玖足手帖-アニメブログ-

富野由悠季監督、出崎統監督、ガンダム作品を中心に、アニメ感想を書くブログです。

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戦闘メカ ザブングル 48〜50 最終回 青春進化論

話数 サブタイトル 脚本 絵コンテ 演出 作画監督
第48話 永遠のアーサー様 吉川惣司 鈴木行 佐々門信芳
第49話 決戦! Xポイント 伊東恒久 大地瞬 関田修 金山明博
第50話 みんな走れ! 菊池一仁 坂本三郎

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見たー。
感動した!同時に、なんじゃあああこりゃああああ!ってなった。
変だ!変な作品だ!
83年だ!
ヤマト・ガンダムから出た真面目SFアニメブームがうる星やつらなどの軽薄アニメになっていった時期だ!ラポートのザブングル大事典には出渕裕ラムちゃんのマーキングの入ったロボットに乗って女の子に囲まれているという自筆のイラストが載っています。そういう時代。宮崎勤事件の直前のはしゃいでいた時期ですね。まあ、宮崎勤がオタクだったというのも情報操作されたものという説もある。まあ、趣味がなんであろうと悪い奴は悪い。
エヴァあたりの根暗SFアニメブームの反動で萌えアニメが出たとかそんなものだ。
うーん。
すごく面白いところもありつつ、滑ったところもありつつ、独自の何かを満ちながら時代に流されたところもありつつ。
なんだーこれー。と。
色々と頑張ろうとしてできたりできてなかったりして、頑張ってる。
富野作品で言うと、∀ガンダムキングゲイナーはこれで不完全だったところを微調整した感じがした。作画も最近のアニメの方がいいと思いました。色とか。
メタフィクションなギャグは銀魂の方が面白かったです。
男と女についてもすごく大人っぽくドライに描きながら、子供向けアニメみたいな楽しさや、悪役も含めた親しみやすさやも求めていて、お前は何をしたいのかと。レギュラーは生き残るけど、ゲストキャラクターは良い性格の好人物でもガンガン死ぬし。
リアルなところもあり、メタフィクションとか楽屋落ちもあり、舞台劇みたいなカーテンコールもあり。いろいろすぎる!ひゃー。
オーバーマン キングゲイナーってかなりメチャメチャなテレビまんがだったけど、ザブングルよりはこなれていたので、アニメは20年で上手くなったなあって思いました。


とかなんとか、ザブングルは30年近く前のアニメなので、ラポートのザブングル大事典とかアニメ雑誌とかwebアニメスタイルとかブログで散々語られてると思うので、あんまり人が言ってないけど私が思った2点だけ軽く書く。もちろんネタばれだ。

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ラポートの声優座談会を読んでたら、TARAKOさんや横尾まりさんとかザブングルでアニメ・声優デビューした人が多くてしかも今やベテランになってる人が多いので富野作品らしいなあ。女性声優美人だ…。アイドル声優や…。
ザブングルのアニメーターはすごい疲れたコメントが多い。富野は相変わらず富野だった。「いつまでもうる星やつらじゃ駄目なんです!」昔から富野監督は富野監督なんだなあ。


しかし、ザブングルって絶賛する人とか、失敗だっていう人とか、いろいろだなー。
僕はナイーブな大富野教オタクなので、ブルーなところを読み取ってしまう。『明るく楽しめました』って言えない…。

前回のエントリーで「ザブングルブルーゲイルとはブルース」と書きました。
つまり、つらいつらい世の中でそれでも仕方なく生きるための奴隷たちの歌です。
僕もエンディングの「乾いた大地」を口ずさむだけで泣けたりするし。
オープニングでも、

ここは地の果て 流されて俺
今日もさすらい 涙もかれる

と、言いながら

ブルーゲイル 涙はらって
ブルーゲイル きらめく力

って、涙枯れてないし!むしろ枯れるくらいずっと泣いてて青い風で涙がボロボロ散ってる。
それをあえて「きらめく力!」って言い張るのがもうすごいR&Bだなー。あんまり音楽知らんけど。
青い閃光ですよ。
ものすごい人生とかつらい。イノセントもICBMとか使い方全然わかってない。かわいそう。イノセントも新しい発明あんまりできない。富野作品らしい核ミサイルっぽい物を使っても、博物品だから火薬がしけっていて爆発しない。
ギャリアがミサイルを受け止めたりっていうのは「ギャグだなー、そして滑ってるなー。メタフィクションでふざけてるなー」って思いました。
でも、ラスボスがそんな風に貧乏くさいのもやっぱり切ないなあ、敵もかわいそうだなあ、つらいなーって思った。
アーサー・ランク様も。


と、同時に、青いって言うのは青春の青さだな、という風にも思った。
エルチやラグが終盤で恋愛論とか男女論とかをぶつんだけど、それはそれで、青い。青臭い。
世界や女の子を救っちゃうアーサー様の自己犠牲もある意味青臭いセカイ系文化系中二病美少年。
そんで、三角関係とか伏線とかがキンゲっぽくグダグダのまま走れ!で終わっちゃうのも、青春っぽいなー。
ジロンはエルチを抱きに行くけど、ファットマンもエルチを抱くし、ラグもジロンを抱くし、ことセットもラグを抱くから、恋愛も人生はまだまだ続くんだなー。良かったなー。青い青い!
ザブングルは青い。
単純に明るく楽しいアニメじゃないし、ものすごい切なくてどうしようもないブルースも描いてるけど、それを上回って無理矢理にギャグを滑らせてでも走ろうっていう青春が良い。

  • エルチの目

XABUNGLEの最終回と言えば、あらすじをほとんど知らない俺でもエルチの目の評判は知っていた。
これもまた賛否両論なんだ。
劇場版はまだ見てないから言うなよ!
ちなみに、池袋ウェストゲートパークの最終回で人があまり死ななかったのでナンシー関は「人が死ななかったら、すっきり見れるのかよ!可哀そうじゃなかったらいいのかよ。死ぬ時は死ね」って批判してた。ナンシー関、死んだ。

人が誰か死なないと感動できないし納得いかないのね。
生き残るって感動はないのか。
戦争アニメを今後作る人は簡単だな。。。。


後、元仲間が殺しあうとか大人気でるよ!
http://hamiba.blog64.fc2.com/blog-entry-107.html

ソラノヲトの中の人は逆。
ま、それはそれとして。ソ・ラ・ノ・ヲ・トはなぜか見てない。


実は、僕はエルチ・カーゴをジロン・アモスが追っていったラストでものすごく感動しました。これがなかったらタダの戦争ものになっていたと思います。それはどういうことかというと、こういうことです。

点字受験の機会、保障せよ 先進例参考に政府が主導を
 自分の使う文字を否定され、何事にも挑戦する前に「無理だ」と決め付けられる。こんな仕打ちは、誰にとっても、耐えられないはずだ。
 目の見えない人にとって、指先で読みとる点字は、かけがえのない文字である。国内唯一の週刊点字新聞を発行する毎日新聞は、転落事故の絶えない駅ホームの危険性など視覚障害者を取り巻くさまざまな問題を報じてきた。
(中略)
そんな小山田さんの仕事ぶりも併せて紹介した記事掲載後、一部の読者から反発の声が新聞社に寄せられた。
 「全盲なんて論外」「障害があるから、世間に甘えても許されると思っている」――。
 国家資格の保育士資格で障害の有無は条件になっていない。受験資格を満たしているから、受験を申し込む。この権利の行使のどこが「甘え」なのだろうか。8年も実務経験があるのに、なぜ「論外」なのか。障害者にとって、体の不自由さ以上の「障害」とは、こうした「世間」という社会的多数派の根拠のないバリアー(障壁)なのではないか、と私は思う。
(後略)

地方公務員試験での差別的現状、是正急げ=遠藤哲也(大阪学芸部)
https://my-mai.mainichi.co.jp/mymai/modules/weblog_eye103/details.php?blog_id=936

文化的だが虚弱な支配階級イノセントの支配を、生存本能を強化されたシビリアンという新人類が打倒したラストです。
でも、僕は意気地なしだからそういう強い物が勝つ!万歳!というのは爽快な気分でもありつつ、怖いと思ってしまいます。
でも、ジロンは自分が無能になったと思いこんで、人の迷惑にならないように一人で死ぬために、戦勝パーティから黙って去って行ったエルチを迎えに行きます。ジロンが一人で。
ああ、ジロンって本当に優しくて強くていい男なんだなあと思ってすごく、すごく感動した。
ジロン・アモスは「こだわり」の男です。惑星ゾラの掟である「三日が過ぎた罪は帳消し」という掟をやぶって仇討や一人の女にこだわって戦い抜きました。しかし、その拘りというのは「自分のやりたい事をやる」という自己中心主義だったでしょうか?それだったら、その他のキャラクターも色んなものにこだわっていた。ジロン以外にもイノセントに反抗するこだわりを持ったシビリアンはたくさん出てきたし。三日限りのおきてが関係ないイノセントの悪役たちも出世とか保身にこだわっていたといえる。
でも、ジロンがこだわっていたのは自分よりも他人への優しさじゃないかなあ。「親の」仇討、「女の子の」救出。それが主人公ってやつなんじゃないかなあ。ジロンって「それはかわいだよぅ」っていうセリフが多いし。
惑星ゾラと呼ばれる地球のシビリアンの人々は弱肉強食の世界に適応した新人類です。そういう人たちが旧人類を力で打倒するのはあくまで計画通りで、おもしろみに欠けると思います。悪役のビラルも「シビリアンは自分さえよければいいというプログラムです」って言ってた。ソルトは組織的だけど、それも個人の生存最適化ですよ。
そこで、エルチの救出です。
惑星ゾラでは弱肉強食が常識。イノセントを倒したシビリアンは三日の掟や支配体制という常識からは脱却したが、パーティからエルチがいなくなっても気にしません。
でも、ジロンはエルチを気にします。ここで、ザブングル序盤の「ジロンだけが掟に背く」という主人公っぽさの構図が復活します!すごい!やりなおした!実に、最終回でラスボスを倒した後のエピローグのラスト4分で。
そして、そんなジロンに続いてみんながエルチを追って終結し、知的障害者のファットマンも走ってきて、新しい夜明けに向かって、みんな走れ!
おお、よかったね、よかったね。
やっぱりラグもエルチが好きだったんじゃん!ラグにとってはライバルだったけど、それもふくめて。
もしかしたら、「旧人類を倒す力を持たせる」という人類再生計画の次の段階の「争いを繰り返さない心を持つ」という人類進化を描こうとしたのだろうか。と思う。それもニュータイプ程あからさまな説明や派手さを無しに。(∀ガンダムではもうちょっと分かりやすく説明している)
つまり、漢字で言うと、軍事国家の樹立を描いた最終回のラストで、福祉国家の可能性を示しているわけ。
ああ、私は理屈っぽいですね。「悪い奴をやっつけたー!明るくて楽しいぜー!」ではなくて「人類の進化とは…」とか考えて、そのうえで感動しちゃう私。いいじゃないか!


それで、すごく、すごく良いのはですね!ジロンがエルチを助けたときに「俺はエルチが好きだ!だから守ってやる!」って言わないのが、良いんだよねー。英雄物語とかヒロイズムって「お姫様を守る」なんだけど。
ジロンは逆にエルチに「おまえは、おれがきらいか?アイアンギアーやソルトの連中は?」って聞く。「そんなわけないじゃない!」「なら、決まりだ」
すごい。ジロン、っていうかこのセリフを書いた人は強い物の視点じゃなくて、本当に弱者の側に立った優しい心を持ってるんだな。
強い物に好かれないと、弱い物は生きていけないんじゃないか?という不安を弱者は持っているわけです。社会にお目コボシをもらわないと生かしてもらえないんじゃないか?という申し訳なさや恐怖です。
でも、そういう弱い奴だって、社会にいるわけだし、そういう弱い人でも社会のことが嫌いじゃないんなら、助けようっていう希望が、この漫画にはある。ジロンがエルチを好きだという事は言うまでもありません。エルチに「俺のことが好きか?」じゃなくて「嫌いか?」と聞くのがまた絶妙な距離感。
ジロン・アモスはアーサー・ランクから引きこもりニート理想主義セカイ系文化的美形病弱青年でも命がけで人を助けられる、ということ、そう言うダメ人間でも大切だという事を学んだのかもしれん。っていうか、アーサー様はがんばった。
それから、もちろんエルチも優しいんだよなー。文化的だし。人形劇もメルヘンでかわいいし。病み上がりで主人公メカザブングルでがんばるし。
洗脳されてみんなに迷惑をかけて、最後はラグがかわいそうって泣くし。文化的だ。
(まあ、だからと言ってラグがジロンをあきらめてない所がまたよい)
そういう文化的な優しさを全く説明なく、ただただキャラクターの行動だけで見せて僕を感動させるのは、素晴らしい。
これはこれで、すごく青臭い理想主義なんだけど、まあ、いいじゃない。青春だ。


ただ、まー、全体の繋がりという面では、ちょっとイベント的には取ってつけた感覚はある。ジロンの優しさや弱肉強食主義の克服っていうテーマ的なものを描こうとして、付け足した感じではある。そういうメッセージを織り込まないと気が済まないっていうところも富野由悠季らしくてすごく好きなんだけど。
でも、「死んだり失明するのは暗い」って言われたり、富野自身も演劇的な流れがおかしいって気にしていたのか、「やっぱり活劇にした方が良かったかなあ」とかゆって劇場版でイベントを変えちゃったりもする…。のか?
∀ガンダムあたりは活劇とメッセージの構成が上手くなってるなあ。
でも、あれはあれでまだまだ変な部分も多いので、もっともっと伸びしろはあるはず!(えらそうだ)
というか、ちょっとした芝居にメッセージを詰め込み富野だ。
コードギアス 反逆のルルーシュR2のラストのカレンがナレーションで「世の中は戦争のお金を弱い人のために使うようになりました」っていう説明の方が分かりやすいんだけど。ジロン達はゲラゲラ笑いながら走っていくだけなのだ。


あと、ジロンが主人公っぽいのは、そういう優しさもありつつ「強くなりたい」っていう所でもあり。
それはどういう強さかと言うと、単に敵に勝つだけじゃなくって「状況にコミットする力」っぽいなー。つまり、他人評価じゃなくて自分の力があるって思うかどうか。
だからティンプ・シャローンが姑息に死んだふりをして復活しても、すでにジロンの中ではティンプは自分より下になってるから、終盤ではあまりこだわらなくなってる。のかなー?一回できた事をやり直すより、エルチを助けるっていうまだやってない事をやりたがるジロン。
ロボットものと言うのは、子供の無力感を解消する娯楽なんですが、最初のジロンは「親を殺された無力感」を解消するためにこだわってたのかもしれん。で、どんどん強くなると。
ここら辺は親を殺された事や犯人がつかまらない事よりも、自分で犯人を捜さなかった自分が許せなかったゲイナー君みたいだ。勝つことよりも、勝てる力を持つのが主人公様だなー。
あー、エルチも「強くなりたい」からジロンの所に留まりたくなくて逃げたっていう部分もあるか。ある意味ダブル主人公か。ジロンに似てるから惹かれたし、逃げもするのか。
キンゲのシンシア・レーンもそう言うところありましたよね。
でも、それじゃあさびしいよ!
っていう優しさが1982年でも2002年でも共通する富野作品だなー。だから、僕は黒富野でも白富野でも好きなんだよなあ。
キンゲってザブングルに似てるなー。いろいろ順列組み換えして再演したっぽいところもあり。
シンシアがラストで眼鏡をなくしたゲイナー君の目の代わりをしてたり。


あと、ウォーカーマシンってプラモデル狙いだったらしいけど、バンダイのプラモデルというよりはタミヤっぽいミリタリーな方向を目指してたみたい。だが、結果的にデザインはリアルとおもちゃっぽさが悪魔合体してゾイドな感じ。


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