玖足手帖-アニメブログ-

富野由悠季監督、出崎統監督、ガンダム作品を中心に、アニメ感想を書くブログです。

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「ある日突然殺人ゲームに巻き込まれる話」はもう飽きた

もうそろそろアニメで突然やってくる女の子とか、幼なじみとか、やめませんか? - あしもとに水色宇宙
突然やってくる女の子より、ある日突然「さあ、ゲームの始まりです」とか言うほうが飽きた。
ある日突然女の子がやってくるアニメはまだバリエーションが広いし許せる。
しかし、バトル・ロワイアル以降の「ある日突然殺人ゲームに巻き込まれる」といったアニメや小説や映画は多過ぎる。
正直、アキカン!は女の子がやってくるよりも女の子が戦うゲームという設定の方が飽き飽きした感じだ。
そういう話はどれも似た感じになるし、殺伐としてて雰囲気が悪い。
イキガミ!とかセキレイ!とか黒神!とかリアル鬼ごっこ!とか平成仮面ライダー!とかデスノート!とかローゼンメイデンとか
いや、ある日突然殺人に巻き込まれるのはまだバリエーションが広いし見れる。
が、それをルールに沿ってやる、ルールに限定された範囲でやる、というのが甘っちょろい気がする。
というか、ドラマの人物よりもルールが主体の作劇になってしまいがちで生き生きしない。
DEATH NOTEはそこらへんを自覚的にやってたのが頭一つ抜けて面白かった要因だろうか。(ルールの話と思わせて、ラストはジェバンニが一晩で、リュークが飽きて月を殺すって言う、キャラによるルール(というか思い込み)の破綻)
ルールなんてないし。みんな互いにぶっ殺せるしぶっ殺されるし。


しかし、人が死ぬ、程度の要素が入ってるだけで感動したり重い話だと言うメンタリティは何やねん。出崎統監督の意見と同じく、そういう作り手と視聴者は人間をなめてると思う。
お話の中の死は記号でしかないんだよな。なんの重みもない。本当には誰も死なない。
今でもルルーシュとスザクは元気に目の開いたナナリーといっしょにアニメ雑誌の表紙を軽薄に飾っているよ。
作中の死に重みがあるとしたら、情の流れがきちんと繋がってる場合だろう。大事なのは死ぬ事よりも情なの。
ただ、ドラマツルギー的なものが陳腐化してるんで、死ぬ前にサラダを食べる約束とかをして重みを軽く乗っけたりするのよね(笑)
死ぬ前に回想を入れたり。死亡フラグ


あ、話が殺人ゲームから死で感動させる話に拡散してしまったな。
閑話休題
ただ、そういう殺人ゲームの話をして、近年は決断主義と呼ぶようだが、大人や神や能力者や科学者に与えられたルールの中で何を決断すると言うのだろう?決断する状況を用意されないと決断にリアリティを感じられないのが今の我々若人なんだろうか?
まあ、それも戯画化かも知れんがね。実際、環境問題とかは決断しないとヤバい時代だし。そういう複雑でままならない状況に分かりやすいルールを設けて欲しい、ルールさえあれば戦える、という願望はあるよな。
巨大ロボットや魔法少女と同じ願望装置か。
十代の若者を物語に引き込む舞台設定か。
ただ、京都議定書のゴタゴタを見るに、ルール作りが一番めんどくさいドラマなんだよな。つか、ルールができたらそこで話が決まって終わるレベルですよ。そこをドラマ以前の設定段階で終わらせちゃうのは勿体ない気がするな。
エヴァンゲリオンも使徒を倒してエヴァが神になるって言う設定で話が決まっちゃって、シンジ君はその中で萌えたりオナニーしてただけだし。


ま、ローファンタジーというか、日常と物語を区切るのに楽な設定ではある。「ルールだから」で済む。
CLAMPのXの運命や結界を分かりやすく整理した感じかね?
そう考えたら、異世界モノにも近いもので、伝統的なものかもね。
ただ単に僕は日常と物語の境が曖昧になるのが好きで、きちんとしたルールが嫌いなだけかも(笑)