玖足手帖-アニメブログ-

富野由悠季監督、出崎統監督、ガンダム作品を中心に、アニメ感想を書くブログです。

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劇場版CLANNADの批判的な部分も書くぞ。

一応、連休中は興行的な所を気にしていたので、アンチ意見は書かなかった。
っていうか、俺はアンチ意見って嫌いだし。
だって、面白いなーって思ってる人に「それ、つまんないよ」というと、面白くなくなって世界全体のトータルの面白さが下がる。
それなら僕は嘘でも「おもしれーおもしれー」って面白がるために最大限に面白がりたいし、そういう振る舞いを見た人が騙されて作品を面白くなってくれたら経済効果もアップするし、新作も作られやすくなってとても得をする。ここら辺は氷川竜介先生のスタンスに近いですね。
でも、誉めているばかりでもうそ臭くなって、誉めの信憑性も下がるし、なによりもこのブログは僕がだらだら言いたい事を垂れ流すための物です。
まあ、アニメ自体が嘘なんだが。
というわけで、出崎版CLANNADでイヤだった所を書く。とはいっても、好き勝手に描くので嫌がりつつも面白がるんですけど。
もちろん、ネタバレです。


























2ちゃんねるの意見を見たが、やっぱり人それぞれの印象論はバラバラなんだよな。
わりとどうでもいい。




















あと、鍵ゲーのアニメ化という視点じゃなくって、アニメという視点でしか書かん。
というのは、ゲーム自体も劇場版とほぼ同時進行でやったので、劇場版公開日の前日にオールクリアーしたので、KEYを絶対視してないし、ゲームにはゲームの不満点もあるし。
























まず、はしょりすぎ。いや、ストーリーとか設定というよりは経過を。
だが、それはそれで、芸風なんだよな。
1を描いて10を想像させる。
その、渚が「汐は私みたいに体も弱くなくって」のあとに古河早苗さんがアップになってそれまでの人生を想像させたりとか。
「春原キレるんじゃないよ!」という一言で藤林杏岡崎朋也春原陽平を気にかけていて、演劇部にも力を貸そうと思っていたことを分からせたりとか。
「学園の問題を解決したい」っていう坂上智代だから今の生徒会のやり方に反抗する演劇部とも仲良くなってたりとか。
他にも色々。
それで、90分の映像で10年近くの体験を想像させている。
セリフだけでもなくって、朋也が渚に好意を持っていることを自覚するのも時間的には一瞬で、「これだけ勢いのある映像で盛り上げてるんだから好きになって良いだろう」という、論理性を排除した強引な展開になってる。(まあ、人を好きに成るのなんて理由はいらんのだが)
汐とのラストシーンもそうで、渚に好意を告げるシーンで同じように積極性を見せているのだから、繰り返し構造になっているラストシーンも一気に畳み掛けてしまって良いと言う判断が合ったと感じられる。
でも、1を描いてる事に気付かなかったら10も分からんわけで。分からない所に引っかかってしまったらつまらなくなる人も居るんだろうなあ。
それはそうなんだが、出崎や富野の世代は印象的なところを切り取って、行間を読ませるのが映画だと思ってるのかな?それで時間を短縮して圧縮する事で、映画的ダイナミズムを生んでるつもりなのだろうか?
まー、それも芸風だし一つの技だと思うので、僕は好きだからいいんだけど。それこそが映画の編集マジックだとも思うし。
でも、一般的には1から10まで描写して、1のストーリーしかない物を100のように見せかけるような雛鳥の口にえさを突っ込むような映画がハリウッドで大ヒットしてるわけですから。
とまれ、それを出崎がやる必要はなくって、そういうのは京都アニメーションの描写力に期待だな。棲み分けできてる。
1本に繋がった映像美術として見るなら印象派の出崎で、ストーリーや設定を懇切丁寧に描くのは写実派のアニメ版CLANNADという感じか。


しかし、1本の映像美術としてみるのなら、鑑賞中の観客の印象を左右して、物語というよりは体験として、体感型の娯楽を与えるのが映画というものだと思うのだが。
ジェットコースター的な体感の流れで言えば、出崎演出を多用して、暴力的ともいえる光と音で畳み掛けた劇場版AIRの方がまとまった気持ちよさがあった。
視聴者としては作品に感情を操作されたいと思うのだが、うまい事乗り切れない部分があったのも事実。
なんでだろーねー?
出崎演出は出崎演出で好きなんだが、CLANNADの出崎演出は使いすぎというよりはAIRよりも使用目的がぶれていた気がする。
特に盛り上げるべき場面でなくてもパンしすぎたりして五月蝿いところがあった。
仮説を立ててみる。

    • 派手な見せ場がないとすると、作品の作り方も変わっていきますよね

出崎 人間にとって当たり前の事を、人に伝えるのはとても難しいからね。特にアニメの場合は難しい。実写だったら、俳優が生きてきた人生の厚みみたいな物があって、それを軸にして、いろんな事ができると思うけど、アニメーションの場合、そこまでの存在感や演技力をキャラクターに求めるのは基本的に難しい。だから、全体の構成や個々の画面で、感情や情感、あるいは時間を表現しなくてはいけない。「CLANNAD」ではそういったところに凄く神経を使った気がする。

という。
うーん。
出崎はケレン味を重視しすぎたのか、うーん。それにしても、映画って言うのは盛り上がっている場面だけであるわけもないし、普通の人ならなおさら、そこまで感情の触れ幅が大きくないのでは?というか・・・。
うーん。
感情移入として、日常生活的なフィーリングの部分で多重露光的な演出を多用されて、盛り上げられても、見る側のリズムとずれてしまう部分があった。
のだが、バッチリはまる部分もあり、そこの感情の揺さぶられ加減は非常に心地の良いものであったので、逆に性質が悪いというか評価に困るのである。全編に渡って外していたら、駄作の一言で済むのであるが、ものすごくいいところと微妙にかみ合わないところが混在しているので、印象が混乱するのである。
まあ、出崎統は個性的であり、僕の個性とは違うという事なのだが・・・。

監督は僕のコンテをよく我慢してつかっているということがわかるから、監督にあわせたいと思ったのだが、結局、他人の感性の現れ方をマネることなどは金輪際できなかったと思った。


あしたのジョーについて、富野喜幸 「だから僕は…」より)

あるいは、このように劇構成や演出で心情を演出しようとするのは、出崎監督がアニメーターの画力というものを信用していないからなのではないか?と思えた。
それをして、彼に過剰な演出に走らせたという事があるのかもしれん。
富野由悠季はさらに言う。

さきまくら(出崎統)と確認した事があるのだが、演出の立場で言えば、ドンナにアニメーターが優れていても、現場の演出処理が優れていても、コンテがダメなら評価される作品にはならない。
それは、どんなに優れた役者を使っても、バカな監督にあたってしまったらどうしようもないという例でわかろう。


富野由悠季「∀の癒し」より)

これは監督の世代だから、という事も言えるが、近年ではエウレカセブンとか在った訳ですから。
ねえ。
だから、それは正しいのだが・・・。演出を信じすぎるって言うのも偏ったものに成らないかと思う。僕としては出崎信者だし、富野信者なので、そのような個性的な演出を喜ぶ心性もあるのだが、やはりアニメ作品は体感として気持ちイイものになっていなければならないとも思う。
一応、出崎統も貸し本マンガ家→虫プロのアニメーター→演出という経歴なんだが。だからこそ、アニメーターを信じてはいないのだろうか?
しかし、

さきまくら監督が自分に任されたシリーズの全てのコンテをきることをしたのは、コンテによってフィルムの七、八十パーセントの演出が終了するからである。これを他人の手にゆだねる事をしないのは、演出家としてひとつの見識である。しかし、これが出来たのもさきまくら監督が、杉野昭夫さんや椛島義夫さんのような有能なアニメーターをパートナーに得る事ができたからである。


(「だから僕は…」より)

あと、荒木伸吾氏とか。
AIRでは杉野昭夫氏が参加していたんだが。
そういう点で、今回のCLANNAD東映動画では力不足だったのかもしれんと思ったりもする。
うーん。俺は、どーも東映動画には作画面ではいい印象をもってないのかもしれん・・・。
つーか、東映動画といえば、いい人がすぐに独立するという印象。

過去の所属者
今田智憲(故人)
楠部大吉郎 (故人・シンエイ動画創業者)
旗野義文(故人)
古沢日出夫(故人・動画工房顧問)
有賀健
飯島敬(故人・後に東映に移籍)
山本善次郎 (故人・日動映画創業者)
安部正次郎(A・C・G・T創業者)
高見義雄(演出出身)
原徹
茂野一清(演出出身)
山口康男(演出出身)
五十嵐卓哉
幾原邦彦ビーパパス所属)
うるし原智志
大塚康生テレコム・アニメーションフィルム技術顧問)
斎藤侑
大橋学
栗山富郎
大沼克之
勝田稔男(演出出身)
岡田敏晴
角銅博之(グループえびせん所属)
椛島義夫(夢弦館創業者)
木村圭市郎(ネオメディア創業者)
窪詔之
小坂春女
小湊洋市(演出出身)
小田部羊一任天堂所属)
小林治亜細亜堂創業者)
佐伯雅久(ジェイ・シー・エフ創業者)
佐藤順一ハルフィルムメーカー取締役)
芝山努亜細亜堂創業者)
菅谷信行(ACCプロダクション創業者)
菅谷正昭(ACCプロダクション所属)
箕ノ口克己(studioT&B創業者)
杉井ギサブローグループ・タック創業者)
高畑勲スタジオジブリ所属)
高橋信也
月岡貞夫(ナック創業者)
月野正志(スタジオ・ファンタジア所属)
豊住政弘(スタジオディーン所属)
永樹凡人(スタジオジョーク創業者)
矢田晃一(東映エージェンシープロデューサー)
羽根章悦
長谷川眞也
春田克典(ハルフィルムメーカー創業者)
細田守
光延博愛(スタジオ雲雀取締役)
宮崎駿スタジオジブリ取締役)
向中野義雄(スタジオ座円洞創業者)
山内重保
山岡英仁
山口聰 (ゆめ太カンパニー創業者)
りんたろうマッドハウス創業者)
島村達雄(白組創業者)
我妻宏(シナジーSP創業者)
江藤昌治(ジェイ・シー・エフ創業者)
横山和夫
香西隆男(ジュニオ ブレイン トラスト常務取締役)
小泉謙三(スタジオイゼナ所属)
東美帆(スタジオバルセロナ所属)

wikiより)

佐藤元がどれみの時に東映動画に入って、「うちは下手だからという理由で辞めさせれる人はいません」って聞いて安心したそうだ。そういう社風なのか?
ただ、最近の作品でも、プリキュアとかゲゲゲの鬼太郎猫娘とかラブ★コンとか、美少女系の作画は嫌いな印象が無いんだよなあ。結構好きで見てるし。
ただ、どうも、東映動画の絵って基本的に垢抜けないんだよなあ。
なんか、絵の具が濃いって言うか、主線が太いって言うか。ゲーム原作のCG塗りの透明っぽい印象とは合わないのかもしれん?
でも、モノノ怪(2期)はかなりCGがいい具合でできてるので、全くダメっていうわけでもないんだよな―。
どうなんでしょう?
あと、モブシーンで手を抜いたような絵があったなあ。文化祭のラインダンスなどはキングゲイナーのミイヤの祭なみの気合を入れて欲しかったのだが、全員同じ顔だったのが残念だった。プリキュアっぽい顔を描くのは嫌いじゃないんだが、手癖で済まされるとイヤだ。むしろ、モブシーンこそ作品世界の全体的な背景の底力を表現する機会なので頑張って欲しかった。
主役ではとてもいい表情もあっただけに、たまにダメな絵を見せられると落差が激しくて見ている気分が散らされてしまった所があった。残念。
東映動画って、労働組合が強いって言う印象があるんだが、そのせいで全体のレベルが低いって言うのもいやな話だと思うんだが。労働争議を頑張ってた宮崎駿も独立してしまってるしなあ。
まあ、ニートが語る話ではないんですが。組織って難しいね。
富野監督は、出崎監督が一人でコンテを切る主義だという事に関して、

テレビ・アニメの世界がスタッフの生活協同組合的な場ではないのだから、結局は彼のようになるか、別の対処の仕方をするしかない
(だから僕は…)

と言ってるし、出崎監督の性質と東映動画って合わないんじゃないか?とか思ったりもする。
あんなぷるだけでは劇場作品は作れないのか・・・。つーか、CLANNADにはあんなぷるって参加してないっぽい?
荒木プロダクションや手塚プロダクションは協力してるのだが。
あんなぷるの内情は知らない。



それから、もっと重大だと思うんだけど、僕はやっぱりキャラクターデザインの門之園恵美さんに作画監督もして欲しかったなあ。AIRの時もキャラデザが作画監督をしてなかったんで、そこらへんにイメージのギャップがあった。
カドノソノ絵は美少女ものとしてとてもまとまっているし21世紀的な線の整理された清潔っぽい感じもゲーム原作に似合ってると期待していたんだけどなあ。
全体的にはAIRよりは美少女もののフォーマットに沿って見られたのだけども。
ギャグシーンや出崎演出でパースを崩した時に、絵自体が崩れすぎてしまってると言う風に僕には見えてしまった部分が在って、残念だった。
いおりんは気にしてないみたいだったので、個人差が在るんだろうけど。
監督の意図を組んだ上で、それ以上の表現をするようなアニメーターにいて欲しかった。
演劇シーンとかラストシーンとかは震えるくらい美しかったのだから、一見力を入れないでも良いようなギャグシーンやモブシーンにも力を入れて密度を統一して欲しかったなあ。春原の顔が崩れすぎて、緊迫感のあるシーンなのかギャグなのか、反応に苦しんだ部分があった。
それには、キャラクターの触れ幅を理解しているキャラクターデザイナーに現場に入って欲しかったと思うのですよ。
スケジュールとかもあると思うんだけど…。
個人的には結城信輝がなんか出崎っぽいと思うんだが。リトルバスターズ!では、是非。


で、ギャグシーンで、視聴リズムが崩れて、感情の導線が切られたって言う気分はある。
うーん。京都アニメーション版のアニメ版CLANNADの製作インタビューでは、「前作では出来なかった、ギャグを多用してみたい」と書いてあったし、原作ゲームでもギャグが面白かったんで、ギャグシーンを入れること自体はいいんですけどね。
いやー。
違う。
麻枝准のギャグはどちらかというとシュールだからなあ。
現実でやったらいじめや犯罪のようなギャグだからなあ。
原作ゲームのそういうギャグ要素を劇場版CLANNADにも取り入れようと言う雰囲気は在ったのかもしれないが、出崎のギャグは古すぎる、と言うより健全すぎる。
出崎の場合は、むしろ、作中人物がつまらないなりに頑張ってギャグをやっていると言う部分も在る。
うーん。しかし、落語はつまらなさ過ぎたよ―。あんなんで爆笑しねえよ。
まあ、あれはあれで、構成と言う面では理にはかなってはいるんだが。
爆笑シーンの後に演劇部がもめると言うシーンを入れることで感情のバランスを取ると言う構成になってるんだろうなあーとは思う。
それと、お笑い全盛の学校の中で、渚たち演劇部がそれを凌駕する美しい劇をやり遂げると言うカタルシスも在る。それは分かるんだが・・・。
つまんねーギャグを見ると、一瞬、見てるこっちのリアクションが凍るんだよなあ。
2回目に見たときは耐性がついたのでそんなに気にならなかったんだが。
だんご大家族がお笑いをやらなくっても歌を歌うだけで充分だった気がするなあ。まー、素人が素人なりに場を盛り上げようとがんばってると言う事なのかも試練のだが・・・。
岡崎のキックはスゲーな。



あ、あと作画に関してもう少し考える事がある。
素人のニートの思い付きですが。
出崎演出というのは、実写ではないアニメ作品において、実写の表現技法を何とか再現しようとして、何とか実写以上の表現効果を上げようとして生まれた物ではないかと愚考しているのですが。
えーっと、ハーモニー処理を例にして言うと、セル画では絵としての密度が低いのを水彩画にして密度を上げてインパクトを発生させようとしてるだろうなあと思う。
だが、現在においてはセル風CGでアニメを作ってるし、出崎監督が考案したアナログ的な透過光や入射光って、デジタルで簡単かつ無制限に出来るようになってるんですよね。
そういう状況では、やはり、古臭いと言う印象に成る。
というよりは、ツールと目的がずれてる印象、、、、
具体的に言うと、デジタルで水彩風に書いたハーモニー処理ではインパクトもありがたみも無い。
また、技法的な問題で言うと、デジタル彩色で絵を書く場合、無制限に情報量を増やせるので完成の見極めが難しい。水彩であれば、在る程度塗れれば完成だし、油絵の場合も密度を見極めて完成という事になるのだろう。ただ、デジタルの場合はアニメ塗りに近いものから油絵以上のものまである。
で、近年のAIRCLANNAD、それと雪の女王でのハーモニー演出を見た場合、個々の絵の完成度がばらついていて、とっ散らかった印象を受けてしまった。
書き手の技量の差がアナログ以上に如実に出ると言うのが、デジタルを用いたアナログ風一枚絵なのだなあ。
さすがに雪の女王では杉野昭夫氏のエンディングの絵は上手かったのだが。上手い人だけ描けばいいとおもうんだが。
そこら辺の完成度の統一を図って、新しいデジタル技法とすり合わせるような作画監督が居てほしかったと思うのである。
だが、出崎監督は個性が強く、実績もあるのでスタッフが萎縮してしまうかもしれないし、また、「それなり」の実力を持った若手の場合は下につきたがらないという側面もあるんだろうなあ。
そーかんがえると、舞台とかジブリとかカプコンとかエロマンガ家で実力が在るがサンライズでは新人、と言う人を引っぱって使うというトミノ手法は人心掌握術としては有効かもしれないが、長続きはしてないと言う現状もある。吉田健一氏が新ガンダムエウレカの汚名を返上してくれるのなら良いのだが。
つーか、アニメ界の爺たちが死ぬ前に結集してくれたら面白いと思うんだけどなあ。


世界名作劇場火の鳥〜宇宙戦国時代編」
原作、手塚治虫
プロデューサー、高橋良輔
総監督、高畑勲
監督、杉井ギサブロー
脚本、富野
演出、りんたろう
絵コンテ、出崎統
キャラクターデザイン、天野喜孝
メカデザイン、シド・ミード大河原邦男
アニメーションデザイン、安彦良和
作画監督パヤオ大塚康生湖川友謙塩山紀生、他

声の出演、野沢那智市原悦子
なんというカオス。爺アニメが見たいよー



だから、まとめると、アニメーターを信じてない出崎監督に信じさせるような絵描きが頑張れよ。
で、逆に京都アニメーションガイナックスは絵の力を思いっきり信じてるよなあ。
ここら辺が実写をやれないでアニメに不自由を感じている世代と、デジタル技法の自由さを身につけている世代の差なのかなあ?
うーん。でも、京都アニメーションガイナックスは絵を信じているって言っても、デジタルで一枚絵の光線具合をいじるだけじゃなくって、動画のタイミングとか動きの面もかなり自信を持ってやってる感じだよな―。



あと、細かい所だが、桜並木の坂道は段になってるのに平気で自転車が通っていたのは、絵コンテと動画と背景の意思疎通が出来てないんじゃないかと思わせて不安だからちゃんとしろ。



あと、音響面にはあまり詳しくないんだけど、前作劇場版AIRのラストシーンで青空がかかったらやっぱし盛り上がったんで、クラナドのラストシーンも歌をかけたらよかったんじゃないかなあ?そしたらスタッフロールで何曲も消化するような事にも成らなかったと思うし。
あるいは、汐が出るまで思いっきり盛り上げて、いきなり無音にするとか。
普通のBGMだったので拍子抜けだったかなあ。






まあ、大体こんな所が僕の劇場版CLANNADアンチ意見であります。
ああ、アンチを書くのは疲れる・・・。精神的にやる気が起きないので書くのにも時間がかかるし。
僕は粘着的な性格でナルシストなので、何かを嫌だと思ったら、何故おれ様がイヤだと思ってしまったのか自分を探求し、どうやったらイヤじゃなかったのかを厳密に考えてしまうので疲れる。
まあ、それはそうなんだが、それくらい考えたいと思えるような作品でないと見る気がしないとも思う。だって、金が無いんだもん。
なんとなく流し見して、それなりに絵がきれいだったです―〜人が死んで感動しました―みたいな作品を見ている余裕は無い!
むしろ、自殺しない理由をでっち上げるためにアニメを見てるんだよ!命かけてんだよ!
というわけで、灰汁の強い物ばかり集めてしまうよ。
普通のクオリティーに見れるものは感想を書く気にもならんし。
何でも書いてたら身がもたねー。



んで、
http://www.toshima.ne.jp/~styou/index.html
出崎統公式ファンクラブの掲示板に、オレも書き込みしたのでまた見に行ったら、荒れてる・・・。
まあ、炎上と言うほどでもないんだけど。
2ちゃんねるとか惑星開発とかを見てると、感想の言い合いが論理合戦になってて、だんだん個人攻撃や権威主義に堕していくという流れを良く見る。
ただ、僕は現実世界での競争主義を崇高な虚構に持ち込むことは大ッ嫌いです!
つーか、そういう論争を見てると、アニメに対して評価を下したり点数をつけたり、スタッフを老害とか糞とか言ったり、視聴者を肛門とか言うような人は現実でも人を格付けしたりする社会で生きてるんだなあと思って、非常にイヤです。
僕はそんな世界がイヤでアニメを見ているのに。
っていうか、現実世界だって数字で判断できる物じゃなくって、何となくじゃないんですかねえ?印象だけで生きてますよ私。
だから、俺は数学が苦手なんだよなあ。







しかし、それまでのキャリアとは正反対の美少女ゲームハム太郎をやって、今まで一緒にやってきた人と離れて、それでも若手に迎合するでもないっていう状況で個性を貫くと言う現在の出崎統の状況はかなりピーキーでおもしれーな―。
だが、それがいい


声優さんのインタビューや川上とも子のオーディオコメンタリーを聞くと結構好評みたいですけどねえ。