玖足手帖-アニメブログ-

富野由悠季監督、出崎統監督、ガンダム作品を中心に、アニメ感想を書くブログです。

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追記、トミノ信者と君が代と日の丸の思い出(自分語り)

軍国主義も含めて日本なのか、あれは大日本帝國という癌として切り取るのか、決めればいい。どっちでもいい。決めればいい。
でも、利権が絡むので、決めるほうがめんどいと。大人の言い草ですね。ドイツもコイツも意気地なしの癖に大人のやり方だけ覚えやがって、そんなこんなで1億3千万人。
そもそも、僕らにとっては、戦後60年が既に過去の物になっているんだから、大日本帝國も戦後日本国も、黙ってくれないかな。
とかいうと、長くなるので思い出だけを書いてみる。
僕が通っていたのは、綿矢りさ先生や鈴木史郎や女装癖教師を排出した、公立進学校ですた。自由と規律をモットーにしているのだ。美しい国、というよりは、春風高校のような私服とわけのわからない文化部がのたくっているような雰囲気が好きだった。
屋上で猫を飼ったりした。正直、規律はあんまり無かった。
で、2000年に、卒業した時に僕は浪人決定でうつ病の入り口で、∀ガンダムに癒されそこねていたのだが。
卒業式間近になって、「君が代を歌わせるのは、権力による自由意志の侵害なのだ。断固拒否するのだ。教師一同」的なプリントが配られたのだった。僕は頭でっかちな子供だったので、自分の自由意志において、どうすべきか考えようとマジメに思ったのだった。
ぶっちゃけ、歌を歌うのはめんどいから歌わなくていいと素直に思えればドンナに良かった事か。
で、国旗国家について調べてみた所、自分的には
君が代日の丸は軍国主義としてナニした時期も在るけども、本来はそうではない。」
「国旗国歌を一時の過ちによって挿げ替えると、それ以前の特に過ちではない所も切り捨てる事になり、多重人格的なアイデンティティーの崩壊国家に成るのではないか」
という見解に達したわけで、まあ、歌っても良いんじゃないかなあ。と思ったのだった。当時。
今は、「たかが高校の卒業式程度は国家のイベントではないんだから、国家を歌って、卒業生と国との繋がりを強調しなくても、地域との繋がりレベルの校歌で充分ではないのか。つーか、最近は校歌も地域関係ないし」
とか
「そもそも日本人は多重人格障害の発症例が欧米に比べて非常に低いと言うか、日常的に多重人格を発症している。それが本来の姿だから別に良いじゃん」
とか
「他国による侵略や民族浄化を本格的に経験してない国が、現行勢力に対する帰属意識を一定レベルに保つためには、定期的に脱皮するかのように自己否定するのは有効だし、第二次世界大戦以前にもそう言う国でした。」
というわけで、高等学校の卒業式で君が代を歌おうが歌うまいがどーーーーーーーーーーーーーーーーゥでもいいやなあ。という気分にも成ってるんですけど。当時はキレる17歳だった。ロラン・セアックを見てたのに。微妙にテーマを理解できてない子だった。信者でもなかったし。トミノアニメは5年以上たって、まとめて見ないとわからん。
で、歌おうと思った。
が、やっぱり、みんなが歌ってないのに、自分だけ歌うのはいくら恥知らずのグダちんでも出来んかった。声が出なかった。
そこで気が付いたのだ。
虚航船団の一節。

おおこれがたった三十年前連合軍が上陸すると言う情報だけで犯される事を恐れただちに自決したと同じ民族であろうとはとても思えぬなどと嘆く老人達を女たちは嘲笑する。その女たちの表情からは個性が剥落している。彼女たちにしてみれば自殺は当時の流行であったのだし、からだをあたえるのは現在の流行だ。

大富野教信者の前はツツイストだったのだ。いやなガキだ。
つまり、本当の自我なんて、弱い人間には無いのだ。自分で考えて、行動しようとしても、弱い人間は、何となくの雰囲気と、怠惰に支配されるのだ。
教育委員会は別に国家を歌うことで教育がよくなるとは考えていないのだ。国歌を歌うことで教育が良くなると考えている組織に属している存在としての自分に自分を適応させているだけなのだ。
日教組も国歌を歌う程度の事で良心が崩壊するわけが無いのだ。そもそも良心と言うものの存在すら照明できないのだ。ただ単に国旗国家に反対しましょうと言う雰囲気の職場に就職しただけなのだ。
石原慎太郎都知事も、「NO(ノー)」と言える日本―新日米関係の方策(カード) (カッパ・ホームス)を書いた自分の言葉に似た言葉を吐きつづけるために自己規定しているだけの自動化思考有機体に過ぎないのだ。
まあ、他人の大人の事はどうでもいいや。
僕はそう言う大人に負ける程度のクソ人間に過ぎないと確信したのだった。
ところで、その時、卒業生代表の生徒が君が代を流しているテープを止めた。
ここで、僕が大声で歌えば、ネタとしては面白かったかもしれない。でも、歌わなかった。
僕は、彼のような個性も、個性を裏打ちするエネルギーもないんだ、と分かった。
次の日、新聞に「卒業生が君が代のテープを止めると言う事件があったものの、大きな混乱は無く平穏に卒業式は終わりました」と小さい記事が載った。
その後、僕は高校を卒業し、のほほんとした少年時代を卒業し、本格的に鬱病になったのだ。
つまり、弱者は何も言うな、何もするな、何も考えるな。弱者なんだから。弱者は死ね!
というだけのことです。終わり。