鳴るし、ウィルミット・ゼナム長官は彼女の倫理観と職業意識からジュガン・マインストロン司令にブースターとかモビルスーツの動きが派手すぎると文句を言うのだが。



 キャピタル・アーミィの前線基地、勇者ライディーンで言う所の大魔竜ガンテみたいな基地であるアンダーナットに到着したデレンセンが持ってる出張カバンの日常感がヤバい!


 アンダーナットや低軌道ナットは地球ではタブー視されている重工業都市という裏設定が放送後の2016年に出てきたわけだが、別に悪のマシーン・シティーとかディストピアではなく、牛もいるし昼間から酒を飲んでるおじさんもいるし、浦沢投石するおばさんもいるし、移動はセグウェイだ。悪の基地っぽさを極力描きたくないかのような呑気なセグウェイ
 うーん。ファーストガンダムの強敵のランバ・ラルはもうちょっと飲み屋でも威厳があって肩で風を切る感じだったけど、デレンセン教官はセグウェイで出張気分だし、「教え子のベルリ・ゼナムを取り戻して見せます」って言うし、マスクの失敗を踏まえた作戦なので「悪の海賊どもめ!よくも俺の教え子を!殺してやる!」という怒りがない。
 ベッカー・シャダム大尉はウィルミット長官に「アメリアの海賊ども」と言うが、差別感情もあるにせよ、「ゴンドワンとの大陸間戦争で実戦慣れしていますから!」という理由でアメリア軍を脅威と思っている軍人であって、むしろ正当な国土防衛義務の意識を持っているという点では健全な人物にも見える。なので、徹底的な悪とか出世欲の塊とか殺人趣味としては描かれない。ここら辺は現実の沖縄やイスタンブールの国境防衛をする駐留軍人への問題意識もあるだろう。僕はオスプレイよりもZガンダムの変形の方が危ないと思う。(小説版の逆襲のシャアアムロはZ系のフレームは馬鹿みたいに頑丈と補足している。)


 特にこのアンダーナットの人々の「地球ではタブーとして蔑視されている重工業をわざわざ僻地のアンダーナットでやっているコンプレックス」と「キャピタル・ガードが最近偉そうにアーミィを名乗って基地を作っているから腹立つ投石」とかは沖縄の基地問題への批評めいたものもある。(∀ガンダムがそもそもイスラエルっぽい話だしVガンダムはユーゴ紛争)


 オスプレイとか原発の問題、よく「子どもを守れ」という文脈で問題視されることが多い。僕は割と頻繁に引っ越すので、「嫌なら住まなきゃいいじゃん」と思うのだが、子供が住んでいるというのは、とりもなおさずそこで働いている人が家庭を持っているというだけの話で、国境警備の兵隊は嫌われやすいのだが、じゃあなぜわざわざ沖縄やイスタンブールに基地を作るんだっていうと、それはそこに住んでいる人を守らなくてはいけないからなのだ。なぜ守らなくてはいけないのかと言うと、国境は僻地であると同時に物資が行き交う重要拠点なので、なんだかんだ言って職員とその家族が住み着いて原発銀座や基地の街を作るし、人がいるからです。基地が市街地の近くにあるのは危ないんだけど、市街地だからこそ防衛しなきゃね、って言う面もある。ほとんど誰も住んでない南極にはあんまり軍事基地はない(はず)。誰かが住んでて守らなきゃー、とか、交通の要衝だからー、とかというわけで軍事基地が配置されるので、人が住んでるところに軍事基地があるのは問題でもあるが当然でもある。


 で、Gレコに話を戻すと、キャピタル・テリトリィという地球の首都が月との貿易の窓口の国境のザンクト・ポルトとつながっていて、アメリアとかの弾道攻撃にも晒される重要拠点でもあるキャピタル・タワーという施設だという現代社会の問題やハザードマップ弱点の縮図みたいな設定はとてもよくできている。



 教官の立場でありながら、デレンセンは出撃直前のコックピットで地上のウィル長官に「ご子息は必ず取り戻してみせますから」と冷静っぽく言う。ちゃんとした大人がちゃんと仕事をしているだけだけに見える。ウィルミット・ゼナム長官も我が子がかわいいだけの母親でもなく、ダンバインのショウの母のように世間体を気にするだけでもなく、まずキャピタル・タワーの運行長官としての立場で軍事基地について苦言を出しているので、これも仕事をしている姿だ。
 もちろん、官僚と軍隊の温度差は組織の体質としてあるし、それはしばしば個人的感情とリンクするので、職業的な縄張り意識と感情は切り離せないものではある。(ウィル長官はカバのはく製を飾るのが趣味だが、カバは縄張り意識が強い動物だ)
 でも、ウィルミット・ゼナム長官は女だてらにシングルマザーでキャピタル・タワーの長官に上り詰めた人物として意地もあるだろうし、自分から息子がどうこうと言いださない程度のプライドはある。が、そこをデレンセン教官の方から「ご子息は~」と言ってあげていて、それも大人や教員としての会話のマナーができているデレンセンの人格を物語っている。
 この時代のリギルド・センチュリーは女性蔑視がないのかと言うと、微妙な所だが、ジュガン司令は何度もウィル長官のことを陰で「ババア」って言うので、まあ、女が出世してうざい気分はあるようだ。(富野作品は割と女性でも軍事的政治的な要職に実力で就くことが多いので、他のマスコットみたいな女性キャラクターの多いアニメとは違う。(しかも同時に富野作品は”アイドル”を描くことにも熱心なのでややこしさはある))


 メガファウナのデッキでこっそりノレドに耳打ちをするベルリは、「海賊船からの脱出チャレンジ!ピンチ!」という感じではある。
 が、それを脱力させるかのように、「ラライヤ、おしっこしておこう」「フンだ!フンだ!フンだ!」という雑な下ネタで緊張感を減らす。



 リフレクターパックがアメリアいちの技術者が作ったとアイーダが言い、モンテーロに着けられなかったとクリムが言い、アダム・スミスが「そいつは言いっこなしですぜ」と窘め、ベルリが生体実験だの文句を言うが、プリパラのクマがシステムを説明する感じで鈴木千尋声のハッパ中尉が「チェックしておけ!」とベルリに命じて、根が理系少年のベルリも「あっはい」と応じてしまう。出撃前の段取り芝居なのだが、その中でなんとなく会話が弾んだ感じになってしまう。ハッパ中尉はメカオタクなのでほとんどメカを動かすための段取りしか発言しないのだが。まあ、プリパラのマネージャーのクマなので。
 しかし、富野監督は段取りのための段取りを嫌うので、なぜ段取りを描くのかと言うと、段取り自体が劇として、人の営み、人間関係として作用させてるってことなんだよなあ。ここではもちろん、「あれ?宇宙海賊って言っても仕事の前の段取りは地球人と大して変わらないんじゃない?」という親近感を増す作用。



 ノレドが潜り込んだフライスコップのパイロット(ゲッツとかジンジャーだっけ)も、普通の人っぽい。ゴリゴリのマッチョとか殺人慣れした戦士と言う感じではない。メカを使う戦争では普通の人が戦争するって、ドリフターズ織田信長も言ってたしな。



 で、ベルリは海賊船から脱出しようというピンチ状態だけど、出撃前の段取りはキャピタル・ガード養成学校と大差なかったのか、「アダム・スミスさんって顔に似合わず気遣いがあるんだー」って笑ったり、

 メカ好き男子同士でハッパさんとメカの起動チェックでフランクに言い合ったり、海賊とも人間関係を作ってほだされる。これはベルリが基本的に怒りや敵意や復讐心が欠如して、恐怖もあまり感じたことがない無敵の天才パイロットだからかもしれない。(ジョジョDIOも恐怖を克服してるしプッチ神父とか意外と友達多かったよね)
 あと、親が国際貿易組織のウィル長官だし、ベルリ自身も地球全部を守る仕事を志望しているので外国人のアメリア人に対する苦手意識も少ない。


 私は飛び飛びでしか読んでいないが、富野監督はGレコの頃にone-pieceの尾田栄一郎森鴎外である!とメルマガで書いたりしていて、ワンピースを参考にしていた面もあるらしい。確かに、メガファウナが仲間を増やしていくのは麦わらの海賊団みたいなところがある。ただ、マイルドヤンキーのルフィが仲間のことは自分のことのように大事にして、敵はボコボコにするのとは違い、ベルリは敵味方の意識すら曖昧。ルフィは仲間と自分の境界線があいまいだけど、ベルリは敵味方の壁もあいまい。もしかしたら、これが最新のニュータイプ、物事を正確に認知して、自分が殺す相手のことも尊重できる人間なのかもしれない。しかし、自分が殺した相手の気持ちを思い返すのはつらいのだが…。さて…。


 コンビニのおにぎりを作る人のことを想像できるなら、自分が殺めた人のことも当然想像できるので、それは他人や他の動物を蹂躙して生き延びてきた人類とは違うニュータイプなのか?


  • デレンセンの頭でっかちさ

 デレンセンがエルフ・ブル単騎でメガファウナを制圧してベルリとノレドとラライヤを救出するビジョンが全くわかなかった。いくらデレンセン大尉が強くてもスティーブン・セガールみたいに一人で軍艦を制圧するのは無理がある。
 歩兵も連れずにモビルスーツ一機で軍艦を制圧して人質救出って…。と思っていたのだが、どうやらここの作戦をもう一度字幕付きで聞き直すと、デレンセン大尉のエルフ・ブルが上から奇襲をかけてメガファウナを軍事的に無力化した上で、下から来たジロンド部隊が兵員を突入させて艦内を制圧してベルリを救出、と言う段取りだったのかな、と思う。



 あくまで大型MSのエルフ・ブルは対メガファウナの機動戦闘であり、エフラグにおそらく歩兵を積んでいるジロンド部隊規模の戦隊での人質救出がシナリオだったのだと思う。
 が、

 海賊船は想定よりも高度が高く、衛星軌道で高度が高いというのは速度も速いということ。


 そんなことは最初から分かっていたことだろうが!と言うデレンセンがバイザーで顔を隠すのも演出として意味があって、デレンセンの想定が外れてヤバい!という意味を出すために顔を隠しているんだな。


 Gレコは「現実(リアル)はそんなに整理されていない」という作風だが、主人公たちに現実の厳しさを突き付ける強敵たちであるデレンセンとジロンド部隊も現実と想定の差異に戸惑う。これは原発事故の「想定外」にまつわる様々な事件への風刺もあるだろう。テロリストだって脳とコンピューターで戦術を考えているのが昨今だ。
 デレンセンが4話で「俺の頭でっかちな作戦で…」と戦死した部下に詫びるが、自分が頭でっかちだと自覚していてもやっぱり頭でっかちなことをやってしまうのが教職員もやっているデレンセンの性質なのだ。そして今回も頭でっかちな想定で人質救出作戦を立てるが、海賊が想定外の高度を出してデレンセンは焦るし、その表情を隠すためにバイザーを下す。デレンセンは大人としてはちゃんとしている方の人物だが、キャピタル・ガード養成学校の教員でもあるのでやっぱり頭でっかちな作戦をしてしまう。(同時に、そういう理論だてて物を見れる人材が6話で喪われることでキャピタル・アーミィーの今後の作戦行動が散発的な物になってしまうという悲劇もある)
 


 じゃあ、デレンセン達キャピタル・アーミィーが頭でっかちで海賊部隊は現実を見ているクレバーな集団なのかと言うと、そうではない。


 こっちはこっちでジロンド部隊の上昇に驚く。その上で、指示を出したり実戦に臨むドニエル・トス艦長やクリム・ニックが描かれるのだが。
 戦争と言うのは相手同士の状況が不明瞭な場合に相互に奇襲をかけあうものだ。相手の正確な情報を分かり合っていたら外交交渉で落としどころを相談できるのだが、戦闘行為をし合う場合は、相互に相手の実力を不明瞭に推測しながら殺し合わないといけない場合が多い。
 しかし、アニメーションとか映画では戦争ではどちらかの陣営にフォーカスして、自分のことは分かるが、相手のことは分からない、と描くことが多い。ストライクウィッチーズとかはいふりで自軍の日常を描きつつネウロイやウィルスや使徒や深海棲艦は謎と描くような。銀河英雄伝説とか対人戦闘小説でも天才の軍師が勝つときは相手の行動を読み切って分かって戦う。
 Gレコは全ての陣営がすべての陣営の力量や性質に対して分からないまま戦闘するし、相互に驚き合って滅茶苦茶な状況で殺し合うことになるので、視聴者はどっちの理解レベルに感情移入したり応援したりして良いのかわかりにくい。これがGレコの欠点であり特徴だ。実際の軍事行動でも「テロリストやゲリラは大国に対して無力で残酷で蛮族」という報道が白人社会でされるけど、その部族の占領地域ではそれなりに統治が行われている。そしてテロリストは白人社会を悪魔のように言う。日本人はワイドショーや2ちゃんねるレベルでも中国や朝鮮をおかしい国のように言うが、日本人もヨーロッパからは腹切り蛮族として恐れられてネタにされている。



 現実的には誰もが誰のこともよく分からないし見下しつつ恐れているのだ。アニメーションという媒体は現実を整理しているから実写よりも後世に残る、と富野由悠季監督自身が言っていると同時に、Gレコは現実みたいに戦争する軍隊の敵味方のどちらの視点も混乱して、相手のことがよく分からないうちに戦争して殺し合うし遺言もオルフェンズみたいに言わせてもらえないのでリアルは地獄だしもやもやする。僕みたいに子供の頃から富野アニメを見てるガノタ強化人間はこういうモヤモヤを味わいとして楽しめるが、リーンの翼以降の富野アニメ冬の時代のアニメファンのキッズたちはこういうわけわかんない感じが苦手かもなー。GATEや魔法科高校のお兄様みたいに悪役は悪そうなおじさんや狂人かマシーンで味方は美少女!という整理された安心感に飼いならされているのが今のアニメファンなんだよなあ。


 かといって、富野監督が分かりやすい悪役を作ってないのかって言うとそういうわけでもなく、オーバーマンキングゲイナーの敵はセクハラマッチョゴリラ、、腰巾着、サディスティック女教師、ボクサーになった子安武人、裏切者、オカマ、ニンジャ、ネトゲメンヘラ、シベリア鉄道総裁と個性的なメンバーがそろっています。一番悪かったのは主人公のサタンですけど。



 で、ベルリは夢中になって撮影しているので、乗っているフライスコップのパイロットからの「上空からアンノウン(エルフ・ブル)が来るぞ!」という警告を聞き逃していて、直後にミノフスキー粒子の散布を食らう。
 ベルリは「敵と戦うぞ!」という戦意は最初からなくて「海賊とキャピタル・アーミィが戦っている間にキャピタル・ガードのために情報収集撮影しよう。平和的だし善行だよね」といいことをやっているつもりで、索敵の初動が遅れるという凡ミスをやらかす。
 ミノフスキー粒子散布下での無線とレーダーが使えなくてモビルスーツのカメラだけで宇宙戦闘をするっていうガンダムの戦闘で、気を取られて索敵をミスるのは完全に死んでも文句を言えない行為。そんなダメダメなミステイクをするベルリがなんでミスったのかって言うと「褒められたいから良いことをしようと思った」という16歳っぽい感想。主人公の「いいことをしよう!」という気持ちがミステイクに通じるGレコ、本当に邪悪としか言いようがないのですが。これを子供に見せるとか本当にトミノの地獄なんですけど、現実の過失の大半は善意で舗装されている。



 それで、デレンセン大尉による上からのミノフスキー粒子散布に気づいた下のエフラグダベータイプを操縦しているジロンドが「デレンセン大尉が仕掛けたんだ!」と気づくし、助手席の相棒が「海賊もモビルスーツを出して」と言うんだけど、キレて暴走するとか「はやい!はやいよスレッガーさん!」というのではなく、「ベルリ救出作戦の手順は守る」。

 個人的な感情とかではなく、決まった射程距離に達したらきちんとミサイルを撃つ、冷静でまともな軍人の対応。でも、聖地のキャピタル・タワーの周辺で弾道飛行をしている宇宙船に対して上下の両面作戦で牽制のミサイルを撃つ、というすごく難しい作戦行動にキャピタル・アーミィのジロンド部隊は慣れてなくて、ダベーの大気圏限界高度からでもミサイルはメガファウナにはあまり脅威にならず、撃ち落とされる。
 (話は外れるけどGレコのキャラクターデザインブックではジロンドは富野由悠季監督直筆のキャラクター原案で薔薇を持った紳士の騎士として描かれたし名前も歴史由来の割に6話にしか出てこない…。Gレコは企画に7年もかけて放送後3年経っても劇場版を作り続けているという外道企画なのでキャラ原案とか没設定の変遷が膨大なのです)


 この「まともな判断ができる軍人だけど、そもそも宇宙戦争の経験が誰にもないので、判断を間違わない冷静な軍人でもデータがないのでまともに戦争できない」という現象がGレコで頻発している。これもわかりにくい。大体のロボットアニメとか戦闘アニメでは特訓や練習をして努力をして間違わなかったら成功するパターンが多い。というか、因果関係としてそっちの方が分かりやすい。
 でも、まあ、実際の戦争、特に戦車や核爆弾などの新兵器が開発された第二次世界大戦や大国とゲリラのベトナム戦争やインターネットやドローンの新作が投入されまくっている中東とか、現代戦においての実戦は「データがないけどとりあえずやってみる」スタンスで殺し合いをせにゃならん。そういう点ではGレコはリアルだし地獄。
 なので、なのでシン・ゴジラ自衛隊が怪獣相手に「訓練通りにやればいい」「設計図通りに薬を作ればいい」って言ってるのを見て、僕は本当に人生をなめてるのかって思いました。いや、まあ、そういう賭けに出て勝って安心感を得るのがシン・ゴジラのエンターテインメント性ではあるのだが。訓練では怪獣なんかいなかったんですよ!バカ!撃たなきゃ死ぬぞ!

nuryouguda.hatenablog.com

  • なぜGレコが売れなかったのか

大衆に媚びなかったからです。
売れた作品は媚びています。以上。

togetter.com





www.huffingtonpost.jp
東京の男の子になるコミカルな話ですが、最終的には東京の立花瀧(たちばな・たき)が「もしも自分が、消えてしまったあの町に住んでいたら…」と考える物語に変わります。僕たちが2011年以降にずっと想像していた「もしも私があなただったら…」という想像力が、そのまま映画の中にあります。それが無意識のうちに、たくさんの日本人の観客にリンクしたのかもしれない、と思っています。

  • 最終的に、三葉は災害から救われます。新海監督は「災害からの救済」を描きたかったのでしょうか?


そうではありません。しかし、観客を「幸せな気持ちにしたい」という思いは、単純にありました。「映画館を幸せな気持ちで出てもらえる映画にしよう」と。ただ、『君の名は。』という物語で一番重要なのは、エンディング以前のところまで。瀧は三葉を救うことができた。「もしも私があなただったら」と考える過程を経て、「私はあなたを救った」という場所まで辿り着けた。そこで、災害をめぐる物語としては完結しています。


2011年以前、僕たちは何となく「日本社会は、このまま続いていく」と思っていました。もちろん、人口が減って経済規模も縮小していくなど、少しずつ社会が衰退していく予感はあったとは思います。でも、さほど起伏のない「変わらない日常」がこの先ずっと続くんだという感覚がありました。

そういう世界で生きるためには、変わらない日常から意味を引き出すことが必要でした。コンビニでもいいし、遅れてしまう電車でもいい。些細なところから、生きていくために必要な慈しみや、豊かな意味を引き出していくことが重要だったように思います。

そういった空気感の中では「初恋の相手を再び獲得して幸せになった」という起伏のある物語よりは「初恋の相手を失っても生きていく」という、喪失から意味を引き出す生き様を、映画で描くことが必要だと僕は感じていました。でも2011年以降、その前提が崩れてしまったように思います。

町は、いつまでも町のままではない。いつかは無くなってしまう。劇中で瀧が入社面接で言った「東京だって、いつ消えてしまうか分からない」という台詞の通りです。そういう感覚の中で僕たちは生きるようになった。そこで描く物語は、今回のように決して諦めずに走っていき、最後に生を獲得する物語にしなければいけない気がしたんです。やっぱり2011年以前とは、みんなが求めるものが変わってきたような気がします。



映画では「運命の相手と出会った」という描き方をしています。しかし、僕は今回の作品中で「なぜ三葉が入れ替わったのが瀧だったのか」という理由は、敢えて描かないようしました。三葉は誰かと夢の中で入れ替わる必要がありました。災害から人々を救うために、あるいは自分が助かるためにそうする必要があった。ただ、その相手が瀧である必然性はない方がいいと思ったんです。

――なぜですか?

「瀧でなければいけない」という話にすると、それこそ決定論になってしまいます。観客にとって、自分たちと入れ替え不可能な物語になると思ったんです。脚本会議でも「なぜ瀧なのか?」という声は出ましたが、そこに理由があっては逆に駄目だと思いました。瀧と三葉の出会いに必然性を求めると、物語の可能性を狭めてしまう。僕たちの人生の可能性を狭める話になる気がしたんです。


――新海監督は、今回の映画で観客にどんなメッセージを届けたいと思いましたか?

107分間の映画という体験を「とにかく楽しんでほしい」と、最初から思っていました。せっかく映画なんだから、映像もきれいで、音楽にもドキドキして、展開も予想できなくて、涙も流して、笑い声をあげて、「ああこの107分間良かった」と思ってほしい。「それがエンターテインメントだ」と、はっきり目標にしていました。

そこまで強い気持ちで「エンターテインメントを作ろう」と思ったのは、この作品が最初でした。まずは楽しんでもらえれば、それで十分幸せだし、自分の役割をある程度果たせたとは思います。その上で感じてほしいことがあるとしたら、やっぱり「もしも私があなただったら」という想像力ですよね。そういう想像力を刺激するような作品であればいいなと思いました。


――震災以降、日本人みんなが感じているそういった思いと、どこか通じるところがあればということですね。

そうですね。必ずしも、震災までリンクしなくてもいいと思うんです。「自分が誰かだったら」というのは、全ての思いやりや、共感のベースだと思うんですよね。「これはとても辛い」と思って、出会ったこともない人のために寄付をする。会ったことのない人の境遇に、涙を流すこともできる。

それは、エンターテインメントを楽しむうえでの基本的な素養でもあるんです。物語を通じて、人は共感することを学んでいくんだと思います。そこで培われた共感は、現実世界でもきちんと自分の人生を助けてくれる。「もしも自分が自分ではない誰かだったら」という想像力に作用するような物語を作りたいと思っていました。人間の最も大事な能力の一つが、共感であり他者への想像力ですよね。

「世界が少しでもより良くなればいい」という気持ちは、誰の中にもあります。僕も自分の仕事を通じて世界がちょっとでも良くなればいいって気持ちはあるんです。

今回の『君の名は。』を作るときも、この映画によって「もし自分が自分じゃなかったら……」と考えるきっかけになればという思いがありました。たとえば僕は今回『君の名は。』が幸運にもヒットしましたが、『君の名は。』がヒットしなかった自分だって、別の世界にいると思うんですよ。今の自分じゃない自分っていうのは、やっぱりどこかにいます。

君の名は。』に引きつけて言えば、三葉がいなくなってしまった世界だってあると思うんですよね。

――もちろんいなくなってしまった世界もあるだろうし、あの2人が会えない世界も……。

それもあるでしょうね。取りこぼしてしまった可能性は常にあって、そこに思いを馳せることが、世界を少しでも良くすることだと思っています。


ばか!ふざけんな!


 シン・ゴジラ君の名は。も「自分たちが災害に見舞われたら」という東日本大震災以降の大衆の恐怖を、「自衛隊や東京のイケメンが何とかしてくれるし助かる!」という安心感にすり替えているだけじゃねえか。そういう自分が助かりたい欲望だろ!そりゃあ、そうだろうさ!

取りこぼしてしまった可能性は常にあって、そこに思いを馳せることが、世界を少しでも良くすることだと思っています。

 とかきれいごとを言っても、結局は自分が助かりたいだけだ。死人に口なしだしな!助かってハッピーエンドになる映画で現実の埋め合わせをしたい大衆にヒットして、それでこの地獄のような地球が改善するわけがないだろ!アニメでさ!
 他者に対する共感能力だと?そんなの傲慢な思い上がりだ!運よく助かった人やイケメンや恋人たちや就職活動に成功したリア充とかをに感情移入して、共感のいいところ取りをして気持ちよくなりたいだけじゃない。本当に殺される人の死の瞬間とか、嫌なことへの共感や想像は避けて他国人を差別して他人の悪口を言って現実を済ませた気になっているだらしない生き物がお前ら愚民なんだよ!
 川崎国のラブライバーに殺された中学生の死の瞬間や、テロリストで生計を立てる人、インターネットでいくらでも見れるのにラインでわざわざ小学生に裸の画像を送ってもらわないと満足できないで逮捕されたロリコンやチェーンソーを持ったユーチューバーの気持ちを考えたことはあるのか?
 なので、地獄を描いて、助からなかった人たちを描いているGレコはエンターテインメントの大衆の欲望充足としては気持ちよくなれず、大ヒットしなかった。僕は母親が僕の自宅の僕の部屋の前で首を吊ったので毎日、母親が死んだ所をまたいで、イスラム教徒の礼拝よりも頻繁に母親が死んだときの気持ちを考えるという地獄の行を積んでいる。そして、自分が母親を見捨てたということを常に認識しているし、「運よく助かった人」の生存バイアスやそういう自分だけは生き残りたいという愚民どもには嫌悪感を持っている。お前も!お前も!お前も!俺のために死ね!!

HG 1/144 ガンダムG-セルフ(リフレクターパック装備型)

 一騎打ちです。
 デレンセンはわざわざ自分で無線が使えなくなるミノフスキー粒子を撒いておいて「海賊船から出た奴は1機だ!」とG-セルフに狙いをつけます。下のジロンドは「海賊はMSを出してきて」ってグリモアモンテーロにミサイルを撃っている。
 なので、
「ベルリがアメリア軍の宇宙艦隊をスパイするために勝手にメガファウナ部隊から上空に突出して」
「デレンセンがジロンド部隊の観測報告を待たずにミノフスキー粒子を撒いて無線を封鎖して」
「ジロンド部隊が下からメガファウナに攻撃するけどデレンセンに連絡ができず」
「アンダーナットから出撃したデレンセンのエルフ・ブルのカメラにはG-セルフ1機しか認識できない」
 という複数の多重事故と宇宙空間のべらぼうな広さとタイミングの流動的な悪さが師弟の不幸な一騎打ちの発生フラグです。分かりにくい。そもそも、ミノフスキー粒子散布下での戦闘の作法はガンダムの中でもほぼ富野ガンダムでしか描かれていないし、一般的な視聴者にミノフスキー環境での戦闘の勘を常識として要求するのは無理がある。でも、富野監督はそれで35年ガンダムを作り続けてきたので、もう、ミノフスキー戦闘が富野監督の脳内設定では常識になっている。ここら辺の感覚の違いがなーーーー!
 ロボットに乗って宇宙で戦闘と言うこと自体がまず一般人には感覚としても知識としてもよく分からないのに、その上でミノフスキー粒子と言う独自設定で戦闘の作法を作ってくるので、それは分かりにくい。ベルリの演技の練習のためにジェットコースターに乗りまくって重力の体感を研究した石井マークさんは勉強家で偉い。
 デレンセンは「ベルリは優等生だし人質だから、まさかあんなに派手なリフレクターパックに改造されて、一機だけ突出しているG-セルフに乗ってるわけがない」と思う。これがまともな大人の想定。これは常識的には正しい。しかし、ベルリは想定外の天才だしG-セルフスーパーロボットなので、デレンセンに1機だけ出てきたと思われるくらい突出する。
 たぶん、ここら辺は富野監督の小説版Gレコが出ていたら補足されていたと思うんだけど、

 色が変わってこの角度のG-セルフは映像の原則の演出的にも、デレンセンからは鬼に見える。

 ここで、デレンセンにとってこのG-セルフの認識は「教え子を誘拐した上に戦友を殺した悪いテロリストが運転している機械」になる。「海賊の物になり下がった」というのは、単にG-セルフが海賊部隊で運用されている説明台詞と言うだけでなく、「この時点でデレンセンはベルリの生存を絶望視した」という認識になる。デレンセンはまともな大人だし、この直前までは「ベルリ救出作戦」で動いていたけど、海賊に改造された上にものすごい高度まで突出して自在に動かされているG-セルフを目視した瞬間に、デレンセンは「こんなに誰にも動かせなかったはずのG-セルフが海賊に高度に運用されているのなら、キャピタルガードのベルリは酷い拷問を受けて情報を吐かされた上に死んでいるのではないか?」くらいのことは連想して思ってもおかしくはない。

 4話でG-セルフを「もともとオレが見つけたものなんだぞ!」と言ってしまうくらい、デレンセンにも男としてメカに対しての所有本能がある。
 だから、デレンセンが怒ってベルリ救出作戦を放棄したように豹変するのは、慣れない実戦とか部下が死んだからとかG-セルフを肉眼で見て感情的に気が変わった、と言うのももちろんあるけど、まともな大人として教え子をテロリストに誘拐されて(殺されたと誤認して)、ベルリを守りたい!キャピタルを守りたい!というまともな正しい感情や倫理観があるからこそ、「海賊絶対許さない」になる。
 ここで、「教え子のベルリはもう殺されたということか!」とか一言説明台詞を挟めばまだわかりやすかったと思うのだが、無言でブースター射出。


 このベルリの「体当たりをやろうっての?」というリアクションがまた富野信者以外にはわかりにくい。富野監督は小説家デビュー作のリーンの翼で桜花特攻隊員の迫水真二郎を主人公にするくらい自爆大好き人間です。戦闘機の体当たりは1941年生まれの富野監督の世代にとってはカミカゼ・アタック自爆攻撃として表現されているものなのです。アニメのロボットの体当たりと戦闘機の体当たりは違うんです。富野監督は宮崎駿監督にライバル心があるけど、戦闘機映画と言う一点で風立ちぬを絶賛するくらい特攻大好き。
 でも、富野信者は「あー、また富野が自爆攻撃をやったか」と分かるんだけど、インディペンデンス・デイも20年以上前になってしまった現代のアニメを見るキッズは戦闘機の体当たりは自殺という連想は出来にくいのでは?


 しかも、ここで富野信者にもトリックがかけられているのだが、視聴者はカメラが斜めで見えてるから「エルフ・ブルとブースターが分離して、ブースターをG-セルフにぶつけた」と見えるけど、直線距離でエルフ・ブルのブースターを受けるベルリからは「分かれた」とは見えない。視聴者は「ブースターをぶつけただけ」って思うけど、ベルリは「えーっ!会敵した途端に、いきなり体当たり自爆かよ!こいつやべえな!」と見える。
 ジョジョの奇妙な冒険ですらアニメで数秒間の時が止まったり巻き戻るスタンド攻撃を台詞で説明してくれるけど、Gレコはリアルタイムアニメなので説明はない。
 視聴者と主人公の視点のカメラの角度でのリアクションの違いを演出するとか、なんでこんな邪悪なコンテを書けるのかちょっと信者の俺でもよく分からない。邪悪なコンテだということは分かるけど、なんでこんな邪悪なものを子供アニメとして提出する気持ちになったのかが分からない。70代の考えていることはよく分からん!





 反射的にベルリはブースターを正確に狙撃して、推進剤のすごい爆発にG-セルフが巻き込まれて怖い。同時に、ベルリの視点では「ブースターを迎撃しただけ」ではなく、「いきなり体当たりをかけてきた人を反射的に殺してしまいました。相手は自爆する爆弾を持っていました」と思ってしまう。何しろ、ベルリはマスクのエルフ・ブルックを前回見ているけど変形してブースターが分離できるということは知らない。5話11分40秒でエルフ・ブルックはブースターを開戦前に捨てているので、ベルリはこの時点ではエルフ・ブルのブースターの存在を知らない。ここでガンプラでエルフの性能を分かったつもりになってるファンもトリックをかけられるのだが、なんで富野監督はこんなに全方位にトリックを張りたいのかが、ちょっとよく分からない。一言ベルリに「陽動か!」って説明台詞を言わせるだけでいいのに、つべこべつべこべと!



 ベルリは「はあああああっ!」で、爆発に耐えるが、カット尻の

 「来る!」では、視点を爆発から角度を変えてきたエルフ・ブルに映して、「おいおい、先手で自爆攻撃をさせておいて、第二波のモビルスーツがその後ろからくるのか、キャピタル・アーミィはマジで卑怯で邪悪だなっ!」という驚きに変わっていて、同じカットで演じ分ける石井マークさんは本当に偉いと思う。さすがにヴァンガードGがきっかけで結婚する男だ。しかし、ガンダムはカードファイトヴァンガードと違ってターン性ではなくリアルタイムで反応と入力の速度が速い奴が勝つ格ゲー(乱入あり)なので全く説明も息継ぎもなく戦闘をすることになる。
 (余談だが私が中学生の頃のバーチャファイターとかの格闘ゲームブームのころ、ウメハラが出る以前、「すごい上手い格ゲーマー同士の対戦だと、逆にターン性ゲームみたいに相手の攻撃と自分のガードを高速で交互に打ち合う」と言う解説を聞いたんだけど、最近の格ゲーマー大会実況は見てないんだけど、今もそうなの?)


 ベルリから見たら「いきなり自爆攻撃をかけられた」「その後ろから悪い奴が攻めてきた」「アーミィ絶対許さない」と見える。
 デレンセンから見たら「救おうとした教え子はもう殺された」「海賊絶対許さない」と見える。
 二人とも「キャピタル・ガード」の「首府後衛」の任務、「正しい世界を守りたい!」というキラ・ヤマトみたいな気持ちの規範意識を倫理観として持っているのだが、同時に互いを「守るべきものを侵害する邪悪な物」と誤認してしまう。めったに怒らないベルリとデレンセンの二人は正義の防衛意識が強いからこそ、守るべきものを犯す悪い奴は絶対許さないと思って戦闘モードになってしまい、ミノフスキー粒子のせいもあって話し合いができずに殺し合う気分になる。ベルリは人を殺す気分が想像もできない少年だったが、誤認なのだがブースターを撃ち落とした段階で「アーミィの兵士を殺してしまった」と感じて神経が切れた。なので、ベルリのG-セルフエルフ・ブルに対して執拗に一騎打ちをしたのかと言うと、ベルリは人を殺したくないんじゃなくて殺してしまったと思い込んでしまったから。一人殺したらもう一人殺しても変わらないと思うというか。逃げる隙を与えなかったデレンセンの強さとリフレクターの性能のせいでもある。

  • 感情移入を拒否する視点移動

 宮崎駿タイプと高畑勲タイプの議論もあるし、感情移入しやすいアニメとしにくいアニメがある。落語は共感を生む文化だと昭和元禄落語心中でもこないだ言ってた。私もちょいと小説を書くが、視点の置き方はマジで大事。
 前述のオルフェンズやイゼッタのdisでも「敵を醜く書いたり、敵の顔を描かないことで戦闘シーンの罪悪感を減らして視点を主人公に置く」という手法は、そんなに珍しいものではない。私は大学受験レベルの全国統一学力試験の国語の採点の仕事をしていたこともあるが、「文脈読解」はほぼ「プラスとマイナス」「損得、利害」の読み取り能力です。ニコマコス倫理学にもあるように、何を善として何を悪とするのかと言うのが政治であり文脈です。登場人物に感情移入したり気持ちを想像するというよりも先に、まず「誰が死んだら得で誰が死んだら損か」という文脈形成は200体以下の群れで狩りをしてきた動物のホモ・サピエンスの本能としても大事。どっちを応援してどっちに味方するのか、大河ドラマ真田丸関ヶ原の戦いや大阪の陣でも非常に重要視されたものだ。
 動物の本能は損得、敵味方の二元論で世界を把握して利益を増やし損害を避けて他人に擦り付けるのが生き延びる手段として本能的にあるわけなのですが。



 混戦になってメガファウナを攻撃するカットシー

 流れ弾がG-セルフの足代わりになっていたフライスコップに当たる

 その中に隠れていたノレドとラライヤが衝撃を受ける



 メガファウナにミサイル攻撃があって、ステアが急加速で回避運動を取る



 それをいい声で褒める艦長

 メガファウナの無事に安堵するクリム

 メガファウナが無事だったのでデレンセンと戦っているベルリを援護しに乱入するクリム。


 誰を応援していいのかわからない!
 キャピタルのカットシーは顔が見えないし、美少女のノレドや美女のステアを困らせるから悪役っぽいけど、キャピタル・タワーに軍事行動を仕掛けているのは海賊の方だしキャピタル・アーミィーの末端のジロンド部隊のパイロットは「守りたい」という気持ちで戦っている。そして、メガファウナが助かったら艦長に褒められるから一見いいことのように見えるが、メガファウナが無事だったのでクリムがデレンセンとベルリの戦いに乱入して事態を混乱させる。なので、何が正しいのかわからない!
 大体のアニメはかわいい女の子やかっこいい奴を応援して、その勝利を祈ったり祝ったりすれば楽しい。
 でも、クリム・ニックくんはイケメンだし海賊部隊も案外いいやつっぽいのに、彼らが生き残ったらデレンセンが死にます。戦争を娯楽として楽しみたいのに、なんで嫌な気持ちにならないといけないんだ!



 それが戦争なのです。みんな嫌な気分になるんです。


  • 炸裂!映像の原則


 デレンセンの怒りがすごい。また、デレンセンがここまで吠えるのはG-セルフとの戦いが長引いているからなのだが。

 メガファウナの描写をカットインさせたうえで、エルフ・ブルが戦闘機モードから人型に2回目以降の変形をするカットを挟むことで一騎打ちの戦闘が一発二発ではなく、時間経過していると見せる演出がニクイ!テレビ版なのにすでに劇場版ガンダム並みの密度。この原液の濃さが富野アニメなんだよなあ!(いや、松尾アニメとか他にも濃いアニメはあると思うし、僕がここまで細かく見ているのは富野信者としての贔屓目だと思うので、若いアニメファンはもっと下の世代のアニメ監督の演出を細かく語ってくれ!)
 このスピード感は本当にアニメならではだと思う。実写の真田丸はとてもよかったけど真田幸村徳川家康銃口を向ける最終回のハイライトで止まった馬がモソモソ動いてるのが本当に萎えた。馬上筒ならもっと一瞬で撃ち合ってほしいんだけど、やっぱり三谷幸喜は最後の最後で脚本家だから台詞先行になって映像としての殺陣のスピード感が消えてる。戦闘描写は富野監督はNHK大河ドラマの殺陣師にも劣らないんだ!富野アニメは一瞬で数百キロの宇宙空間で撃ち合うし、亜空間にもイデオンガンは届く!



 そんな激しい戦闘が継続しているので、視聴者は何が正しいのか分からなくなる。応援すべき対象も見えにくいし、初見ではベルリがブースターを自爆だと誤認して戦闘モードに切れたり、デレンセンがおそらくベルリ救出をあきらめてG-セルフ殲滅に行動目的を切り替えたのもわかりにくい。
 いや、僕のこの読解も正しいのか保証はない個人の感想で絵コンテの指示を読んだわけではない。(本当になんで富野コンテは一般発売が無いんでしょうね。絵が下手だからか?まあ、楽屋裏だから仕方がないという面はある。設定資料用に絵を描き直す人もいるし)


 そこで、映像の原則です。

映像の原則 改訂版 (キネマ旬報ムック)

映像の原則 改訂版 (キネマ旬報ムック)



https://highlandview.blog17.fc2.com/blog-entry-200.htmlhighlandview.blog17.fc2.com
 このブログではおなじみになっているいつものHIGHLAND VIEWさんの図。


 これに沿って上記の6話の戦闘の画像を見たら法則性が見えてこないか?俺には見える!私は精神障碍者だから私にも図形に関連付けが見えるぞ!私のIQは140あります。



















 若干時系列をシャッフルして並べ直したものだが、お気づきいただけただろうか?
 これは逆に男性のガンダムファンよりも腐女子の方が感じやすいかもしれない。そう、受け攻めです。Gレコは意外と女性人気が高い。それはデザイン性の高さかもしれないのだが。まあ、鉄血も腐女子人気が高いので、そこはそれなんですが。



カニカルな攻撃、爆撃、ビームの攻め、自動的な破壊は画面向かって右の上手から、
それを受ける人間や意思のある者は左側の下手から、だ!

『黄金長方形』という形がある 聞いた事があるか?
それは およそ9対16の比になっている「長方形」の事を指し・・・
正確には1:1.618の黄金率の事をいう。
この「長方形」は古代からこの世で最も美しい形の
基本の『比率』とされている
エジプト・ギザの『ピラミッド』『ネフェルティティ胸像』
ギリシアの『パルテノン神殿』『ミロのビーナス
ダ・ヴィンチの『モナリザ』・・・・・・・・・・・・
この世の建築・美術の傑作群には計算なのか?
あるいは偶然なのか?
この「黄金の長方形」の比率が形の中に隠されている。
ツェペリ家の先祖たちは名芸術家たちの感性の結果だと考えている。
それは完璧の比率・・・・・・・・・・・・
これらの芸術家たちはその「長方形」を本能で知っている・・・・・・
だから「美の遺産」となって万人の記憶に刻み込まれるのだ・・・・・・


「黄金長方形」には次の特徴がある・・・
正方形を一つこの中に作ってみる
残った右の この『小さい長方形』もまた・・・・・・
およそ9対16の黄金長方形となる
これにまた正方形を作ってみる この残りもまた黄金長方形
さらにまた作る さらにまた・・・ さらにまた・・・
そしてこの中心点を連続で結んでいくと
無限に続く「うず巻き」が描かれる これが『黄金の回転』だ

STEEL BALL RUN vol.11―ジョジョの奇妙な冒険Part7 (11) (ジャンプコミックス)
おまえに全ては説明したッ!LESSON4だッ!
『敬意を払え』ッ!

富野台詞と言うのがある 聞いたことがあるか?
それは富野監督のアニメでは少々訳のわからない例えや
特異な言葉づかいの台詞だったりする・・・
この世の演劇・アニメの傑作群には計算なのか?
あるいは偶然なのか?
この「黄金の長方形」の比率が絵コンテの中に隠されている。
映像の原則の弟子たちは名芸術家たちの感性の結果だと考えている。
それは完璧の比率・・・・・・・・・・・・
これらの芸術家たちはその「長方形」を本能で知っている・・・・・・
だから「美の遺産」となって万人の記憶に刻み込まれるのだ・・・・・・
nuryouguda.hatenablog.com

 と、Gレコの第1話の長方形と回転の演出をジョジョの奇妙な冒険スティール・ボール・ランの回転の初級編を引用して述べたわけだが…。

dic.pixiv.net
ネタバレ

  • レッキング・ボール(壊れゆく鉄球)


ツェペリ一族とは異なる鉄球の技術で、スタンドではない。


これに直撃すればもちろん重症は免れないが、体にかすっただけでもその衝撃波によって十数秒間「左半身失調」(全ての左半分が消えていると脳が認識するため、何かに触れていても認識できない)状態に陥る。

 富野流の映像の原則において「右上」は最強で最善のポジション。なので、富野アニメにおいて如何に「右上」に陣を取るのかと言う兵法が描かれる。

tominotoka.blog.so-net.ne.jp
 そこで、映画の教科書ことエイゼンシュテインの『戦艦ポチョムキン』から、例のオデッサの階段シーンで検証することにしました。
 この映画なら、「なんでこの映画にしたんだよ」って文句も出ないだろうし、何よりオデッサってガンダムファンにも馴染みがあるしな。
 『映像の原則』の中でも紹介されているし。

 ではまず、『映像の原則』から上手・下手の特徴をまとめておきましょう。

下手(観客から見て左側)
 弱い人(けど、いつかは頑張る人かも)    
 正義の人物                                                 
 ヤバい・まずい・怖い
 悲しい・苦しいなどマイナス感情を誘発                
 弱者、虐げられているもの            
 逆行する印象があるので、そのものが強い

上手(観客から見て右側)
 強い人・大きなもの
 右から来る悪漢
 正義の人物が勝って右手に立つと本当に強い人に。
 (観客が)寛容に存在を認められる
 当たり前にくるもの・舞い降りるもの

 原則とは、共通に適用される基本的な決まりごとのこと。音楽の五線譜と同じように、映像制作においても流れのルールが存在する。たとえば人物の進行方向ひとつでも、観客の心理的効果に大きく作用するという。心臓に近い下手(左)は、防御しなければならない側で、弱い側。したがって、左から右に移動する場合は、弱者の上昇を示す"強い動き"となる。反対に、上手(右)は強者のポジションで、右からの移動は、自然な、受け容れやすい動きという印象を受ける。「ガンダム」第1話でも、ザクは左から、ガンダムは右から向かい合っていて、この原則に則った構図となっていることが分かる。
news.livedoor.com


 しかし、右上が最強だからと言って、右上からの攻撃を描いたらバトルが終わる、と思うのは素人。応用編では、右上にあるものは「自然で当たり前に動く当たり前の物」という性質を利用して、混戦で何度も撃たれる攻撃を右上に配置することでバトルが激しくても視聴者のストレスを減らす効果がある。右上は視聴者の心臓から遠いので破壊描写が描かれていても視聴者にはストレスが少ない。逆に、下手にいる登場人物は心臓のある左半身に攻撃を受けるので(ホワイトベースの左舷が狙われやすいのと同じく)ダメージを受ける。


 「右上からの攻撃は自動攻撃、意思の無い破壊」というジョジョのパワーのある自動型スタンドにも似た、ウェカピポの「左半身失調」にも似た、「ルール」で映像の構図を描くことで!感情移入や応援の対象を一つの正義や人物に絞ることなく!「攻撃そのものの概念」を「自動的な脅威」として、「攻撃を受けたくない感情」を「人間性」として描くことで!混戦の中にも「自然」と「運命」を見つけ出せるんだぜ!ジョニィ!!!!!
 Gレコは戦っているキャラクターのどれに感情移入して応援すればいいのか分かりにくいように作っていると説明したが、映像としては「戦争の脅威にさらされる人」全員に感情移入して「殺したり殺されるのは怖いな」と見せる作りになっているのだ。だから、戦争娯楽としては楽しい印象や気持ちよい判りやすさはない。だけど、ビームや爆発の角度やカメラワークがすべての攻撃において考え抜かれているので、その芸能としての美しさはある。


 正直、ウェカピポの微妙な能力はすごく微妙なので「左だけ麻痺させるとかなんだよ…」って思ってたんだけど、馬に乗って右手に槍、左手に盾を持った騎士の戦い方とか岸部露伴の右手のペンとか、そういう達人の域に達した右と左の身体的な違いが荒木飛呂彦にはある。そして、富野由悠季にもあるようだ。もちろん萬画家とアニメ演出家の違いはある。しかし、ジョジョガンダムと言う優れた芸術作品に共通する要素を見出すと絶対殺すマンになれる気がします!
「『本物』を探せ… 自分の眼で…
『本物』を見なければ回転しないッ!
ツェペリ家の掟は!それが言いたいのでは…」
『深い観察から…芸術家たちが学んだものと…同じスケールで……』
「ジャイロはこれらを見て鉄球を回転させていたのかッ!」
「うおおおー――!?何だ……この回転は……」
DXコレクション ジョジョフィギュアvol.4 ジョニィ・ジョースター 【ジョジョの奇妙な冒険 第7部 スティール・ボール・ラン】
 ジョジョの奇妙な冒険第7部は非常に映像表現に批評的で映画好きの荒木飛呂彦らしさがあるので、映像化の時はどうなるんでしょうねえ~~~。


 アマゾン欲しいものリストから荒木飛呂彦先生も好きなヒッチコックの映画術を送ってくださった@nmrさん、ありがとうございます。今後の考察に役立てたい。
定本 映画術 ヒッチコック・トリュフォー


 富野流の映像の原則の上手下手、心臓の位置による映像のスピード感や脅威判定の印象については、僕も実は眉唾だと思っていて、左右でそんなに印象が変わるのか?科学的な照明がされてるの?利き腕も右腕以外の人もいるし。と思う。
 が、とにかく富野流の映像の原則では彼なりのルールで映像が整理され意味付けされているので、素人の取ったYouTubeみたいなドキュメンタリー映像と比べると圧倒的に情報が整理されている。今回のGレコのように攻撃と被害の構図を演出として整理することで「殺してもいい敵」とかを美醜の見た目で描かず、言い訳がましい説明台詞に時間を使わず、映像そのものの動きで「戦うことのしんどさ」みたいな概念を伝える。そういう非言語的、非記号的な高次元の芸術として絵コンテが切られているのだ。






京田知己@kyoda_contact

ミサイルやホーミングレーザーがギュンギュン飛んでりゃサーカスという訳じゃないんですよ。。。
2014/11/01 09:44:10


京田知己@kyoda_contact

投網みたいにビームワイヤーを放り投げ、その根本をモーターでコントロールしているだけなのだが、ビームワイヤー自身が近すぎるために周波数が干渉しあってしまい、あたかもイソギンチャクのように揺れてしまう……
2014/11/01 15:50:06


京田知己@kyoda_contact

……その揺れが根本によるコントロールと偶然にシンクロして自動追尾しているように見えるのだ。なんて事を適当にでっち上げてみたりしました。もちろんオフィシャルじゃないのですよ。
2014/11/01 15:51:52

 メカニカルな設定の話じゃないんだよ!
 劇を演出するという意味を考えてください!

 デレンセンの「殺す!」という意志が下手から発生して「回転」して

絶対殺すマンのタスクact4の「自動的な破壊エネルギー」となって上手から飛来して、

 ベルリが下手でそれを受けるという構図が劇、感情のやり取りとして芸術作品として絶対的に必要なんです!それを分かれよ!メカデザイナー


 ロボットや能力の性能とかそういう話じゃなくて映画として人間ドラマを、人の意志とそれを破壊する事象を描いているんです!意志と事象!原因と結果!発起と受容の応酬!攻めと受け!この意味が分からない人は映像を作るセンスはない!
 (僕はカップリングはあんまり固定しないし、メンズなので腐女子みたいに受けと攻めを決めないと安心しない気持ちよりも戦って決闘で勝った強い方が攻めたらいいと思っている気持ちがある。ただ、日常生活で常に決闘をしていると疲れるので、社会生活は受け身で行い、攻撃は自動操作の地雷で行う。シアーハートアタック)(このブログで文字を描き込むことで自分に制限を食らいながら設定を作っていくのはヘブンズドアーっぽさもある)



 あと、ジョジョのスタンドと本体の分離にも似てるんだけど、「右上の攻撃」をビームとかモビルスーツにやらせて、「左下の反応」を人間がやるというロボットアニメならではの役割分担も、非常に特殊なジャンルの演出だけどうまく使うとここまで情報量を上げることができる。(まあ、独特の読み取りにくさはあるんだけど、スタンド使いになるとスタンドが見えるようになる。しかし私もニュータイプのはずだ)

  • 回転する意思と長方形



 で、ベルリは戦いながら回転し、「キャピタル・アーミィーがあんなものを建造していたなんて」とエルフ・ブルを悪だと下手側から思い悩みながら、真正面アップ(これは映像的に不自然で同時に威力の強い構図)で、「母さんは!」と母親に善悪の判断を委ねつつ、一瞬だけ「右上」に立ってビームライフルを撃ってデレンセンもそれを受けて

 「長方形」を「長方形」が切り裂く!黄金長方形!


 そしてG-セルフは発動した。

 「意思のある左下は人間」というここまでのルールをあえて破ることで、「必殺感」を出す。

 下手からの逆転の意志の主人公っぽいエキサイティング!恩師を超える!



 そして、前述のとおり、「体当たり」は「自爆攻撃」のメタファーなのですが、その要素をリフレインします。だから、クリム・ニックは驚愕するのだが。

 G-セルフは物語の後半で判明するけど、レイハントン家の親が作った「こども絶対守るロボ」なので、体当たりで自爆するという状況になると無敵発動モードになる。戦闘機と違ってロボットは体当たりをしても自爆しないという謎ルールがZガンダムの頃からガンダムにはある…。G-セルフフォトン装甲は無敵だし。




 で、デレンセンがG-セルフを目で追いながら振り返ることで右上の強者から左下の敗者に構図が相転移します。



 ここまで「受けは左」というルールでやっていたがそれも破り、「右上で、しかも背中で相手の意志の乗ったビームを無敵バリアで受け」、回転しながらエネルギーにする!これは特別な感じがしますよね!自動的に右上から攻撃があるリズムに慣れていた時に、逆の動きになる。この変化に対応できるか?


 ベルリ本人も対応できてなくて、自動的なはずのマシーンの意志が左下で光る。これは異常!G-セルフにイデが発動したようにも見える。




キング・クリムゾン!オープニングのラストカットをすっ飛ばした!エルフ・ブルは既に胴体を破壊されている。(Gのレコンギスタはナレーションがベルリなので、回想劇とも言えるかもしれない。そういうわけで、ベルリがどうしても思い出したくないし語りたくないデレンセンへの攻撃は描かれないのかもしれない。映像の原則としても、右下に逃げるデレンセンのエルフ・ブルを左上から追い詰めてシールドで殴るG-セルフは暴力的すぎるのでアニメーターの画像が上がった段階で富野監督がやり過ぎと考えて欠番にしたのかもしれない。)
 また、シールドで触って接触回線と言うのも、4話のデレンセンのカットシーG-セルフにしたことの反復である。接触回線の会話は暴力によって遮断される。


nuryouguda.hatenablog.com

ゴールド・エクスペリエンス・レクイエム!オープニングでこの後6回か7回デレンセンは殺される。



ゲイ・ボルグ!敵の心臓を貫くという結果が先に決定しているので、デレンセンの存在に気付いたベルリ本人の意思とは関係なく、正確にG-セルフエルフ・ブルのコックピットを正確に焼く。



 焼かれながら昇天するデレンセン。この死は運命でありデレンセンはそれを自動的に受け入れているようにも見える。デレンセンは死んだのでもう悩んだり怒ったりはしない。(Gレコはガンダムには珍しく幽霊や使者との対話がない)




 が、「キャピタル・アーミィーは悪だ!」と思った時とは逆に回転してテンションが下がりながら再び左下に墜落するベルリは、死んで安定を得たデレンセンと違い、号泣して言い訳をする。ベルリが知らない新型だったから、変形するから、自爆攻撃をするような悪のキャピタル・アーミィーだと思い込んでしまった!それは間違いだった!と真実を噛みしめるように言い訳をしつつ、ベルリは死んだ相手に対してコックピットの中で孤独に叫ぶ。


 「正しいと思って決断してやったのに、なんでこんなに苦しい結果になるんだ!?」これがGレコのベルリの殺人考察の主軸だが。
 演出の構図つくりにもそれは現れていて、一言で言えば戦争そのものへの不快感。
 右上から降り注ぐ雨のような自動的な砲火、そして左下でそれに苦しむ人間という構図。また、自動的に恩師を殺すG-セルフという本体の制御を離れたマシーン。
 自動機械で戦争をする近代戦争の圧倒的な無慈悲さと、それに翻弄される人。これを描くのがGレコであり、どちらが勝つとか誰を応援したいとか、そういう話ではなく、戦争や闘争状態そのもののどうしようもない圧倒的な破壊そのものを描く。しかしその暴力行為を始めるのも人の意志なのだ、という概念を描く。しかも、それを物語や台詞や説教や美醜や善悪の価値の示唆ではなく「構図の流れる変化」というアニメーションの映像の叙述で暗示させる。応援する正しい人が生き残って、醜悪な悪い奴を倒して気持ちがいい、そんな戦争観はGレコにはない。殺されていい人なんかどこにもいないし、殺されるかもしれない戦いで恐れない人もいない。しかし、それを殺すのが戦争なんだ。だから、戦争なんだよ。裁判や外交とは違い、殺していい人間かどうかを互いに相談することなく武力で勝手に押し付け合って殺すのが戦争なので、結果的に殺さないで良い人を殺す確率の方が多い。それでも戦争をすると決めたのなら嫌な気分を噛みしめながら進むしかない。


 まあ、僕みたいな性格が歪んだ人間になると「殺してはいけない人を殺すからこそ劇が盛り上がるし、価値がある」と愉悦部が発動するのだが。
 しかし、ベルリはそこまでの悪人ではない。だから悩むのだ。その悩むことは死んだデレンセンには二度と出来ないことで、生きることなのだ。
 また、純粋に悲しむのではなく、罪悪感を感じて言い訳をしたり悔やむのは、ベルリ自身がデレンセンというか敵パイロットに対して殺意を抱いたからでもある。ベルリは確かに出撃するときは単に観測するだけのつもりだったが、武器を持って戦場に出るということは、持ってなかった殺意が芽生えることだ。武器と戦場にはそういう人を狂わす作用がある。それを知らずに覚悟もなく殺しをしたことでベルリは業を背負った。殺人考察第1部完結。第4部まである。


 ベルリはここで「自分が人に殺意を持つ存在だ」と自覚した。そしてそれに苦しむ。しかし、僕は「悪い奴を排除しただけ」「守りたい人を守っただけ」「正当な権利を行使しただけ」と正当化するようなやつよりも、「自分は悪いことをしたが、それでも存在している」と思える人の方が強いと思う。相手が悪いから仕方がないという環境に責任を負わせる受容的な感覚ではなく、悪いこともいいこともする自分というリアルを引き受ける。
 不仲だった母親を自殺させた僕には正義を語る資格はないのだが、それでもと言い続ける。例えどんな現実をつきつけられようと、それでもと言い続けるのでは、ない。
 キルケゴール死に至る病の論考によれば、周囲の現実の悪に絶望するのは絶望の度合いとしては低い。最も深い絶望は自分自身の邪悪さを自覚しつつそれを救世主によって許されることも「それでも僕はダメだ」と拒否する悪魔的な絶望。絶望しながら世界の中心でユダを噛む。僕はサタンの申し子かもしれないんだからね!リアルは地獄。


 逆にこれはキリスト教ではなく仏教の虚無思想かもしれないのだが、僕は神の前での絶望は罪なので「それでも」と言い続けて世の中を良くしていくという善悪の方向性を持った思想よりも、
 善も悪もあるけど「それでも、仏の縁や宇宙はそんなものだし、殺すこともあれば殺されることもある」という考えに近い。何を希望しようがあるものはあるし、ないものはない。事実は事実。まあ、きれいな絵やアニメを見るのは好きだけども。駄作もある。

  • 再び正しいことを始めるベルリ

 ベルリは人生最大のミステイクをやらかしたが、それでも生きるための自己肯定感を維持するために、正しいことをやって自分をごまかさないとやっていけない。ベルリはデレンセンを殺した自分に絶望したが、絶望するだけで人生を全うできるわけでもないので、他のことをする暇が与えられてしまう。


 ベルリがエルフ・ブルに対して必殺の意志を決意した時、「キャピタル・ガードと母さんを守るため」という正義の意志に基づいていたが、それは母親や地元のルールに従っているだけの坊やだからさ。また、ベルリがマンモーニ(ママっ子)だから母の価値観のために父親的存在のデレンセンを殺すというのはオイディプス王のような古典的な強いメタファー。
 クリム・ニックのように「自分は自己責任と自分の力で敵を殺す」という独立した意志ではなく、ベルリは「良かれと思って、人のために」行動する。だから、ベルリがデレンセンを殺しても「自分は殺人をする悪い(強い)人間だ」と認識したくない。まだ6話なので甘さが捨てきれてないし戦士として未熟。

 だから「自分は悪くない!教官殿のせいだ!」という言い訳を吐くことにもなる。

  • 私たちは定型発達という障害を抱えている

福森 アメリカの自閉症協会のニューロティピカル(定型発達)に関する定義がとてもおもしろいのです。要は多数派を占める私たち健常者のことです。ちょっと資料を読みますね。

・ニューロティピカルは全面的な発達をし、おそらく出生した頃から存在する。

・非常に奇妙な方法で世界を見ます。時として自分の都合によって真実をゆがめて嘘をつきます。

・社会的地位と認知のために生涯争ったり、自分の欲のために他者を罠にかけたりします。

・特徴的なコミュニケーションスタイルを持ち、はっきり伝え合うより暗黙の了解でモノを言う傾向がある。しかし、それはしばしば伝達不良に終わります。

自閉症スペクトラムを持つ人と比較して、非常に高い発生率を持ち、悲劇的にも1万人に対して9624人と言われます。
gendai.ismedia.jp

 ベルリは健常者だしリア充だし優等生なので、自己肯定感を維持するために「自分は悪くない!」と嘘をついて自分をごまかす。
 だから次の行動として「いいことをして悪いことをした失点を上書きしよう」とする。
 この考察シリーズでは一貫してベルリに戦意と殺意がなく「いいことをして褒められたい」という坊や気分だと述べてきた。
 それで、ベルリは墜落しそうなモンテーロを救助する行動に出る。


 キャピタル・タワー宇宙憲章が後に明かされるが行動不能のビーグル類は無条件で救助するという決まりがある。ベルリは決まりを守ることに敏感。第3話でデレンセンとクリムの交戦の盾になって墜落しそうになったケルベスのエフラグをアイーダG-セルフの消火剤で救助したことの反復でもある。
 また、デレンセンがチャージしてくれたエネルギーでクリム・ニックを救助できた裏腹な切なさを読み取ることもできるが、ここでは本筋としない。



 モンテーロが墜落しそうになっているのを見て、ベルリは「ダベーの連中、なんで気が付かないんだ?」と怒る。キャピタル・アーミィーのダベー部隊は海賊部隊から見ると敵なのだが、ベルリは「キャピタル・ガードなら無条件で遭難ビーグルを救助するべき」だと思っているのでダベーを批判する。また、他人の不手際を批判することで自分の悪さをごまかすという心理的作用もある。インターネットやワイドショーや新聞や世間でそういう心理行動をする人を良く見るでしょう。他人がいくら悪くても自分の善し悪しは変わらないが、他人を気にしてあれこれ言うのが人間。
 ベルリはクリムほど実戦慣れしていないので、「自分の手を汚さずにダベーがモンテーロに気づいて殺してくれたら楽だ」と言うほど残酷な考えはしていないはず。



 ここでクリムが「私には無駄死にと言うチョイスはないんだ!」というおもしろい言葉のチョイスがあるが、これもベルリの「いいことをしたい」という行動原理と違っていて面白い。クリム・ニックは武人なのでベルリの「いいことをしたらいい結果が出る」という善悪に捕らわれた考えとは違う。クリムは「戦場ではリスクを支払って行動をチョイスしてリターンを得る」という戦術家、将棋棋士のような考え方をしている。なので、「リスクもリターンもなく無駄死に」は戦いに負けて死ぬことよりも無いチョイス。同じ戦場でも全く違った考え方の人がいるのが面白い。



 このレイハントン家の鳥の模様がG-セルフの過保護マシーンとしてのもう一つの側面を表している。果たして地元の価値観にとらわれて親に守られている坊やのベルリは成長できるのだろうか?



 で、さらにベルリはダベー部隊が勝手に後退したから自分がモンテーロを助けた、とダベー部隊をクリムに対して批判する。
 しかし、命を救われたクリム・ニック


 とてもさわやかな顔で、そして映像の原則としてもよさそうに見える右側から、「敵も全力を尽くして戦ったのだからそこに文句はつけないでいいじゃないか」と、武士道を発揮する。新渡戸稲造か…。1979年のファーストガンダムランバ・ラルや1981年の伝説巨神イデオンダラム・ズバとかの武人キャラには体育会系的な悲壮感や責任感があったが、現代のクリム・ニックは武人だけど逆に爽やかだ。まあ、殺すんだけど。


 ここで、クリム・ニックが美少女でベルリと恋仲とかだったらどんなに楽だったか。終末のイゼッタのように「ドイツ人を殺すけど姫様のためならいいよね」という百合で殺人の責任感を放棄したり、鉄血のオルフェンズの「オルガを火星の王にするためだから」と思考を放棄する三日月とかが現代アニメにいるが。誰かのために、って思うと人はすごい力を発揮できるけど、それはハッキリ言って責任を外部委託して放棄した暴走に過ぎない。もちろん、年金の取り立てを民間業者に委託するのが現代日本だし、人間はそんなものなのだが。
 誰かのために戦う、って思うのは強烈な自己正当化だが、誰かのせいで行動する受動的な弱さでもある。
 だから、文豪ストレイドックスの織田作がこどものために戦い、太宰治が街のために戦うのは、無頼派としてはちょっとお行儀が良すぎると思う。(まあ、そうやって行動理由を視聴者に見せて安心させないと受け入れられないというエンターテインメントの拘束はある。僕はこの歳になってカミュの異邦人にかぶれているので、殺人なんかなんとなくでいいと思う)


 Gレコのこのシーン、クリムが武人ではなく美少女で、ベルリに感謝して「キャピタルの邪悪な攻撃から私を助けてくれてありがとう」と言えば、ベルリはデレンセンを殺したけどメガファウナの側の味方になって大切な誰かを助けることができたから等価交換っぽく安心感が得られる。だが、クリムは自分を死の際まで追い詰めたキャピタル・アーミィーのダベー部隊に対して「彼らも自分の力を尽くしてよくやったからいいじゃないか」とベルリに向かって救助された本人なのに公平な立場から武人として評をする。
 ここでベルリはクリムに感謝されて自分のやったことが正しいことで自分は善人だと安心したいし、自分を戦わせたダベー部隊は悪だと言ってほしかったわけ。でも、クリムは公平な武人として「戦場では善も悪もない」みたいに言ってしまう。だから、ベルリは「クリムの味方でキャピタル・アーミィーの敵」というポジションに落ち着くこともできず、自分が恩師を殺したという事実に直面し実存的不安を感じます。
 殺していいやつ、守るべき人、を分かりやすく記号化するのがアニメの機能の一つであるが、Gレコはそれを意図的に配して、誰もが平等に頑張って生きているけど殺したり殺されるという現実的な地獄を描いているので、視聴者は安心を得らえないし、安心して感情移入を楽しめない。





 そして、ベルリはクリムを助けた善行でデレンセン殺しを相殺して安心できない。安心できないし敵味方の図式で自分のポジションを確認できないので、ベルリはたった一人で自分が人を殺したという圧倒的事実と向き合ってしまう。その途端に、ベルリは教官を殺したことをフラッシュバックする。
 日常で集中が途切れた時にふと殺した相手との思い出を思い出すのは、自死遺族としての僕にも実感として、よくあります。(惣流・アスカ・ラングレーみたいに親を死なせた経験を忘れるためにはどうしたらいいのかと言うと、常に集中して暴走して殺し続けて勝ち続けるしかないのだ。そういう気持ちでこのブログを書いている)
 常に罪の意識を背負っている人は、戦いに熱中し勝ち続けて賞賛され自己正当化し続ける体験でごまかさなくては、自分がいかに邪悪なのかという自己認識を思い出すだけで苦しむ。
 これはキングゲイナーの終盤のサタンゲイナーにも言えることだが、悪魔的絶望である。キルケゴールは神の前における絶望は罪だと言ったが、実は神と言うものは存在しないんですよ。僕はアイドルマスターシンデレラガールズ櫻井桃華ちゃまをママと呼んで神聖視して拝んでオギャっているけど、なんで桃華ちゃまに神様みたいに自分を受け止めてもらえると思うのかと言うと、彼女が存在しないからです。脳内妹も存在しないからこそ、いつでも僕を支えてくれる。ぼくみたいなクズを助けてくれる神は存在しない。神様のいいところは存在しないところなんだよ。ヤハウェ大日如来も「脳内設定」に過ぎない。

  • ベルリの憂鬱


 戦闘の後の振り返りのミーティングがある。ここでのパイロットの服装に注目してほしい。
・ベルリ ヘルメットを持ってパイロットスーツ
アイーダ メモ帳を持ってパイロットスーツ
・ルアン アンダースーツ
・オリバー アンダースーツの上にジャケットを羽織る
・クリム 私服に着替え済
 これは「戦場から日常への気持ちの切り替えの早さ、精神力」を表していて、さばさばしているクリムに比べるとベルリは全く服装が変わっていないので戦場の気分を引きずっていると見える。

 殺したストレスを引きずりながら日常会話をすることもすごいストレスなのだ。

 アイーダさんがここで気を利かせるのは、彼女の見せ場として数少ない機転。本質的には優しい姫様だ。(カーヒル大尉という大事な人を死なせた経験をアイーダがまだ引きずっているから、共感を死なせたベルリに強く当たれないのかな)

 殺したストレスでいっぱいいっぱいなので、ベルリは決まりきったお辞儀の挨拶しかできない。表情がない。

 しかし、何百人も殺してきているクリムはそんないちいち敵を一人落としたくらいで苦しむ段階はとうに超えているので、ベルリの感情ではなく操縦技能のみを褒める。また、クリムは大統領の息子で野心家なので自分を格好良くプレゼンする武士階級の振る舞いなので、私服にすぐに着替えて余裕を演出している。大気圏突入して死にかけてたけど、そんなそぶりは見せない。
 クリムは蛇がモチーフのキャラクターだが、風の谷のナウシカクシャナのように政治と言う蛇が食い合う戦場にいる貴族のクリムにとっては、海賊の大人たちに自分の余裕と強さをアピールするために戦う必要があるのだ。(だからクリムは滅茶苦茶ストレスを日常的に浴びて緊張しているので、反動で戦場でテンションが高くなるのかもしれない。自称天才にも心理的な意味がある。ラストでバカンスに行けて本当に良かった)




 休憩室でベルリは全身の力を抜いてノレドに「自分は悪くない」と言い聞かせるのを聞いてもらう。
 そこに、無邪気なラライヤが来る。



 ベルリはヘルメットのガラスに映った自分の顔に向かって「自分は悪くない」と言い聞かせていたが、ラライヤが持ってきた水槽の中の金魚のチュチュミィは無心に泳いでいる。ベルリは自分をごまかすために球面ガラスに映った自分に言い聞かせていたが、球体ガラスの中の金魚はそんな人間とは違って自由に泳ぐ。


 それを見せられて、



 フラッシュバック。



 そんなベルリの背中をさすってやるノレド。

 部屋の外から声をかけられないアイーダ。そして、見下ろすガンダム。そして6話は終わる。


 新世紀エヴァンゲリオンの2人目の綾波レイが自爆した時や渚カヲルが死んだ後のシンジ君とミサトさんのセクシャルっぽいニュアンスをGレコの6話は3人のヒロインにやらせている。3人のヒロインがうつな主人公に迫って来るのは新世紀エヴァンゲリオンの第弐拾話の「とてもきもちがいいことなのよ」にも似てるけど、それをイメージシーンではなく現実でやるGレコ。しかも6話で。ぶち込んできている。



 ここで第1クールの半分が終わり、恩師を殺したところで第1部が終わる。
 最悪の気分のベルリ・ゼナムは3人の美少女に囲まれて復元できるのかどうか?女性の持つ復元力とは?



 つづく。

  • テレビアニメとしてこれを放送する意味

 まあ、深夜アニメとしてみなされて子供にはヒットしなかったのですが。
 そして、シン・ゴジラ君の名は。みたいな「現実とちょっと似ているけどハッピーエンドを気持ちよく味合わせてくれて考えさせられた気分にさせてくれる映画」が大ヒットしている。
 Gレコは気持ちよさが少ない。デザインや演出やアニメーションの描き方は明朗だが、「問題が解決してよかったね」という現実の埋め合わせは出来ていない。それをした作品はヒットした。
 テレビでテレビの「気持ちいい情報だけ摂取したい大衆」を批判したガッチャマンクラウズ2期は割と好きなんですけど、「戦中世代の体験に勉強して自分で考えればいい」という落としどころは楽観論すぎると思う。


レニ・リーフェンシュタール
1914年 少女が車の下敷きになる事故を目撃。これをきっかけに「この世界で悪が善よりも強いものならば、とっくに善をくいつくしてしまっているだろう。それなのに自然はこんなに美しい。春は繰り返しやってくる。自分は人生に向かって『はい』(ヤー)と言おう」「たとえ何が起ころうと、人生を肯定して生きよう」という自分の生き方を確立
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AC%E3%83%8B%E3%83%BB%E3%83%AA%E3%83%BC%E3%83%95%E3%82%A7%E3%83%B3%E3%82%B7%E3%83%A5%E3%82%BF%E3%83%BC%E3%83%AB

 この世界の片隅に、も同様の大衆の欲望の問題があると思う。歴史の事実を尊重して、その延長線にある自分を自己肯定したいという欲求。それは韓国人が美化した慰安婦のフィギュアを日本領事館の前に設置する感情でもあろう。
 日韓だけでなくEUアメリカの選挙でもグローバリズムの反動としてローカルな感情の政治的事案が発生しているが、歴史的にその土地や民族に事故を預けようとするナショナリズムがあるが。しかし、過去の戦争で死んだ人間は過去の物であり、同じ土地に住んでいる同じ民族でも自分以外は他人であり、ローカルに寄り合っているつもりでも、実存的不安の時代はまた到来するだろう。


 いや、マイマイ新子はそれなりによかったし、この世界の片隅にも悪くはないとは思うんだけど、僕は映像に過敏なので見たら絶対疲れると思うので、体調が万全じゃないと見れない気がする。
 Gレコはそういう気持ちよくなりたい大衆とか自分をごまかして自己肯定したい気持ちをごまかさずに描いていて、真摯だとは思うけど売れないとも思う。未来のリギルドセンチュリーの南米人のベルリを主人公にすることで歴史的地理的経済的世俗的な文脈ではなく公平に「人が人を殺すこと」を描いている。
 でも、自分をごまかして他人を切り捨て、共感するのはいいところだけで臭い物に蓋をして他人の不幸や恥を悦ぶのが人間だし、その人間の本性をごまかさずに描く気高さは、僕は好きだ。ベルリ・ゼナム、人間的だ。

  • まとめ

 殺していい人も殺されていい人も存在しない。しかし人は人を殺す。殺されてはいけない人をあえて殺す。そこに人間の意志があるし、僕は素晴らしいと思う。よく知らない人や生きている価値のない人を殺すよりも、お互いに知り尽くした相手を殺すことで感動が生まれるのだ。
虐殺器官 (ハヤカワ文庫JA)

  • 次回の殺人考察

nuryouguda.hatenablog.com


  • Gレコ感想目次

nuryouguda.hatenablog.com
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本放送の時の6話の感想
nuryouguda.hatenablog.com


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nuryouguda.hatenablog.com

  • あとがき

 先日、この欲しいものリストからヒッチコックの映画論の4000円もする本を送ってくださったnmrさん、ありがとうございました。
 文庫サイズだと思っていたら結構でかいハードカバーでビックリしました。映画に対する見識を深めて、いいブログを書けるように頑張りたいです。
 オナホールやお酒も欲しいです!
 富野監督を見習ってブログを書きつつ、もらった本を読書する時間も確保したいけど、若者らしくアイマスのソシャゲーもしたいんだよなあ…。9時間寝たいのに、三連休で書くつもりが6話はつらい内容だし濃いので一週間で一日5時間しか寝ないで書いた…。
 アニメを見てるだけの俺がこれだけ時間を使っているので、アニメの絵コンテをゼロから書いて毎週放送するアニメスタッフは本当にすごい!神!


 まあ、本音を言うと一日16時間寝て何もしないで酒を飲んでいるのが一番幸せなんだけど、そんな風に何も生産せずに生きていると僕は自殺した方が効率的と判断して自分を許せなくなるので、死なない言い訳を作るためにこんなブログを書きました。
orangestar.hatenadiary.jp
 金やちやほやされるためではなく、読んでほしいから、それ以上に自殺を延期する言い訳としてアニメを見る。これはなかなか若者にはお勧めできないライフスタイルです。
 でも、アニメに熱中し続けていないと、親が死んだことを10秒ごとに思い出してその度にとても苦いものをいきなり食べさせられた時と同程度のストレスを感じます。これは確実に脳と内臓にダメージを与えているので僕は長生きできません。
 Gのレコンギスタの新作までに富野由悠季と僕の両方が生きていたら見ることができるが、死ぬこともある。それが現実なのだ。