玖足手帖-アニメブログ-

富野由悠季監督、出崎統監督、ガンダム作品を中心に、アニメ感想を書くブログです。

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伝説巨神イデオン Be INVOKED 発動篇、(大まかな感想)

企画製作 (株)日本サンライズ              キャラクターデザイン 湖川友謙
配給 松竹株式会社                     メカニカルデザイン 樋口雄一
製作 岸本吉功                        アニメーションディレクター 湖川友謙
企画 山浦栄二,伊藤昌典                 美術監督 中村光毅
原作 矢立肇富野喜幸                  撮影監督 岡芹利明
総監督 富野喜幸                      音響監督 浦上靖夫
監督 滝沢敏文  
脚本 山浦弘靖富田祐弘,渡辺由自,松崎健一
音楽 作・編曲・すぎやまこういち,編曲・あかのたちお,小六禮次郎
イメージテーマ曲 「海に陽に」作詞・井荻麟,作・編曲・すぎやまこういち,唄・水原明子


ユウキ・コスモ 塩屋翼     フォルモッサ・リン 横沢啓子      キラルル 尾崎桂子
ジョーダン・ベス 田中秀幸       ファム・ラポー つるたきみこ       パーキンスン 筈見純
イムホフ・カーシャ 白石冬美      ノバク・アーシュラ 松原雅子      士官 伊井篤史
フォルモッサ・シェリル 井上瑤     マラカ・ファード 高木早苗        士官 亀井三郎
アフタ・デク 松田たつや         ドバ・アジバ 石森達幸         兵士玄田哲章
カララ・アジバ 戸田恵子         ギンドロ・ジンム 加藤清三      兵士 大林隆介
ギジェ・ザラル 林一夫          ダラム・ズバ 木原正二郎       兵士 桜庭祐一
ギャバリー・テクノ 桜本昌弘       ロウ・ロウル 徳丸完          キッチ・キッチン 鵜飼るみ子
ナブール・ハタリ 井上和彦       ダミド・ペッチ 田中崇          エミリア 中谷ゆみ
イラ・ジョリバ 塩沢兼人         ドモエ 屋良有作             ハルル・アジバ 麻上洋子
ファトム・モエラ 佐々木秀樹      バジラウ・ギルバ戸谷公次       ナレーター 田中信夫
マルス・ベント 三橋洋一        ビラス 島田敏
バンダ・ロッタ 山田栄子        トロロフ 梨羽雪子

とても、とても、面白かったので3回見ました。
音声をmp3にして、3倍速で5回聴きました。
とても、とてもおもしろかったので、感想を一生懸命書こうとしたら3週間たちました。
イデオンの元ネタになった宗教の本を借りたりしたんですけど、読めていませんし、考察ホームページを読む時間もありませんでした。ホームのワークが大事です。
明日から、また忙しいです。昨日は徹夜でした。
気分は「巨神め!死なばもろとも!」です。
とはいっても、別にオタクだから書くって言うわけじゃないでス。ただ、イデオンの感想を書かないと他の富野アニメを見れないので、富野アニメを見ないとトミノ分が低下して、健康が損なわれます。
また、富野のことをバックグラウンドで常時考察しつづけるので、感想をブログに捨てて思考にエンドマークを打たないと動きが鈍くなるんです。
それを言ったら、脳内妹との馴れ初め小説こそ、思い出しすぎるもので、早く書かないと死ぬ。
書くのは単なる健康法です。
では、さっそく。

  • 繰り返す物語としてのリング・オブ・イデオン

なのではないか?
と、思った。
イデオン本歌取りである新世紀エヴァンゲリオンヱヴァンゲリヲン新劇場版 REBUILD OF EVANGELIONが、繰り返しの構造を明示していると言う時代に、僕がイデオンを見たので、そのせいでそのように感じたということも在るのかもしれない。
ただ、どうしても、テレビ版と接触篇と発動篇の違いを見ると、それは興行形態という基底現実の環境要因によって要請されただけの物、とは考えない方向で行きたい。
なぜならば!
富野喜幸監督は要請されたらそれ以上の事をやる男だ!
実際、イデオンという伝説の中での富野発言では、このようなものが在る。

 輪廻にも上昇する輪、という概念があってしかるべきなのではなかろうか?
伝説巨神イデオン記録全集1

これは、ボクもそう思った。イデオンという伝説を読む前に、

伝説巨神イデオンのテーマは明快で「馬鹿は死ななきゃ治らない」である

とはよく言われるけど、僕としては、繰り返し輪廻永劫回帰時空内スパイラルビーム宇宙説を採用したいので、


「死んだらバカは治る(かもしれない)んだ!だったら何度でも死んでやるぜ!」

http://d.hatena.ne.jp/nuryouguda/20080406/1207420762

と、書いた。
やっぱり、富野監督とは考え方が似てるなあ。他人とは思えん。
だから、作品論とか、出来のよさ、と言うよりは個人的思い入れに過ぎないのかもしれないんですよね(笑)
やはり、アカシャ年代記を読んだ僕としては、イデオンはシュタイナーを東洋人の観点からエンターティンメントとして描いたのだと思うのだ。
気がくるっとる。まず、おもちゃに対抗する大風呂敷として、こんなオカルトを持ってきて、しかもエンターテインメントとして総天然色動画にする発想がありえない。
大好き。
で、そのような考察がネットにあまりないようなので、ちょっと書いてみますけど。
僕が生まれる前に出尽くした議論だったら赤面するだけです。
また、僕は江戸川乱歩っぽい所がありまして、基底現実の人よりも虚構の世界の人の方が広い世界なんだと思うので、そのように虚構の中に宇宙があってほしいのです。

  • 輪廻とは憑き物落しなのではないだろうか?

テレビ版のイデオンよりも、接触篇は格段にストレスが少ない。
尺の問題、つぎはぎでしかない、という問題。
それはある。
が、それならば、もっと、もっと、そのままでいいはずなのだ。
以前にも書いたが、http://d.hatena.ne.jp/nuryouguda/20080406/1207420762
冒頭からすでにイデオンの名が浸透している。
冒頭から既にイデオンに武装が配備されている。
冒頭ではソロ星の軍と科学庁が協力して遺跡の発掘にあたっている。
イデオンメカの解析はテレビ版よりも進んでいて、子どもが乗ったら動くと言う実験も出来ている。
シェリルは前世でギジェとくっついたので、接触篇ではコルボックに対する感情が薄い。
ギジェがあまり殺さない。
やり直しの世界のようなんですよ。
39話で、イデの発動によって全てが吹き飛んで、やり直した世界なんじゃないかな、と。
しかも、どうも、1回や二回だけではなく、かなりやり直してるように思います。
例えば、一番端的なのはモエラのセリフですね。
テレビ版では「いい運命を見つけた」「あの光が、俺たちの運命を変えていく光だ」
と、運命が他の何かによって善く導かれる、という物言いです。
接触篇では「こんなものに、俺たちの運命を変えられてたまるか!」
と、運命を自分で維持しようと言う風になっています。
で、発動篇ではコスモの口から、「モエラの言葉じゃないけど、運命は自分で切り開く物だ!」
と、よりポジティブな方向へ、しかもモエラがそれを口癖にしていたと言うように、魂の練度が上がっているように見えます。
なぜ、前向きになっていたのか。

  • 憑き物とはエゴであり、欲求。

テレビ版からの改変は、エゴのもたらす欲求を減らす、と言う方向には進んでいないようです。
むしろ、欲求を満たす方向に行っているような気がします。
欲求が満たされた事で前向きになるように変わっているようです。
たとえば、ダラムは若干ハルルよりも近い位置で、また、穏やかな人物になっていた。
ロッタはテレビ版では兵士くらいしか殺していないが、接触篇ではマヤヤの殺害に成功して、ある種欲求を満たしている。
テレビ版では寂しく死んだキッチ・キッチンは最後をコスモに看取ってもらえた。
(発動後に「いてくれるだけでよかった」というセリフは初期のプロットにもあったが・・・)
それはなぜか?

  • イデは平和を希求する物だから

イデは、「我が身を守る」という。
そのためには、戦いは在ってはいけないのだ。
だから、イデが何度も世界をやり直すあいだに、「戦う理由」を潰す行動に出ていたのではないかと。
戦い、というか憎しみや断絶と対立を廃し、融和を目指そうと言うのが、群体意識であるイデの行動原理なのではないかと。

結論:イデとは、地球人/バッフクラン、亜空間/空間、マシン/生命といった対立を超越するところに特性がある。一言で言うならば、「既存の対立を破壊し、新たに再構成し続ける運動の場」である。
http://homepage3.nifty.com/mana/ideon.html#top

こちらでもそのように考察されてらっしゃいます。
だから、イデは「対立を産む欲があるのなら、それを満たしましょう」と、なる。
そのせいで、何度も宇宙をやり直す中で人々の欲求は満たされる、エロゲー的に言うとトゥルーエンディングルートへのフラグを立てて行ったのではないかと。
そのようにして、人の欲求を満たして、対立が消える可能性を少しずつ高めていったので、発動篇のイデはテレビ版で発動した時の、ドバの言葉で「全宇宙の人類の総意が相手に対する殺意」だと決定して世界を滅ぼす事はなく、少しだけ待ったのだろう。


また、対立を消すためには欲求を満たすだけで無く、「戦う理由となる業やこだわりが在るのなら、それを消しましょう」と、なる。
だから、カララがドバの元へ送られたりもする。それは融和を期待してのことだったが。
それと同じ理由で一見ソロシップの戦いとは遠く離れた二つの地球は流星によって破壊される。
コスモたちの地球は、「守るべき故郷」および「イデの力を戦いに利用しに来るかもしれない物」として、バッフ・クランの地球(のズオウ体制)は「ドバが力を欲しがる理由」、「守るべき一族」として、消し去られなければならなかったのだ。
ハルルとカララの対面も、姉妹の融和をイデが期待したからだろうし、また、そこでカララの銃弾が逸れ、ハルルがカララを殺したのも、
「カララを殺せばハルルの欲求が満たされ、対立が消えるから」
という事も出来る。
イデは、ひたすらに戦いさえなくなれば幸せになれるのだ、と希求する魂である。
戦いをなくすためならば、人類など何度滅びても構わず、輪廻させる。
また、イデ自身に殺された人もイデの「場」の一部となっている節も感じられ、戦いによって死んだ魂は戦いを無くすためのイデの無限力をより増大させるだろう。
ですから、

イデとは、「対立する物を結びつける力」ですから、ルウの精神のように、対立自体が存在しない状態に対して、最も共鳴するのです。
もしかすると、ソロシップクルーが考えたような、「純粋な自己防衛本能」こそ、実はイデが最も共鳴しないものなのかもしれません。
http://homepage3.nifty.com/mana/ideon.html#top

というのは正しいとは思いますが、
私は、「イデが純粋な自己防衛(全ての対立を無くし、自己に取り込む事で危険を消す)本能を有するがゆえに、個人の人間の個体の防衛本能は無視してぶち殺す」のではないか?という風な見かたをしました。



  • イデはなぜ、そのようなものとなりえたのか。

富野監督によると、

「イデが第六文明者が存在した前宇宙を亡ぼしたのは、混沌でありすぎた宇宙だからで、それの混濁した遊びがすぎたことを認識したからではないだろうか?」

 

「混沌たる世界の中に生まれた種より、秩序の体系が生んだ種の中に新たな可能性を見とめたのではないか?それは、イデにとって、喜びに満ちた現象である。」

                        (イデの発現についてのメモより)

第六文明人から生まれたイデはそのようにして、秩序を輪廻を通じて秩序を賽の河原のように積み重ねていこうといこうとしたものなのではないか。
それは、彼等の人生が混沌でつらいものだったからトラウマになり、イデとなってからも物事を秩序ある方向に導かねばならないと、暴走しつづけていたのではないか。
人であった頃のトラウマに縛られた神。

  • 第六文明人としてのエンジェル・ハイロゥ

ここで、話は機動戦士Vガンダムとなる。
http://yasuaki.cocolog-nifty.com/new/2005/08/post_0584.html
こちらでも考察されていらっしゃいますが。
(ちなみに、yasuaki氏のコンテンツばかり流用するのは、単に他の所まで目を通すのが面倒くさいだけです)
エンジェル・ハイロウを作り上げたサイキッカーの人々と言うのは、どのような人だったか?
おそらく、彼等は新世代と言うには陳腐化したニュータイプなのでしょうが。
http://d.hatena.ne.jp/psb1981/20070128/1169955082
まー、大体こういう人です。
もちろん、僕の意見は別個体ですから違っていまして、アンダーフックの人々は

人間、衣食が足りると礼節を知る前に、自意識が疼きだすと思う。もちろんここで目の前の日常、すなわち仕事や恋愛、人間関係に学業が順調で上手くいっていれば特に問題ないのだが、そうでない場合、「こんな日常より、もっと大事なことがあるはず」なんて、モヤモヤと余ったエネルギーを他所にぶつけ始めてしまう。

というのは正しいんだけど、それだけではないとは思います。
なにしろ、Vガンダムの時代は宇宙戦国時代。
ザンスカール帝国とリガ・ミリティアしかアニメでは描写されていませんが、木星にまで拡大した人類が小さな藩王国を作ってひたすら殺しあう時代です。数百億の人間が生き残るためにどんなことでもする世界だ。
アンダーフックは立地上その中で比較的安定した街ではありますが。
その中で暮らす元ニュータイプは、力を持ちながらも世界に対して無力である事に苛立ち、また、力を持つがゆえにそれを生かさなければならないと言う執着にも取り付かれよう。
おそらく、サイキッカーはそのように思う人々、アンダーフックだけでなく人類全体からザンスカールに集まった集団なのだと思う。
そう、悲しい存在なのだ。
目の前の悲哀に手を差し伸べることができず、宇宙全体、人類全体を革命しようとしたザンスカール帝国の人々。
あこがれだけに惑わされたり、辛さ逃れの逃げ道にして、メフィストの国に希望を見出した人々だ。


そして、また、ソロシップとイデオンを作り上げた人々も混沌の時代に秩序をもたらそうとした、悲しい存在だったのだと思う。

だから、イデオンという戦闘メカをもってしてソロ・シップというイデの場を防衛しなければならなかったのだ。
劇場版パンフレットによると、イデオンはもともとは戦闘用ではなく力に対する願望を現したシンボルであり、3つに分かれていたのはそれぞれを「知・力・心」の象徴とした第六文明人の作為だったらしい。
僕は、力への願望を善きイデアの象徴とする作為は潔癖症過ぎると思う。
イデを作った人々はやはり、ザンスカール帝国のような、地球クリーン作戦を行なうような人だったように思える。


混沌の時代を生きた第六文明人、彼等の全てがイデになったわけではないのだろう。
イデに取り込まれることを良しとしない人々もいたはずだ。リガ・ミリティアのように。
だから、イデオンは必要だったのだ。
キャノンと両手の剣を持った、真紅のゴトラタンはイデオンだったのかもしれない!
もしもイデオンの本当のパイロットが、カテジナ・ルースのような少女だったら、それはそれは悲しい事だ。
カテジナにとっては愛による全人類の救済などは、自分の居場所を求める方便でしかなかったのだから。

姉を殺されて、衝動的に飛び出そうとするクロノクルをカテジナは「そそっかしさではなく、真の強さを私に見せて欲しいのよ。」
姉を殺された弟に対して、何の同情も抱かずに愛されたガールなカテジナはすごいな!さすが問題家庭の一人っ子。
誰も受け入れない、決定的に母性が欠落した少女なのだ。


また、マリア・ピア・アーモニアも「クロノクルのように小さな魂しか持てない人間」と言った。弟に対して、その言い草はすごいな。
しかし、マリアにとってクロノクルは弟ではなく、男でしかなかったのかもしれない。

「私のような女がいたから、カガチはエンジェル・ハイロゥを作り、タシロのようにそれを利用しようとする男が現れるのです」
「私は自惚れていたのです。エンジェル・ハイロゥの機械を通してでも、平和の祈りを人々に伝えられると信じていたのです」

   「けれど、機械は部分的にしか働かず、何より、私は大人であり過ぎました。邪念と情念に取りつかれたのでしょう」

   「タシロという男に攫われるなどは、私の不徳の致すところ。女の所業が呼び込んだ悲しい罰」

クロノクルは民間療法をしていたマリアから金をせびるためにマリアの霊能力を紹介するAVディスクを作り、フォンセ・カガチとの出会いを作った張本人でもある。
娼婦であったマリアにとって、クロノクルも自分を利用して縋りつく男の一人だったのか?
そして、また、それは男を受け入れてしまう自分への嫌悪と諦めにもなる。


母性の欠落を力にするカテジナと、母性ゆえに傀儡になっていったマリア、二人の女の対比はスゴイ。(その間にいた女達も)
そして、処女であるシャクティがエンジェル・ハイロゥを発動させた、という構図も面白いな。
それは母マリアの男に対する復讐であったかも知れず、また、カテジナはそれに苛立つ。
シャクティに「元々の平和とは、魂がそれぞれの家に戻る事でありましょう。父が、母が、そしてそれぞれの連れ合いが、寄り添う事のできる世の中でありましょう」と言われ、カテジナはバカにされたと吠える。
カテジナはクロノクルを巣と言ったが、寄りそう連れ合いとは思っていなかったと言う事を子どもに見透かされた、と、感じたのではないか、と。
それはキレる。
シャクティはそれを受けて、「人間の罪は、死をもってしか償えないのでしょうか。祈りでは、人の業を消すことはできないのでしょうか」死によって人を融和させようと、シャクティサイキッカーは目論む。
すでにエンジェル・ハイロゥは発動し、死者の霊魂もその場に融和している。
だが、カテジナだけは決定的に融和を拒否する。(アスカみたいですね!)
「まだあたし達には、放っておけない奴がいるんだよ」と、コニーの霊が言ったのは、カテジナを殺すのではなく、取り込もうとしたからなのかもしれない。


だが、カテジナは死ななかった。小説版では死んだけど。
ゴトラタンがガンダムに破壊されたからなのか?シャクティサイキッカー達と別れて地球に帰ることが出来たのは、ウッソがいたからだろうか?
カテジナのエゴがあったからかもしれない。それは分かりません。
カテジナの精神はエンジェル・ハイロウに取り込まれたかもしれないが、僕には最後に記憶は戻ったように見えるので、カテジナさん・・・。
カテジナやウッソ達は地球に帰還したが、エンジェル・ハイロウの一部はソロ星に飛んだのかもしれない。
また、それも輪廻の一面に過ぎないのかもしれない。
ある輪廻の側面でゴトラタンはイデオンとして製造され、エンジェルハイロゥ=イデの場を防衛したかも知れない。そこで全人類がウォームバイブレーションによって統合された宇宙では、それは第六文明人の崩壊とイデの誕生となったのだろう。
yasuakiの新評論空間では、逆襲のギガンティスについて、Vガンダムからイデオンという流れを支持していらっしゃいますが。
僕は輪廻は一方に進むのではなく、小さな輪を描きながら大きな輪を移動するような物かもしれないと思うので、イデオンから逆襲のシャアと言う事もありえるのかもしれないと思います。
カガチは木星帰りの男なので、逆襲のギガンティスでのイデオンの破片からエンジェル・ハイロゥを建造した、と言うタイムパラドックス的な妄想もありえますね。

  • ウォーム・バイブレーション

実際、カララ殺害後のハルルの感じたイデの発する光も、マーベット達の感じたエンジェル・ハイロゥの発する光も、物理的な力のない暖かさなのだ。

コスモ「何だ?この暖かい光は?」


ハルル「キラルル、何の光だ?」

キラルル「は、はい。わかりません。磁気反応、放射能反応、時空反応、全てありません。…電気的なものでもないようです。」

ハルル「力のない光なのか…?」

キラルル「力?…エネルギーがない?!…それは…ッ」

ハルル「この暖かさ…緩やかな輝き・・・なんだ?」

トマーシュ「光?何の光だ」

オデロ「エンジェル・ハイロゥから降ってくるのか?」

マーベット「機体の温度は上がっていないのに。物理的な力ではないというの?」

スージィ「きれいだけど」

ウォレン「まさか、これも新兵器なんじゃないの?」

スージィ「気持ちいいの?カルル」

「エンジェル・ハイロゥの方から降っています」

カガチ「温かい光だぞ。なな何だ?このウォームバイブレーションなど、こんな現象は計画の中にはなかった筈だ」

機動戦士Vガンダム第50話 憎しみが呼ぶ対決

同じものであろう。
富野監督宇宙では、人の心こそが宇宙を支えている根幹である。で、あるから、最終的な力の発動の前触れは人の心にのみ作用する力として描かれる事が多い。
そして、人の心によって作られている宇宙と物体もそれによって支配されるのだ。
これが、アニメキャラの認識論とかになると高松信司監督宇宙になるわけだが。
イデオンという伝説」で、98年の富野監督は「Vガンダムは老成した仕事だった」と言ったのは、イデオンを焼きなおしたからかもしれないな。
ただ、ガンダムでは、ガンダムが最後に勝つ。

  • 地球とバッフ・クラン

なぜ、全ての第六文明人、つまりヒトが、イデにならずに二つの地球に分かれて存在していたのか、と言う事もVガンダムから類推した。
イデがエンジェル・ハイロゥのように建造された時、リガ・ミリティアのような土着の反対勢力は地球人に転生し、イデを道具として使って出世しようとしたザンスカールのような勢力はバッフ・クランに転生したのかもしれない。
イデが一度宇宙を滅ぼし、全く同じ距離に全く同じ地球を作ってまでやろうとしたことは、自らを作り、自らの周りで争った二つの勢力を引き離し、同じような歴史を歩ませ、同じようなレベルに達した時に自らに呼び寄せ、融和させるためだったのかも知れん。
イデの神話の英雄伝説、イデという言葉、使っている数字(!)が共通している事から、地球とバッフクランはただ単に生物的に同じと言うだけではなく、元は同じ生物だったと考えられる。
だが、生まれ変わっても他者と戦いつづける魂の差異は治らなかった。
バッフ・クランはやはり単一民族になるまで戦争をした戦闘民族だったし、地球人は弱いくせにずるく、人を裏切る。

  • そのために、イデは二つの人類を徹底的に戦わせなければならなかった。

何度生まれ変わっても、何度世界をやり直しても、対立はなくならないのだった。
やり直して、その度に少し世界を調整し、或る者の欲求が満たされる事は在った。
それで少しは融和の可能性も増えた。
が、
やっぱり、
大本は変わらないので、モエラが前向きになっても死ぬし、
ロッタがマヤヤを殺した代わりに、ロッタはハルルに殺されなければならなくなるし、
ギジェの罪が軽くなってもギジェは死ぬ。
シェリルはギジェを喪っても自暴自棄にはならなかった。が、その分、疲弊した頭でルゥを使うと言う自分の最適行動を貫いて、死ぬ。(シェリルの最後は狂気ではなく、最後まで解決策を模索した結果だと思いたい)
ソロシップは全滅する。


  • カーシャの憑き物、

イムホフ・カーシャの女としてのコンプレックスも発動篇にいたって解消された。
女としての自分を認めたくなくて、純潔を守りたいと言っていたカーシャが、カララとベスのラブシーンを見た。
女の中の子どもを中心としてソロシップと言う家族が形成される雰囲気を感じ取る事で、カーシャは女としての自分を受容した。
軍育ちのカーシャにとって生きる事は戦いだったので、女が男にもたれるのは人生と言う戦い(主体性)から逃げる行為だと思っていたのかもしれない。可愛い容姿を持っていることにコンプレックスを抱いていたのは、まさに自分の女としての魅力が自分の主体性を攻撃する物だとしていたからだろうか。
それが、戦争状態の中でのカララの妊娠によって生まれた暖かい空気を感じる事で、男と女のやることが自然な事と、思えたのだろうか?
(ここの思想の転向をカーシャの一寸考え込んだ視線の表情だけで描いたのはスゴイ!)
それで、1話以前から仲のよかったコスモと、キスをしてみようと言う気分になる。コスモもカーシャと同じなのだ。
だが、カーシャはカララも守れず、コスモと唇を交わすことなく、死ぬ。
キスが出来なかったのは、ヘルメットを外す知恵と時間が無かったせいか、あえてやり残しを作っておこうと言う戦場のジンクスか。(カミーユはファを抱けてよかったな)
そんなカーシャは何故死んだのだ。

  • ハルル・アジバの憑き物落し

ベスとカララのラブシーンから続く、コスモとカーシャのラブシーンによって戦場の空気は一旦緩んだ。
そこに殺意を持って飛んでくるのがハルル・アジバのザンザ・ルブである。
その中で、ハルルと部下のキラルルとトロロフの間での笑いを挿入するのは見事としかいえないなあ。殺し合いばかりの発動篇に緩急をつけるとともに、敵も同じように戦場の中で人間同士の安心感を求めていると言う事を暗示させてる。
だが、ハルルはカララを殺す。
ダラムが優しくなってもハルルはダラムの顔も見れず、遺言は手に入れられないままだった。それが憎いから、ハルルはカララを殺した。
ならば、それでハルルの憑き物は落ちて、欲求は解消されたのだろうか?
そうはならない。ハルルにもエゴが在る。
カララ殺害後に父に会いたいと願ったハルルと父親のドバの対話はとても感じ入る物だった。
妹のカララを殺したと報告するハルルは、父ドバに何と言ってほしかったのだろうか?
自分の恥を晒すような物言いからは、誉められたくはなかったようだ。叱られたかったのだろうか?悲しんで欲しかったのだろうか?
しかし、ドバは武人として「よくやった」という言葉しか持たない。
また、このシーンのドバのセリフの最初と最後。
「女らしい良い部屋だな」→「私はお前を女として育てた覚えは無い!」
ここだけに整理すると、ハルルの人生全否定。
ハルルが死んだダラムに助けを請うのもむべなるかな。
その後、ハルルはドバの命令を聞かなくなり、独自に軍を動かす。ハルルはドバから自立できたのだろうか?ハルルは抑圧から解放されたのか、単にヤケを起しただけなのか?
ハルルはドバを切り捨て、女軍人として生きてきた自分の人生の矜持のみを恃むようになったように見える。
が、カララを殺し父を超えたハルルも、融和に到る事はなく、結果としてイデオンガンに狙撃されてドバに先立って死ぬ。

  • イデとの戦いは収束する

カーシャが死んだのは、コスモから戦う理由を奪うためだ。
ハルルがイデオンガンに撃墜されたのは、ドバから戦う理由を奪うためだ。
私は以前、

http://d.hatena.ne.jp/nuryouguda/20071204/1196784396
結局、アムロという少年は求めれば求めるほど、ことごとく奪われる少年なのである。

運命とか世界とかによって。

だからこそ、視聴者はフラストレーションを解消するカタルシスをアムロに仮託できる。

また、富野喜幸の言うように、死んでいったものたち、戦争によって奪われたものたちの代弁者としての資格を得る。

そして、その奪われても奪われても求めつづける力が生命力となる!

と、書いた。
アムロも父親や母親やララァと言った戦う理由をことごとく奪われても戦う男だった。
イデオンはおそらく、機動戦士ガンダムのこの部分を発展させたのだろう。
戦う理由がなくとも、戦いつづける人間を突き詰めれば、どうなるか????
そして、イデの興味、つまり、対立する存在はイデオンのコスモとバイラル・ジンのドバ・アジバに収束する。
これは赤い光として端的に現されている。
イデは対立を無くすために戦わせる。
対立を生む原因とみなされた物は、地球、仲間、恋人、カララ、ハルル、と、次々と消されていく。
しかし、対立を生む物は「守るべきもの」だ。
「守るべきものがなくなったから、戦いは止めましょう」
そんな人間はいない。
「守るべきものをなくしたからこそ、戦わなければ気がすまない」そういう、論理が破綻した行動をするのが、人間だ。
最期、ドバとコスモは言語も空間も飛び越え、イデを媒介に会話を交わす。
そして、イデに対して同様の見解を得る。
イデオンメインパイロットのコスモと、バッフクランの長であるドバは同じレベルと立場の存在という事になった。
「同じ思いがあるのなら、戦いをする必要は無いでしょう」
そんな事は無い。同じ境遇だからこそ、二人はお互いを直接ぶちのめしたい!
それをエゴと言ってもいい。
人間を個人足らしめている思い出だ。業だ。
死人はイデに取りこまれるだけではない。それまで関わった人間の業にもなるのだ。
だから、ドバ・アジバもまた、死ぬ。業を一身に背負った男だからだ。


バッフ・クランの業を背負った男が死に、彼を殺した士官もイデオンに殺され、そして、戦う理由は何もかもなくなった。
だが、それでは不十分だったのだ。
イデオンとソロシップがただ、出来そこないの人類を抹殺するだけでは、また、転生した人類の魂は同じく殺し合いと対立を続けるだけだ。
では、何がいけなかったのか?

「この世を燃やしたって一番ダメな自分が残るぜ」(筋肉少女帯、踊るダメ人間)

対立を生んだのは、イデ自身だと知っていたはずだ。
だから、イデも消えなくてはいけない。
しかし、イデは何度も宇宙を創造するほどの力を持ったもの、それまでの死者の集積体である神である。

「あらゆる神の属性中、最も神の為に同情するのは神には自殺のできないことである」(芥川龍之介の「侏儒の言葉」).

だから、イデは人類を何度も殺すとともに、最終的には人類に殺されなくてはならなかったのだ。

  • 神殺しの、ガンドロワ

ドバが死んでも、戦いは続いた。
イデが業をドバに押し付け、対立をシンプルにしたとしても、独裁スイッチと同じように、その業を引き継いでガンドロワは発射された。
ガンドロワの発射音はイデオンソードと同じであった!
また、企画段階ではスペース・ランナウェイ(宇宙脱出)ガンドロワであった。
地球人はイデオンを復活させたが、バッフ・クランは神を殺すための神と同じガンドロワを作り出すためにあったのかもしれない。
また、ガンド・ロワが利用する超新星を巡る惑星は我々の地球の太陽系の木星土星に酷似している。
コスモたちの地球の月が公転周期と違って自転していた事を見ると、イデオンの最後の戦いは我々の太陽系だったのか?と言う想像もできる。
(その割に、木星を貫通してイデオンガンを撃ったら、木星の「破片」が飛び散るのは何だかなー(笑))
我々の太陽系の終局の、死の力をもってして、永遠に生き続けるイデを滅する、と言う事は興味深い。(太陽の大きさで超新星になるかと言うのは微妙だが・・・・)
ガンドロワの二発目の砲撃には、もはやソロシップとイデオンはバリアーで身を守ることはなく、ガンドロワを切り裂きながら、共に、炸裂した。
そして、今までのように一方的にイデが人類を抹殺すると言う発動ではなく、
真にイデは発動した。
イデと全人類の同時の死とともに。

  • 対になるものを求める

イデオンという伝説)

      • ソロシップと言うのは母性的なニュアンスがあります。対するバッフ・クランには父性的なイメージがあります。

あの戦いそのものが一つのセックスのような感じがしました。
2001年宇宙の旅」には根幹に神がいるというイメージがある。ところが、富野監督は紙ではなくてオスとメスとか、父性と母性のぶつかり合いとその融合みたいな事を描いていたのかなという気がしますが?


富野 確かに、それを目指していたところはあります。要するに、キリスト教文化圏の人間が作ったときに、「2001年」になってしまうんです。僕は八百万の神の日本の人間です。ですから、「イデオン」は東洋の人間が作ったものといえます。セックスのことも含めて、戦いのことも含めてですけれども、まさにそれは、オスとメスという言い方もあるんだけれども、要するにプラス・マイナスでもいいし、陰陽でもいいんです。やはり、そういった両極のものが共振し合ったときに、ぶつかり合ったときに、ものとか命というのは生成するんじゃないのかという考えに根ざしていたんで、ああなったんでしょう。
今回こういえるのは、「ブレンパワード」をこの延長線上で作っているからです。

イデオンの最後の咆哮は随喜の涙だったと信じたい!

http://d.hatena.ne.jp/kotohogi_k/20080417/p4
勿論逆もあって、「あー女の子かわいいな最高だな、もう男とかどうでもいいな」ってときと「あーもう男の子最高だな、もう女の子とかこわいな」というもの。で、必ず「どちらかを好んで素晴らしさを知ったからって片方を嫌悪することないじゃないか!」とカミーユふうに*1ハッ と気付き、落ち着かせる。

多分、イデもそんな感じ。
イデは人類に働きかけ、自らを殺させる事で、「融和」という母性原理に囚われすぎていた自分の歪な機械の体から、次の段階に進めるようになったのだろう。
蝶のように!
そして、神を殺すに至った人類もまた、発動した。

  • 何故、彼等は生きてきたのか、私見のまとめ

全人類が憑き物を落し、戦う理由を一つ一つ潰しながら死んでいく。そして、戦いを行なう者達を同じレベルに収斂していく。
同時に、イデオンという神を殺す、神と同じレベルのシステムも必要となる。
死んでいった者たちはイデに取りこまれ、その時を待つ。
最期には決定的に本心から戦いを終わらせたい、「こんな生き方は認めない!」というコスモの最後まで生き続けようとする魂の爆発と、神と神の相討ちによって解放された死と破壊の爆発をトリガーとして、次の段階に、進む。

  • だから、発動篇は嬉しいのだ

人類絶滅エンドっていうだけじゃなかった!
万歳!
死んだ魂がみんな仲良くなったよー!
なぜか!
徹底的に憎みあったからだ!殺しあったからだ!イデによって戦いは収斂していったけど、やはり個人の死は徹底的に死んだ!
やりとげた!六道輪廻を全部回った分のカルマが燃え尽きたよー!
やったー!
それまでも、何度も輪廻を繰り返して、その度に誰かの欲求を満たし、またその分誰かの欲求が満たされなかったりした。全ての人間が同じく幸せになることは無い。
だから、なんども宇宙は滅びたっぽい。
だが、発動篇に到って、とにかく何かをやり遂げた!
メシアが生まれただけではない。それまでの発動でもメシアはいた。
人類皆が少しずつ、魂を成長させたから、メシアを祝い押し上げる事が出来るようになったと思いたい。
イデのトリガーとなるために一番深くイデに近づき最後まで戦ったコスモが、疲れてしまったと言うのも正当でよい。それでもコスモは飛べた!

  • 何が一番嬉しいのかと言うと、

コスモの「幸せになろうな!」キッチ・キッチンの「あたりまえじゃない!損しちゃうもの!」
これ。
発動したら、全ての人がイデに取りこまれると思って見ていたら、なんか、幽霊達が楽しげに会話をしていて、嬉しかった。
エゴを捨てて、神になった、と言うのではなく、単一の生命体として人類が補完されたというのではなく、
個人の記憶と性格を保ったまま、寄り添いながらも、群体になることはなく、ただ、こだわりを捨てて究極に隣人を愛する事ができる魂というのが、嬉しい。
それは、イデを超えたと言って良い。
なんといういたわりと友愛じゃ。
ただ、富野監督は「エゴはあってはいけません」とも言っているし、
「実在としての生を持ったときの生命体は、生きている限り幸せである方が得なんですよ。そういう感覚体験が出来ない生体を持つと言うのはそれは損得で言えば、やはり損ですからね。」とも、
「何も一つの魂が転生してサイクルしていると言う、そういうことではないだろうな」とも、
「エゴがあると信じた近代思想がでっち上げた概念です。日本においては『人形の家』のの等のような精神を翻訳する時に「自我」という日本語を作り、それがひいて社会の成員論を欠落させる状況まで生み出してしまった」とか、
「まだ、こいつら、自分が死んでるって分かってないんだよ(笑)」とか
「ちょっとしたら全部忘れて、また完璧にリーインカーネーションするんでしょうね」

とか、
この部分に関しては矛盾を含めていろいろと僕が理解しきれない事を仰っているので、よくわからないです。(詳しくは、イデオンという伝説を読んでください。全部タイピングは無理)
ただ、僕は嬉しかったんですよ。
イデオンにおける霊的進化が、融合とか、神との一体化とか、不完全な人類の合理化とか、そーいう自己否定じゃなくって、
「これまで生きてきたことって無駄じゃない、無駄じゃなかったんだよ」
という、今までの思いがあるからなんだよ、っていうのが、すごくよかった。
今まで培ってきた自我、つまりエゴイスティック=利己主義という意味ではなく、認識の主体としての自我を育ててきた事が良い事だ。と、
その上で、子どもを憎んでいたハルルが子どもの歌を「可愛い歌」と言い、ジョリバは敵の女と寄り添い、独り身の連中も未来に生まれる事に前向き。
ドバとズオウがコスモとカーシャを誉めてくれて、コスモも屈託なく応えた。
楽に。
この全肯定な感じはすごく良い事だ。
エゴを捨てなければいけないということもエゴなのだ。エゴを持ったまま楽に生きていこう。


だから、俺も適当に生きるぜ!ばんざーい!


これはキリスト教圏の人には作れないかも。

  • で、それはシュタイナー的だ!と思ったのだ。

まー、シュタイナーがキリストなのかオリエンタルなのかはあんまり詳しくない。
ルドルフ・シュタイナーの「アカシャ年代記より」によると、土星紀、太陽紀、月紀、地球紀といった諸遊星紀の中の循環期を通して、人間は高級霊である天使によって人体を形成され進化するとのこと。

第一遊星である土星では、第一循環にスローネ、第二循環にキュリオス、第3循環にデュナメス、第四循環にエクシア、第5循環にアシュラ、第六循環にアークエンジェル、第七循環にエンジェルがその作業を行なう。
第四循環でアシュラは人類段階まで高まる。
第五循環からセラフィムが顕現する。
第六循環からケルビムが顕現する。
第七循環から本来の「人間創造主」であるスローネが顕現する。
このスローネの顕現を通して、第一遊星の第七循環に「霊人」(アートマ)への萌芽が生じる。
次に第二遊星の太陽紀の循環が始まって、地球は第四遊星で、第五遊星は木星、第六遊星は金星、最後の第七遊星がヴルカン星で、そこで人間は一応の進化の最終段階(帰神)を迎えるらしい。
人類は全部で7×7×7=343形態をとる。

はっきり言って、訳がわからない。
しかも、信じてもいない。だって、本ってただの文字だし。インクの染みだし。アカシックレコードを全部見たわけじゃないし。そんな事よりも数学とか工学の方が単位になるし。
しかし、かつて人間だった霊の力で人間が進化していくと言うのは面白く、イデオンにも似ている。

  • シュタイナー哲学による自我

「アカシャ年代記より」から、抜粋。これしか読む時間が無かった。

現在地球上で生活している人間は、肉体、エーテル体(生命体)、アストラル体、「自我」からなる四重の存在である。この四重の人間本性の中には、より高次の進化への萌芽が含まれている。すなわち「自我」は、自分の力で他の三つのより「低次の」諸体を改造していく。そしてそれを通して、「自我」よりもさらに高次の人間本性をこれらの諸体に組み込む。アストラル体を自我によって純化し高貴化することは、「霊我」(マナス)を生ぜしめる。(略)
現在の進化期では、アストラル体(感情や欲望)を変化させる事にあらゆる努力が注がれている。エーテル体、肉体を意識的に変化させる事は、将来の課題である。

イデオンはまさに、自我を突き詰める事で感情を穏やかにする作法を身につけた、と言えるでしょう。
まさに、人間の進化そのもの!
イデオンという伝説」で、トミーノはシュタイナーとは言わず、仏教関係やイスラムやヒンズー語から着想したと言ってた。(シュタイナーくらいは読んでたかもしれんが)
その上で、「論文を書くのが仕事じゃないから、物語を作るということを考える」といって、戦闘ロボットアニメにしちゃうのが、本当に神過ぎる・・・。
シュタイナーの本では漠然としたイメージだったのが、こう、映像でバーン!で、ロボットがガーン!ですからねー。
すごいよ!

人間の三体(肉体、エーテル体、アストラル体)の中では、どの体がそのあり方においてもっとも完成しているのか。人は肉体をもっとも低次な、したがってもっとも不完全な物とみなすかも知れない。しかし現在の時点では、肉体の「在り方」の方がアストラル体、エーテル体の在り方よりも完成している。上述した誤謬が生じるのは、人間が肉体を、自然界の中でもっとも低次の存在界である鉱物界と共有しているからに過ぎない。すなわち人間はエーテル体を鉱物界よりも一層高次の植物界と共有し、アストラル体を動物界と共有しているのである。
(略)
人体の一部分、例えば、大たい骨の上端部を例に取り上げて見よう。
(略)
最小限の素材が最大限の力を発揮できるように使用されている。このような「自然の建築技術の成果」を前にするとき、我々はただただ驚嘆しつつ、それに見入る事しか出来ない。そしてこの肉体と言う建造物と、人類が現在の進化過程で到達したアストラル体の完成度とを、一度比較してみればよい。アストラル体は快と不快、情熱、衝動、欲望などの担い手である。そのアストラル体は肉体の賢明な組織に対して、何という攻撃を加えていることだろう。
(略)
現在既にアストラル体の方が肉体よりも完成している、とはいえない。
(略)
現在の「自我」は、誤謬と幻想の中で、瞬間から瞬間へと、手探りで英知へ向って歩いていかねばならないのである。
我々が人間の諸構成体の完成度を比較するならば、現在のところ肉体のあり方がもっとも完成しており、(略)「自我」が、現在の在り方においてはもっとも不完全な人間部分である、と言う事が容易に理解できるであろう。それは肉体に対する働きかけが人間の居住地であった諸遊星が進化していく課程で、もっとも長期間に亙っていたからなのである。

というわけで、頭や精神だけで考えるのではなく、体感を大事にしようという大富野教の理念は、戦前からゆってる外国人がいたんですねー。
「それは同じ事を繰り返すでしょう。同じような形で生まれたときには、またそこで同じような感性が育っていくだろうからです。生物的な肉体って言うのは、馬鹿にした物じゃなくて、復元力も含めて、すごく力がある」
と、富野監督も言っている。それでも、中身が少しはマシになっていれば体ももっと上手くつかえるんじゃないか?そうだといいよね。
ゆっくりと、これからこれから。
監督はさらに、こういう。

精神、つまりものの考え方が、実はもの自体をコントロールしちゃうと分かってきました。さっきのエゴの問題にしても、それが人間の体を金縛りにしたり、社会まで金縛りにしているというところまで作動しているんです。だとしたら、やはり(略)冗談でいうこと、エンターテイメントで言う事というのは、きちんと分けておかないといけないんです。だけど僕の場合、僕の作品だけに限って言うと、そいういった境界線がないところで作っちゃっているという問題はあるかもしれませんね。そうしたとき、アニメが好きで見てくれるお客さんほど病気の最短距離にいると感じるので、「こいつらに歯止めをかけなくちゃいけない」ということを自分自身の責任としてやってきた部分はあります。

だそうです。
気をつけましょう。

  • と、いうわけで、イデオンは面白いけど、知ったこっちゃネーのだ。

あのねー、イデオンって言う映画で人類の進化が描かれていても、それは映画なの!
いや、すggっごいい未来には在り得るかもしれないと思わせるようなしっかりした映画だけど、だけど、そこまで輪廻が進化するにはまだまだ数兆年くらいかかるでしょうよ!
だから、「自分も進化しなくては!」だなんて頭で考えるのはよしましょうよ。
自分の生きている間に何もかもが救済されるって考える事の方が確率的に不自然です。
「コスモが生き返ってよかったねー」「おっぱいがきれいでよかったねー」「愛し合う事は良いよねー」そー言う感動で充分です。
そういう喜びを糧にして、飯食ったり掃除をしたり仕事をやったりしませう。
だから、こんなに長々とブログを書く必要性って、無駄だったんだよな・・・。
そら「そんなことない、そんなことないよ!心を整理して、それでお兄ちゃんがすっきりわかったんでしょ。あたしと愛しあう事の善さ!」
そうだね!
ラブ!

  • 残された疑問

メシアって男の子かなあ?そしたら、いきなりルゥ×メシアのやおいで宇宙が創造されるわけだが!(爆
あと、メシアの魂はイデの浄化されたものなのか、ただの子どもなのか?
ソロシップの人たちは次は人間として生まれ変わるのか、新しく生まれた人間を見守る、新しい天使の立場になったのか?
そこら辺ははっきりしなくてもいい疑問ですかね。
っていうか、進化した後の人類の事なんて僕には認識できんし。


まー、勝手にやってくれ。
僕は映画を面白がっただけです。