玖足手帖-アニメブログ-

富野由悠季監督、出崎統監督、ガンダム作品を中心に、アニメ感想を書くブログです。

おにいさまへ…第33話「飛翔」すごく良い百合アニメ

http://gyao.yahoo.co.jp/p/00923/v00038/(配信中)
ソロリティ廃止運動がひと段落して、残り7話。
女子高レズビアンアニメとしての路線が復帰したのである。
こ、これは百合とかレズとかそんな次元を超えて、美しい「恋愛」を描いたアニメと言えるのではないでしょうか?
この感想文には激烈なネタバレを含みます。
ただ、今回、サン・ジュストこと朝霞れいと、主人公御苑生奈々子のデートが描かれて、彼女たちが恋をしてるんだな、ということが本当に何度も、手を変え品を変え描かれている。ああ、これが恋なんだなあ、と、私のような百合男子は感嘆いたし候。
恋とは、互いの中に自らの半身を見出すことなんだよなあ。

古代の最初の人間は、頭が二つに手足が四本づつあって、今の人間二人が背中合わせにくっついたような形で、丸いからだをしていました。男と男がくっついたもの、女と女、そして男と女の組み合わせの、三種類の人間がありました。この男と女が一体となっていた人間のことを、アンドロギュノスといいます。
 これらの最初の人間たちは、神も恐れぬ不遜な態度だったので、大神ゼウスによってそのからだを二つに裂かれてしまいました。それ以来、人間たちは、かつての分身を求め合って恋をするのだといいます。
 男と女が求め合うのは、もともと一つのからだに男女両性をそなていたからというわけです。男と男、女と女で求め合うのは同性愛ということになります。
 以上は、プラトンの『饗宴』の中でアリストパネスという喜劇詩人が語ったお話。
移転しました



というわけで、奈々子とれいが求め合うのは全く自然なことで、同性愛の禁忌とかそういう世俗の次元のことは関係ないのです!
まあ、プラトンの言ってることは作り話なんだけども、自分の似姿を恋人に求めるというのは恋をする中でよくあることです。特に、サン・ジュストは自分の部屋の壁に鏡をたくさん貼って、自分を見つめて生きていた女性です。そんな彼女は自分の部屋の人形に似ていた奈々子を愛するのは自然だということです。むしろ、自分だけを見つめて引きこもっていたり、自分の姉である蕗子に執着するより、自分と似たようなものを分かち合う相手と惹かれあうのは、サン・ジュスト様の生きる意欲、社交性が増した事だと言えましょう。

  • 百合アニメとしてのおにいさまへ・・・

まあ、僕は僕で百合姉妹の初期購読者で、タカハシマコとか愛読するような百合男子ですが。(萬画としての百合男子は絵柄がこってりしているので、女性の美しさを感じるための百合としては、あまり好きではない)
おにいさまへ…は一応、女性同士の愛情を描いているんだけど、そんなにレズって感じがしない。多分絵柄のせい。あんまり「女の子同士」って感じがしないんだな。
サン・ジュストはタチだし、バスケ部で背も高いし、あんまり女性的な体型ではない。シャワーシーンが原作に比べて異常に増えていて、よく脱ぐんだけど、萌えとかエッチな感じが全然しない。スラッとした手足に、かすかに尻と胸が膨らんでいるだけの絵柄の体型。杉野昭夫は女性らしい女性を描こうと思えば描ける画力はあるはずなので、多分、それは計算。
女の子、って感じがしないんだよなー。百合とかだと女の子の同士の柔らかぁい触れ合いを見て萌えー、っていうのが醍醐味なのですが、おにいさまへ…にはそういうのを感じない。
バスケの練習のあととかシャワーとか、サン・ジュストや薫の君の着替えシーンでブラジャーが映ることが多いんだが、そんなにエッチな感じがしない。普通に付いてるものが付いてるってだけでそっけないブラなので、女子高の日常感覚なんだろうか。あんまり下着に価値を置いてない感じの見せ方だなあ。同性だから裸や下着が萌えアニメゆるゆりほどそんなにありがたくないのだろうか。まあ、序盤のマリ子と奈々子の混浴シーンは原作からしてエッチだっただろうか?

まず「百合」とは「ガールズラブ」のこと。……なんですが、もーっと最近は広義になっています。
女の子同士が手をつないでいたり。仲良く二人で出かけたり。ふざけてじゃれあったり。
別に「ラブ」じゃなくても、女の子二人が仲良くキャッキャウフフしていたらそれってドキドキするじゃないか!……という心理を一般的に「百合」といいます。

ラブとかキャッキャウフフとかキマシタワーとか、あんまり感じない。
薫の君とサン・ジュストが裸で抱き合うシーンもあるんだけど、あんまり性的な感じがしない。あのシーンは「寂しい時、人肌恋しいよな」という程度で、あんまり女を感じない。むしろ女というよりは人間的な感じがする。
でも、主人公の奈々子はその中で、すごく女の子らしいし小柄だし、膨らんだ袖だし、妹萌えの私としてはすごく愛おしさを感じます。でも、おにいさまから妹を見る感じで、女性という感じは薄いのかもしれないけど、僕は妹萌えなので、妹に対して性的に感じる部分は否定できないのだが・・・。
智子さんはあんまりスカートを履かないので女子力が低い。マリ子さんはレズかと思わせてファザコン堀内賢雄に懐柔されていく。
やっぱり、主人公総受け系の百合アニメなのかなー。
奈々子はすごく女の子女の子した女の子だよなあ。でも、サン・ジュストがタチっぽいので百合感は低い。むしろ人間的な真実の愛を!
とかいうのは、腐女子が「やおいには性を超えた人の心の機微と真実の愛が!」とかいうのと同レベルかもしれんが。


  • れい×奈々子のルートへ

まあいい。今回は朝霞れいと御苑生菜々子が海に夕日を見に行くという、出崎統的には最高にロマンチックなデートをする約束をして、デートに行くまでが描かれる話です。
そこで、互いに同じような行動をするのが「恋」だと思う。あの、向精神薬漬けのサン・ジュストがデートに向けてはしゃぐというのが、すごく「恋」という感じ。
奈々子は以前、サン・ジュストが好きだと愛を告白したことがあったのだが、今回、やっとサン・ジュストは奈々子に告白する。
告白する前のその日、れいは、母親の入水自殺の夢を見て起きる。だがそれを「久しぶりにぐっすり眠れた」と親友の折原薫に言う。れいも奈々子の愛を得たことで変わったのだ。あるいは、ソロリティが奈々子がきっかけで廃止されて、それでも蕗子が誇りを保っているということを見て、れいは蕗子への心配が軽くなり、自分の人生を歩こうと思ったのかもしれない。それで、奈々子への告白に気持ちが向いたのかもしれない。れいは「自分があの人にとって必要なくなったのかな」と薫に言うが、それは絶望ではなく自分自身のために恋をするという希望だったんじゃないか?出崎統版では。
ソロリティが失われても、蕗子も父親からの電話で安定した声を出した。蕗子もひとりの女学生のような飾らない感じになり、ソロリティのリーダーの宮様としてではなく、一人の女生徒として生きていく方向になったようす。


「とにかく、話したかった。誰かと」「可愛い、そんな人と話がしたかった」と言って始めて「蕗子様は私の本当のお姉様」と、秘密を告白する。秘密の共有を以てして、「愛の告白」と成す。自殺した母親の最後の願い、実の姉にも言えない、おそらくは薫にも言ってないであろう実の母親との秘密をれいは告白する。
なぜ、それを言ったのか?どうしてそんな大切なことを私に?
「あなたのせい。それが理由ではいけない? 」
うわぁ、恋心だなあ!そして抱き合う二人。
「今ね、これから、すごく、強く生きていけそうな気がしているんだ。
そうだ、あなたに夕日を見せてあげよう、明日。
そう、このあたりで一番夕日が美しく見える場所を知っているんだ。そこには、小さい頃何度も母に連れて行ってもらった」
その場所はきっと、母親が入水自殺した場所。サン・ジュストにとって一番美しく懐かしく、悲しい場所。
そういう海辺は海ニスト出崎統にとっても最高に愛が高まる場所。
だが、出崎統監督の宝島のジョン・シルバーに言わせれば「夕日は裏切りの名人だ あっという間に人の心を夜の闇の中へ突き落としちまう」そういう危険な場所でもある。
姉の一番の秘密を打ち明けたあと、そんな美しく危うい場所へサン・ジュストは奈々子を誘う。それはきっと、自分の一番弱く、デリケートな部分を重ね合わせようとする性行為のような愛情表現なのだろう。それをセックスやキスではなく、夕日を見るというだけの行為で表現しようとする出崎統の詩的なセンス感覚が素晴らしい!これ、なまじのレズ・ゲイ・同性愛作品では描けない性愛表現だ。キスとかレイプとか朝チュンとか酒風呂風邪(やおい3大シチュエーション)とかそういう直接的描写ではなく、心が痛み、同時に美しくなる思い出の場所で夕日を見る、ただそれだけで二人が「交わり」をするということを感じさせるのこ出崎統自然主義的なる浪漫技法よ!
というか、出崎統にとって海に沈む夕日を見るというのは本当に重要な意味を持つのだよなあ。宝島しかり。


原作では、サン・ジュストソロリティ廃止に動揺して取り乱した蕗子に「私生児のくせに!」「わたくしがあなたをそばにおいておきたかったのはね…自分の優越感の道具にできるそんな人間が欲しかったからよ!!」「ああ!!あなたを見るたびにわたしはよろこびとほこりでぞくぞくしたわよ!!わたくしよりおとった人間!!わたくしより血のいやしい人間!!一生そばにおいておきたいとさえ思ったわ!!」「ソロリティをつぶして…それでわたしに勝ったつもりでいるならお笑いだわ」と罵られたショックで、奈々子に蕗子の出生の秘密を話して自殺する。
原作は原作で、女性ならではの嫉妬と、自分では何もできないで家の血統や父親の経済力に振り回される女性ならではの歪んだ女性同士の争いや憎しみ合いが描かれている。誇りや美学を重んじる出崎統にはこういうのは書けない。そもそも、出崎統は卑しい海賊のジョン・シルバーを原作から大幅に改変して「美学を持った男の中の男」として描き直したので、蕗子が誇りを持ったお嬢様の中のお嬢様として改変されてもいつもの出崎統である。(お蝶婦人やマリー・アントワネットからのラインでもある)
(余談だが、原作の源氏物語では源氏にレイプされた若紫を、源氏物語千年紀 Genjiで、「お兄様を心から支える妻としての結婚」という風に描き直したのも凄まじい出崎統だなあ。AIRCLANNADの美少女の描写しかり。出崎統は男性に奪われる女性ではなく、自ら進んでいける女性を描くよなあ。まあ、出崎統は女性を書く事にはそんなに興味がなく、人間を書こうとしたのかもしれんが。いや、六条の御息所のビッチぶりはすごく女らしかったですよ)


原作でのサン・ジュストからの告白シーンは二人でブランコに相乗りするものなので、まあ、これもそれなりにセックスの暗喩ではある。アニメ版でもサン・ジュストは奈々子を公園に呼びつけてブランコに乗っているので、そこから出崎統はふくらませたんだなあ。矢吹丈も公園が好きだったし。
翌日の夕日デートは出崎統の創作である。

  • デートに向けて重なり合う二人

デートに向けて同じような行動をする奈々子とサン・ジュスト。はしゃいでいる。
奈々子ははしゃいで早起きして薄化粧をして、それでもいてもたってもいられずに親友の智子と喫茶店で話して、デートの待ち合わせ時間までを潰す。
サン・ジュストも爽やかに起床し、それまでは空っぽだった冷蔵庫にたくさんの食べ物を詰めて、部屋の掃除をして元気になってる。そして、親友の折原薫に電話する。
奈々子が親友の智子と喫茶店で会ったのと相似形で、サン・ジュスト様は薫の君に電話をする。ここで、薫×れいのフラグを折っていく。これが見事。裸で抱き合って眠ったこともある二人だというのに、奈々子が親友の智子と会うのと同じようなもの、と並べて対比することで、れいにとって薫は恋人ではなく親友だった、と暗示している。上手い。
おそらく、心の病を抱えるれいと、体の病を抱える薫は互の傷を舐めあうような、互いに互いの傷を見て安心し合うような支え合うような、そう言う親友であって、それはそれで愛だと思う。だが、今回では薫はこの場面で振られる。れいは薫に電話で「じゃあ、こんな日は一緒にバスケの練習をして汗を流そう」と誘われるが、「約束があるから」と、奈々子を優先して薫を降る。ここ、すごくエロゲーっぽい。ときメモが流行る3年くらい前のアニメなのにギャルゲーっぽい選択肢だああ。ここのサン・ジュストの展開。まあ、いくつかのヒロインの問題を同時並行的に描いていくおにいさまへ・・・というアニメはすごくギャルゲー原作アニメに近い構造なんだが。


そして、ダメ押しでサン・ジュストは「”巷に雨の降るごとく”お前さんに借りていた本出てきた。ベッドの下から」と言う。
これ、失恋の歌だよねえ。
その本を薫に返すというのは、一つの同性愛の恋の終わりだよなあ。ヴェルレーヌランボーも同性愛だし。


そこで、「”わが心にも涙ふる”似つかわしくないな。今日の天気には」と、れいが言い、「今のれいにもね」と薫が言う。れいは晴れた天気の話をして、薫はれいの話をする。れいの心にはもしかすると薫に対する失恋の雨が降っていたのかもしれない。薫はそれを分かってやっていたのか、「今のれいの心には降っていない」と返す。振られた事を爽やかに許したのか?だとすると、薫はレズとして男らしい。もちろん、薫の本命は辺見武彦氏だし、れいもそれを知っていたので、やはりレズカップルとしては別れる定めにある二人だったのかもしれない。
ともあれ、薫とれいはこれで別れる。


また、奈々子に告白する前、れいは闇の時計台の割れた窓から、堂々と登校してくる一の宮蕗子の顔を確認して、声もかけずに別れた。ソロリティを失っても蕗子が堂々としていることを確認して、心配して守らなくてもいいってれいは感じ取ったのかも。姉妹百合の恋もここでフラグが折れ、菜々子ルートに行く。


まあ、それでもサン・ジュストはデートに行く前に宮様にもらった金の腕輪をつけていくので、愛がなくなったわけではない。ただ、原作と違ってサン・ジュストは蕗子にもらったプペちゃんの少女人形を奈々子に形見のように渡すことはしない。家に置いていく。宮様との関係を抜きにして、奈々子と恋をしようとしたんだろう。
部屋を出る前に扉に鍵をかけようとした時、サン・ジュストは「出かける時くらい部屋に鍵をかけてください!」と言った奈々子の言葉を思い出した。自分が無意識に奈々子に影響を受けていたことに気づき、嬉しそうに笑った。自分の中に恋人のかけらを見つけることは嬉しいことだ。
だが、そこで「でも、それって自分らしくないかも」という風に鍵をかけるのをやめて出て行くのも、サン・ジュストの孤独を愛してきた彼女の個性なのだと思う。
だが、そこで、サン・ジュストは奈々子と完全に同じ恋人には成れずに、夕日を一緒に見ることは、できなかったのです。


以下、ネタバレ



  • なぜ、彼女は飛翔したのか

奈々子は親友の有倉智子さんに会ったのに、サン・ジュストは親友の折原薫と電話で済ませた。これが違いか?ギャルゲー攻略的に言うと。御苑生奈々子は人と会う元気があるが、メンヘラのサン・ジュストにはその気力、生命力が足りなかった?
あるいは、奈々子は一途にサン・ジュストとのデートを考えていたが、サン・ジュストは奈々子へ渡す一輪の花の他に、宮様へ贈るバラの花束も購入していた。二股かけてたから?
浮気というより、多分、サン・ジュストは愛が多い人だったんだろう。奈々子は受け取る愛に喜んでデートに行く女の子だったが、サン・ジュストは薫に本を返すために掃除をし、宮様にも気を使って花を贈って、奈々子に渡す花を用意した。サン・ジュスト自身の心は母親の自殺や家庭環境などからすごく傷ついているしもともと精神も弱いが、与える愛の人だった。
だから、疲れてしまって、最期は力が抜けてしまったのかなあ・・・。
僕も、ほら、精神障害者だしパニック障害持ちだから、たまに神尾観鈴ちんのように体が痛くなったり手足の力が抜けて倒れたりするんだけども。そういう時って、嫌なことがあるときだけじゃなくて嬉しい時やはしゃいでる時も、なりやすい。精神医学的には、嬉しいことも気分の変化なので、嫌なことと同じようにストレスになるらしい。
だから、幸せの絶頂で朝霞れいが風に吹かれて転落してしまうのは、ありうるように見えた。韓国ドラマとか名雪ルートの交通事故の、「泣かせ」を盛り上げるための唐突な事故に似てるんだけど、メンタルヘルスを患っている人間からすると、人とデートしたりするのはすごく嬉しい半面、非常に精神エネルギーを消耗して気を張るものなので、プチっと切れてしまう時もある、というのは実感として納得できる。
だから、まあ、実感を持って我がことのように悲しいんだけど。


もちろん、原作でもサン・ジュストは死ぬことになっているから死ぬんだけど。
そうしないとそのあとのほかの人のリアクションが描けないし。
原作では宮様に意地悪をされた不幸なショックでの睡眠薬の飲みすぎによる事故的自殺。アニメでは宮様に安心して奈々子に愛を見つけた幸福の中で力の糸が切れての事故死。どちらが、ということはないのだが・・・。
宮様の心の器としては、アニメのほうが数倍大きくなってる。(若い池田理代子のデビュー作だし)


しかし、出崎統AIRでもそうなんだが、「原作で定められた死」を全く違う意味合いで盛り上げる原作改変がすごいなあ!まるで死に抗うようですね。抗っても勝てないし死ぬんだけど、そこまでの過程を変えていく、それが人生なんだ!という。


そして、死ぬ瞬間、朝霞れいは自殺する母親を思い出し、大好きだった宮様に貰った少女人形を思い出し、そこに奈々子の面影を重ねながら逝く。それは、彼女が自分の人生を生きたことを表していたのだろうか。違うのだろうか。遺されたものには、それはわからないのだ。