玖足手帖-アニメブログ-

富野由悠季監督、出崎統監督、ガンダム作品を中心に、アニメ感想を書くブログです。


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どろろ 第11話 ばんもんの巻・その三(出崎統回)

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レンタルビデオにもなかなか後半がない古い1969年のアニメだが、GyaO!で配信しているので見ている。DVDを買う金と気力はない。


だが、この11話はアニメ版どろろの前半のクライマックスであり、出崎統回であり、私の好きな回。以前見て、感想を書いたはずなんだが、ツイッターで流れたようで、はてなダイアリーに残っていないので、再度書く。


私は労働者で、しかも不眠症の治療中なので、この感想を書く時間が20分しかない。
また、私も親を先日ひどい方法で亡くしたので、孤児のアニメを見るのは辛い。だが、孤児の生命力というものはある。


箇条書き

原作では敵味方に領土を分ける壁に取り付いていた狐の魔物が死んで、壁が崩れて、壁に分けられていた百姓領民の家族が再開してハッピーエンド気味だが、アニメでは壁が崩れたことで醍醐景光が壁の向こう側にさらに侵略を開始し、戦乱は終わらない、と、ナレーションで強調されている。アニメは出崎統富野由悠季高橋良輔、鈴木良武が参加しているので、非常に殺伐度が増している。リアルだ。
醍醐景光の存在感がアニメでは重視されているしな。
原作の醍醐景光は息子であり前線指揮官の多宝丸が死んで天下を取る意欲を減らすが、アニメでは「多宝丸の死を無駄にするな!」と更に兵を進めるので、悲壮感が増している。マンガっぽさは減っている。

両親と板門の壁に隔てられ、戦争が終わるのを待っていた助六は、両親が死んでショックを受けているあいだに「おっかあもおっとうもいないのに、どこに逃げりゃあいいんだよ」と行って落ち込んでいるあいだに壁に並べられて処刑される。
既に応仁の乱の戦災で両親を失っているどろろ助六に「戦は待ってたって終われねえんだ!」「オイラ逃げるゾーっ!」と叫んで逃げて、また捕まるが数分間長生きしているあいだに、百鬼丸が助けに来る。この、ちょっとした生命力の違いで生死が分かれるところ、出崎統らしい。
どろろが壁に縛られて処刑される時に一回逃げるのは、原作にはない改変。アニメ版の方が生命力を感じさせる。ただ、原作では助六は「生まれ変わったらまた会おうぜ」と言って死ぬので、やはり助六は死を受け入れる運命で、どろろは受け入れないという対比は原作からある。生まれ変わりと生の対比は火の鳥でもありますよねー。
ばんもんっていうルールに縛られている助六と、ルールを破壊するどろろという対比でもある。出崎統の後年の主人公もルールの破壊者が多い。おにいさまへ…の御苑生さんとか。もちろん、原作でもどろろがルールを破壊するがゆえにどろろは主人公足り得るのだ、という要素はある。

  • 百鬼丸と多宝丸の戦いに見る殺意と本能の表現

原作では百鬼丸を「ノライヌ!」と罵る多宝丸だが、アニメでは「カタワの野良犬!」「何度でも言ってやる!」「片輪!片輪!カタワ!」と言っている間に、百鬼丸に切られる。
百鬼丸は多宝丸を斬る直前、彼が実の弟だと妖怪にテレパシー妖術で聞かされる。妖怪はサディストなので、百鬼丸を苦しめたいのだ。
原作ではそれを知った上で百鬼丸が自分の義手に握った刀で切り捨てる(意識的)
だが、
アニメでは多宝丸に切りかかられた刹那、反射的に百鬼丸は義手を外して、その下に仕込んでいた刀でカウンターを食らわして殺す。(無意識的)
ダメ押しに「俺がカタワでなければ、斬らずに済んだのにな・・・」と嘆く百鬼丸百鬼丸の殺意が意識的ではなく、無意識レベルの生存欲求だと表現している。
この「生存欲求の本能の戦い」という感覚は前述のどろろ助六の対比にも現れている。
百鬼丸は自分が生きることにすごく悩んでいる。同時に魔物に復讐して戦おうという欲求も持っている。自殺か、死か、生か、戦いか、殺人か?それが交じり合う刹那の感情と本能の表現が視聴者を揺さぶる。
原作でも1ページの中に手塚治虫独特のコマ割りによって百鬼丸が一瞬の中に苦悩した絵が1枚絵として入っているので、それで百鬼丸の一瞬の苦悩と殺意が表現されているのだが、アニメの方は実写に近い演出でリアル風だし、原作に込められたテーゼをより整理して表現し直している。これは後年の出崎統の作風でもある。


また、杉井ギサブロー総監督は自叙伝「アニメと生命と放浪と」の中で

また『どろろ』でこだわったのは、人が人を斬るという時の心理だった。
(中略)
僕がスタッフに行ったのは、「振り上げた刀を振り下ろす、それは単なる物理現象だ。大事なのは、刀を振り上げる瞬間のほうだ」ということ。

そういう総監督の指揮のもとで、主人公である兄が弟を殺す、という前半の山場となる場面を任された各話演出の出崎統は「百鬼丸が刀を振り上げるところを描かない
「普通の剣戟ではなく、カタワの義手による歪んだカウンター」
「最後まで殺す決心がつかないのに、無意識に生き延びることを選んでしまう一瞬」
あしたのジョーにも劇場版エースをねらえ!にも通じる、「クライマックスを描かないことでクライマックスとする」出崎統の超絶技巧!


また、決してチャンバラをアクション作画するのがめんどくさいから斬るところを省略した演出ではなく、百鬼丸は妖怪に多宝丸が弟だと知らされる前は、市川雷蔵長谷川一夫の時代劇もかくや、というような様式に則ったスタンダードな殺陣を披露していた。そのうえで、最後の一太刀は描かないことで、本当に弟を殺すということの辛さや空虚感やエゴイズムを非言語的に芸術的に強調表現していて素晴らしいの一言。


ただし、妖怪を退治するところのアクションは原作では派手に描かれていたのに、アニメでは割とあっさりと妖狐を退治する。原作では百鬼丸が鼻に仕込んだ爆弾で敵を退治するというギミックがあったんだが。
強い妖怪を殺すことは弟を殺すことよりも出崎統にとってはあまり興味がなかったのかな?強さよりも心理の方が重要。
多宝丸を殺害して苦悩している百鬼丸が妖怪の精神攻撃で「お前が弟を殺したのだ!」と言われて鬱になっていたが、どろろの叫び声で気が付いた百鬼丸は反射的な義手仕込み刀ではなく、普通の剣術を使って一太刀で妖怪狐の首を撥ねる。妖怪に向けるのは、意識的な怒りか?
そして妖怪を殺しても、百鬼丸は爽快感はなく、「妖怪の言ったことはでたらめだ。俺には生みの親なんかいないのだ・・・」と鬱になって放浪していく。

  • 妖怪の不気味さ

妖怪漫画の第一人者の水木しげるさんに手塚治虫先生が嫉妬して描かれたのがどろろなんですが、水木しげるの妖怪漫画は割と現代を舞台にしている。対して、どろろ応仁の乱の頃。
水木しげるの妖怪萬画は現代を風刺するために、妖怪の土着性を利用しているところがある。(水木しげるの妖怪っぽさは、全盛期の萬画よりもむしろ妖怪図鑑の方が高い)
対して、どろろに出てくる妖怪は何がしたいのかよくわからない、死のメタファーというわけのわからない感じがあってより不気味だ。ここら辺の妖怪の行動の曖昧さはむしろ雨月物語などに通じる。百鬼丸を苦しめる妖怪たちは百鬼丸を苦しめるし、人間の不幸を嗤うのだが、妖怪は立身出世や衣食住とは無縁なので人間を殺したりしてもなんの損得もない。でも、人間を殺して生贄を求め精神を責めさいなむ。因果関係がないのに、嫌なことをする。そういうわけのわからない不愉快な現象そのもののメタファーの具現化として、どろろの妖怪はすごく妖怪っぽいです。
ベルセルクの使徒はまだ人間っぽさがあるけど、どろろの妖怪はホントに妖怪だ。
ただし、百鬼丸の父である醍醐景光は息子ふたりを妖怪に捧げながらも武人としての立身出世、領地拡張を目指す。その業は妖怪よりも確かな悪意と欲望として描かれている。そして、彼はアニメ版のラストでは・・・。(未見)

  • 杉井の美学

また、ばんもんの丘からどろろが燃える街を見下ろすところは、幼児の頃に空襲にあって燃える街をなんとなく美しいと感じて、死ぬことには意味がなく、生きることに意味があると感じた杉井ギサブロー監督の意識だろうか?
白黒だからあんまりわからないんだが、燃える街はマットペイントの上に波ガラスがかかってて、燃える街が幻想的になっている。この表現技巧は出崎統のものか、杉井ギサブロー監督の感性か?演出技巧の部分は各話演出の出崎統か?
杉井ギサブローさんは哀しみのベラドンナでも表現主義だったよなー。

  • 脇役キャラの劇画っぽさ

どろろ百鬼丸に殺されていく足軽の命は軽い。だが、脇役の作画は手塚治虫の原作の萬画っぽいデザインから自由であるがゆえに、写実的に描かれている。(アニメ版の百鬼丸はそれでも漫画版の少年っぽさから格段に大人びているが。声が野沢那智だし)
メインキャラはマンガっぽさがあるが、使い捨て脇役の顔にこそ中年男性らしい皺の線がたくさん描かれることで、軽い命の脇役に重みが与えられ、それがまた殺人を繰り返す乱世の厳しい空気感を表現していていい。これは3DCGアニメ版ベルセルクにも見習って欲しい。
ベルセルクは西洋版のどろろですからねー。


(結局、箇条書きのわりに長く書いてしまった。私は精神を病んでいるし、家族に失敗したし、仕事も失うし、いつも幻覚による痛みやひどい肩こりや不眠に悩まされているが、アニメのことを考えて文を振るっている時だけ、苦しみを忘れられる、というかどうでもよくなる。それが、なんとも心地いいんだな。社会適応能力は下がる)