読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

玖足手帖-アニメブログ-

富野由悠季監督、出崎統監督、ガンダム作品を中心に、アニメ感想を書くブログです。旧玖足手帖から記事・ブクマを引き継ぎました。


          Sponsored Link Google AdSense 広告

ガンダム Gのレコンギスタのベルリの殺人考察第2部第7話 障害者と帰還兵のリハビリ

 ダレ場。そして、7、8話は連続しているので一つの記事でまとめたい。
 
 と2週間前に書いたが、意外と長くなったしFGOやけものフレンズやアイマスに時間を取られてブログがおろそかになったので、とりあえず7話

  • 第7話「マスク部隊の強襲」

 前回、デレンセン教官殿を殺害したベルリ・ゼナムであるが、7話ではすっかりやる気をなくしている。


 具体的にはベルリはAパートでちょっとG-セルフで作業しただけで、12分が経過するまで出番がなかった。
 普通、恩師を殺害するという大事件を経験した後の主人公をどう描くかって言うのがすごく視聴者の興味だと思うのだが、Gレコは、「出番が減る」。見せないのかよ!富野監督はアニメのベテランだけど、名人に定跡なし。普通のアニメなら恩師を殺してしまって苦悩する主人公を描くのが定跡だが、Gレコは「いつも元気なベルリの出番が少ないから、元気が減ってることを察しろ」という演出術のギリギリきわどいラインをついてきてる。
 やはり、恩師を殺害してしまったことで、ベルリ・ゼナムは精神的な傷を負って、結果として出番が少なくなっているようだ。なので、この7、8話はいわばベルリの精神的リハビリである。
 1~6話はベルリがカーヒルを殺し、デレンセンを殺害してしまうに至るまでがかなり精密に組み立てられていた。なので、7、8話はベルリの物語としてはダレているのだが。ベルリが弱っているので並行して、マスクとウィルミット・ゼナム長官、そしてグシオン・スルガンと言った脇の人物の掘り下げが行われる。このシナジー効果はすごいな。主人公が凹んでいるのをダラダラと描写すると時間がかかるわりにテンションが下がる。また、脇役の掘り下げは必要だけど脇役にばかり時間を取られるわけにもいかない。なので、主人公が凹んで出番が少なくなる時期と脇役が活躍する時期を重ねることで圧縮率の密度を保つ技法!しびれるなあ。



 海賊部隊の作戦も、6話での宇宙艦隊の宇宙進出テストの陽動をしたものの、キャピタルタワーの占拠には至らず。微妙に中だるみしている。6話に出たアメリア宇宙艦隊もそのまま宇宙で活躍してるわけでもないので、6話はテストに過ぎなかったのか?また宇宙艦隊の打ち上げスケジュールが変わったので、メガファウナはまた陽動をさせられるらしいが…。
 
リアルタイム感想
nuryouguda.hatenablog.com
nuryouguda.hatenablog.com


 オープニング明けのアバンタイトルでベルリが前回のあらすじを言うのだが。富野作品ではVガンダムブレンパワード∀ガンダムキングゲイナーで使われた手法。次回予告を言うキャラと兼任。で、ブレンパワードのネリー絡みの回や「乾坤一擲」に対する宇都宮比瑪ちゃんのスタンス、「私は後から知ったんだけど」などを鑑みるに、最終回以降からキャラクターが回想している、と言う感じなのだが。
 ともかく、ベルリが自己反省することによれば、キャピタルガードとしてアメリア軍の事を知りたかったこと、そのために周りの海賊には嘘を交えながら付き合うこと、でもデレンセン大尉の声を聞いたうえで殺してしまったことは嘘ではなく自覚しているということ。




 ベルリは主人公なのに、嘘を自覚的につくっていうのが割とすごい。もちろん、ベルリは自分が悪人だと思っていないので嘘をつくのはキャピタルガードとして調査をするための方便だ、と思っている。しかし、ここで問題なのは、キャピタル政府の方針はアーミィー寄りになっていて、キャピタル・ガードと自認して行動しているベルリの方が少数派。というか、ベルリは3話で海賊部隊に誘拐されたからたまたまキャピタル・ガードの気分が保存されていたけど、彼が不在で知らない間にそのキャピタル・ガードはアーミィになってしまっていたということ。なので、専守防衛をモットーにしているキャピタル・ガードはもしかしたらベルリの脳内にしかないのかもしれない…。キャピタル・ガードに残ったルインはベッカーの演説に感動してアーミィに入ってマスクになったわけだし。ベルリは嘘をつくのも海賊に身を寄せるのもキャピタル・ガードのためだと思っているが、ベルリ以外のキャピタル・ガードはほぼ形骸化してしまい、ベルリは自分が孤立していることを認識しないまま海賊の中でキャピタルのスコード教を信じている。無人島のロビンソン・クルーソーキリスト教を信じてるみたいな…。
 そんな風に嘘をついて海賊の中にいるけどキャピタル・ガードを自認し、しかしキャピタル・アーミィになってしまった教官を殺害したベルリ。キャピタル・ガードのためと思っているのに人生最大のミステイクで共感を殺害してしまったベルリはどうやって復活するのだろうか?
 そのベルリの復活劇が殺人考察の第2部の主題になるだろう。
 しかし、今回はAパートにベルリの出番がほとんどないので、マスクとウィルミット・ゼナム長官の方が掘り下げられる。


 今回の第7、8話では身分の生まれで差別されているマスクと女性のウィル長官と精神障碍者のラライヤが注目される。差別問題にも問題意識を持つGレコ。
 また、レコンキスタは再征服という意味だが、リハビリという意味合いもあるのではなかろうか。リハビリは更年期障害鬱病を乗り越えた富野由悠季監督がよく使う言葉でもある。
 なので、前世紀の決まりで差別されるマスクがプライドを掴もうとする、キャピタル・アーミィの男性たちとの権力闘争に敗れたウィル長官が動く、幼児退行したラライヤが行動性を取り戻していく、という過程を描くことで、リハビリを描写する。そのリハビリは間接的に、6話でデレンセンを殺害してしまったベルリが再度元気を取り戻していくリハビリの雰囲気にもなる。このように、主人公の復活を描写するだけでなく、他の人物が再メッキしていく過程を同時に描き、多方面から対照することでリギルド・センチュリーという架空の時代の雰囲気、ひいてはGのレコンギスタという作品の空気感を醸成していこうという文学的試みが感じられるのだ。いや、同時多発的に人物を比較していくことでテーマを深めるのは割と物語創作の基本なんですが。

  • マスクのドラマ

 この殺人考察は主人公のベルリがどんな気持ちで殺人や戦闘をしたのか、と言うことに主眼を置いているが、マスク大尉はこの物語においてベルリに匹敵する役割をおっているので、考察する。


 今回の出撃前ミーティングでマスクは言う。
クンタラとは、なんだ?」


 ”人に食われるような劣った人”という意味だったと聞きます。
 そんなクンタラのマスク部隊が戦果を挙げてクンタラの地位を向上させて、キャピタル・タワーを支配するまでになる!と野望を抱く。
 第7話の冒頭のたった1分の演説でマスク部隊たちのキャラを一気に掘り下げる手腕!
HG 1/144 エルフ・ブルック(マスク専用機) (Gのレコンギスタ)

 この殺人考察シリーズは主人公のベルリがなぜ戦ったのか?を主題に考えているが、ベルリに匹敵するライバルのマスクの戦う理由も重要だ。ベルリは優等生で飛び級生でキャピタル・タワー運行長官の息子として、人に褒められるためにあえて海賊なんかとも付き合って情報収集している。ベルリは周りの人のためになることをして褒められたい。対して、ルインは生まれで差別されているので普通にやっていても社会に認められない。だからマスクはあえて強化人間になって前線に出て武勲を立てることで周りに自分を褒めさせたい。褒められたいと思うのと、褒めさせたいというのは違う。また、自分のやっていることは人に褒められることだ、と安穏と思っているベルリと、自分は社会に差別されているから策を弄して認めさせられないとだめだと思っているマスクは決定的に違う。この価値観の違う二人の軋轢は人間ドラマとして、宇宙エレベーターとか言うメカニックな設定やSF要素よりもより深く、この独自作品の物語を紡いでいる。(ただし、これも最終回まで見てから言えることで、マスクが最後までベルリに絡んでくるとは7話の時点ではわからなかった。1クール目で死ぬと思ってた。まあ、ブレンパワードのジョナサンとかダンバインのバーンとかのポジションだよな)
 しかし、クンタラキャピタル・タワーを支配するまでになる、と言うのは言い過ぎなのでは?とも思うが。リギルドセンチュリー1014年に至るまでスコード教で世界が安定していて身分も固定化していたので、モビルスーツの戦争が勃発したら、その反動で急進的な出世を望む若者も出てくる、と言う文明批評だろうか。ただ、一応、今回のマスク部隊の初陣のメガファウナ戦だけでクンタラキャピタル・タワーを支配するっていうわけではなく、マスクがクンタラの戦果を世間に認めさせて何年か時間をかけて地位を向上させてから、タワーを支配する、と言うサクセスストーリーがマスクの脳内に有ったと思う。まあ、この初戦闘でマスク部隊は半壊するのだが。
 EDテーマの「つかめプライドつかめサクセス」で出るように、クリム・ニックとマスクは同じランクのキャラクターだと設定されている。で、二人が何をしている人物かと言うと、既存の権力を超えて偉くなりたい!って頑張っている人。
 リギルド・センチュリーは1014年もスコード教で宇宙から軌道エレベーター経由でバッテリーを貰って地球人が生き延びてる社会が続いていて、スーパー既得権益身分社会なのですが、Gレコのアニメの開始の10年くらい前にMSや宇宙戦艦の作り方のヘルメスの薔薇の設計図が出回って大陸間戦争が開始された。平安時代から武家社会に移ろうとしてる感じ、幕末の動乱のような時代で、身分の低い奴がチャンスをつかんで成金になろうという、人間社会が拡販されている世相があるのがGレコ。(新渡戸稲造の「武士道」でも、鎖国の幕府が港を外国に開いた時代、まともな身分の高い武士や老舗の商人は貿易に参加せず、無頼の山師ばかりが貿易で一山当てようと集まったと、歴史ではなく事実として書いてある)
武士道 (岩波文庫 青118-1)

 身分が固定されて社会が長く安定する平和な時代も文明が維持されていいのだが、身分と関係なく立身できる戦争の時代は若者の向上心を刺激する。(鉄血のオルフェンズ鉄華団が出世のために既得権益を持つ大規模ヤクザの身分の中に入るが、世界的に動乱を起こすのはマクギリスの個人的な感情になっていて、Gレコほど全世界で同時多発的にサクセスを掴もうと暴れ出す人類の世相を描けていないのでは?マクギリスの仕組んだ演説は彼の個人的な物で世論にはなってないように見える)
 



 前回、アンダーナットの基地を訪れたデレンセン・サマターはナットの住民に石を投げられたくらい嫌われていた。
 逆に、今回第1ナットのコリオールを訪れたウィルミット・ゼナム キャピタルタワー運行長官はデレンセンと同じくレンタルのセグウェイを借りたが、レンタル屋のおばさんと親しげだ。
 ここで、キャピタル・アーミィーとキャピタル運行部の大衆からの支持の違いの世論が描かれる。既に始まっている大陸間戦争に対処する国防のためとはいえ戦争を始めようとするキャピタル・アーミィは基地を作ると住民に石を投げられるが、同じ場所の交通機関を仕切る長官は大衆にも親しまれている。
 なので、世論はまだアーミィよりもガードの方に寄っているのだが、政府は既にアーミィ寄りの政策になっている。

 キャピタル政府内へのクンパ大佐の仕掛けやジュガン司令の圧力で、キャピタル・ガードや運行局は力をそがれつつある。ウィル長官の人望が厚くても、政府に命令をされると官僚機構としてのキャピタル運行職員は政府の命令に従わざるを得ない。
 また、フェミニズムの観点からは、平和な時代だとウィルミット・ゼナムがシングルマザーの女性だがキャピタル・タワー運行長官に成れるし、長官もレンタル屋のおばさんと親しくなれるリベラルな社会だったが、戦争の時代になるとウィル長官が圧力を受けてジュガンやキャピタル・アーミィの男性中心組織に負けてしまう。ということが描かれているのかもしれない。
 富野監督はGレコの事前インタビューで「女性の復元力を描きたい」と言っていたが、フェミニズムの文脈かどうかは不明。フェミニズムはデリケートな話題だし私は男性なので、Gレコは女性差別フェミニズムを取り上げている!とは言えないのだが。ただ、7話は被差別部落階級のマスク、精神障碍者のラライヤと並んで女性管理職のウィル長官が描かれているので、「差別」への意識はあるとは思う。

 ガンダムシリーズの制服デザインの一つの特徴なのだが、女性が着たら女性らしく見えて、男性が来てもスタンダードに似合うユニフォームがある。それで、女性のウィル長官がトップで、男女が肩を並べてキャピタル・タワーを交通機関として運行するキャピタル・タワー運行組織がある。(東京メトロの公式キャラクター「駅乃みちか」の「萌え絵」の鉄道むすめの話は紹介だけに留める)

 対して、キャピタル・アーミィは明らかに男性メンバーの比率が多いと対比されている。ウィル長官の来訪に気づいて、慌てる男子たちの表情は悪いことをしているのがPTAのおばさんに見つかったような表情。戦争をしたがる男たちと女性の対比をそれとなく描いているのかもしれない。(この世界の片隅には見ていないのだが)

 その男子の軍隊のジュガン司令は「食料と水と空気の玉を運び込んでいるだけでしょう」と開き直るのだが。

 また、文化的なアートの壁画が描かれている第1ナットの一番大きなホールがキャピタル・アーミィの前進基地にされることで、壁画がブルーシートに覆い隠されているのも、平和なゆとりのある文化的な社会が軍事に浸食されることを暗示しているのかもしれない。富野監督は1941年生まれなので3歳の頃には戦争の金属供出などを経験した。


 カバの模型に対して笑うことでストレスを発散するウィル長官がどういう理由だったのかは、あまり説明されない…。



 じゃあ、女性が平和の象徴で優れていて、戦争をしたがる男性は劣っている、という描き方なのかと言うと、そんなことはない。


 ウィルミット・ゼナム長官はタワーから観測したメガファウナを見て、「あそこにベルがいる!」という女性的な、母親としての発作でキャピタル・タワーの運行長官としての責任を放棄してグライダーで出奔してしまった。キャピタルの実験をジュガンに奪われているとウィル長官が感じる場面が何回かあったがそれでも長官の職場放棄は突発的すぎる。
 しかも、ここでグライダーを宇宙に飛び出させる時に、尾行していたベッカーをなんとなく真空に晒して殺す危険性も無自覚にやっていたので。温和な女性のヒステリー的行動(これはザブングルでさんざんからかわれたことだ)を描いて、決して女性の方が平和主義で男性よりも正しい、とは描かないバランス感覚が富野にはある。子どものことを考える母親は他人のことが見えなくなる。(ベッカーが気密室に逃げなかったら真空で即死していた)

 キャピタル・アーミィのジュガン司令はウィル長官を目の上のたん瘤のように思っていたかもしれないが、積極的に暗殺するほどではなかった。なので、ジュガンと会った直後にウィル長官がグライダーで出奔して行方不明になったという報告を聞くとものすごく困惑する。(困惑しただけで何も反応のアクションをしないので、視聴者には彼がどういう意図を持っているのか分かりにくかったのだが。どうやらラストまで見たら、ジュガンはウィルの出奔に普通に困惑しただけで、暗殺しようとかウィルが行方不明になって好都合と思う余裕もなかったようだ)




 で、命がけの大気圏突入を敢行するウィル長官がベルリの好きなバナナとシナモンのビスケットを持ってくるのを忘れた!と言ってしまうのはすごく唐突。しかし、命がけの時だからこそ彼女の一番本質的な想いが飛び出したのかもしれない。また、こういう時は本音も出るし、習慣的な物が出る場面でもある。おそらく、第一ナットにはビスケット屋さんがあって、ウィル長官が出張した時はそれをベルへのお土産にするのが彼女の習慣だったのだろう。
 ここで、ウィル長官の若干強迫性人格障害的な、「決まりきったことを何度も繰り返したがる性格」「ルールを守りたがるスコード教の信者らしさ」が強調されている。
パーソナリティ障害―いかに接し、どう克服するか (PHP新書)
 発達障碍者の一部に鉄道マニアが多いという説もあるのだが、パーソナリティ障害の本によると、他の反社会性人格障害境界性人格障害に比べると強迫性人格障害は社会適応しやすく、また社会のルールを本能的に順守するので社会的成功をしやすく、病気だと気づかれにくいらしい。
 縦向きの鉄道であるキャピタル・タワーの運行長官のウィルミットが鉄ヲタで強迫性人格障害だ、とまでは言えないが「ルールを守りたがる人」という形容は当てはまるだろう。
 ウィルミット・ゼナム長官はタブー破りをしているアーミィが侵入しているキャピタル・タワーの職場で柔軟にタブーと現実のすり合わせを調整する職務を放棄した。ウィル長官はルール違反が大嫌いなので、ある程度タブー破りの存在を認識して許容した上での政治的調整という柔軟な対応をしたくなかったのだろう。それで、骨董品の大気圏グライダーを使って職場から出奔する、と言うものすごい異常な行動をしているのだが、彼女の脳内では異常行動ではなく「ルールを守っている」と自己認識されている。その証拠に、彼女は「出張でいつも息子に持って行くお土産」のことを、残されたキャピタルの部下たちよりも先に考えている。
 この殺人考察シリーズは企図せずサピエンス全史(実は買ってない)や人類600万年の歴史のヒトがヒトである特徴をけものフレンズの放送開始前から参考にして、ヒトがヒトを描いて作ったGレコやシン・ゴジラ君の名は。などのアニメの解説をしている。
サピエンス全史(上) 文明の構造と人類の幸福 サピエンス全史 文明の構造と人類の幸福

 それで、ヒトの母性本能、「子供を大事にすること」は動物として繁殖する時に重要な要因を果たしたルールだと推察できる。(恋愛感情が3年で消滅するのは、子供が歩けるようになるまでの三年間、つがいを維持するためのシステムらしい)
 なので、ウィルミット・ゼナム長官はキャピタル・タワー運行長官の仕事を放棄してしまったけど、「子どもを助けに行く」という本能の方が仕事のルールよりも上位の規則として作用したのではないか。
 キャピタル・タワーの運行長官としてタブーを守る仕事がアーミィによって阻害された反動で、ウィル長官はタワーのルールが混乱した職場にいることよりも、「子どもを守る」という圧倒的に正しく異論が出にくいルールに身を任せる選択をしたのではないだろうか。ベルリはウィル長官の実の子ではなく養子だからこそ、母親らしく振る舞うことがウィルミットに強調されているのかも。子供を守ることは現実の様々な社会運動でも一つの絶対的正義のように扱われている。ならば、Gレコのウィル長官も混乱した職場の現実を責任者として直視するよりも母親としての役割を演じた方が精神的に安定する、と感じて突発的に出奔したのかもしれない。アムロの母とバロン・マクシミリアンのように、「母であるものより、母を演じるものの方が母親的な行動を過剰にする」というのが富野アニメにはあるのかも。
 また、「母親が大気圏突入をする」点で、3D洋画のゼロ・グラビティとの関係も本放送の時に指摘した。
ゼロ・グラビティ [Blu-ray]



 ミック・ジャックと関係が決定する前の7話では、クリム・ニックはラライヤと恋をするんじゃないか?と言う意見もリアルタイム感想では見受けられた。
 しかし、どうやらクリムはラライヤが好きとか言うよりは、自分のイケメン魅力とカリスマでラライヤのような精神障碍者をいいように利用しようとしていたのではないかと思える。
 G-セルフメカデザイナーあきまんこと安田朗さんは「カーヒル大尉が死んだので、クリムは自分が一番死にやすくなったので、スーパー必死」になってベルリやラライヤを味方にしようとした、とおっしゃっていたが、そうだろうか?
 ラライヤはG-セルフを操縦できる。しかし、アイーダもベルリも操縦できる。
 アイーダ姫様には専用のG-アルケインがあるけども、なぜベルリではなくラライヤに操縦させようとしたのだろうか?
 私見であるが、やはり、クリム・ニックベルリ・ゼナムに対して直感的に「こいつは自分の思い通りにならないな」と感じたのだろう。クリムは前回、デレンセンを殺害した直後のベルリに対して「大したものです。彼は」と評価したし、大統領の息子だし人を査定する立場の軍人なのだが。クリムは7話AパートでG-セルフでなんとなくメガファウナの整備をするが積極的に動かないベルリを見て「自分の思い通りにならなさそう」「技量はあるけど、積極的なやる気はなさそう」と判断したのかもしれない。そこで、「どうせやる気がないなら自分が思い通りに支持できる精神薄弱なラライヤにG-セルフを操縦させよう」とクリムは思ったのではないか?クリムがラライヤを戦力にしようとしたのは自分が死にたくないからと言うよりは、自分が思い通りにできる手ごまを増やしたいという武人の本能なのでは?
 精神障碍者は時として悪い人の使いっぱしりにされることがある(生活保護など)。そういうこともGレコは描いているのかもしれない。
 クリムは美形だし強いしかっこいいし、人を見る目もあるけど、大統領の息子で支配階級側の人間なので、精神の弱い美少女のラライヤを自分の手ごまにしようとする。


  • ハッパ中尉



 スゴイ高い技術のG-セルフの宇宙用バックパック(2台目以降)とアサルトパックがメガファウナに送られてきた。アサルトパックはプラモデルが実際大きい装備だけど、ハッパ中尉がなんとなく滑り台にしてるくらいの大きさとして描かれるので、ものすごい偉大で巨大な兵器と言うよりは人間の延長線の親しみやすさとして描かれている。けものフレンズのコツメカワウソが橋の残骸を滑り台にしてたーのしーしているのにも似ているかも。たーのしー!

  • Bパートベルリ発進!


 クリムがラライヤをG-セルフに乗せて飛ばして試験していた時と同時に、運悪くマスク部隊が強襲をかけてきた!そこでベルリにも戦闘命令が下るのだが、ベルリは飯を食べていたのでもたもたして反応が遅れた。それでアイーダに怒られるのだが、ベルリは「食事はパイロットにとっては大切な仕事でしょう!」と開き直る。
 開き直っているのだが、やはりデレンセンを殺害した後に方向性を見失っているベルリは「パイロットは食事をとるのが大切」という常識にすがって逃げて、積極性をなくしているのだと思う。常識的に正しいことをしていたら批判されない、と言うことに逃げているのでは?母のウィル長官もルールを守る人だが、ベルリもルールを守りたがるスコード教の信者だ。なので、パイロットらしく仕事をして食事をして規則正しく生活していればいい、と言う態度になっていたのだが。
 だが、マスク部隊が攻めてきたのでベルリは出撃をさせられる。マニュアル通りのことだけをやっていたら戦争はできないのだ。

富野監督の演出は、キャラの会話もストーリーの進行も途中から始める。 エヴァ以降、悩んでクヨクヨする主人公が普通になってきた。 富野監督は数年前に孫が生まれ、こう育って欲しいという願いもあってベルリの様な主人公にした。 #gレコ
https://twitter.com/yoshi115t/status/527080924484079616


 新世紀エヴァンゲリオンはナイーブな中学二年生の話だし、何よりエヴァンゲリオンはチルドレンにしか動かせないので、チルドレンのシンジ君がエヴァに乗るかどうか悩むのが主題になった。だから、渚カヲルを殺害した後のシンジ君が悩んでダメになるアニメだった。GレコのG-セルフも三人の少年少女しか動かせない。
 だが、ラライヤがG-セルフに乗っていたらベルリはデレンセンを殺害してウジウジしていればいいのかと言うと、そんなことはなく、無慈悲に量産型MSのジャハナムに放り込まれる!
 人を殺したくらいで引きこもって悩んでいいというのはロボットアニメでは甘え!敵が攻めてきたら自分の正義を見つけられなくてもとりあえず手近な武装ロボットに乗せられる!これはかなり残酷。



 映像の原則的にもベルリがクレーンのアームに左右に振り回されてジャハナムのコックピットに放り込まれるのはものすごい強制のニュアンスがある。エヴァンゲリオンのシンジ君はエヴァに乗れるけど、逆にエヴァ以外には乗らなくてもよかったけど、ベルリはG-セルフに乗らなくてもいい時にも容赦なくほかの機体に放り込まれる。恩師を殺したくらいで悩む余裕も与えないトミノ
 ここはセリフも少ないので見逃しがちだけど、脱力してぼんやりした表情のベルリがクレーンに振り回されて無理やりロボットに乗せられるのはエヴァンゲリオン以上にひどい。



 全然慣れてない機体に乗れ!君なら使える!って言われて放り込まれて、仕方なく出来る振りをするベルリ。ベルリは優等生なのでできる振りをするし、実際できてしまうのだけど、かなり無茶苦茶だ。
 7話Aパートのベルリはほとんど出番がなく、ダラダラめしを食っていて、デレンセンを殺したのを引きずって放心状態だったし、パイロットの振りをしているのも他に何をしていいのかわからない状態だったのだが、そんな脱力した主人公を機械のクレーンが有無を言わさずロボットに放り込む厳しい世界のGレコ。元気のGだが、元気がなくても働かされる。地獄のG。
 しかし、元気のGなのである。元気とは何だ?パワフルで元気で悩まないキャラクターが大暴れしていたら元気なアニメーションなのか?そんなことはない。実際は恩師や親や恋人を殺したり裏切った後も人生は続く。元気でいられるのは不幸に見舞われない幸運な人だけではなく、不幸になった後も元気を取り戻そう、というリハビリ、レコンキスタの再獲得がこのアニメのテーマの一つだ。東日本大震災や長期不況の後の時代性でもある。元気でいることは大事なことだが、元気でいられなくなった時の後に、再び元気になるにはどうしたらいいの?って言うのがすごく大事。
 また、富野監督は講演会で「仕事があると鬱にならない」と言ったが、「鬱から目をそらすためにとりあえず仕事をしてごまかす」というのもあるかもしれない。なので、ベルリはデレンセンを殺してしまった罪をどう認識していいのか定義する暇もなく、無理やり量産型ロボットに押し込まれて仕事をさせられる。ハッパ中尉に海賊船を守ってくれ!って言われるが、その是非を考えて選択する余裕すらなく、とりあえず目の前の仕事をやれという感じで戦場に出される。


 で、ベルリは正しいことをしたがる性格なので「海面に向けてビームライフルの試し撃ち」をして、怒られるが反論する。


 デレンセン大尉を殺してしまいキャピタル・ガードに平気で戻ることも難しいと思っているのでなんとなく海賊に加担しているベルリは、ある意味「フリーランスの傭兵」とでも言える立場なのかも。
 それで、富野監督もエッセイによれば割と若いうちにフリーランスのアニメ演出家になったので、「初対面の人と仕事をするときに自分の実力を示して舐められないようにしなければ」という感覚をベルリに投影しているのかもしれない。エヴァンゲリオンのシンジ君はカヲル君を殺しただけで人類補完計画発動まで悩んで何もしなかったが、Gレコのベルリは恩師を殺しても飯を食うために海賊やアメリアの軍人に自分が役に立つとアピールしないといけないという地獄感がある。




 ベルリが一目ぼれしたアイーダさんと接触回線でお話しできても、キャピタル・アーミィの変化についていけないし無理やり戦わされているベルリにとっては辛い感じ。本来、大好きなアイーダさんとくっついて話せるのはうれしいことのはずだが、なんだか怒られてる感じだし、ベルリの知っていたキャピタル・ガードキャピタル・アーミィは違っているし困る。ベルリはアイーダさんと話していても楽しくなれない。
 また、「キャピタルの事情に詳しい」というベルリの特技がどんどん無意味になっていってベルリは自信を無くしたのかもしれない。

  • 7話後半の混戦




 マスクがクリムのモンテーロとラライヤが乗っているG-セルフに猛攻をかける。

 ここでラライヤはG-セルフに乗ったまま水没して、一応宇宙にも行けるモビルスーツだから呼吸はできるんだけど、疑似的に呼吸困難でおぼれた気分になる。ラライヤをこんな目に合わせたクリム・ニックはひどい奴なんだけど、酸素欠乏症で幼児退行したラライヤが動けるようになる段階の一つとして、もう一回酸欠体験をさせることはある意味、有効だった側面もある。
 そして、そんな風に溺れたラライヤ、自分よりも弱い障害者を引き上げて助けることで、デレンセンを殺害して心に傷を負ったベルリも元気を取り戻す一歩になっている。
 誰かを助けることで自分が助かる時もある。

 クリムはラライヤに「チュチュミィも君がG-セルフを操縦するのを見たがっている」と言ったが、ベルリは逆に「チュチュミィはお外を見たいんだね」と言ってモビルスーツの棺から彼女を救い出した。これはベルリの方がお姫様を助ける皇子って感じだけど、

ラライヤは本能的に反射的にG-セルフを操縦できる人だし、後半に明かされた本来のラライヤは戦闘パイロットだったので。ラライヤを外に出すベルリの方が正しそうに見えるけど、ラライヤに操縦をさせたクリムもある意味では彼女の本来の能力を思い出させるリハビリの役を担っていたのかもしれない。クリムはひどい奴なんだけど、ラライヤの回復にまったく役に立たないわけでもない…。ただ、本人はラライヤのリハビリをしようと言う意図はなかっただろうけど。


 少女革命ウテナの王子様論と絡めて、ラライヤを閉じ込める大統領の息子のクリムと、ラライヤを棺から出す運行長官の息子のベルリの対比は本放送の時の感想で書いたのだが。ベルリはトワサンガとキャピタルの王子様なのだが。
 結局、ベルリはラライヤに対しても誰に対しても恋愛関係の意味での王子にはなれなかったのだが。
(そのベルリの恋愛と王子様の役割については同人誌で述べた。)
nuryouguda.hatenablog.com


 女の子を助ける王子様という役割よりももっと単純に、ベルリは困っている人を助ける、という癖がある。(クンタラの差別などの社会構造を変えようとまではしてないけど)



 もっと細かく見ると、ベルリがここでラライヤを助けるのは人助けというよりは、「G-セルフの操縦をラライヤがまるでできていない」「なので正常な挙動に直す」というモビルスーツ操縦実習生の学生根性、メカオタクの本能の方が強い。ラライヤを助けるとか、メガファウナに味方するとか、そういう人間関係よりも先に、メカオタクの男子高校生として「ロボットが性能を発揮できてないのは良くないので正す」という動機が大きいのではないか?
 なので、ベルリがラライヤに対して本当の意味での慈しみ、仁徳を発揮したのかと言うと疑問で、この後にベルリがG-セルフに乗り込むのも「G-セルフの性能が不調なのは良くないので自分が乗った方が最適化される」という功利主義かもしれない。
 ただ、障碍者に対する態度として、感情的な優しさやかわいそうさよりも「その人や、その人と関わる自分たちが、より効率的な働きができるように配慮する」という動機もある程度の正しさがあるのではないだろうか?
 富野作品での障碍者に対する向き合い方は、戦闘メカザブングルの最終回も参照。

nuryouguda.hatenablog.com
文化的だが虚弱な支配階級イノセントの支配を、生存本能を強化されたシビリアンという新人類が打倒したラストです。
でも、僕は意気地なしだからそういう強い物が勝つ!万歳!というのは爽快な気分でもありつつ、怖いと思ってしまいます。
でも、ジロンは自分が無能になったと思いこんで、人の迷惑にならないように一人で死ぬために、戦勝パーティから黙って去って行ったエルチを迎えに行きます。ジロンが一人で。
ああ、ジロンって本当に優しくて強くていい男なんだなあと思ってすごく、すごく感動した。
ジロン・アモスは「こだわり」の男です。惑星ゾラの掟である「三日が過ぎた罪は帳消し」という掟をやぶって仇討や一人の女にこだわって戦い抜きました。しかし、その拘りというのは「自分のやりたい事をやる」という自己中心主義だったでしょうか?それだったら、その他のキャラクターも色んなものにこだわっていた。ジロン以外にもイノセントに反抗するこだわりを持ったシビリアンはたくさん出てきたし。三日限りのおきてが関係ないイノセントの悪役たちも出世とか保身にこだわっていたといえる。
でも、ジロンがこだわっていたのは自分よりも他人への優しさじゃないかなあ。「親の」仇討、「女の子の」救出。それが主人公ってやつなんじゃないかなあ。ジロンって「それはかわいそうだよぅ」っていうセリフが多いし。
惑星ゾラと呼ばれる地球のシビリアンの人々は弱肉強食の世界に適応した新人類です。そういう人たちが旧人類を力で打倒するのはあくまで計画通りで、おもしろみに欠けると思います。悪役のビラルも「シビリアンは自分さえよければいいというプログラムです」って言ってた。ソルトは組織的だけど、それも個人の生存最適化ですよ。
そこで、エルチの救出です。
惑星ゾラでは弱肉強食が常識。イノセントを倒したシビリアンは三日の掟や支配体制という常識からは脱却したが、パーティからエルチがいなくなっても気にしません。
でも、ジロンはエルチを気にします。ここで、ザブングル序盤の「ジロンだけが掟に背く」という主人公っぽさの構図が復活します!すごい!やりなおした!実に、最終回でラスボスを倒した後のエピローグのラスト4分で。
そして、そんなジロンに続いてみんながエルチを追って終結し、知的障害者のファットマンも走ってきて、新しい夜明けに向かって、みんな走れ!
おお、よかったね、よかったね。
やっぱりラグもエルチが好きだったんじゃん!ラグにとってはライバルだったけど、それもふくめて。
もしかしたら、「旧人類を倒す力を持たせる」という人類再生計画の次の段階の「争いを繰り返さない心を持つ」という人類進化を描こうとしたのだろうか。と思う。それもニュータイプ程あからさまな説明や派手さを無しに。(∀ガンダムではもうちょっと分かりやすく説明している)
つまり、漢字で言うと、軍事国家の樹立を描いた最終回のラストで、福祉国家の可能性を示しているわけ。
ああ、私は理屈っぽいですね。「悪い奴をやっつけたー!明るくて楽しいぜー!」ではなくて「人類の進化とは…」とか考えて、そのうえで感動しちゃう私。いいじゃないか!


それで、すごく、すごく良いのはですね!ジロンがエルチを助けたときに「俺はエルチが好きだ!だから守ってやる!」って言わないのが、良いんだよねー。英雄物語とかヒロイズムって「お姫様を守る」なんだけど。
ジロンは逆にエルチに「おまえは、おれがきらいか?アイアンギアーやソルトの連中は?」って聞く。「そんなわけないじゃない!」「なら、決まりだ」
すごい。ジロン、っていうかこのセリフを書いた人は強い物の視点じゃなくて、本当に弱者の側に立った優しい心を持ってるんだな。
強い物に好かれないと、弱い物は生きていけないんじゃないか?という不安を弱者は持っているわけです。社会にお目コボシをもらわないと生かしてもらえないんじゃないか?という申し訳なさや恐怖です。
でも、そういう弱い奴だって、社会にいるわけだし、そういう弱い人でも社会のことが嫌いじゃないんなら、助けようっていう希望が、この漫画にはある。ジロンがエルチを好きだという事は言うまでもありません。エルチに「俺のことが好きか?」じゃなくて「嫌いか?」と聞くのがまた絶妙な距離感。
戦闘メカ ザブングル DVD-BOX PART1


 カテジナを突き放すしかなかったVガンダムもありますが。


 まあ、マッチョで生きる力にあふれたジロン・アモスと、学生気分が抜けていないベルリ・ゼナムとは同じ監督の作品の主人公でも性格が違うんですが。
 ザブングルは文明社会エリートから大衆に権力が移動する世界を描いた。Gレコは一握りのエリートを滅ぼすことなく大衆や多くの民族が文明の延命、リハビリ、レコンキスタをしていこうという世界を描いた。
 ここで、世界をどう扱うか、世界観をどう見せるか、と言う時に障害者やマイノリティがそこでどのように扱われるのか、と言う切り口で見せるのは、映画などでは割とスタンダードな手法である。(逆にディズニーやXメンとかは毎回マイノリティに配慮してて、それはそれで食傷気味だったのだが、トランプ政権で変わるのだろうか?)



 マスク部隊のアーボカスはクンタラなので、キャピタル・アーミィでありながらアメリア軍の方がエリートだと言うのだが…。

 ベルリが乗り込んだG-セルフは映像の原則的に弱い左側に立ちつつ、強い右側からサーベルを打ち込む。これは1stガンダムにも似ている。


 しかし、Gレコの後半の批評でよく「ベルリは人を殺したくないという気持ちを貫いた」と言われがちだが、この時点のベルリは割とナチュラルに敵のMSの胴体にライフルをぶち込んでいる。


(しかし、構図としてはギリギリ下手から撃っていて映像の原則としてG-セルフが強すぎないようにしている)

 ここでベルリがどんな気持ちで発砲したのかはわりと不可解だが、デレンセン教官殿と言う親しい人を殺したので、知らない相手は殺してもいい、と言う気持ちだったのだろうか。アイーダを守る方が優先されると思ったのだろうか。あるいは、デレンセンを殺したことでまだ精神が回復していなくて、是非を判断する余裕もなく、とりあえず戦えと言われたので戦ってしまっただけなのか。ラライヤという要介護者を助けようとしたいきおいで敵に対する慈悲をなくしたのか。
 ウィルミット・ゼナム長官のドラマでも描かれたが、「子どもを守る」というテーゼは動物としての本能に近いので「絶対善」として錯覚されがちだ。(実際には子供を守る行為と、子供を通じて利益を発生させることは別の事象です)
 子どもと同じく、弱くてかわいいものを守るということも正義扱いされやすい。別に僕は野良猫がどれだけ生まれたり死んだりしても大して自分には影響がないと思うのだが、かわいいものが死んだらすごく怒る人がいる。鹿とかはちょっと増えたら殺されるのに。人間が子猫や子犬をペットにするのは見た目や挙動がヒトの幼児に似ているから保護欲が刺激されるから、らしい。かわいいという感情も繁殖行動による脳のプログラムの一つに過ぎない。
 で、もしかしたらベルリはラライヤを助けることで「弱いものを守る僕は絶対善だ!」と、思いあがったのかもしれない。デレンセン教官をうっかり殺してしまったことで、ベルリは精神的に参ってしまったのだが。カーヒル大尉とデレンセン教官を殺すまでのベルリは「スコード教の教えと母の力と学校教育と自分の才能で、なんとなく敷かれたレールの上で就職してそこそこ幸せな人生を送る善人」と自分を肯定的に見ていたのだが。そんなベルリだからこそ教官を殺したことで「自分は悪い奴なんじゃないか?」という疑問が生まれて初めて発生してしまい、クリムがラライヤを代打に考えるくらい日常的な動作に精神的不調が現れていたのではないか。


 クリム・ニックは生まれながらの大統領の息子として人を使ったり才能を判定する査定眼を持っている人物。障害者のラライヤの方がベルリよりもクリムの手ごまとして使いやすいと思わせたのは、ベルリがラライヤよりも言うことを聞かないから、と言うだけでなく、ベルリが6話の後、クリムから見ても代打がいないと不安だと思われたからでは?(まあ、3人しか操縦できない超高性能ロボを有効活用するに当たってパイロットを機体ごとに複数名割り振るのは人事の基本だが)


 で、ベルリはデレンセンを殺したことで洋画のランボーやタクシードライバーのような帰還兵、新兵の病気にかかったのではないか?ファーストガンダムアムロ・レイククルス・ドアンランバ・ラル達に対する負けん気や戦わなければ生き残れない生存本能でそれを乗り越えたが。Gレコのアプローチはちょっと変わっていて、帰還兵のPTSDを負ってある意味精神障害になったベルリの復調に関連するのが「自分より弱い幼児退行した少女を助けること」。
 ラライヤは端的に言って金魚のフンだし精神障害者だし役立たずなのだが。(まあ、後天的、一時的な精神や記憶の混乱なので生粋の障碍者でもないのだが)
 そういう弱者を助けることができる自分を発見することで、ベルリは海賊のこわもての大人たちに命令されてロボットを操縦して組織に貢献することよりも、弱い女の子を助けられた、と言うことで精神的な落ち込みから這い上がれたのではないだろうか?
 これはある意味訓話なのだが。富野監督が演出で参加したアイドルアニメ「さすらいの太陽」(ウルトラマンオーブじゃない方)でも、主人公が自分の歌で精神障碍者を元気づけることができて逆に自信を取り戻す話が合った。


 僕も精神障害者自死遺族なのだが、そういう人たちは相互扶助会をすることがある。グループホームとか。(僕はコミュニケーションの相手や質とは関係なく、コミュニケーションするだけで脳が疲れて神経痛が発生するAIRの観鈴ちんみたいな病なので、あまり他人とは関わらないのだが、一時期遺族会などに愚痴を言いに通ったことがある)
 もちろん、指導したり支援する健常者のスタッフや医師の働きは大事なのだが。
 トラウマを持った人と精神障碍者と身体障碍者なりが助け合い、お互いの弱い所を補い合うことで、生活の質が向上することだけでなく、役割を発見し、自信を再獲得することができるという側面がある。優れた人が優れたことをして弱いものに援助するのもよいことだ。しかし、世の中と言うのは完璧な人だけでできているわけではない。
 スポーツや芸能やビジネスの面で優れている人も精神的に脆かったり、逆にさえないおっさんがゲームの中だと歴戦の勇者だったり、すごい不細工なデブのメンヘラがきれいな絵を描いたり、人間はそういうアンバランスな生き物だったりする。
 人間は社会的な動物なので、スタンドアローンで性能を発揮するよりも、集団の中で役割を持つことでさらに大きな働きをなすし、それを本能的に喜びと感じるように進化の過程で脳がそうなった。(もちろん発達が障害している人もいる)
 ベルリは助けられて復調したのではなく、助けることができたから復調ができた。そういう意味では、障碍者のラライヤも役に立つのかもしれない。(だからと言ってだれかれ構わず酸欠にしたり、遺伝子を傷つけるものを摂取した方がいいとまでは言わないが)
 僕も親や知人が複数自殺しているし自分自身もスクフェスのKLabを過労で退職して精神障害になって機能不全家族だしダメダメな障害者なんですけど、そんなガイジの僕も奇妙な脳みその特徴を生かしてこういう長ったらしい文章でガンダムの解説をすることで日本の社会には貢献できなくてもガンダム界には微力ながら参画する役割を持てているのではないかと思っている。これは精神障害者には非常な生き甲斐です。私の主治医も「都市部の認知症になる老人は役割がないので病態が悪化する。農村部は歳をとっても内職程度の仕事があるのでボケにくい」という意見を教えてくれた。
 そういう風に役割を見つけさせてくれる人とのオーガニック的な関係性は大事。(ブレンパワードの「助けられず、助けられただけで、しかも落ちていく!」という一連のネリー編もまさに「リハビリ」と「障害者」の関係だった)
 ここでベルリを自然に奮い立たせるのが強力なライバルのマスクでもなく、イケメンのクリムでもなく、ガールフレンドのノレドでもなく、恋するアイーダでもなく、「要救助者、要介護者のラライヤ」というのが印象的だ。
 もちろん10話などアイーダのために奮起する場面もあるのだが。ただ、デレンセンを殺した心の傷は見えないけど深いので、7話のベルリは恋をしたりする余裕もなく、ただ目の前でおぼれている人を反射的に助けただけだろう。むしろ、精神的にしんどい時は恋愛とか無理だから。障害者を助けることで自分にもできることがあると再確認するのが7話では精いっぱい。だが10話では恋のために戦うし、1クール目終盤では世界のタワーを守るために戦おうとする。そんなベルリの段階的な精神的な復調が殺人考察第2部のテーマだ。
 人はうっかり人を殺したり、ちょっとした事故で心身に障害を受けたり、差別されたり、権力闘争に負けて元気が出なくなることがある。そんな時に元気じゃないままでいるのか、元気を取り戻すのか。


  • 再び思い上がるベルリ


 G-セルフの所有権をマスクがコックピットの中の独り言で(キャピタルの立場から)主張するが、


 ベルリはスコード教の信者なので「天から降ってきたG-セルフの意味」を(自分も事実確認をしていないのに)分かっていて、G-セルフを使う自分が正しい!と言う風に張り切ってマスクを攻撃する。2クール目でG-セルフの正体を知ったベルリはまた打ちのめされるのだが、この時点の6話でデレンセンを殺して苦しんだベルリは、7話で戦いながら「天から降ってきた正しいG-セルフを動かせる自分は正しい!」と認識し直すように精神を持ち直したのかもしれない。まだ月や金星に行く前のベルリはスコード教の天の恩寵を信じているので、それに恵まれている自分は正しいんだ!と思うことができる。ベルリはデレンセンを殺害したことで「自分は正しくないのはないか?」と思って気力が下がったが、7話では「強いマシーンに選ばれた自分は正しいはずだ!それをわからないキャピタル・アーミィは間違っている!自分は正しい!」と思い直す。
 Gレコはベルリが「自分は正しい!」と思っていたらそれを挫かれる連続なのだが。デレンセン殺害と言う大きなミステイクを、ベルリは「ラライヤを助けて、悪いアーミィと戦うし、天に選ばれたと思う」ことで塗り替えして「やっぱり自分は正しい」と思う。これも金星まで含めたフォトンバッテリーの全体の事情から見ると部分的な情報だけで自分を肯定しているだけなのだが、とにかくそうやって自己肯定しないと元気が出せないという面もある。
 ベルリのこの、スコード教の天に対する認識は現代日本人には異質かもしれない。しかし、富野監督が若い頃に影響を受けた構造主義から考えると、ベルリは「テクノロジーを利用する理性的な人物」であると同時に「テクノロジーは神に祝福されていると思わないと成り立てない人物」でもある。

カフカの精神は現代人の精神であるーーつまり彼はふたつのことを、同じ確実さで知っているーー神は存在しないこと、そしてひとつの神が存在しなければならないこと。それは詛い(のろい)の光学である。

 これは富野監督が自覚的に構築したのか、感覚的に手癖でやったのかは判断しにくい所だ。しかし、現代の民主選挙システムの公平性を信じるアメリカ人とか歴史的な正しさがなくては国際社会で自信を無くす日本人が現存しているのを見れば、リギルド・センチュリースコード教の信者は現代人と通じるものがあると思える。ベルリや多くの人間は自分が正しいと思いたがるし、自分が正しいと思えると自信が出て力が出る。しかし、正しいと人を規定する神やそんな根拠は現実的には居ないのである。ラカン現実界には善悪と言うものはなく、ただ事実だけがあるのだ。その相対主義的な近代人の分裂に対して、Gレコは真摯だ。
 そういう存在しない神、天に自分を肯定されることで自信を持ち、自分が正しく他人が悪だと思う思い上がった現代人の矛盾を、ベルリやマスクやクリムやアイーダを通してGレコは真摯に描いている。
 殺人考察シリーズのテーマの一つだがGレコはベルリが何度も何度も失敗する話です。何度も何度も失敗するけど、負けじ魂で復活して「今度こそ正しいことをしよう」として行動した結果、さらに事態がひどくなって辛くなるけど、それでも元気を取り戻そうというレコンキスタの物語です。
 だから、ラライヤを助けて再びガンダムに乗ることができるようになったベルリは精神的に健全に戻ったわけではなく、むしろ双極性障害のように行きつ戻りつして振れ幅が激しくなって、憂鬱から思い上がりにシフトしただけとも言える。
 2クール目に明かされるがG-セルフが天から降ってきた意味は神様の意志とかではなく、人間の醜い政治や複雑に絡んだしがらみの結果でしかない。現実とはすっきりした神様の意思表示ではなく、非常に多くの人や物質や現象が絡み合ったもので、もしこの世に神がいるとしたらそれは「偶然性」でしかない。
 (なので、スポーツの球技や射的や骨の割れ方などの偶然を神の意志として崇める宗教的行事は人間の本能として非常に多い)
 神に愛されていると言うのはハッキリ言って生存バイアスに過ぎない。神様のおかげで生きているって言う人以外は死んだから神様の悪口を言わないだけ。
 地球に水があって1気圧の空気に3割ほど酸素が含まれているから人類は生きているけど、そんなの偶然の積み重ねだ。奇跡と言う人もいるけど、宇宙には星の数ほど星があるので地球に生物がいるのもやっぱりある程度の確率で発生する事象に過ぎないのでは。
 そして、これからもちょっと太陽風が変化したり隕石や超新星爆発放射線が当たったら普通に地球の生物は滅ぶ。安定性はなく、これからも偶然生きているだけだ。

 科学的にはそんな風に人間が生きているのはたまたま偶然そうなってるだけだと理解せざるを得ないが、動物としての人間はやっぱり自分が生きていることを神様とか愛に支持されないと自信がなくなってやっていけない。それを希望と言う人もいる。
 

リディ 「『ラプラスの箱』のことは、お前の家だけの問題じゃない。宇宙世紀を始めたご先祖は、増えすぎた人間を、ただ宇宙へ棄てたわけじゃなかった」
リディ(通信)「遠い未来にかすかな希望を抱いて、できる限りの祈りと一緒に送り出したんだ。そいつを呪いにしちまうか、可能性にできるか、それは……」
リディ 「知っておいて損はない。おれたちは、祝福されて生まれてきたんだってことを」
バナージ 「最初からそう言ってくれれば、分かりやすかったのに……」
リディ 「父親ってのは、いつも一言足りないのさ」
「その分は、子供が自分で埋め合わせなくちゃならない」
バナージ 「災難、ですね」

 ガンダムユニコーンの福井さんは「祝福して子供を産んだ」と無邪気なことを言っているが、そんなのは自己欺瞞だ。親が子供を愛することと受精卵が生育することは別の事象だ。神はいないうえに、神は人間を愛していないが、人間や子どもは神や親に愛されていると信じないと自分を保てない弱い存在だ。単に弱い精神の動物が自分が生きていてもいいということをごまかして理屈をつけているのが愛とか希望だ。
 私は親を自殺で亡くしているが、親が自殺しても、そしてベルリのように恩師を殺害しても、それでも生きてしまえるのが人間である。(人を殺して、それでも生きて行かなくてはいけない、のではなく、他人がいくら死のうと自分の死因にはならないというだけのことだ。これは物理的な事実だ。そして、物理的事実と解釈的真実との間で摩擦を感じるのも生物としての人間の本能である)
 機動戦士ガンダムユニコーン福井晴敏さんが「未来や子どもを祝福している」と、割とノー天気な「可能性」を描いてBD売上としてはヒットをした。ここでさらにずるいと感じるのは「大人は子供を愛しているけど、うまく表現できないのを子供にわかってほしい。うまく表現できていないけど大人は子供を愛しているから子供にも認めてほしい」という話を40代50代の子持ちの男性ガンダムファンに売ったところ。いや、愛しているんならクリスマスプレゼントだろ!
 しかし、孫がいる富野監督はそのユニコーン世代の欺瞞の先の「子どもは祝福されてなくてもリアルの地獄を元気に生きろ」というGレコを作ったのではないか。祖父の立場で。
 親が子供に愛情や期待を注ぐのと、子供が自分で自分を肯定して生きることは別の事象なのだ、ということをGレコは描いているのではないか。これは小田原で東京から来たお坊ちゃん育ちをした富野由悠季にまだ残っている少年の心と、娘が外国人と結婚して孫が生まれた老人の心の両極端から生まれた中庸かもしれない。
 私としては生きていてもいい人はいないし、人は必ず死ぬと思う。生きていてもいいから生きてるんじゃなくて、死因がまだ来てないからたまたま生きてるだけ。それも嫌なら戦って他人に死因を押し付けるだけだ。




 マスクとベルリは互いに正当性を戦いの中で主張し合う関係だ。ベルリは平和と秩序と弱者を守るガードの御曹司として、マスクは不当な差別を成功によって正す正義の英雄志願者として、互いに正当性を主張して戦う。この相克がモビルスーツのビームの撃ち合いをアニメの画面に映す長方形の対角線上の動きとして描かれて、これも美しい。


 構図は美しいのだが、ベルリが精神的にちょっと回復してなんとか手負いのG-セルフに乗って戦線に復帰して、メガファウナ部隊もマスク部隊もともに損傷して、膠着状態だ。



 絵としても整列している。第7話は前回デレンセンを殺したベルリが戦場の盤上に戻るのが精いっぱいだ、と言う話で、そこで止まってしまう。



 それを一変させるのが
突然のアーマーザガン!




 ベルリがなんとか戦列に復帰して、メガファウナ部隊とマスク部隊が盤上に並んでにらみ合ったところで、どうするかと言うと、盤面をぶち壊しにするマップ兵器。
 恩師を殺してPTSDで受動的に無理やりロボットに乗せられるシンジ君状態だったベルリが、何とかガンダムに乗り直すために、障碍者と交流するとか好戦的なクリムとの対比などのシーンを使って丁寧に心理描写を暗示的にやっていたのに、メカ戦闘ではそんなものをすべてぶち壊しにするビーム兵器。
 割とデリケートなメンタルヘルスや差別の話だったけど、「そんな小難しい話はともかく、ガンダムは俗悪なロボットアニメだからビックリドッキリメカを出すぞ!」という作り手の意気込みを感じる。


 さて、次回は第8話 「父と母とマスクと」歩きながら見るなよ!

  • Gレコ感想目次

nuryouguda.hatenablog.com



(この記事が良いと思ったら読者登録お願いします!)

follow us in feedly


http://www.amazon.co.jp/registry/wishlist/6FXSDSAVKI1Zwww.amazon.co.jp

著者へのプレゼントはこちら
nuryouguda.hatenablog.com