玖足手帖-アニメブログ-

富野由悠季監督、出崎統監督、ガンダム作品を中心に、アニメ感想を書くブログです。

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源氏物語 千年紀 Genji 最終回 若紫へ 〜母から姉、そして妹へ〜

源氏物語千年紀 Genjiの最終回が妹エンドだったことについて。
まじヤバい。大興奮した。遠藤綾さんの声がたまらん。
あまりにもすごい。兄の愛、紫の君の愛、父の愛、友人の愛のシーンではマジ泣きした。姉の愛はちょっと怖かった。
アクションシーンでも大興奮。


で、妹です!妹のような紫の君に正式に告白しました!あなたは私の妻です。うおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおっ!!!!!!!!!!
これよ、これ!
妹はいつも一緒にいるから好意に気付きにくい。むしろ、いつも一緒にいるから、好意とは違うレベルのところで、何となく性欲処理的に近親相姦してしまう場合が多い。
これが、妹萌えの問題点の一つであります。
正式に愛を語ることなく、セックスすることで自分が大切にされないと思ってしまうのが性的虐待だ。
で、原作の源氏物語においても、若紫が光源氏と親子のように毎日添い寝をして、ある日、大人になった紫を源氏が犯して妻にしてしまうという展開でした。
そこを出崎統は変えました。妹をレイプしないで、ちゃんと告白しました。
なんと、なんという原作レイプ!原作のレイプシーンを削除し、正式な婚約にすることで、女をレイプをしないことで原作をレイプするとは!なんという高等レイプ!
さすが出崎!そんじょそこらの原作レイパーには出来ない事を平気でやってのける! そこにシビれる!憧れるぅっ!!
レ研の参考資料にすべきだな。
まあ、手塚治虫旧約聖書物語を手掛けた出崎統にとっては、たかだか千年前のキャリアウーマンが職場で回し読みしていた同人誌程度、改変して当然!あんなレイプシーンは連載の人気を取るためのネタで入れただけかもしれないし、紫式部以外の写本作家が入れたエピソードかもしれないわけだ。
そんなものを律儀に守るより、現代の出崎が面白いと思う展開にするだけだ!
あさきゆめみしで花散里を太らせるっていうレベルじゃねーぞ
おれ、あさきゆめみしの宣伝でよく言われる、「楽しく古典が勉強できる」っていう良い子ちゃんな感想があまり好きじゃない。文法を覚えるのは勉強だが、物語の展開は勉強ではない。おもしろければよいではないか!
そして、おもしろくするために、出崎版源氏物語における構成を正しいものにするために、源氏の君はそれまで散々レイプや火遊びを繰り返してきたのに、紫の君にはレイプではなく正式な愛の告白をして妻とするのである。妹だけは特別!
なんて、なんて妹萌なんだ…。おれ、妹萌でよかった…。よかったよーっ!妹妹妹ーっ!



あと、源氏物語光源氏はなよなよした女々しい女っていう常識も思いっきりぶっとばして面白く戦闘シーンを入れたりする。もうね、出崎は原作があろうとなかろうと、あらゆる手段で改変して面白くしてくれる!
これをオリジナルでやらないのはよくわからんかったりするんだけど、まあ、これは出崎統という唯一無二の個性でしょうね。


http://d.hatena.ne.jp/mattune/20090327
で、いつもお世話になっているmattuneさんのGenji感想をやっとこ読んだ。
だいたい同意。男たちがとてもよかったです。姉のような藤壺が怖いですね。
ただ、絶対妹至上主義者の僕にとっては、この解釈ではちょっと足りない。
つまり、妹とはただの小娘ではないということです。


はっきり言って、それがわからないものが多すぎる!
シャクティは母性の呪縛だから古い」と言い、「ルルーシュは母を捨てたから新しい」と言う矛盾



結局のところ、こういう事を言う奴は

『妹が12人出てくるアニメが萌えアニメ』とか言ってる奴より妹理解度が低い。

こういうレベルのやつが平然と妹に携わったり、

「妹評論」を仕事にしようと言うんだから、

そりゃお兄ちゃんが育つわけがない。



結果「古い近親姦神話」もろくに読んだことない奴が


『男は母に呪縛されている。』

『妹は母の代理』

『だからシスコンとマザコンは同じ』



という、めちゃくちゃな論理を吹き込まれて妹を見て、世間に適応して肉食系女子を落とすのが最高とか言う。

そんな見方で妹を見てたら内容(血縁という意味ではなく妹自体の)が入ってくるわけがない。
「ちょっとシャアがアニメ版ではララァは母だといったとかなんとかで鬼の首でも取ったように非難する」

のも仕方がない。
http://d.hatena.ne.jp/mattune/20090330



などと、パスティッシュしてみましたけど(笑)。まあ、こんなにむきになって妹がどうたらこうたら言うのは僕とか本田透くらいのものでしょうね(笑)。アグリッピーナコンプレックスのないたいていの一般人にとっては、マザコンもシスコンも区別がつかんでしょうな。
(親にネグレクトされた兄妹はインセストする確率が高いそうです)


というわけで、ラスボスが藤壺というか母性だろうというのは僕も同意なのですけど。
二期があるとして、二期でラスボスと対峙するのは、源氏の君一人ではなく、紫の上と二人での戦いになると思うのです。
直接的に藤壺と戦うというよりは、他の女や世間にもまれながら兄妹二人が絆を失わないで生きていけるかどうかという試練になるでしょう。
母を騙る姉に対して、兄妹が立ち向かうということです。



では、この最終回を妹と姉の戦いという観点から映像の原則を使って解いてみましょう。

  1. まず、アバンタイトルの幻想世界。

ものすごく雪が降っている。CLANNADか。
世間との戦いに敗れ、落ち武者として画面の上手上から下手下に堕ちていく光源氏。これは映像力学的に言うと流れに逆らわない状態。順行を表すことも多いのですが、この場合は堕落でしょう。
現に、光は「なるがまんまに生きるのみ!」と上手から下手を見ながら叫ぶ。「夢よりもはかないのなら、どこへいっても同じこと」と、都落ちすることを自暴自棄になっている。
そして、このシーンでのキーウーマンは出家した藤壺であります。源氏は藤壺を愛して苦しめたことに苦しんでいる。
藤壺は苦しむ源氏に対して「念仏を唱えなさい。悔い改めなさい。そうすると仏が許してくれます」と上から目線(構図的にも)。
源氏の君はそれに対して「どんな教えを説かれても、あなたの肌の香りを思い出す」という。が、藤壺のほうを見ては言わない。そこへ、世間を代表するであろう矢が上手から飛んできて源氏に刺さり、葛藤と苦しみを増す。
倒れた源氏は暗転中に「罪は罪、されど、愛は愛!」と地面(内面)に向かって叫ぶ。これ、後で出てくる大事なセリフです。
そして、「この世を去ったあの人を抱いて思いがかなうなら、地獄もよし、修羅もよし!」と天(世界)に向かって反逆する。
それをみて、命婦は「おいたわしい」と言うのだが、藤壺は手を合わせながらも表情はうかがいしれない。
そう、藤壺は源氏を死に誘っているのである。
源氏は出家した藤壺という死人に還俗して許してほしいのである。だが、その視線は交わらない。つまり、藤壺は話を聞いてくれない。許してくれない。源氏も許してもらえると思っていないので目を合わせられない。
藤壺は自分から源氏を許すことはしてくれない。仏に許されろという。そういう仏という大きなものの力を借りないと、藤壺も自分を維持できないからでもあるのだが。
つまり藤壺は源氏にも出家して自分と一緒に死の世界に来てほしいのである。だから、源氏が苦しめば苦しむほど早く世を捨てるので、藤壺は源氏が苦しめばいいと思っている。
死に誘っているのである。(平安時代の考えで言うと)
もちろん、源氏が藤壺をレイプした責任もあるんだけどね。
だが、それは強姦罪というよりは、むしろ愛の呪縛というか、少女漫画的レイプファンタジーである。つまり、藤壺はレイプされて苦しみながらも、レイプされるほど愛されている自分という自負もあるのである。だからこそ、『もしあの世でお会い出来たら、一緒になるはずのお方ですから・・・!』と、自信満々に言うことができる。
そして、その自信を高めるために仏教の修行をしてもいる。死の世界の力を高めているのである。レイプ被害者だから、怒る権利は当然あるが、それが愛に変換されているのでものすごく危険な愛になっている。
あと、藤壺は桐壷の代理人として桐壷帝に嫁いできた女であり、光る君にもそのように愛された(と、藤壺は思っている)だから、自分の意志とは関係なく、愛された先代の桐壷が愛されたように愛されるに違いないという自信もある。源氏は一人の女として藤壺を愛したいのに、藤壺は代理人だと思っている。だから、藤壺は自分の意思で愛してくれないで、仏の道という仏の意志に同化する道を選んでるんですよね。


源氏はマザコンというのが定説である。で、藤壺は母の代理人である。しかし、マザコンというのは、自分よりもひとつ前の世代を愛するということである。自分の人生を否定して、過去の子宮に戻るということである。つまり、死。桐壷の更衣は死んでるし。


そして、源氏は現世で楽しむことも好きな人。シャア・アズナブルのようでもある。だから、死ぬに死に切れず、藤壺に生き返ってほしいと思いながらも果たせず、死の匂いのする藤壺の周りをウロウロするだけなのである。


ところで、幻想世界の冒頭で源氏は「心の臓には矢が二本」と言うのは、普通に考えると死ぬので、精神的な例えなのだが、想い人が二人ということだというのは穿ちすぎ?
それが、母と藤壺なのか、藤壺と紫なのか。どうか?

  1. 紫の君との契り

で、もう一人の想い人候補の紫である。
晴れた昼間の兄、朱雀帝との別れの語らいの後、月夜に妹のような紫の君と話をする源氏である。
妹萌えの私は紫の君の事は母の代理というよりは妹だと思う。そしてGenjiにおいては自分の分身であるという要素が強い。
なぜならば、源氏は自分をないがしろにするのと同じくらい、紫のことをないがしろにしている。このシーンの最初で紫が源氏を呼んだ時、源氏は惟光と間違えた。
源氏が母の幻影を求めているとして、紫に母を重ねているならば惟光と聞きまちがえたりはしないだろう。すごいないがしろだ。
これが妹萌えである。妹は近くにいるのが自然過ぎて、自分に似過ぎていて好意に気付きにくいのだ。源氏のように自分が嫌いな人ならなおさら。
これが妹が母や姉と決定的に違う所だ。母や姉は主人公が小さい頃の依存からの惰性で好意になりやすいが、妹への好意は自ら気付かなくてはいけない。
だから、紫はがんばる!
好かれるために、すきになってもらうために!
何となく一緒にいるだけでは嫌。自分自身を愛してほしい!
健気過ぎる。
母や姉にとっては、子供に愛されるのは当たり前なのだ。世界を知らない子は親を慕うからだ。母や姉はそれを子の成人した後でも引きずって当たり前に愛される自信がある。
妹は違う。妹にとって、お兄様こそが世界だ。だから、世に出て成長するのと同じように、お兄様に好かれようと努力するんだな。
兄しか見えない妹が兄を愛するのは自然だが、世間を知ってる兄に妹が愛されるのは難しい。
これは幼い光る君が藤壺を慕っていたのと同じである。だから、源氏にとって紫は自分に似過ぎていてぞんざいに扱うのだ。
で、紫は一生懸命頑張ってたのにお兄様が振り向かない上にどこかに行くというのでついにブチギれて告ります。告るというか、ないがしろにされて待つのは耐え切れないと。
源氏はそこで初めて紫の愛に気付き口づけを交わす。
これは光る君が藤壺に口付けした事の相似の因縁であるな。
ただし、源氏と藤壺ではジェンダーとか立場とか性格と性欲が違うので、源氏は紫の愛を受け入れる。
月に誓って。
月というのは地球の周りを付かず離れず見ている物だ。
つまり、源氏は藤壺の周りをうろうろして受け入れられなかった自分の辛さを満たそうとして、自分と同じ辛さを持つ紫を救おうと妻に迎えるのである。
だから、妹は母の代理じゃなくて自分の分身だと妹萌えの私は証明し主張するの!
ウッソがシャクティの母性に取り込まれたとか言う評論家は妹のことがちっともわかってない!妹エネルギーのゴージャス宝田と妹の力の柳田國男に謝れ!


ちなみに、母や妹の他に、他人の女という者ももちろんいる。
朧月夜の君とか。おぼろんも紫の君以上に「待つのはイヤ」という女だ。
だけど、おぼろんは世間のしがらみとか何とかのある人だったので源氏は失脚しました。
まあ、これは正しい正しくないとか妹の方がよいという話というよりは巡り合わせなんだろうが。
光る源氏は世間に相手にされないから妹に逃げ込んでるような器量の狭い男ではない。むしろ、世間では輝き過ぎて色々問題を起こすほどの個性だ。
そう、出崎的本筋は世間より自己である。
つまり主人公自身の問題解決が重要。





  1. 父との語らい

紫陽花の咲く雨の昼である。
ぶっちゃけると、天気が悪いほうが死の匂いがすると思ってください。幻想世界は猛吹雪なので、藤壺という死神のオーラが出まくりです。
で、紫を妻に娶ると宣言した癖に源氏は悩みます。死の匂いに近付きます。
ふざけるな。
そこで父の霊に「自分を許せ」と言われる。
「私にはそれができないのでございます!」と源氏は泣く。
地位も名誉も実力も美しさもあり、たくさんの女を愛しているのに、自分を許す事はできない。何という出崎主人公!
あしたのジョーみたいだなあ。


紫は源氏が藤壺にしたように源氏を愛するから、源氏がそれを受け入れて藤壺から離れて新しい愛を見つけたら救いになる。しかし、だからこそ源氏は自分を許して罪をなかったことにする事に迷って苦悩して父の前で泣く。
紫を愛することを素直にまだ認められていないのだ。


出崎主人公めんどくせえな。

  1. 暴漢との戦い。

で、源氏は自分を許せずに雨の中を行く。
また死の匂いが忍び寄るわけだ。で、暴漢に襲われる。いわゆる通過儀礼ですな。ここで命の危機にさらされて、生きる方を選んで、能動性を獲得するわけだ。
何の?
人を殺してでも紫のいる家に戻る事だ。
源氏は先の紫との会話で「あなたのいる屋敷だから帰りたい」と口で言ったのだが、それだけですぐハッピーエンドが決まるのじゃなくて、ここで再度、体の行動で実感させる。うまいな!
最初、敵に突っかかって行った時の源氏は自暴自棄でケンカを売って、殺されることを望んでいたかもしれないくらい目が据わっていた。敵を殺さないで怪我をさせるだけだったし。
だが、親友である頭の中将が助けに来てくれたことで世間の中で生きる力が少し増す。
だから、最後には敵の棟梁の顔面を渾身の力で割って殺す。人を殺すくらい自分が生きたいということを実感したのだ。
で、死に飲み込まれそうな源氏は少しずつ現世で生きる方向へ進む。

  1. 紫の君との二度目の契り

最終回らしく試練の戦いに勝って、ついに若紫の待つ屋敷に帰り着いた源氏。
ここで再度、紫と語り合う。
1回目は言葉で誓っただけだから迷いもあったが、今回は二人とも本能が「眠りたくない、一緒にいたい」と願うことで絆を深めあった。
愛と勇気は口だけの事と分かれば求めあい!
これだよ!
妹と兄は一心同体!半身!同じことを思って、一緒に朝を待つだけで嬉しくてたまらない。
ちなみに、劇場版CLANNAD出崎統は「同じ夢を見る運命」を描いてる。
源氏でも、藤壺とは夢で結ばれている。
しかし、紫とは「眠りたくない」という気持ちで結び付いている!
これは新しいステップだ。出崎は進化するなあ
妹は我が半身。アンドロギュノス。妹を愛することは自分を愛すること。
ナルシスト?
自分を愛せずに他人に愛を振りまくだけの男にとって、妹を愛することで自分を許せるなら、それは救いだ。
母や他人の女を相手にすると、愛されるよりも愛を与えてしまう。
妹なら、愛すると同時に自分を愛して、愛されることができる!
兄妹は世界に対して支えあって生きるのだ!


ここに至ってもセクシャルな明示はない。着衣で添い寝。
セックスしまくりの源氏だが、妹とはセックスしないのだろうか?セックスで女を傷つけて来たから反省している?
朝を待つだけ?
いや、愛する妹とのセックスシーンはテレビでは放送したくないよな。二人だけの秘密だ!(照笑)
ま、とにかく、数多の恋を重ねてきた源氏がついに若紫を、若紫だけを妻だと宣言し、一緒にいなくてはいけないと言った。
すぐに京と須磨に分かれる二人なのに、二人は一緒に居なくてはいけないと決めた。
紫は「どうか(二人)が次の朝もできるだけ早く来ますように」と祈った。


そして、明け方ちかくに雨が上がりました。と、わざわざ紫が言うのは重要なことだからだ。
雪や雨が死の匂いならば、晴れとは生きる意欲である。
藤壺と桐壺帝と暗殺者は死である。
朱雀帝と紫は命である。特に紫は月に愛を誓い、二人で雨を上げさせて太陽を待ったほどの命だ。
妹は太陽だという事は私も常々実感して居ます。
また、雨というのは世間との間に水の壁を作って、内面や狭い世界に閉じこもることでもある。
で、雨の中で二人っきりで源氏と紫が愛を誓い合ったあとは、雨という御簾をあげて、須磨という遠い世間に出ていく源氏。
だが、内面にこもったままではない。
紫が自分のすべてを賭けて、待っていてくれる家にもう一度帰るために出ていくのだ。だから源氏の心も晴々として去っていくことができる。
こういう風にかよわい娘のオーバーヒートが孤独な男のオーバーフリーズした心を溶かすというのは、劇場版AIR観鈴ちんを思い出すなあ。AIRはいいねえ。

  1. 〜若紫へ〜

しかし、源氏が生きる意欲を紫から得ても、出家して巡礼をする藤壺には預り知らぬ事だ。
で、「死ねば二人は結ばれる」と宣言した。
怖い!
現世がどうなろうと、子供時代から源氏が自分を愛しているのだからそれは絶対だと言う。
これも母性のディストピアだろうか。
この時の藤壺の顔は下手から上手を向くという、映像の原則的には悪役の向きである。
顔もアップのハーモニー処理だ。


ちなみに、最終回の紫は上手という好意的な位置にいることが多い。
で、藤壺の宣言のすぐ後に源氏は須磨の海に向かって
「罪は罪!されど愛は・・・!」と絶叫して終わる。
すごいラストカットだ。


まず、セリフ。
「罪は罪!されど愛は愛!」と、冒頭の源氏は叫んだ。このときの愛は藤壺への愛だ。
だが、2回目、「愛は…」というところで物語が終わっている。これは迷いだろうか?それとも、無限の可能性を秘めた妹への愛?


次に、海。
雪と雨が死とか狭い世界だとすると、水が集まった海は死の大ボスだ。実際、藤壺が「もしあの世でお会い出来たら、一緒になるはずのお方ですから・・・!」と死の言葉を言うとき、でかい滝が流れている。三途の川のように。
そして、源氏はセンターポジションで俯瞰という映像の原則的に中庸の位置で海と対峙している。死に向かって逃げずに正面から対峙している。


そして、映像。映像的に、源氏は藤壺の宣言の顔と同じく下手から上手を見ている。
が、画面に両目だけのアップなので、下手の藤壺からは少し距離があって藤壺の逆方向を見据えている。
おそらく、上手の紫を見ているのだろう。
源氏の顔は下手から上手へ向いながら、「罪は罪!されど愛は!」と。「若紫へ」向かいながら。「若紫へ」向けて言う。


つまり、源氏の一回目の「罪は罪!されど愛は愛!」は不義の罪にまみれて藤壺を愛するという死の地獄だったが、二回目の「罪は罪!されど愛は!」とは、藤壺を傷つけた罪を脇にのけて新しい愛の可能性に賭けるという前向きな決別宣言だ。


死んだ母から世を捨てた姉、そして生き生きとした妹へと!
ああ、妹、なんと素晴らしい!


もし、出崎がGENJI二期を光源氏主人公でやるなら、須磨から帰ってきてからのこともやるのなら、源氏をまだ死に誘おうとするレイプ被害者である藤壺の怨念愛と紫の上の生きる愛の戦いになるのではないだろうか。
ちなみに、CLANNADで幻想世界をただの夢にしたりA I Rでの呪術を単なる伝説にした出崎統としては、幻想や夢や死よりは現実の力を信じているのだろう。
あしたのジョーでも矢吹丈はカーロスに「おらぁ、夢なんか口にする前に自分で実現してきたぜ」って言うし。
ならば、仏の力にすがる藤壺よりも、自分で生きようとする現実の紫の上の方を贔屓していることは明白。


でも、原作での紫の上は…。
まあ、ハッピーエンドだけにはこだわらないのが出崎統でもあるか。
紫の上の命がけのオーバーヒートがみたいので、ぜひ出崎監督にはGenji2を作ってほしいです。


時間がないので通勤中に書きました。
うーん。
おもしろすぎるアニメは長文で書いてしまいますね。
というか、出崎統がここまで妹萌を直撃するものを作ってくれるとは…。最高過ぎです!そんなこんなで長文です。


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