玖足手帖-アニメブログ-

富野由悠季監督、出崎統監督、ガンダム作品を中心に、アニメ感想を書くブログです。


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輪るピングドラム第15話世界を救う者(出崎統とウテナ)の喪に服す?!

15TH STATION 世界を救う者
絵コンテ:幾原邦彦、柴田勝紀  演出:柴田勝紀 作画監督楠本祐子、進藤優
と言うわけで、9,10話で一人絵コンテ演出作画監督を武内宣之氏、後藤圭二氏に任せた後、連名だが5連投絵コンテの幾原邦彦総監督のパワーがスゴイと言う15話。なんか、すごくあの人に似てますね。
と言うわけで、

今回の時籠ゆりは、なんか出崎統監督のおにいさまへ・・・のマリ子みたいなメンヘラでしたね!父親が芸術系と言う事で。
っていうか、このアニメに出てる女はみんな精神が異常ですね!いや、男もシスコンだった!うむ。


そんなわけで、今回は画像のキャプチャーなどはせず、初心に戻って物語について感想を述べることとする。


演出としては、今回も舞台劇のような左右構図、映画らしい寄りと引き、紙芝居のような視線誘導によるカメラ位置のトリックなど、前回に引き続き、そのような面白みがありました。
輪るピングドラム 第14話「嘘つき姫」の「お芝居」の快感!徹底分析 - 玖足手帖-アニメ&創作-


多方面にネタバレあります。

  • 出崎統ポイント!その1.信夫マリ子

信夫マリ子は同性愛レズビアンを描いた萬画で、アニメ版が少女革命ウテナの原型になったとも言われるおにいさまへ…の登場人物で、女の子の気を引きたがる女の子です。ヤンデレとして有名です。そして、父親が芸術家で、そのせいで精神に妙な影響を受けています。

おにいさまへ…DVD-BOX1

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似てますね!おにいさまへ・・・の原作は読んだけど、アニメは途中までしか見てませんが。似てるんですよ!
今回の時籠ゆりさんの父親への感情は、信夫マリ子の父親との問題に似ています。が、もしかするとプラスとマイナスのように逆かもしれない。信夫マリ子は嫌いになった父親が若いころに書いた純粋な芸術を再発見して父親に対する悩みが解消されるが、
小学生の時の時籠ゆりは大好きだった父親の純粋な芸術作品に自分自身が改造されそうになった所で父親を解消した。




この、父親のベクトルと芸術と言うベクトルが重なって、感覚としては似ているが、プラスマイナスで逆かもしれない。今や少女漫画の古典とも言える時期の70年代の、萬画のおにいさまへ・・・では「父親のプラトニックな芸術性を娘が評価すること」が物語の転換として作用してマリ子の精神の安定のきっかけとして描いているが、ピングドラムでは「父親のナルシスティックな芸術を娘が棄てる」(14話の「私は過去を捨てたの!」)が時籠ゆりを「荻野目桃果に執着するきっかけ」として作用させている。
鏡の向こうは似ているようで、逆なのか?おにいさまへ・・・と輪るピングドラムは・・・。
(参照 http://orangestar.littlestar.jp/comic/scarface01.html


時籠ゆりさんの体の秘密は性転換なのかな?と思わせておいて欠損愛好芸術家の娘、と言うのはトリッキーでしたね。いや、、結局体の秘密が何だったのか、と言う事は名言されてませんね。ここはおにいさまへ・・・のマリ子とは違うかな。でも、情報をはっきりさせずにぼかして演出するために、かえってドギツイ演出になるのは出崎統的と言えるかもしれない。ハッキリした情報や事実の説明よりも、精神的な情動の変化を重視する演出・ドラマ。
ダビデ像のペニスや首がヘリコに切断される暗示メタファー演出など、去勢手術をすごく連想させたけど・・・。実際はゆりは女の子で、荻野目桃果の運命的な愛の力に当てられて、桃果を好きになり、ガチレズになったっぽい。
レズになる事に理由が必要、と言うのはバイセクシュアル作家の森奈津子さんが「耽美なわしら」で批判していたが、ピングドラムの場合はギリギリぼかしてあったかな?「真実の愛を見た!」だしなあ。
桃果がゆりに「私はゆりが好きだから」という愛はセクシュアルな愛と言うよりは、もっと無邪気で不条理で巨大で危険な愛で、理由が無さそうだなあ。それは桃果から多蕗への愛や、桃果と渡瀬眞悧の関係にも言える事のようだ。


ちなみに、僕は今回のゆりの過去の話のラストから東京タワーに繋がるエンディングを見て、泣きました。
これは、愛されない子供とか、それゆえに急に愛された事に一生しがみつく癖とか、そういう個人的な性質がある人と、普通の人では受け取り方が違うと思う。普通の人だと「SF的な世界改変より精神的内面をクローズアップするばかりでよくわからない」「演出ばかり凝っていてストーリーがわけわからん」と冷静に思うかもしれない。
ただ、こういう精神的にこじれた人間の「匂い」に慣れた、自分もそういう匂いを出している人は、妙に取りつかれる部分がある作品だと思う。もしかすると、同じくおにいさまへ・・・(&逆襲のシャア)に影響を受けていた新世紀エヴァンゲリオンに近いのかもしれない。だが、エヴァンゲリオンは意識して精神的に裸になって作家性や視聴者の個人的体験からの共感を高める作風だったのに対して、幾原邦彦監督はシリアスシーンに無理やり入りこむ突発的ギャグなどで、「裸だけどアクセサリーは付けて格好を付けている」という、ちょっと違った方面の露出癖のようである。
庵野秀明の裸はサブカルアートドキュメンタリーで、幾原邦彦の裸は舞台アート的ストリップなのかも。
庵野、幾原の関わった同人誌、「逆襲のシャア友の会」で「富野由悠季は裸になっている」と言われていたが、富野の場合は「裸祭り」って感じ?近年のキングゲイナーとかリーンの翼とか、祝祭としての裸)


また、今回を踏まえて前回14話冒頭の、高速道路でジャガーを走らせる時籠ゆりに上手の上から迫る男根的な東京タワーを見なおすと、この場面で上手に向かって走るゆりが「私を過去を捨てたの!」とモノローグを言う事にまた新しい味わいがあって、見返すと良いですね。このアニメは。

ダビデタワーが父親の男性的な象徴だったら、それを消去して上書きした東京タワーは世界の虚構性と、桃果とゆりの運命を天につなぐ約束のモニュメント・・・。なのか???


あと、女が女を所有しようとする時に、ゆりが苹果をセックスで洗脳しようと言う手段に出るのも、ちょっとマリ子に似てた。でもゆりはマリ子よりもよっぽどアダルトだった。

  • 出崎統ポイント!その2.地味に頼れる男友達

前回14話で高倉晶馬が荻野目苹果を突き離して別れました。苹果が「陽毬ちゃんの事も大好きだし、晶馬君とは離れないよ!」と、妹の話をされたシスコンが「もう、そうやって表面的な言葉で傷つけあうのはやめよう」「もう会わない方がいい」ってキレて別れた。
このシーンでは、苹果と晶馬の間を塞ぐようにピクトグラムの棒人間で描かれた通行人が出る。色彩設定の辻田邦夫氏がこのシーンについて「人間関係の伝わらなさを感じさせるための演出だった」と、こっそりピングドラムというUST配信番組で木曜日に語っていた。これは僕も前回「晶馬の主観だと「全員灰色の存在」と言う風になっているのが面白い所。」と、書いた。晶馬は世間に対する認識を「世の中の人はみんな僕らがダメになるまで監視するものだ」「優しくない」「関わりたくない」と感じているように、14話では演出されています。
そこで、ピクトグラムの棒人間の無機質さが強調されているのです。晶馬から見ると世界の他人はみんな真っ平らなピクトグラムで、人間関係は兄と妹だけだったと言う。
ですが、今回は14話のそのシーンについて「苹果に酷い事を言った」と反省して思いだしています。苹果からの電話のメッセージにも出ます。これは、苹果のメールを完全無視していた13話〜14話の間の話からは変化している。
何故か?
そう、晶馬の学校の友人の山下洋介君だ。
彼は顔こそ描かれないが、体は棒人間ではなく、色のついた人間だ。晶馬にとってはかろうじて人間として付き合いのある少ない人物だ。(ちなみに、童貞っぽい晶馬と違って、兄の冠葉は「次々に棄てる女」で人間関係を補給している)
その彼が今回、晶馬を偶然二人だけの温泉旅行に招待した場所が、ゆりと苹果のいる旅館だった、と言う事で今回のドラマとなった。
ゆりが苹果を縛っている時に夏芽真砂子が乱入する事は前回の展開から予想できたが(キューティーハニーのようなコスプレはナースの続きだが予想は出来なかった)
、晶馬まで苹果のピンチに乱入するとは予想できていなかった。この強引だけど、[運命的]な展開がいいね!
そして、この強引な偶然を用意したのが、脇役で男友達の山下君。これが出崎統っぽい。
出崎統作品は少女漫画原作も多いが、Genjiやガンバの冒険、宝島など、男同士の友人の助けと言うものもよく描かれている。華星夜曲やおにいさまへ…などでは、女を中心としたアニメであるが、女主人公が惚れるイケメンの周りには地味だが頼れる男たちが配置されていた。



山下君がいなければ、晶馬は人間不信度合いをもっと深めただろう。
山晶いいよね。
山晶 (やましょう)とは【ピクシブ百科事典】

  • 出崎統ポイント!その3.あまりにも主観的な世界と舞台装置

ダビデ像のようなタワーを時籠ゆりの父親がデザインしたが、荻野目桃果が運命日記の力で世界を革命したために、そのお父さんの塔は消えて東京タワーに代わった。
これはパラレルワールドに桃果とゆりの主観が飛んだと言うシュタインズ・ゲートのようなSFではある。
だが、そのSFっぽさよりも「父親を消し、世界を嘘で塗り固めて消えた桃果にゆりが惹かれた」という事の方を重点的に描いているようだ。私はSTEINS;GATEも正直、SFとしては設定の穴が多く、クリスやまゆしぃやラボメンのメンバーとのオカリンの心の交流の方をセンチメンタルに描いたものだと思っているのだが。ピングドラムはシュタゲより、格段に主観的だ。
なぜなら、シュタインズゲートは世界線を移動して世界が変わっても、つまり秋葉原が萌えの町から電気街に代わっても、どちらもあり得るし、どちらも日本の秋葉原にあった事だ。写実的だ。
だが、輪るピングドラムの世界改変前のダビデタワーは300mほどのダビデ像なのである。ありえん。アートすぎるだろ。
虚構的だ。隠喩的である。
虚構的であり、そしてそれはその他のシーンの抽象的演出と合わさり、「本当は巨大なダビデ像ではなく、そのように見えていたのはゆりの主観」だったのでは?
と、思う。「コンクリート製の男性的な巨大なタワー」を、ゆりが勝手に「ダビデ像のような芸術的で男性的な物」として見違えていたのではないか?と言う事。

ほとんど幻覚を見ている人のようなレベルなんだが。


(追記:
ゆりが父親に受けた「改造」がどういうものか、というものも名言されていない。「石膏像の手足の切断」と言う「暗示的映像」が挿入されている。しかし、それはゆりの主観的意識のようにも見える。実際、包帯の下のゆりには傷跡がない。(最後のゆりの裸体に傷がないのは桃果が世界を書き変えたから、と見る事も出来るが・・・。)具体的に何が行われたのかは分からない(小説版で明かされるか?)


だが、私が先日書いた事で、こういう事がある。

出ている人達の性格が妙で、彼ら自身の世界の見方が「他人とは感覚を共有できない」から、演出的に攪乱しているのでしょうか(推測)。その表現のために、主観映像で変にしたり、客観的シーンで感情移入しにくい絵にしてるねかなあ。


登場人物が「他人と主観の感覚を共有できず、すれ違う」という話だから視聴者にも感情移入や理解がしにくい演出にしてるのかな
すとらいさんへの輪るピングドラムについてのやり取りとかのメモ - 玖足手帖-アニメ&創作-

このように主観的な印象から風景の形が変わる、と言うのは出崎統もやっていて、有名なのはガンバの冒険の1話のどぶ川が光り輝く所など。
出崎統は主観的表現が上手い。
それと、暗示的表現や、短いカット挿入や道具のクローズアップで感情や劇進行を暗示的に示したり、と言うのもよくやる。そして、それはピングドラムでは多い。


今回の東京タワーの変化をゆりの主観の変化として見ると「ダビデ像にダブるような不思議な物」としてタワーを見ていたゆりが、父の消滅と桃果への初恋を経て大人になって、「単なる鉄骨の東京タワー」に見えるようになった、という解釈も成り立つ。
だが、そんな風に写実的に変わった世界を「この世界は全部うそ」と言うのがゆり。

  • 出崎統ポイント!その4.流動的な整理のつかなさ

輪るピングドラム14話の混濁人間関係がスゴイ! - 玖足手帖-アニメ&創作-
というのがピングドラムなのだ。「〜編」「〜話」「メインキャラとサブキャラ」という区分けがしにくい。
しかも、意図的。
桃果がここまで影響力を発する前、ゆりと多蕗がここまでメインキャラとなるか、私は思っていなかった。
また、脇役は全く知らない他人は棒人間のピクトグラムとして描かれているが、今回の山下が顔が見えない人間なのに晶馬を地味に手助けしたように、脇役でもストーリー進行に影響している。これは意図的に配置されたもので、「脇役だと思ったのに活躍する」という効果を狙ってるんだろうな。うむ。びっくりした。
こういう区別のつかなさが独特だと思う。ギャルゲーやラノベ原作のように「このキャラを攻略する話」「このイベント」という風に区分けできないのが、最近のアニメでは珍しいと思う。ギャルゲーのように「苹果編」と思って見ていると、苹果との関わりの8話までは長いと思いがちだが、その8話では着実に後半への伏線となる多蕗やゆりやダブルHが出てきているので、やはり必要な8話だったのだ。


そして、脇役だと思わせて、いきなり濃いドラマがあったりもする。
こういうのは出崎統作品でもあったりする。
おにいさまへ・・・はミソノオ・ナナコを中心としたソロリティのメンバーが次々と問題を起こすが、最後までスッキリ解決する事がなく、だれがメインかハッキリと区分けできないように人間関係が絡まっている。ここも似てますね。
ピングドラムはどうなるのか。
メインキャラはだいたい高倉家、荻野目家、夏目家、多蕗夫妻、渡瀬眞悧、と言う事で固定だとは思うが・・・。
オープニングも「少年よ我に帰れ」に変わったし。このオープニングでは最初のオープニングがすごく情報を隠したような感じだったけど、新しいオープニングだとキャラクターの性格や未来のヒントが書いてあるような気もして、ぞくぞくするね。

ノルニル・少年よ我に帰れ

ノルニル・少年よ我に帰れ


また、家族や愛と言ったキーワードについて、全く違う場面の過去の桃果とゆりの会話、過去のゆりとゆりの父の会話、渡瀬眞悧と冠葉の会話、夏芽真砂子と時籠ゆりの会話が、異口同音にリフレインしつつ、微妙に視点を変えて掘り下げていくのは、別々の物が編集によって一つになる混同って感じで面白い。

  • 出崎統ポイント!その5.よくわからん決闘描写

今回、キューティーハニーのような早変わり、フォームチェンジで戦った真砂子が非常にかっこよかったですね!
裸のゆりに仲居姿で背中で語る真砂子のたたずまいがすごかった。仲居で「嫌だわ、早くすりつぶさないと」。いきなり花咲くいろはが始まったのかと。よくわからないけど緊迫感のあるシーンだった。よくわからないけど、「芸能人は愛されなかった人なのでしょう」と精神攻撃をするとか、スゴイ。
仲居服を脱ぎ捨てて下に競泳水着を着ていて、スリングショットで戦う真砂子の変身がキューティー・ハニーみたいだ!舞台を暗くして暗視スコープに変身したり、足にヒレを付けて泳いで去ったり、真砂子は仮面ライダーみたいにフォームを変えるなあ。
翻って、裸にタオルだけを巻いて卓球ラケットで決闘に応じるゆりもなかなかだ!
そして、この決闘って、真っ暗な舞台にフラッシュのように止め絵で弾丸の応酬が繰り返されて、これも出崎統的な演出だなーと思った。最後に投光機の光でゆりの目がくらむ所とかも。
止め絵のカットインの多用、光と真っ暗の入れ替わりの連続とか、出崎統的な演出が多いなあ。と。
そして、よくわからんがテンポの良いカット割りとセリフ回しも、良いね・・・。
エースをねらえ!お蝶夫人と緑川蘭子のラリーみたいでもあるよね。

エースをねらえ! 背景付セル画

エースをねらえ! 背景付セル画

  • 出崎統ポイント!その6.姫っぷりの苹果

時籠ゆりのような見目麗しいお姫様とは違う、頭もよくないし人格的にも未熟、偉大な姉よりも劣っていて、好きな男の子にはなかなか振り向いてもらえない荻野目苹果が非常に少女漫画的。
ストーカーをしたり変な魔術をしても、陰鬱さや卑屈さはなく、むしろ明るくすがすがしく勢いが良い。
出崎統エースをねらえ!岡ひろみや、おにさまへ・・・の御苑生奈々子のような、「どこにでもいる、親近感の枠普通の女の子。だからこそ主人公としての風格がある姫」という要素がある。
そして、薬を飲まされたり縛られても、必ず王子様が助けに来てくれる。
でも、晶馬は転んで気絶しちゃったので、まだまだ完璧な王子にはなりきれない。
だけど、ベルサイユのばらのアンドレも最初の方はいまいちパッとしない男だった。でも美形になった。さて。
エースをねらえ!の藤堂貴之とかもいましたね。
雪の女王のゲルダも、王子様のカイをさがして長い旅に出る、たくましい女の子だったなあ。
こういう、平凡な身分や能力だけど、魂や役割は姫になっている女性主人公を、出崎統は描くことが多かった。そして、荻野目苹果はそういう人たちに近い情熱(と多少の愚かさ)を持っていて主人公の一人なのだろうな、と思う。
おとぎ話的でもある。苹果のイリュージョンの、平民からお姫様へ、と言う寸劇もそのような性格だと言う事を示しているのだろう。

そして、これが今回の一番の重要ポイントのひとつかもしれない。
今回初めて、荻野目苹果の姉、荻野目桃果が登場した。髪の毛は渡瀬眞悧より少し濃い桃色。おそらく、彼と同じように世界を見る女の子が桃果だろう。
そして、彼女は世界を革命する力を持っている。
ウテナじゃん。

そして、無償の愛を世界全体に向けていて、愛するために魔法を使うと自分の体が傷つく。
観鈴ちんじゃん。(もしくは神奈)ここで、川上とも子を媒介に出崎統ウテナが繋がった訳だが。2011年は出崎統川上とも子が死んだ年。我々は世界を革命した人々を失ったのだ。そして、アニメ関係だけでなく、地震で大勢の人が死んだ。幾原監督は東日本大震災の後に公に作品を発表する事について、たくさん考えたらしい。
我々は大きな存在を失った。世界の美しさを教えてくれる人々を失った。彼らはもう去ってしまった。
そして、今回の15話で桃果は初めて豊崎愛生の声で話し、顔もはっきりと出た。初めて出たのは、その喪失感を盛り上げるためか。
そして、その喪失感のショックで16年後の今も時籠ゆりは運命日記を狙って行動している。多蕗圭樹も13話で苹果に桃果の事を納得しているように口では言ったが、新オープニングで桃果の靴に口づけしているのを見ると・・・。
その喪失を受け入れるか、受け入れないか、どちらにせよ、どのように行動するか?
眞悧、多蕗、ゆりは偉大な桃果を今も追い求めている。
桃果を知らない16歳の高倉兄弟と夏芽真砂子は妹弟の死を受け入れずにピングドラムをさがしているのだ。
失われた物、失われつつある物に対するドラマなのか。
あと9話である。
彼らと我々は向こう側に行ってしまったウテナを取り戻せるのか。諦めるのか。


でも、ゆりは父親が消えた事にはあまり執着していない。母親が消えたから、父親も消えていいと思っていたのか。父よりも桃果が好きになったのか。



まあ、僕はいろいろと富野などに寄り道していたので、少女革命ウテナはいつでも見れるけどまだ見てない。
ノケモノと花嫁は読んだけど。


そして、その世界を救う世界を革命する物の喪失と言う事は、

昔、ラジオ深夜便でやってた村上春樹の短編小説「神の子たちはみな踊る」の中の「かえるくん、東京を救う」のラジオドラマです。カエルくん役は中村メイコさん。

に近い。むしろ、これが着想のメインなのではないか。
だが、「カエルくん、東京を救う」ではカエルくんを知っているのは主人公だけだ。
輪るピングドラムでは、世界を救ったカエルくんに当たる桃果の喪失に対する人たちがゆりや眞悧など複数いる。
桃果の事を知らないのに桃果の喪失に影響されている若者世代もいる。
僕は村上春樹のこういう閉じた所は好きではない。
が、ピングドラムは視点が複数だ。視点だけでなく、価値観も複数だ。個人同士の主観のイマジナリーは交わらない。そして、遥かに躍動的だ。そして、独りよがりではない代わりに危険性が高く熱狂的だ。さて、どうなるのか。


ウテナのように人々の心を動かしてきた桃果が去った後、それでも残された人々の人生は続いている。と言う話か。
(追記:
今回、出崎統的な物を出したり、出崎統的な展開にしたり、出崎統的な演出をし、同時に観鈴ちんウテナ川上とも子的な桃果を描いた。桃果の無邪気さと行動力はウテナ的で、豊崎愛生さんの演技も川上とも子のイノセントな感じに似ている。
そのように、今回は出崎統川上とも子の重要性を描いたようだ。それで、その失われた人々への執着心を強調している。それは幾原邦彦監督の個人的感情でもあり、それをバネにして桃果に対する登場人物たちのドラマを描く原動力にもしている。そして、大切な人を失ったと言う事は視聴者の誰しもが少しはある経験なので、そのような感情も共感を呼ぶであろう。

  • 以下、出崎統じゃないポイントの感想
    • 他人を作る陽毬と、愛ゆえに新しい家族を作れない冠葉(と、ゆりの父)。

ダブルHへのマフラーが届いて、社会とのかかわりを持った陽毬。そして、それをしてくれた眞悧へ興味を抱き始めた陽毬。
高倉冠葉は、マフラーを自分にくれると思っていたし、陽毬が自分以外の男に惹かれることにすこし驚いた。自分でもその驚きを意識しないように努める程度の驚きで。
冠葉と、ゆりの父の二人が「家族を愛するあまり他人を愛せず、新しい家族を作れない自己愛に満ちた男」という風に反復暗示されている。
今回、冠葉は眞悧に「妹さんに愛されているか気になる?」「家族は呪い」「家族は家族と言うだけで、親を愛したり兄妹を愛さなければならないと思う。彼らは本当は自分自身しか愛していないと言うのに」「君は彼女と家族では無かった方が楽なんじゃないのか?」と言われる。
これは、高倉冠葉が1話のラストで「もし、人が運命を無視して、本能も、遺伝子の命令も無視して誰かを愛したとしたら、神様、そいつは本当に人なのか?」と、言って妹にキスをしたり、プリンセス・オブ・ザ・クリスタルに命を分け与えて生存戦略した事に対する反論かも。
人である事を捨ててまで妹のために運命に反抗しようとする冠葉の意思を、眞悧は「それは家族に呪われているだけだ」と言う。これは痛烈だ。
どうなる?
家族を作る事がこのアニメの主題らしいが・・・。


あと、ダブルHも主要登場人物と脇役のボーダーラインに居る。歌は良いよね。


    • 神ではない桃果

メリーさんの羊に罰を与える世界線の果ての女神さまが桃果なのかな?と思っていたけど、桃果も運命を乗り換えて世界線を移動したら大怪我を負う。罰を受ける。
桃果はすごい能力を持っているが、桃果は神ではないのだ。
桃果もまた、中心ではなく、輪る・・・。輪る・・・。
桃果は死んでいるのか?それともどこか運命の至る場所に確かに居るのか?


どうなる?


ファビュラスマックス!臨界点突破してんだ?