玖足手帖-アニメブログ-

富野由悠季監督、出崎統監督、ガンダム作品を中心に、アニメ感想を書くブログです。

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新世界より1,2話 SFではなく一般小説というのが技巧的?

私は先日京都大学でこのアニメの原作小説の作者である貴志祐介氏にお会いして来て、その時に彼から「エンターテインメント小説にとって残虐なシーンは読者の関心を引くために必要です」と、聞いた。
曰く、「残虐なシーンや生死に繋がる描写は読者に感情移入させ、読ませるのに必要。我々エンタメ作家にとって一番大事なのは読んでもらう事で、怖い事はページをめくるのを辞められる事だ」
「死というのは大抵の読者にとって関心事項なので、関心をひきやすい。文体だけによって読ませる町田康氏のような作家もいるが、文体の力だけで読ませるよりは関心を惹かせる小説の方がエンタメになりやすい」
「私はかつて、小説家になる前、文章教則本をいくつも読んだが、大抵は役に立たなかった。ただし、『主人公に徹底的に辛く当たれ、危機を与えろ』という教えは役に立った」
とのこと。
おそらく、登場人物を徹底的に追い詰めるというのは、ディーン・R. クーンツの「ベストセラー小説の書き方」の一節だったかと思う。

ベストセラー小説の書き方 (朝日文庫)

ベストセラー小説の書き方 (朝日文庫)


貴志氏によれば、「登場人物が100苦しんで、やっと読者の関心を1惹くかどうか。」との事らしい。

テーマ: 「なぜエンターテインメントに残虐な表現が必要なのか」
講師: 作家 貴志 祐介氏


小説や映画、ドラマ、マンガなどのエンターテインメントは、娯楽のために存在する。ところが、そこにはしばしば、読者や観客の嫌悪を誘い、眉をひそめさせるような凄惨なシーンが登場する。そのため、良識ある人々から背を向けられたり、作品のバッシングにつながることさえある。こうした表現は、いったいなぜ必要なのだろうか。また、映画のレーティングや、条例などによる規制は、望ましいことなのか。あえて実作者の立場から考察してみたい。
京都大学未来フォーラム(第54回) — 京都大学


そういう点で、このアニメもいろんなフックを巧みに仕掛けているなあと思った。
第一話「若葉の季節」のラストで堀江由衣の麗子が消えた事で、第二話「消えゆく子ら」の中学校の球技大会が生徒を選抜するデスゲームという感覚で視聴者に訴えかけるように機能してるなあ、と。見かけ上や登場人物の認識としてはは球技大会だけど、それを命がけのように見せる演出が上手いな、と。
また、音響やシーンカット割りでブツ切れのような断続の手法が用いられているし、黒い部分と明るい部分のコントラストの強い色使いの構図が多く、絵柄も可愛いアニメキャラと気持ち悪い怪物などの振れ幅で描かれ、ホラー的感覚で視聴者の心を揺さぶっているなあと感じられた。
そこら辺はすごく技巧的に上手いなあーって思うんだが。


作り手の貴志祐介が「技巧的に読者の興味を引くために殺してます」みたいにいうのを聞いてから見ると「あー、ここで俺の興味を引くために堀江由衣を技巧的に殺したのか―」などと、メタ視点から見てしまって良くないです。
貴志先生はホラー作家でもあるけど、鈴木光司氏の「リング&らせん」について「ホラーをミステリの謎ときとして描いている」と評価しているし、この「新世界より」もミステリ調に謎や伏線や読者の興味を引くような小道具がタイミングよく、しかも少しずつ推理欲をそそるように出てきて、技巧的だ。しかし、ここら辺は魔法少女まどか☆マギカの技巧的な部分よりもちょっと技巧が強く感じられるかなー。まどか☆マギカはアニメーションとしての動きとか演出が突出していて、推理しながら見るというミステリ的鑑賞をせずに見世物としても面白かったからなあ。
やっぱりホラーはホラーとして純粋な気持ちで怖がったりする感覚が無いとダメなのかなー。うーん。僕はホラーとかミステリはあんまり得意じゃないんですよねー。得意分野はSFロボットアニメで。


ちなみに、前述のクーンツの「ベストセラー小説の書き方」では「SFやミステリなどのジャンルが限られた小説よりも、一般小説を書く事を目指せ」って書いてある。つまり、ファン層を限定せずに幅広く読まれるようにせよ、というわけだ。
畢竟、「新世界より」も千年後の未来が舞台で、摩訶不思議な生物や超能力や、現在の日本とは違う文明文化我が枯れているのだが、SFというよりは一般小説に近い雰囲気で描かれている。と、いうのは、主人公が普通の女の子という事だからだ。つまり、普通の一般の読者が感情移入しやすい倫理コードの持ち主という事だ。クーンツの「ベストセラー小説の書き方」でも主人公は「一般の読者に受け入れられやすい、愛されやすい、かと言って完璧ではない親しみのある人物で、平然と殺人を行うような人間ではいけない」と書いてある。
そんなわけで、新世界よりの主人公の渡辺早季の適度な凡庸さ、才能のなさが、未来のSFの突飛なキャラクターというよりも現代小説読者にも馴染みやすい普通の感覚の延長という感じである。


だが、そこはちょっと私のようなガンダムオタクには微妙な感触。まどかマギカ鹿目まどかが凡庸だった事と同じような違和感がある。(まどかは暁美ほむらが時間を積み重ねすぎたせいですごくなった、っていう「設定」がある。あと、自己愛の強いキャラの多いまどマギ世界のメインキャラの中では利他的である)
私は、遠未来の世界を革命する主人公様が21世紀の我々のような凡庸な性格であっていいはずがない!って思う。
ガンダムアムロは「宇宙世紀の」常識を持った人物だったし、イデオンのユウキ・コスモは銀河開拓時代の開拓民らしいし、ザブングルのジロンも荒野の冒険者らしいし、作品の世界観に合った性格付けで、現代の我々とはちょっと倫理感が違う所もあったんだが。
ロラン・セアックも運河人という架空の場所にローカリゼーションされていた主人公だし。
富野以外でも風の谷のナウシカナウシカはやっぱり千年後の人で現代人とは感覚が違う。獣の奏者エリンパラレルワールドなのかな。


その割に、「新世界より」は「新世界」と銘打っている割に主人公の倫理規定が現代人のそれに近く、それが私にとっては違和感である。作品世界での未来的な、現代とは違う常識は「神栖66町の倫理規定」として視聴者が違和感を持つように描かれている。「これはSFですよ、作りごとのルールですよ」っていう風に描かれている。
そこがなー。ちょっと私にはなじめない所。原作つきと言っても、「偽りの神に抗え」って1話の段階からキャッチコピーで言ってしまうのは読者の倫理コードを簡単に規定してしまってつまらない。序盤の段階ではもっと「何が善で何が悪なのか」を楽しみたい所。(そこらへん、魔まマの序盤は混沌としていて楽しかった)
1,2話の段階では主人公は現代人の感覚よりも千年後の世界のルールに親和的な精神状態であるというのがSF的には自然なんだが。うーん。まあ、主人公は「呪力」が弱い個体だという風に他の登場人物から差異化されているので、逆に現代人的なのかなー?あと、未来人の割に「学校の怪談」などが20世紀日本人のような感じで、変だ。未来の世界で無理に現代人をキャラクターに演じさせているような技巧を感じる。(蒼穹のファフナーなど、擬似的20世紀を尊重するというのはSFにもあるんだけども)なんか、SF的に特異な登場人物ではなく、現代人にも共感できる日常ドラマを未来でやっているのが、ちょっと違和感だったような・・・。いや、今後の(作品舞台世界が広がるであろう)話で20世紀感覚も相対化されるのだろうか?
でも、私は「利他的を道徳とする人間」というのもここ60年後の第二次世界大戦後の流行でしかなく、千年単位で考えると現代人の感性もそんなに普遍的なものではなく、局所的に限定化、ローカライズされたものなんじゃないかと思う。
その現代の倫理コードに似た親近感の持たせ方が、原作者の読者に対する技巧で、ちょっと無理があるんじゃないのか?SFではなく一般小説として、あるいはホラーとして読者に主人公たちと同化するような感情移入をさせるために、千年後の未来の割に登場人物の行動がストーリーテリングの技巧によって制限されているような・・・。
もっと無茶苦茶やっても良いだろ!


貴志先生は講演会で「死や暴力を描く事は、生や道徳を描くことにもなる」って言ってて、「だから暴力表現は良識のある方の考えを害するものではない」って言ってたんだが。僕は別に生や道徳も特別視すべきものではないと思う。性も道徳も単なる生物の一状態に過ぎないという、寄生獣的な考えを持っているのである。(もちろん、インターネットなどの人間のインフラを利用するために人間社会に溶け込んでいるし、書類上は前科もないので、法治国家において私は正義である)


新世界より」は千年後の世界に蔓延する「偽りの正義、偽りの文化、偽りの神」が悪、という事を洗脳っぽい雰囲気の「倫理の授業」や500年後の虐殺シーンなどで描いていて、「偽りの正義は悪」という事を強調するあまり「現代の普通は善」という風に、逆効果を上げていはしまいか?と思う。
もちろん、「千年後の『偽り』は現代の延長線上であるので、現代も気をつけましょうね」、という倫理的抜け道は伏線として用意されているのだが・・・。


別に人をぶっ殺したから悪だとは限らないと僕は思うなー。人を殺す事は悪だー、みたいに描かれているけど。僕が大事なのは、僕が小説を見たるアニメを見るのに使うためにこの肉体を駆動している時間としての命だけで、別に殺人なんか昔も今もどこにでもあるし、物理的に破壊すると人間は死ぬ。人間は殺されたら死ぬ仕様で出来ているんだから、殺人をそんなに悪い行為だと強調して描くのは殺人に対して失礼だと思う。


まあ、どの行為が良く、どの行為が悪い、という風に作品全体で描くのはちょっと好きではない、という程度かな。もちろん、登場人物個人にとって行為の好き嫌いは描かれていいと思うんだが、作品の主義主張というのがうるさくなるのはあまり好きではない。僕は自然主義者なのかなー。でもSFロボットものはロマン主義でもあるよねー。生命の躍動は割と見ていて好きなんだけど。樹とか花とか見るのが好きだし。


この作品は主人公たちが歳をとるらしく、最初の12歳から成長していくらしいので、考え方、倫理コードの変化などが見どころである。序盤に「偽りの神」って視聴者にネタバレしているんだから、それを革命した後の後半に期待。原作は読んでない。


あと、僕は現代人の上っ面の道徳が嫌いなんだよ。まどかマギカを子供に見せたくらいで倫理規定が同行ガタガタぬかしやがって。

劇場版まどかマギカ、親子連れが何組か放映途中で出て行った。マミさん死んでこれから盛り上がるのに、全く訳が分からないよ。
kyabeprin 2012/10/07 13:18:30



イデオンも作品自体は悪趣味だと思うけど、トミノの何が怖いってあれ本気で「アニメに携わる人間ならばロボットアニメで幼女の首を飛ばさなきゃいけない!」って思ってそうなのが怖い。まどマギ虚淵はあくまでオタク向けに作ってるだろうが、イデオンは子供も見るとわかっててやったんだろうし。
endlessfamine 2012/10/08
「『劇場版 魔法少女まどか☆マギカ』を見て泣いた子供がいた」というツイートにまつわる話 - Togetterまとめ

実は僕は小学4年生で一般市民の子供たちが虐殺される機動戦士ガンダムF91を祖母と一緒に見に行ったんだが、別に残酷だとは感じなくて、「セシリーのウェスタンルックってかわいいよな」って思ったくらいだった。
っていうか戦争をしてたら、人が死ぬくらい当たり前だし、子供だってそれを免れないという事は子どもでも数年生きていて人並みに病気や怪我をしていたらわかる事だ。死の恐怖くらい知識として知ってますよ。



っていうか、アニメや小説で登場人物をぶっ殺す事なんか現実にバールのようなもので哀れな被害者の頭蓋骨をかち割って脳を破壊することよりも簡単過ぎる。だから、アニメや小説の死は疑似的に視聴者をビビらせる事はできるけど、そんなのは作者にとっては単なる技巧に過ぎなくて、軽い行為なんだよ。だが、そんな軽い技巧で軽く殺された堀江由衣はかわいそうだろ!堀江由衣に謝れ!!!!
創作では簡単に人を殺せるんで、逆に簡単に人を殺すのは人に失礼だと思う。自分でもちょっと何を言ってるのかわからないが。むしろ、簡単に人を殺せる創作の中で人を殺さないように頑張って頑張って命を燃やしつくして、でも登場人物が殺人や事故に必然的に巻き込まれて死んでしまうという、やるせなさこそが、記号的な死よりも受け手の心を揺さぶるんじゃないかと思う。
割と人間は簡単に死ぬんだけど、割と簡単に死ぬのに生きているという一瞬の輝き、生の躍動、みたいな熱気は美しいよね?
貴志先生は色々と取材したらしいけど、法医学とかリアルな死体の写真は苦手って言ってた。その割に悪の経典のように血しぶきが飛ぶ映画の原作は描く。いやー、もっと人がどんなふうに死ぬか、死ぬ前にどんな行動をするか、観察したいな、僕は。


まあ、ANOTHERやBLOOD-Cピタゴラスイッ死みたいなスプラッターとしての祝祭的な殺人は結構好きなんだけど。リョナ好きだし。
でも、登場人物が死ぬかどうか、ドキドキして見守るような、感情移入するタイプのホラーはあんまり好きじゃないんだよなー。僕が感情移入できるのは結局自分か脳内妹だけだし。なんで物語の主人公ってだけで高貴なる俺様が感情移入してやらなくてはいけないのか、さっさと死ね。
って思います。やっぱり僕は孤独の観測者なのねー。


そんなひねくれ者でも面白がれるアニメに仕上がるといいと思います。

新世界より(上) (講談社文庫)

新世界より(上) (講談社文庫)

新世界より(1) (講談社コミックス)

新世界より(1) (講談社コミックス)