玖足手帖-アニメブログ-

富野由悠季監督、出崎統監督、ガンダム作品を中心に、アニメ感想を書くブログです。

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ブレンパワード第23話「スイート・メモリーズ 」

ブレンパワード 第23話 スイート・メモリーズ(B-ch)
↑視聴はこちらをクリック(105円)


脚本:富野由悠季・高橋哲子 絵コンテ・演出:越智浩仁 作画監督:しんぼたくろう・中田栄治


見てからだいぶたったので、今回は短く書こう。長く経つと長く書きたくなるが・・・。


今回は、比瑪とヒギンズの話である。
まあ、だいたい比瑪だな。
1話登場しなかったから、待ちわびた比瑪だ。
ヒメブレンもなんだかますます可愛くなって。
とりあえず、キャラ萌比瑪について。
やっぱり、比瑪はとても良い子だということがわかった。好きすぎる。
トラウマでなくスイート・メモリーズを見られた比瑪は人生をちゃんと生きてるんだなあ。
比瑪の両親は比瑪が10歳の時に大地震で死んだのだが、比瑪の自己肯定感をちゃんと育ててくれてたんだなあ。
紅葉が舞散る所で、ゾクゾクっと鳥肌が立った。ブレンは芸術過ぎる。


そんで、ヒギンズもブレン的な物を持っているから、薔薇で決意をした時の思い出を見ることができたのか。光るのはよくわからんが、美しかった。貧乳は希少価値だ。ステータスだ。
シラーとヒギンズは不幸自慢?運命を変えるというシラーの方が運命に準じているヒギンズよりも過去に囚われて見えるのがなんとも。
ゴーレムの例えは詩的で良いねえ。


ヒギンズがプラハで見たブレンって、ラッセ・ブレン(初代)か?他にも居るのん?
ブレンって絶対数が少ないよね。


しかし、突出しすぎたヒギンズは今回で死ぬと思ったらオルファンが・・・。
すごいハラハラした。


っていうか、オルファン、エぇーッ!
白き月のアダムと黒き月のリリスかよ。モロパクリだ・・・。パンスペルミア
まあ、エヴァも聖書や特撮からのパクリなのだが。オリジナリティーはシンジ君のダメッぷりくらいかと思うが、シンジ君はドンドン稀薄になって行く事で大衆にシンクロさせてたからなあ。
とまれ、ブレンではエヴァではアイディアと設定だけの概観に過ぎなかった部分をドラマとして使っているし、セカイ系なアイテムを社会というか、現実に近い人々のリアクションの中にねじ込んでいて、富野の演出の力技にびびる。
エヴァンゲリオンの映画版で世界が滅びるのだが、その時にシンジ君やメインキャラ以外の人も死んでいるのに、それを悲鳴だけで処理したのは映画のリズムとしては美しかったから、まあいいんだが、やっぱり最初に見た時はしょっぱさを感じた。
セカイ系作品ではメインキャラの狭い心象が世界を滅ぼしもするのだが、やっぱり滅ぼされる側の人々もノーリアクションってことも無いし、そういうのにも興味があるんだよね。
んで、セカイ系と対になるといわれるシャカイ系の作品にも、上手くいってるのといってないのがあって、組織の論理や一定範囲の地域や時代の習い性に近いルールを社会的な人の営みと履き違えてるようなのは、それはそれで普遍的じゃないなあと思うんですよね。
そこを、ブレンパワードはメインキャラも様々な地域からの寄り集まりだし、実際に正しいかは別としていろんな人々の点描を頑張ってるなあと思う。
つか、単純にエヴァリリスよりもオルファンは活躍してるなあ。大谷育江だし。
活躍している分、これは実写でやると何百億かかるんだ。絶対無理。アニメスゲー。
CG?CGはアニメですよ。
あーもー。やっぱりブレンパワードは最高だな。これはトミノと日本のアニメじゃないと作れん話だ。

富野 あのね、だから本当にやっかいだなと思ったのは、そのことなんです。
   僕は結局アニメというものは表現媒体としては使えないから、
   コンセプトを伝えるだけのものにしたっていうふうに落としたんです。
   これはさっき言った意味で男の仕事ですよ。
   これは本当はそうじゃなくて芸能のこういうところに
   肉薄できたらいいんだけど、でもセルアニメでねっていうのは
   これはこれであります。
   僕は基本的に、セルアニメとかコンピュータでは無理だと思ってますから、
   全部理念的にやるしかないと覚悟してます。
   理念でやろうと思えばこそ、その理念が鬱屈した心情から出発したものでは
   絶対にダメだと気をつけるようにはなりました。
http://wijayu.at.infoseek.co.jp/1999_tom_bps.txt

ぬー。アニメでは芸能は無理だと富野は言うのだが。富野のコンセプトはでかすぎるから、なんとか理念で整理して出せるアニメでやるのが良いんじゃないかなあ。
小説でも良いんだけどね。
しかし、ブレンパワードの小説を読んでいると、「これって、作品を未見の状態で見たらどうなるんだろう?」と思う。25話は先に小説を読んでみるか?だって、ねえ。
福井晴敏先生の機動戦士ガンダムユニコーンは一般の読者を獲得するために懇切丁寧な描写なんですけど、ここ数年トミノ小説ばかり読んでいる僕にしたら、間合いが遠すぎるんだよね。
福井さんが参考にしたという郄村薫さんはたしかにかなりの取材をしてるんだけど、(神の火しかよんでないけど)女性から見た純化した男と言う感じでエモーショナルな部分が濃いんで、それは間合いをつめてくる感覚があるんだよなあ。マリみても女子だし。他の小説はほとんど読まない。筒井くらい。
ガンダンクRが装甲車になるところはワクワクしたが、それもメカ萌えで理念でしかないからなあ。まあ、ユニコーンは序盤なんですけど。なんかセカイ系にすり寄ろうという言葉使いは病気じゃないかと思うなあ。俺がもう思春期で無いからか?
うーん。男には理念ではない情念はかけないのだろうか?と言う感じにもなるが、女装SMが趣味だと言う富野監督はそのせいかどうかはしらんが訴えかける物はあると思うなあ。
女性作家でもカップリングの理想論の記号論でしかないガンダムも在るから、女性だから良いと言うわけでもないしねえ。
0083には加瀬充子さんに残って欲しかった。



ブレンの太古カラノ恨みって言うのはそういう伏線だったのか。
でも、ウラミだけでも生きてないんだよなあ。ブレンどうなるんだー!
なんか、オルファンとブレンとグランの関係って、いろんな定義が流動してるし、どれも正しそうだし、なんか、こう、混じり合ってる。一人の人でもいろんな面があるということをああいう変な人型や宇宙生物にも当てはめてるんかなあ。
仲良くできそうな時も在るし、やっぱりみんな死ぬかもしれないと言う可能性もある。
オーガニックだね。
それでも生物は命を繋いできたんだよねえ。個々の死は在るんだけど。
あー、でも、個々の死と全体的状況の話で言えば。こないだの富野由悠季監督の岩村暢子さんとの対談で、

今後百年で日本の人口は半分になってもいいとおもっています。六千万死んだって明治維新の人口よりも多いんですよ。だったら、そんなクズ、殺しちゃえと思う。

と言う。これにはアグリーします。ただし、監督はそのすぐ後に

生きていかなければならない現実があるわけだから、(略)六千万死んじゃえっていう言い方はレトリックでしかなくて、それで済めばいいけど済みはしません。じゃあどうするかって言えば、理解力や想像力を持って欲しいと言えます。たとえ六千万死んだって国家の危機ではないんだ。だったら、自分が生き残りの六千万になれるためにはどうするかと言う論考を持って欲しい。

と言うのだが、それはそれで今はやりの「サバイバル」合戦になりはすまいかと思うんですよね。
だから、富野監督が言わなくても、バトルロワイアルとかは流行るし、デスノートとかもそうですよね。まあ、生存競争はカンブリア紀以前からあるわけで普遍的な感性ではあるんですけど、うーん。昨今のサバイバル物の盛り上がり方も一寸病気的なものがあるんじゃないかなーと思う。それは社会的な要請の写像であるんだろうねエ。
http://d.hatena.ne.jp/umedamochio/20070616/p2
梅田望夫さんとかねー。そういう風潮は在る。
うーん。いや、そういうパーソナリティーを持つ個体はあって良いんですけど、昨今の社会状況というか雰囲気と言うか空気を見ると、そーいうパーソナリティーを持たない個体にもサバイバリティーをどこまでも強要する流れになっては居ないかと思う。かといって、ゆとり教育も意図的にサバイバル能力の無い物を量産する事で上層階級の延齢を謀っている格差な結果になったわけだし。
そういうのはしょっぱいねーと。
つまり、えーと、あれです。
現実的に今の暮らしでは生きていけないわけなんですが。
だからと言って、自分が生き残りの半分になるために戦っていったら、その戦いで半分生き残れるはずが1/4しか生き残れないような状況になることもありうるテクノロジーレベルなの。大海嘯よりもその後の土地を巡る争いの方が死ぬわけ。
最近の社会での成果主義に基づく足の引っ張り合いと心身症の増加も、成果主義を判断する事も出来ないような普通の人にも無理やりパイの奪い合いをするのが正しいんだとしたことでの軋轢のように思える。
それで、言いにくいわけですけど、結論としたら僕は
「そんなに無理しないでも、死んでやる!」
という気持ちにもなるわけね。メンヘルの虚弱児ですから。
ブレンパワードにも出てきたアンチボディ・抗体論で言うと、免疫細胞のT細胞は胸腺(免疫細胞の教育機関のようなところ)で90%以上がアポトーシスで死ぬわけ。就役できるアンチボディはエリートだけなの。
んで、加齢していくと胸腺は衰えて、その結果自己抗体反応を起こして正常細胞を攻撃する免疫細胞が増えて老化劣化するわけですが。
僕のようなクズ人間が生まれるということは、この社会もかなり老齢化した社会だと思えます。そもそも僕は流産されるはずだったし持病も多いし精神も病んでるのに、薬や科学技術に甘やかされてるんだもんなあ。生きてる事に後ろめたさを感じます。
と、言う訳で僕はなるべくなら臨終汚く生き延びようとしてネクローシスを起こして他の細胞に炎症を起こすよりは、アポトーシスで静かに閉じていきたいんですけども。優秀に育てなかった罪というのは在るし、また、全てが優秀になるのもピラミッドの底辺が狭くなるから良くない。かといって、長く生きるのも環境によくないと言うのがガンダム的価値観なんだよね。
しかし、やっぱり一度生きてしまったら生に対する執着と死に対する怖れは植え付けられてしまうんで、それに耐えられない人が無理やり支えあおうとして出来ちゃった結婚とかするんだろーなーと思うんですけど。それはそれで混乱の増幅と押し付け合いにしかならないんで、僕はやっぱり脳内妹を抱きながらそういう部分を解消していきたいと思うわけで、そう言う点で言うと、今日の僕が若くて健康な女性を犯すのではなくて、痴呆老人の脳を移植した少女の義体をレイプする夢を見て夢精できたということは、僕はちゃんと自分を閉じられるんじゃないかと言う訳で嬉しいわけでもあるのです。生産性が全く無い。
いや、生産性がある人はちゃんと頑張って貰って、僕のようなのはむにゃむにゃとね。


とは言うものの、優秀やサバイバリティや競争やグローバリゼーションと言うのも、「世界の風潮」で「歴史のうねり」ではあるんだけど、「我々が属すると意識して気付いている部分での空気」でしかないんだよねー。
その、最近のサバイバル物と言って良いのかどうか分からないんですけど、リアル鬼ごっことかバトルロワイアルとかデスノートとか仮面ライダー龍騎とか、スカイ・クロラもそうなるのか知らないですけど、えーと、「仮定された絶対的なルール」を世界だとして「命がけでサバイバルしなければ成らない」と思って、「結果的にしないでもいい殺し合いをして死ぬ」というフィクションが鼻につくわけなんですよね。

「やっぱり一個のヒーローにヒーロー性を集約しようとすると絶対に受けない。世界自体がヒーローっていうか、個人じゃなくて世界観がヒーローになればいいと思う。その世界に行きたい。その世界が面白い。そういう方がいい」
http://www.gont.net/risaku/ISBN4-87233-678-X.shtml

と、井上敏樹氏は言っているわけなんですけど、えーっと、言ってしまいますと、一人のライター風情にしか過ぎないお前がそう簡単に世界を作れると思ってもらっては困ると言う事です。
作れるのはせいぜい殺しのルールだけじゃん。
で、まあ、そういうフィクションもネタとしては面白いと思うんですけど、それが女性にもてはやされたり、まあ、女性が男の淘汰を喜ぶのは自然かもしれませんが、それよりも若者が本気になって感動してしまっているような状況を見ると、これは酷いぞ、といわざるを得ない。
一過性のものだったら良いんですけど。
世界系だとか社会系だとかカテゴライズすることに対する僕の違和感と言うのは、つまり無限に複雑でオーガニックな物かもしれない世界を小さな理屈に合う価値観で類型化したい、単純化したいという欲望が見えてくるわけですし、それを世界や社会という大きな物だと意図的に誤認する態度は自閉でしかないなと思うんですね。
それがライター個人の捻じ曲がった思い込みで済めばいいんですけどそれが公共の物に出されたとたんに、普通の人まで病気にしてしまう事があるわけなんです。

ロボットを開発しようとしている科学者、技術者は、
悪用などは一切考えていないのだが、社会に投下した技術が、
別の人間によってまったく違う方向につかわれてしまう歴史については、
よく知っているのから、対策はもちえないとわかっているのだ。
(略)
が、パネル・ディスカッションで、ある日本人技術者が
「携帯電話だって、人はこうも悪用するんだから、人間なんか信用できるか!」
といった現実問題の指摘は、痛烈だと思う。
http://wijayu.at.infoseek.co.jp/1997_tom_en11.txt

フィクションと言う物も科学技術と同じで、公共に出してしまった後の影響に対する責任と言うのは取れる物ではないのだから、なるべく病気に成らないものを出すしかないのである。
実際に、富野監督の親戚にこういう子がいるわけです。

小さな理詰めが生むものは、生真面目さという硬直した思考を醸成するだけ、と感じる。


小生の甥に、小学生の時代から登校拒否児童がいた。
彼は、20歳のこの秋に大学受験の資格がとれた。


彼とは、数度、会話したことがあるのだが、
彼の中学時代に、不安の原因がどこにあるのか探りをいれたことがあった。


その時の解答が、資源が枯渇すれば人類は生き延びられない、
という現実認識であって、それは、ガンダム・ワールドで学んだことで、
フィクションから現実に挑戦する衝動が育っていないことに、
小生は、語るべき言葉をなくした。


その後、彼の読書量がふえて、リハビリして、大検を取得できたのである。
喜ばしいことである。


このように、自己を閉息させる基盤をガンダムの物語からピックアップして、
不安症の一種にとりつかれている青年を見るのは、つらい。
http://wijayu.at.infoseek.co.jp/1997_tom_en12.txt

作品で身内を傷つけるなよ、トミーノ。まー、そりゃー、そういう体験をしてたらちゃんとしたものを作ろうと思うよなあ。
脳内妹マンガを描いてる僕に向かって、「自分の心を判らせるためだけで作品は絶対に出してはいけない!」と言いやがったのはそういう経験があったからか。


僕自身も、ヒロシマナガサキで幼少時代を過ごしたし、阪神大震災の揺れも京都だが経験した。生来の虚弱さから勝負事で勝ったことは無いし、学校の成績もいつも2番だった。
そういうわけで、ガンダムを見たりするとまさに富野監督の甥のような精神状態になってたりもするんです。自分は何かに生かされているという謙虚さではなく、たまたま不自然に生存していると言う不安感を感じている子供で、今もそう。

逆襲のシャアとか見てると、テレビに映っている連邦の高官が腐敗してリゾートしてるのが許せんから隕石を落とすとか言う映画だもんなあ。
それが、星の鼓動は愛のラストで「宇宙の戦争なんか関係ないというババア」が出てくると言うのは富野監督も成長したねえ。
そもそも、「愛」という言葉をガンダムの時には「テーマは愛ではない!」とヤマトに突っかかっていっていた富野監督だが、ブレンパワードの挿入歌とかを聞くと愛に溢れていてと言うか愛の領域でtrue loveでlight of loveなので、監督の愛に対する本気度はすごくなってる。実際、ボクもヤマトをこないだ再放送で全シリーズ見たが、ヤマトの愛よりも新生トミノ作品の愛の方が深いし広い。
そういう作品と出会える事は喜びだ。
ガンダムも健やかになっていけるのだろうか。
富野監督は言う。
「最近のテーマは安心」だと。
「人が安心して眠るためにはーッ」
どうすればいいのだろうか?梅田望夫氏の言うように「Only the Paranoid Survive」(極度な心配性だけが生き残る)が正しいのだろうか?その、神経症になりながらスキルを手に入れて殺し合いをしてサバイバルしなければ、安心できない?
それは、血を吐きながら続ける、悲しいマラソンですよ?
しかし、のんびりしていると騙されて搾取されるから安心できない?
んー。結局は中庸を模索する、という事になるのだろうか?
そこで、最近の富野監督の仕事振りがスタジオワークを目指すと言う所になっているのを見ると、やっぱり個人でできる事や持っている情報は限られているから凡人は助け合いをしましょうと言うことになるんかなー。
でも、助け合いのコミュニティーに入るための同一性を手に入れようとして自閉症に陥って空気を読んでいるうちに原爆を落とされるような国ですからねえ。
それに、同一性を持ったコミュニティーだと自己肯定的安心感はあるが助け合うメリットはあまり無いので、偏った個人が寄り集まって平均的に大きな物になれればいいんじゃないかと思うのだが、富野監督のスタジオワークが必ずしも一般に成功しているわけでもないのを見ると、やっぱりトミノは偏りすぎで無理してるのかなあ、君臨した方がいいのかなあ、とか、でももうおじいちゃんだしなあとか、いやいや、田中公平先生とかとのコラボレーションはすごいし、ニコニコ動画でも髭が最高のガンダムという人もいるので成功しつつあるのかなあと言う感じで、よーわからん。
まー、なるべく人に好かれる自分を保つようにしたいものですが、その条件は容姿なのか財産なのかスキルなのか雰囲気なのか縁なのか数値化できないんで、やっぱりオーガニック的なんだよなあ。


んで、その富野監督と岩村暢子さんの対談の載っているガンダムエース5月号の、氷川竜介先生のガンダムコラムも素晴らしかった。

つまり、「富野ガンダム」の根には、「埋め込み型ローマクラブ的価値観」があると考えた方が良さそうなのだ。
ただし、筆者個人は「地球有限説」や「地球環境に優しく」という言説を真正面から信用しているわけではない。
以前、筆者はアメリカ大陸で(略)連なる空間や周囲に広がる奇妙な景観を見つづけた事もある。
そのたびに、「地球が有限とか人口爆発って話は、こうした広大な空間を見てるとウソくさく感じるな」
(略)
(ターンエーガンダムで)地球環境問題の総決算の舞台として北米大陸が選ばれたのも、偶然にしては出来すぎに思えた。

それは実感として正しいわけで、やっぱり地球が有限とか戦わなければ生き残れないというのも豊かな都市部しか見ない物の思い込みなのかもしれないと思う。
しかし、その、北米大陸の国家がその国の広さだけで満足してしまってグローバリゼーションと言う思い込みで行動しているのを見ると、やっぱり都市的な価値観の重力って言うのはすごいな。
で、キングゲイナーがそれに対するカウンターとして、ドームポリスと言う都市を捨てる話になるのか、シベリアと言う辺境を出て日本と言う豊かな土地に都市を建設したいと言う結果になるのか、そこが見たかったんだけど、デビルでうやむやに。胃ノ上先生は頑張って欲しいなあ。
えっと、予想以上に長く書いたんですけど、つまりどういうことかというと、トミノ対談の相手は毎回豪華すぎるのに、なんでダムエーは表紙に載せたりホームページで告知しないのか。
結局、ガンダムは文化だと言っても編集部の認識がこれではな!



・・・。ブレンについては短く書いたら、連想ゲームで文字数が破綻してしまった・・・。

えっと、残りのツッコミです。
翠がジョナサンに恨み言を言うのは声が大きすぎないか。
ガバナーが知事であり、調速機という掛詞のセンスはナイス。
研作博士とガバナーと言う男たちは頑張っていると思うし、「ブレンパワードは母性の話」とか「女に期待しすぎ」という前評判を聞いていたのだが、なかなかカッコいいとおもうぞ。
責任感や野望や哲学があると思う。
「とかく女は御しがたい!」という黒トミノな部分も色濃いと思う。
もちろん、比瑪は超美人なのだが。でも、僕の脳内妹も比瑪くらいのかわいさだし、そんなに不自然じゃないと思う。
それに、比瑪ってニュータイプ並に勘が鋭いし優しいし素敵な女神なんだが、理想的なラクス・クラインのようなカリスマでもなく、

比瑪 「あなたって人は!なんて大人なんでしょう!」
直子 「比瑪ちゃん!ゲイブリッジさんは…」
ゲイブリッジ 「いいよ、直子」
比瑪 「よかぁないわよウソつき!あなたが一番悪い人だって分かったんだから!」
ゲイブリッジ 「比瑪ちゃんの気持ちは分かるが…」
比瑪 「比瑪ちゃんじゃない!」
ゲイブリッジ 「私は、天然自然の為すものに、人類が畏敬の念を起こしてほしいと、願っているのだ」
比瑪 「え?」

ゲイブリッジ 「物事が人の願い事通りに都合よく行くものではないと、教えたいのだよ」
比瑪 「オルファンはブレンと同じ生き物ですよ?ちゃんと面倒見てあげれば私達とだって仲良くしてくれるわ!」
ゲイブリッジ 「オルファンは地球外の産物だ。地球との共生はありえない」
比瑪 「オルファンは、ずっと海の底で、海の生き物と一緒に暮らしてきました!」
ゲイブリッジ 「だがオルファンはその海から離れたのだ!」
比瑪 「そ、そうだけど…え?」

と、ゲイブリッジに完璧に言い負かされて自分のボキャブラリーの無さを悔しく思って震えるような小娘なんだよね。
まー、そこらへんがまたかわいいところだし、理屈ではないオーガニックな所でもあるわけで、やっぱり比瑪は可愛い。


で、最近富野語録を読んでいるので、最後にこれだけ言っておくと、比瑪は可愛いし、僕の脳内妹に似ているのだが。

── 惚れてる、といえば、企画当初から、いのまたむつみさんが
   キャラクターを描かれているわけですが、
   監督は目の大きなキャラクターは苦手だとか。

富野 苦手じゃなくて、大っ嫌いです(笑)

── では、どうしていのまたさんだったんでしょうか?

富野 やはりこの30年、40年のマンガとかコミックの世界、
   アニメの世界が育てちゃった、記号の問題なんですよ。
   それとは別に、企業の認識論というのは基本的に、
   いのまた的なあのキャラクターを、今、みんなが慣れてるし、
   それを求めてるから、これは容認せざるを得ないということ認めました。
   なんで目をこんなに大きく描くのかっていう問題を、
   ある時期、徹底的に考えたことがあるんです。
   いのまたさんだけではなく、全マンガ、
   このテの絵を描く人の全部の人の心理の最大公約数って
   一体なんなんだろうなっていうことが分かったんです。
   きっとそれは正しい。
   社会がカプセル化し、エゴの増大まで含めて認めるようになっていったときに、
   現実生活の中で、みんな対人関係が下手になっていったんです。
   僕も下手ですけどね。
   しかしだからといって、人間っていうのは一人でいられないですよ。
   いつも自分を見てもらってる目が欲しいんです。
   つまり、目を大きくしたのは、いつも他人に見てもらいたいからです。
   それは読者も描き手もそうです。
   これだけ大きな目を欲しがっているなら、
   要するに「お前、外に出ていって、ヌードになって歩きなさい。
   本当はそれがしたいんでしょう。しなさいよ」っていう感じです。
   もしそれができないなら、そこまで行けないところでの、
   人間関係、広い人間関係を獲得するように
   外に出ればいいじゃないって言ったときに、それはできない。
   だから目を使うんです。
   こういうものが流行っちゃうっていう社会っていうのは、
   かなり不幸なんです。
   これはマンガの問題ではありません。
   ですから、いのまたキャラクターは求められていると認識しています。

── そうすると『ブレン』の狙っていたテーマと
   ベクトルがちょっと違う個性っていうことになりますよね。

富野 違います。そんなことはありません。
   今いった時代性も含めた人の問題をテーマにしたのですから、
   いのまたキャラクターは邪魔ではありませんでしたし、
   僕は好きですね、いのまたさんの力量は。
   だけど困ったことなんだけど、手法として使わざるを得ないのと、
   それから、今目の大きいキャラクター欲しがっている人を
   叱ってもしょうがないという現実に直面はしています。
   が、そこから軌道修正していくには、
   社会構造と社会認識論が変わらなくちゃしょうがないことなんです。
   これは一監督とか一絵描きとか一作品で怒鳴ったってしょうがないことです。
   でも、これは50年かけてでも元に戻したいとは思っています。
   ところで、今の目の大きさの話に関して、
   対極にあるいい例をご存知ですか? とってもいい例。

── 対極にある……?

富野 『源氏物語』の絵巻物ってあるでしょう。
   みんな切れ目で細いでしょう。小さいでしょう。
   あの頃の人たちは、絵で大きな目なんて要求しなかったという証拠です。
   人の関係が極度に濃密でなければ、
   あの顔が美人だなんて口が曲がっても言えないけれど、
   あの絵巻の女性はみんな美人ということになっています。
   それは、なぜかと言えば、絵で求めてないんです。
   当時は、目を見るっていうのは現物の目を、
   こういうふうに向かい合って、この距離で見ていることに
   人々が慣れているんです。
   庶民も貴族も、身近な視線をいつも獲得できるだけの
   人間関係があったということです。
   だから、現在の編集者で、
   目をでかく描けっていうことを要求する人がいたとしたら、
   商売のことしか考えてない奴か、じつは寂しい人かのどっちかなんですよ。
http://wijayu.at.infoseek.co.jp/1999_tom_bps.txt

だ、そうです。
僕も、脳内妹をリアルに近い顔で描きたいんですけど、どうしても目が大きくなってしまうんだな。単純に絵が下手ということも在るんだけど。
あー、やっぱり、僕は寂しいんだなー。
でも、昨日、淫夢を見る経験をしてイメージ力が上がったら、以前よりもはっきりと実写を超える精度で脳内妹の顔を見ることができるようになって、それは嬉しい。
まゆ毛が太くて、鼻筋は通っているんだけど丸くて、ほっぺもふっくらしていて、やっぱり目はパッチリしている。髪は少し伸びて、クラリスや南ちゃんくらいになった。
僕に似てとっても美形であり、僕に似ずきれいな心の美人だ。
超好き。