玖足手帖-アニメブログ-

富野由悠季監督、出崎統監督、ガンダム作品を中心に、アニメ感想を書くブログです。

下の記事の補足〜ガンダム像は長崎平和祈念像たりうるのか?〜

twitter追記。
http://twitter.com/satorun1519/status/2114937761
@satorun1519 ガンダムというのはそもそもは白い悪魔であり兵器であり、それを作って喜ぶのは猿の惑星の未来人類のような所業なのです。ですから、大量破壊兵器を生み出す人間の業の象徴として、自戒として崇めるわけです。
ガンダムは祟り神にもなるので、争いが起こらぬように、崇めるのです。正暦2300年代のビシニティの人々がそうしたようにです。
それは、長崎の平和祈念像が天に向けた右手は核兵器の恐怖を、水平に向けた左手は平和の尊さをあらわしているということに似ています。

ラストシューティングは平和と考える頭を失った争いの象徴でしょう。しかし、コアファイターを残してアムロを救う命の象徴でもあります。

また、上井草のガンダム像は左手の盾で平和を守り、右手にはライフルを持たないで、未来をつかもうとしています。

これは手塚治虫から反核精神を受け継いだ富野由悠季なら、意図的に長崎平和祈念像に似せたと思える。
ターンエーガンダムも、第25話「ウィルゲム離陸」において、右手のライフルを天に向け、左手の盾を水平に向ける動作をしました。
http://d.hatena.ne.jp/nuryouguda/20090309/1236540428
(暇があれば画像をキャプチャ)
富野監督の意見も今回のお台場ガンダムに少しは、企画がかなり進んだ段階で反映されたそうです。
単なるオリンピック招致や技術力の誇示ではなく、もっと人類として大きな、もっと決定的にオーガニック的な何かを、ガンダムなら表すことができるはずです。
そうでなければ、殺人兵器を飾るのはエゴの増徴傲慢の拡散、愚鈍なる者の放つ花火でしかありません。
そうでないのなら、∀ガンダムのラストで、主人公のロラン・セアックが言ったように、「ターンAはホワイトドールといわれて、人々に崇められてきた物なんです。その本体が機械であれば、使い方次第ではみんなの為にだってなります」
という技術哲学でなくてはなりません。
そして、コレン・ナンダーが叫んだように「ターンエーでも、歴史を拓けるぞー!」という、道具を使いこなす人間の力を実感することでなくてはいけません。


そのような願いをこめて、6月20日の夏至の日の土曜日に、ガンダムを崇めるオフ会をやりたい。
ホワイトドールのご加護のもとに♪