玖足手帖-アニメブログ-

富野由悠季監督、出崎統監督、ガンダム作品を中心に、アニメ感想を書くブログです。

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このエンジンは人の絶望をエネルギーにして動くんだ

http://zmock022.blog19.fc2.com/blog-entry-929.html

http://d.hatena.ne.jp/essa/20070731/p1
島本和彦のマンガチックにいこう!で、庵野秀明の言葉として、


庵野 そうですね。僕らの世代(’60年代前半生まれ)の共通体験はテレビかマンガしかないと思うんですよ。それはしょうがないと思います。僕らより前には、全共闘や、お上に逆らってひどい目に遭って、4畳半に引っ込んでフォークを歌う世代というのがありましたよね。その前の世代には、圧倒的な共通体験として戦争と戦後があると思うんですよ。あの何もない焼け野原から、日本を復興させるんだという。そういうパワーって、スゴイですよね。だけど、僕らには”魔法の箱”の中にしか語るものがない。情けないんですけど、仕方ない。そこを認めたところから、スタートだと思うんですよ。

 

と、紹介されていて、島本先生は我々は、パロディーしか出来ないんだよね。と言った。
で、俺らの世代はパロディーしか知らない世代であって、パロディーを本物だと思っている世代な訳なんだよね。
それはそうなんだけど、じゃー、僕らにはオリジナルは生み出せないのかって言うと、そうではないと思う。
我々の世代には、「絶望」という共通項があるんだぜ。
たしかに今の暮らしはとてもいい暮らしだ。
フィジカルな感覚としてはね。
でも、ケミカルな作用やオーガニックなバランスでは崩壊してるんだよね。
また、エコノミックな制度としてもエコロジーの視点でも、未来の貯金を切り崩す事で、架空の豊かさしかないんだよね。
もっと具体的に言うと、今は戦前なんだよ。
まあ、WWII的な前線構築型の陣取り合戦ではなく、モザイク状の魂の取り合いなんだけど、そういう戦術論では今は戦時中だともいえる。
今日は仕事を休んでアメリカ人の教授と話してきたんだが、
「夏休み中は出版社との打ち合わせでイギリスに行くけど、テロがあるからバスと地下鉄はダメ。タクシーで。まー、チャレンジっていうか、確率論でしかないんだけどねー」
とかいう日常会話を英語でしてると、フツーに戦時下だよな。


ハハハ。


ほろぶぞ。かもすぞ


だが、我々は日本という偶然生れ落ちただけの縁しかない国に荷担しすぎて戦う事も、また是としないのであります。
仲間はいない。
戦場は無い。
ただただ、
個体の頭蓋骨の中で偶然の死を恐れるだけです。
群体の雰囲気の中で必然の滅びを予感するだけです。
私はヒロシマナガサキで幼少時代を過ごし、阪神大震災も体感したので、そういう希死念慮というか、破滅の予感は一生の通奏低音としてある。


また、我々の世代の絶望としては、この世界が滅ぶ引き金を引くことすら許してもらえなかった。気付いたら滅ぶ事は決定していて、滅ぼした大人は死に逃げできそうで、大人には未来の地球のためにエネルギー革命やイノベーションを達成しろと言われるだけだが。そんなのは無理だ。
神風が吹くといってるのと同じだ。
だから、我々は死んで見せるしかない。
特攻隊のように。
いや、特攻隊のように誰かを殺すために死ぬのではない。
死ぬために死ぬのだ。
死のう!死のう!
死ねば、この世はきれいになる。
誰かが死ななければ、誰も生き残れない。
みんなが死んで、生命体としての効率を上げることが行き残る道だ。
エネルギー革命は新技術ではなく、大量死によって達成するのが一番妥当で現実的だと判断しました。
そして、生き残った人は、人類の思い出を地球が滅びるまで思い出してくれたらいい。


だから、それを、未来の滅びを我々の未だ体験していない共通体験として、作品作りに生かせないものか。
そこにわずかな希望がある。


死ぬ!


死ぬが、思い出は残る。


だから、現世での生を俺は否定する!
脳内妹を希求する物であります!
そういう物語を、私は書きたい。


だが、それも親鸞が通った道に過ぎない。
うーん。
物理脳で思考する限り、脳内化学物質の総量以上の発想や感覚は無いのだろうか?
しかし、幻覚剤に頼るというのも違う気がするしなあ。


脳内妹はすごく美しい。観音様じゃ。
脳内妹脳内妹なんだが、設定を積み重ねていると、現実の誰よりも現実感を信じられるようになりました。