玖足手帖-アニメブログ-

富野由悠季監督、出崎統監督、ガンダム作品を中心に、アニメ感想を書くブログです。

当サイトはGoogleアドセンス、グーグルアナリティクス、Amazonアソシエイトを利用しています

機動戦士ガンダム III めぐりあい宇宙編 を初めて劇場で見た

[rakuten:bigbe:10010105:detail]

新宿ピカデリーでリバイバル上映をしている。三十周年だから。
私もガノタとしては機動戦士ガンダムをキチンと劇場で見るべきだと思い、見た。

ハッキリ言って、最高だった。
先週見た機動戦士ガンダム II 哀・戦士編は微妙だったと、きのう書いた。
劇場で見ためぐりあい宇宙はとにかく最高だった。
細かいことはあまり言いたくない。言う時間がない。
細かいことは劇場で見たら、細かい部分まで見れて最高だった。
動画のちょっとした一枚一枚に人々の表情の機微が書き込まれていて、ものすごい情報量だった。
線の一つ一つに命があった。
ガンダムがロケットを吹かしたり、射撃をする動きが完璧なリズムだった。劇場で、さらに深くガンダム様の強さを実感した。
ア・バオア・クーとドロスがデカかった。ものすごくデカかった。
艦砲射撃がガンダムの歴史史上、一番多かった。黒歴史史上、最初にして最大の戦場だった。
やはり、富野作品での宇宙戦争は戦場の射程距離が広すぎて最高だ。やはり、富野作品には宇宙が似合いますな。
みんなが必死に生きようとして、必殺の戦いを繰り広げていた。
そこに命の輝きを見た。宇宙の塵になる輝きを見た。
セイラさんがキャスバル兄さんに捨てられた。最初から捨てられたけど、やっと実感した。
哀戦士編のニュータイプ理論が浮ついた感じに「若者はみんなニュータイプで認識力がどーたら」とか言うのでイラっとしてたけど、今回を見たら単に若者に迎合しているだけじゃないとわかってすっきりした。
ギレンがニュータイプを政治的方便にしていて、キシリアは超能力者として兵器として扱っていて、レビルは「ニュータイプと言うものは戦争なんぞせんですむ人間の事だ」と言い、セイラさんも「古きもののすべてが悪しきものではないでしょう」といい、シャアも「今はニュータイプは戦争の道具にしかならん」といい、ララァニュータイプのように見えてむしろ少女だった。女として生きようと願う少女だった。最後に、解脱してしまったが…。
アムロニュータイプになっても、解脱できず、小さな仲間のところに戻るだけで精いっぱいと言うさじ加減。
しかも、それも、戻って手を握り合うまでは描かれず、終劇するという間合いの慎重さ。
最高だ。
最高過ぎる。
やはり、劇場で機動戦士ガンダムを見て良かった。
カムランの超不器用さに泣き、スレッガーがシニカルな割に人にかかわってしまいつつ、最後には自ら死ぬところで泣き、ミライが二人の男の間に悩んでいるところに入ってきたスレッガーにフラっと情を寄せてしまって、それが断ち切られたところで泣いた。
そこで泣いてしまうブライトにももらい泣きした。
生きることの悲しさと喜びをいるララァが、売春宿から救われて女として節を通して生きようとするために戦士になりつつも、シャアとイチャイチャして嬉しそうにしている少女っぷりに萌えた。その少女がアムロと少しずつ戦いや日常の中で心を近づけていき、説を通さない女としてふらついてしまう女の部分を見せたり、やっぱりシャアをかばおうとして死んでしまう。でも、解脱して、時と宇宙の挟間の存在となってからは、シャアでは泣くアムロにしか話しかけない。
そんな女に泣いた。
というか、もう、後半は泣きっぱなしだった。
というか、最初から最後まで流れとテンポが完璧だった。すべてが奇麗に流れていた。素晴らしい譜線だった。

見終わると、下着が少しぬれていた。
日向オノレ体験をした。

機動戦士ZガンダムIII 星の鼓動は愛を見た時は腰が抜けて全身のチャクラが熱くなった。
やはり、富野アニメを劇場で見ると、エクスタシーを感じるようだ。最高だ。実に最高だ。
昨晩は、その後ものすごい多幸感に包まれた。とにかくガンダムを見るのは幸せだ。
ああ、よかった。
よかった。
僕はやっぱり身も心もガンダムが好きなんだ。安心した。
[rakuten:book:12099554:detail]
劇場版機動戦士Zガンダムと、機動戦士ガンダム逆襲のシャアも秋からリバイバル上映をするらしい。
これも見ねば・ラオ・ザビ。
というか、∀ガンダムは劇場で見ていないから見たい。
F91は見たけど、子供だった。でも、セシリーは脳内彼女にした。
だからやっぱり富野アニメは劇場で見たい。
イデオンも!
リーンの翼も!
新作も!
ホームシアターを作れと言うのか!