玖足手帖-アニメブログ-

富野由悠季監督、出崎統監督、ガンダム作品を中心に、アニメ感想を書くブログです。

2004年富野由悠季精華大学講演 質問コーナー。

KINO Vol.02 思考としての『ガンダム』

KINO Vol.02 思考としての『ガンダム』

1.物語で一番大切なものはなんですか?
固有な物を持っている宮崎駿は「物語を書ける」という結論にまとめるような流れで、物語は何かという話をしなかったのなら、この質問が一番に出るというものだ。
「普遍性、です。」
「神話とか伝説とか、要するに口伝として伝わってきた物語がなぜ残っているかを考えてください。そうするとおそらくそれは、どのような地方の人々でも一般的に了解できる、理解できる何かが含まれているのではないかと理解すれば良いのではないでしょうか。」
「つまり、作者の心情を吐露する事が物語だとは思えません。しかし、現今の作品にはそう言うものが多すぎると思います。」
「ただこの普遍的なもの、真理と呼ばれている物が、ではどういうものが真理ですかという事については、お答えできません。僕は神様ではありませんから。」

なんかむかつくので後述。
質問2について
「送り手の一番核になっているところではどういう思いを持っているかということを、絶えず見る目を育てなければいけませんよ」

ふぅむ・・・。
富野さんが関われれていない「ガンダム」シリーズについてはどうお考えですか。「基本的には、自分の我というのは捨てきれない捨てきれない人間ですので、自分のタイトルであったはずのものが他人にいじられた瞬間から、どんな物でも見る努力をするんですけど、とにかく見られないんです。辛くて、腹が立って。」
Vガンダムで潰そうとなんかするから・・・。∀は続けようとして、種になったが・・・。「SEEDは嫌い」はカット。

  • で、私が質問をした。

(前問を受けて)おハゲ様は、物語の普遍性を手に入れるためにどんな作業をされていますか。あなたは一人で小説も書き、また、他人の手を入れたスタジオワークという物もやっている。どちらの道がより良く普遍性に近づけると思いますか?
(他人にいじられるのが嫌というのなら、(絵や音楽や声以外の)脚本やコンテに他人の手を入れるという事はどう思うのか)
つまり、この講演のテーマでもあるところの「固有の物」というのは、個人の魂の「自己幻想」を追求する事で(無意識の領域から)発生する物なのか。それとも大衆の平均化から普遍性を獲得する「共同幻想」こそが「価値のあるもの」とみとめられる「固有のもの」なのか。
例えると、植芝理一ディスコミュニケーションにおいて冥界編と学園編と内宇宙編ではどれが一番「向こう側」へのアプローチとして「真なるもの」と認められますか?
(っていうか、複数の脚本家を起用したオーバーマンキングゲイナーよりも、キンゲライター陣の中の大河内一楼氏が一人で書いて谷口悟朗監督がまとめたプラネテスの方がラストのまとまりは良かったですよね。*1ということを面と向かって言われたらトミノ監督も怒るでしょう?だから私は黙っています。)

という意味のことを富野喜幸にガーっと言ってやりたかったのだが、緊張していたので、上手い事言えなかった。凄いどもったので、聴衆に恥を晒したのではないかと感じた。
そして、僕は人に質問する時は最低限、その人の著作のうち有名な物は押さえておいて、基本事項はググっておいて、なるべく重複情報がでないように、既出の話にならないようにしようと思っているのだが・・・。
どうも、∀の癒し

ターンエーの癒し

ターンエーの癒し

の282pと同じような話をさせてしまったと思い、落ち込んでいたわけです。
トミノに上手い事はぐらかされたのではないかと思い、敗北感や、「もっと他に高尚な質問をしてくれる人がいたのではないか?」「結局トミーノとお話をしたいだけの、ホモセクシュアル的な欲情行為でしかなかったのではないか?」と考えてしまうのがぼくというキャラクターだ。
そう言う風に内向してしまえば、2年近くもメモを開く事も、ネットでの講演会感想を読む事にもトラウマ的な忌避感覚におそわれる。
つまり、僕がお金も無いのにKINO Vol.02 思考としての『ガンダム』を購入したのは、活字に成った自分と富野とのやり取りを客観的に眺める事で「なんだか夜中に叫びだしたくなる病」が軽くなるのではないかというねらいがありました。
おこたえ
「テレビの仕事に関して言いますと、私は脚本を全部書き直します。他人の筆は入れさせません。」

(手元のメモでは、「ノベルの時は全部一人で書き直す」となっているが、自分で質問した時は手よりも目と耳に神経が行っていたので、メモが間違ってるかも。次の発言とのつながりは、KINOの方が正しそう。が、小説版ファーストガンダムは全部違うしなあ)
「脚本を下敷きとしてしか扱っていない。」
「僕はこの30年間、シナリオライターから徹底的に嫌われている人間です。騙し騙しでなくては、手伝ってくれる人はいません。」
「自我を持ち主張を持ったライターは、僕と一緒に仕事をやってくれません。」
「無能なシナリオライターと一緒に仕事をやるくらいだったら、自分ひとりでやった方が良いじゃないか、という考え方が僕にもあるようですが、それは全く嘘です。」

全く嘘かよ!

「最後にその人のホンを全却下するかもしれないけれど絶対に必要なスタッフなのです。
どうしてかというと、「おまえはひとりでそれほど天才か?」という話です。」
「脚本を全却下にしたとしても、それがあるから考えたというネクストがあるんです」
「(そんなスタッフワークを)この十年で本心から重要だと思えるようになった。」
宮崎駿さんが失敗したに近い「ハウルの動く城」とかシナリオを他人に任せた瞬間がないための辛さが作品に現れているというふうに思えます。それで独善に陥っている部分が、本来傑作にすべきベースを自分で踏みにじっているかもしれないという気配を感じました。」

この発言は、ゲド戦記の噂を聞いた現在に活字としておちついて読むと、宮崎さんとの関係が見えて趣き深し。宮崎吾朗監督に比べると、スタジオジブリの中での宮さんは扱いづらい大天才という風で、事実、そうなのだろうけど、富野監督には「それほど天才か?」という気分もあるのかもしれない。あると良いな。富野信者としては、母を訪ねて三千里で凹まされただけだとは思いたくないのだ。



で、スレも二年ぶりに見てみたのだが。


「たとえ脚本家が無能で上がってきた脚本を全却下するようなことがあっても、
その脚本があったからこそ必要なことと不要なことの判断が出来るわけだから
スタジオワークは無駄じゃない」って趣旨の発言が印象に残った。
終了後はサインを求める人々にもにこやかに対応してました。
いい講演会だった。
Zリメイクに入ってから、ギスギスした昔の気難しいトミノに戻りつつあるイメージがあったが
今回の発言がポーズであっても、割と冷静さを維持出来てるようで、安心した。

と、人が言ってくれているようなので、私の物言いも無駄ではなかったのかな、少しは良い言葉を引き出せたのかな、と思えるようになりました。思わせといてください。夜中に叫ぶぞ。
っていうか、おれはもう、何をしてもすぐに何でもトラウマにしちゃうんだからッ!
ターンエーの癒しp282では、

全否定しなければならないシナリオやコンテや画面が目の前にあろうが、それがあるから感じてしまう絶望感は、ひとりで自閉しているのとはちがう。
(略)
こんなものか!という反撥心から、ぼくの頭の中にドラマの終局の広大な世界がわきあがて、その広大さはひとりでつくれない。
(略)
ひとりではできないことを、このようにやらせてもらえる。それは恐怖に感じることではない。この歳になっても、このようにさせてもらえることができる若者たちがいるというのは、素晴らしいことだ!

とあります。このようにあるのだから、僕の質問は要らなかったかな、とか思っていたんですけど。
「ですから、自分の作品がある時は、あるプロダクションの中で全部埋没したかもしれないけれど、そのスタジオに存在することを許してくれている自分*2であれば、トップがどうであれ、それは自分の存在を認めているんだから、絶対に自分の存在を卑下してはいけない、鬱屈してはいけない、落ち込んではいけないんです。存在を認められているんだから。全否定できるだけの価値があるということは、個のあり方としては自信を持っていいことだと思います。
それを表面的なところでいちいち泣いていたら、明日なんてないんだぞ、という事だけは覚えていて欲しい。」

という「言葉」は富野監督の内面エッセイであるターンエーの癒しよりも、具体的に(聴衆の学生というか)若者に向けた言葉になっているようで、その点では良かったかな、と思えて嬉しいわけです。
まあ、いい言葉過ぎてメモを取り忘れて、今日まで忘れていたわけですけど(笑)
オレノバカ。
あと、このお言葉はジブリ論にも通じるかもしれない。
「個のあり方として自信を持つ」という話は「固有なもの」に通じるか?
仕事を手伝ってくれているスタッフは一人も欠けては困ると思うようになってきたんで、また「ガンダム」を撮ってみたいと思っています。
これも、メモ取り忘れ。自分で聞いておいて・・・。レコーダーでも買っておくべきだったか。
で、このガンダムは新ガンダムか、Zガンダム劇場版の話だったのだろうか?
ねえ?

*1:テロのあたりはもう少し短くても良かったかもしれんが

*2:許して貰っている自分ではなく?