玖足手帖-アニメブログ-

富野由悠季監督、出崎統監督、ガンダム作品を中心に、アニメ感想を書くブログです。

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ベルサイユのばら第20話 フェルゼン名残りの輪舞-ロンド・アウトロー-

ベルサイユのばら感想目次 - 玖足手帖-アニメ&創作-
あらすじ
http://www.ne.jp/asahi/s.cherry/blossom/sub74.html
http://animebell.himegimi.jp/kaisetsu20.htm
原作と事件とキャラクターは共通しているのに、雰囲気が違いすぎる。
それはやはり前回も言ったように「アウトロー」無法者たち。という雰囲気。
真・女神転生のLAW-CHAOS軸で考えてみたい。

  • ぶつかり合う肉体、カオス讃歌

ファーストシーンでのマリー・アントワネットとの抱擁から分かれて、苦しむ。やはり、フェルゼンはアニメではもっと素直に美人のマリー・アントワネットとセックスがしたいという欲望にとりつかれているのかもしれない。紳士だけど、美しい人には抗えない性欲。原作よりオスらしさが増えてる。思慮の足りない動物的な愛。しかし、それすらもアウトローを肯定する出崎統作品では美しく描かれる。
そしてロー(法の支配、愛した相手が女王、人妻という倫理観)とアウトロー(無法者の自分の愛情)との葛藤に苛立った彼は、ストレス解消のように友人のオスカルとフェンシングの練習に没頭する。肉体言語、暴力の模倣としての武道の鍛錬はlawとout lawのバランスをとるための欲望の発散だ。


また、出崎統の男性同士の友情描写としてはこれは源氏物語千年紀Genjiで頭の中将と光源氏が相撲をとったような友情の表現だ。ガンバの冒険のガンバとヨイショの格闘みたいな。だが、オスカルは女なので、愛情に変わりやすい。そもそもアンドレとの愛を育んだのも幼少期からの件の稽古だったし。


そんな風に女性であるオスカルに友情をぶつけるフェルゼンを、アンドレは眺め、親友であり愛する人であるオスカルを取られたように思う。
だが、アンドレはフェルゼンを評して言う。
「何をしても辛そうで、かといって何かをしなければ、いられない」
「そんな辛い恋に、なんでのめり込むんだ」
「愛し愛されて何が辛い。打ち明けることすらできない恋だってこの世にはごまんとある」。
私は原作を読んでも宝塚を見ても、いまいちフェルゼンという男が「色男」という以上の濃度を持って理解できなかったのだけれど。単なる少女漫画のドラマを進めるためのツールとしての「イケメン」という下記割のように思えていたのだが。
男性のアンドレが男性のフェルゼンを見て、彼は恋敵なのに同情を示す、というセリフの追加によって男臭さ、男の肉感が増している。そうか、フェルゼンも色々と背負っている男なんだな。
僕も人生が辛いマンなので、社会恐怖障害で何をしても辛いんだが、かと言ってアニメを見ずにはいられないオタクなので、フェルゼンよりも全然性能は低いけど、共感できる。男性同士、同性同士の共感が出崎統らしい雰囲気を醸し出している。


アンドレはオスカルが好きだ。だが、苦しい恋に悩むフェルゼンの気持ちも同じ男としてわかる。
同時に、アンドレはフェルゼンを分かってやってるみたいなことをオスカルに言うことで、自分自身の苦悩をもわかってほしいという感情をオスカルに匂わせる。アンドレ、愛する女性に対して愚痴である、だが、オスカルは微妙に男性っぽいところもあるので、この語らいは男性同士の友としての会話の延長でもあり、その延長と同時に異性へのあてつけでもある。


そんなアンドレの不満を見たオスカルは。また剣を執る。アンドレに剣の相手を頼む。
「たまには手加減抜きだ」「いいとも・・・俺も今日はそのつもりさ」(そうだ、フェルゼンなんか忘れちまえ!・・・いや、忘れて欲しい・・・お願いだ・・・)」
この剣の交わりは愛の交わり。そして手加減なしだとアンドレに告げるオスカルはアンドレの方を、先に対戦したフェルゼンより高く評価しているとさりげなく剣の語らいで示しているのでは?というのは男性脳の解釈。
オスカルは男として振舞ってる時が多いので、愛情表現も男同士の友情の表現に近くなってしまい、ボーイズラブっぽくもある。
その剣の交わりの本気さを考えると、オスカルはアンドレに比べると、フェルゼンには友情以上のものは感じていないのかもしれない。長浜忠夫編で、フェルゼンがアンドレのために命を張ってくれた男らしい責任感、裁判を要求する態度(low)を見て、オスカルは好きになったようではあるが。
出崎統編の演出のキーワードは論理的な長浜忠夫編から正反対に逆転して「out law」だから、会話よりも肉体言語や性欲、剣の交わり、暗喩が重視される。法は人を区切るものだが、アウトローのセックスや剣はそれを貫き、混じらせ、男女や身分の差をなくし、より純粋な生命としての熱を賛歌する。


また、ベルサイユのばらの4人の主人公は伝統あるフランスという土地では異邦人foreignerと違法人(outlaw)としての共通項を持つ。
マリー・アントワネット・ジョゼファ・ジャンヌ・ド・ロレーヌ・ドートリシュ、オーストリア出身
ハンス・アクセル・フォン・フェルゼン、スウェーデン出身
男装の麗人、オスカル・フランソワ・ド・ジャルジェ
主人の女性に恋をするアンドレ
倒錯的な関係は原作からもあるが、その退廃的な雰囲気は出崎統アウトロー趣味の演出によって増大している。
倒錯した男女たちの互いに教会を侵し合う四重奏。

  • 詩人の登場

「たったいっぱいの酒。それが命」
「色も恋もねえ。あるとすりゃあ借金と飢えた家族だけ。それぽっきり」
「それより欲しいぜ たった一杯の酒」
出たよ、アコーディオンの詩人。
彼はフランス大衆の代表である。もしかすると多数派の代表かもしれない。
だが、彼は片目が潰れ、片足をなくしている障碍者、そしてアコーディオンの弾き語りで日々の糧を得る河原芸人。彼もoutsider。
彼はフランス大衆という多数派の気持ちを代弁するものだからlaw寄りかもしれないが、同時にその障害ゆえにアウトサイダーアーティスト、outlawとしての要素を持つ。彼も境界線上の存在である。ゆえに、名も無い人物なのに重要なキャラクターとして演出される。劇の道化、語り部として位置する。
ハーメルンの笛吹き男の伝承で足が不自由なため他の子供達よりも遅れた2人の子供、あるいは盲目と聾唖の2人の子供だけが残され、語り部になったように。ハーメルンの話はベルサイユのばらよりも500年前の13世紀のドイツですけど。


  • 法に則った進言をしないオスカル。

国民、臣民、貴族に不倫の恋を揶揄されるようになったマリー・アントワネットはフェルゼンへのデートを断る伝達役をオスカルに頼む。これは完全アニメオリジナル。マリー・アントワネットにはもうオスカルしか信頼し、たのメル人物はいないのだ。ポリニャック伯夫人とは仲がいい。だが、隠し事や汚れ役を頼める、口の硬い人物はオスカルだけ。というか、女のアウトローはオスカルだけだからである。ポリニャック伯夫人は貴族社会のlaw側の人物。


そんなマリー・アントワネットの恋の道具にされるオスカルだが、同時にオスカルもフェルゼンを好いているので、その恋愛や女性同士の仁義に対する背徳ということで、更にカオス要素が増している。
そんな風に心が揺れ動いた時の出崎統キャラの常として、オスカルは夕陽に向かって独り言を言う。


「オスカルごときにものを頼むのに、罪を犯したもののように顔を隠され・・・・・・」


オスカルごときというのは、オスカルが身分の観点の法ではマリー・アントワネットの家臣である、ということ。
罪を犯したもの、というのは不倫の恋という観点でマリー・アントワネットは自分のoutlaw性を自覚しているということ。
そして、そのアウトローマリー・アントワネットの恋人に横恋慕をしているオスカルは更にカオスであり、アウトローだと自覚している。だから、オスカルは苦悩する。
そして、アウトロー同士、道ならぬ恋に焦がれるもの同士として、カオス同士のlawの共感をオスカルはマリー・アントワネットに感じる。これは先のシーンでアンドレがフェルゼンに共感を示したのと反復する構造である。


原作のオスカルは法の観点から、
「ご忠告を申し上げます。陛下!フランス国家の母として女王としてのご自身のお立場、おわすれでございますか!?」
と、言う。
アニメのオスカルは夕日に向かって
「”しかし陛下にはお立場があります!”などと言えようはずもない・・・」と独り言を言う。原作では法を遵守して忠言するオスカルなのに、アニメでは正反対の行動になっている。これは原作という法を完全に踏みにじっている出崎統アウトローぶりを印象づける衝撃的。
「オスカル・・・愛し愛されるものたちに何を言う・・・か・・・」
アニメのオスカルは法を遵守せず、マリー・アントワネットの不倫の手助けをするアウトローとなっている。
オスカルはなぜこういうことをするのか?
なぜなら、オスカルは法を守らず不倫をするマリー・アントワネットよりも、自分は更に道を外れている、「私は愛し愛されるものの枠にも入っていない」と、己を卑下していたぶっているんだ。


原作ではオスカルはマリー・アントワネットから「あなたに女の心を求めるのは無理なことだったのでしょうか・・・?」と言われる。
これはアニメではカットされる。原作ではマリー・アントワネットは「法を遵守する男性脳のあなたに、不倫をしても愛したい愛されたいとおもうひとりの女としての私はわからないでしょう」と、言っている。
アニメのオスカルは女の心を持っている。その上で自分が男でもない、女でもないアウトローとして振舞って生きていると感じていて、自分が生きていること自体に苦しみを持っている。だが、その苦しみ自体に誇りと美学と充実感と生きがいを持っていることも確かで、それは出崎統の描いた力石徹矢吹丈たちのようなハングリー精神でもあろう。
原作では「フランス王妃しての立場を強制されて女性としての自由な行動を抑圧されている、良妻賢母を期待されているマリー・アントワネット」「近衛連隊長として軍人としての生き方を強制されて女性らしい考え方を抑圧されている、キャリアウーマンを期待されているオスカル」という、フェミニズム的な男性社会批判文脈の主義主張がある。だが、それは女性らしい感性に基づくものであっても、主義主張であるからしてまだ理性的だ。
ジェンダーや規範に対する枠組み意識があるからこそ、それを批判するフェミニズム理論がある。原作は「社会による抑圧があるからこそ、個人の自由が輝く」という理屈っぽさがある。
だが、出崎統はカオスである。フェミニズム理論よりも理性を減らして野生である。「社会的抑圧があろうとなかろうと、生きていること自体が苦しみだから、生きているだけで、命だけで輝くんだ!」っていう。
原作は「男女としての役割」「男女の差」があるからこそ、オスカルがその境界を揺れ動くことにドラマチックな盛り上がりがあるという、ロジカルな組立である。出崎統、その理論を分かった上で、オスカルに正反対の行動を取らせて、土台から揺るがしにかかる。カオス。

  • 言葉ではなく作画で男女を表す演出

雨の中、濡れて伝言役をするオスカル。この姫野美智顔のフェミニンな感じ!。女顔。
振る舞いは男だし、セリフでもオスカルが女だと強調されるシーンは原作より減っている。だが、顔が女。他の男の作画も肩幅が広がっている。その中でオスカルは華奢な体と薄い肌と柔らかな金髪の女としている、ということをセリフや段取りではなく、見た目で表現。
アニメで男女の性差を顔つきで表現するのって、結構すごい。みんな美形なのに。その中でもオスカルは女。でも振る舞いは男。この微妙なさじ加減。
「温まっていけ」というフェルゼンを振り切って雨の中、馬で去るオスカル。オスカルが女っぽいから、雨に濡れると男よりもすぐに薄い体が冷えるから、という物理的な生っぽさを感じさせるのはアニメならではの映画的な表現。そして、オスカルの女らしさをわかっているのに、「自分の屋敷で温まっていけ」というのが精一杯で、付いてあげないというフェルゼンのさじ加減も、フェルゼンとオスカルの距離感を表してる。フェルゼンはオスカルよりもマリー・アントワネットに恋をしていることで一杯になっているから。


そこに、オスカルを迎えに来て、馬ですれ違いながらマントをかけるアンドレが言葉ではなく行動でオスカルの女性としての体をいたわる男として描かれていて、感服。

雨に濡れて風邪をひきかけているかもしれないオスカル。車庫で馬車の整備をしているアンドレに声をかける。
「今夜の舞踏会には出席しない。熱を出して寝込んでいるということにしておけ」
王妃や貴族たちに嘘をついて来いという、アウトローな発言をかますオスカル。
「大掛かりな舞踏会に近衛連隊長のお前が出ないとおかしなことになるんじゃないのか」
一応、家来として社会的な価値観からのlaw的な忠告をするアンドレ。


「陰口を叩かれ、下品な視線を向けられるアントワネットさまを見るのが忍びない」
これは半分は本当で、半分は嘘。フェルゼンを愛している愛されているマリー・アントワネットを見て、自分がアウトロー、道化役になるのが嫌だということをアンドレに吐露している。カオスな感情的な。


「アントワネット様にはお前だけが頼りだ。そして、フェルゼンだって」
アンドレ、まだオスカルをたしなめる。だが、このセリフはひとつ前とは違って、社会的価値観のlawではない。愛し愛される恋の道のlawにおいて、オスカルは友人として彼と彼女を守るべきだ、という恋愛道の法をアンドレは言っている。アンドレはオスカルに惚れている。その上でアンドレは恋する主人が二重の意味でアウトローなのだ、辛いだろう?ということを客観的なセリフのふりをしてオスカルに突きつけている。アンドレもアウトロー恋愛をしているので、そんな心理からオスカルを揺さぶっている。アンドレ、テクニカルだ。いや、考えて言ったのではなく、彼の正直な気持ちかもしれん。脚本家と絵コンテのさきまくらは考え抜いて出したセリフだと思うが。


「私はそんな役回りはしたくない!お二人はお二人。私は私だ。陰口を叩くものを切れというのか?下品な視線を送るものの目を潰せというのか?!」
アンドレの揺さぶりで感情がカオスになって本音を言うオスカル。怒る。敬愛するマリー・アントワネットと思慕するフェルゼンの恋の道化になるアウトローとしての自分を意識させられて、アンドレに激高する。
「そいつはいいや!やってみようか」
アンドレ、貴族をぶっ殺そうだなんて、アウトローな発言を主人兼想い人にぶちまける。この会話、アウトロー恋愛をしている恋人同士の殴り合いに近い。ジョーにアウトローな恋心を抱いている白木葉子と力石の会話みたいなものだ。
そして、オスカルはアンドレと自分がそんな風にアウトローな生き方をしているんだということを実感して、自嘲し、笑う。
「ふふ・・・。ふふふふふ・・・・」
アンドレも笑う。アウトローな二人の笑い声は交じり合い、雨音のカオスに溶ける。

そのころ、雨の日、やけに広い自室で明かりもつけないで椅子にかがみこんで耳を塞いで舞踏会に行くかどうか悩んでいるフェルゼン。
雨の音は世界の音。それは道ならぬ恋に悩む彼の精神を引き裂く。少しの光でも見るのが嫌で、暗い部屋でただ時間が過ぎて恋人に合う舞踏会が始まるまで世界から目をそらすアウトローのフェルゼン伯爵。
その彼に、大学時代の友人がアメリカで戦死したことを告げる執事の声。耳を塞いでいた手をどけ、立ち上がるフェルゼン。
死への憧れ。恋に悩み、逃避していた彼に、アメリカ独立戦争で戦死した友の知らせは不幸ではなく、逆に吉報として聞こえたように動く演出。彼は生と死の法則すら超えるアウトローなのだ。このフェルゼンのハングリーな美学は原作にはない魅力だ!
原作のフェルゼンは「これ以上アントワネットさまのおそばにいては・・・あの方をとほうもないスキャンダルの渦にまきこみ、恐ろしい危険にさらしてしまう!」と、law的な価値観でマリー・アントワネットから距離を置くためにロジカルに思考してフェルゼンはアメリカに渡る判断をする。
だが、出崎統版はタナトスの衝動として描く。出崎統は生を描く人でもあるが、AIRブラック・ジャックなどでタナトスの美学も描いている!
オスカルは性的役割の境界線と、愛し愛される恋のルールの境界線を踏み越える二重のカオス。
フェルゼンは不倫の恋、そして死を憧れつつ生き続けるという二重のカオス。
踏み越える法は一つだけではなく、多重の意味で彼らはアウトローであり、業を重ねている。そして、その彼らが関わりあうことでさらに因果がこじれていって四重奏となる。
アニメ版はフェルゼンの死という原作のラストは描かないが、この部分でフェルゼンのタナトス的志向を表現している。


そして、舞踏会へ。死を期待する別れのため、最後の抱擁を求める男の寂しさ。

  • 正装のオスカル

そして舞踏会に正装で現れるオスカル。これは原作でもアニメでも一度きりの晴れ舞台。レディ・オスカルと並んで。
原作ではこの場面のキーの意味合いはロザリーを抱くかどうかだった。
原作ではロザリーがオスカルに抱かれることを少女漫画、百合的に期待するがオスカルはアントワネットとダンスをして、ロザリーは嘆く。これは原作が少女漫画で少女が年上の女性に憧れる気持ちを表現しているからだ。オスカルの男装の麗人としての魅力を高めるというドラマツルギー
そして、ロザリーはオスカルに対して失恋して嘆いているところをアンドレに見られる。そして、アンドレはロザリーに「お前は諦めて泣いて、そしていつかだれかほかの男と本当の恋をして・・・・・・だが俺の苦しみはお前以上だ」と、性別や身分の格差を意識するというlawな発言をする。これはこれで、「法を意識するからこそ、そこから外れてしまった自分の恋心が辛い」と強調することで、味わい深いシーンである。
だが、アニメはアウトローな価値観なので、このようなアンドレはカットである。
ロザリーはアニメでは今回出てこない。


先ほどの舞踏会前のシーンで「貴族たちを皆殺しにするのは面白いからやってみようか」と言うような、無法なことを言って笑いあったアンドレ。
アンドレは軍服・正装のオスカルを馬車から降ろし、「にあっている。素敵だ」と笑う。
そして、マリー・アントワネットにダンスを申し込むオスカル。
この二人はなぜ、先ほどのシーンから打って変わって堂々と舞踏会に出ているのか?
それはオスカルが正装でダンスパーティーに出席することこそが「陰口を叩くものを切る、下品な視線を送るものの目を潰す」という戦い、アウトローとしての矜持だからだ。
アンドレはオスカルに正装をさせて躍らせることで、貴族たちを斬ろうとしてやってやろうとしている。これは戦いなんだ。フェルゼンに対して、貴族社会に対して。


マリー・アントワネットに「舞踏会嫌いのあなたが正装とは、どういう風の吹き回しでしょう?」と聞かれ、
「風は西からも、東からも吹きそよぐものでございます」と、アウトローなことを言うオスカル。もう、アウトロー節全開である。
「ただし、今宵のお相手は私ひとりに」
そうやってマリー・アントワネットを独占するオスカルは一件、法や立場を守るlawな行動と見える。だが、この時、原作ではいなかったフェルゼンが舞踏会で、ロザリーの代わりにオスカルにマリー・アントワネットを取られるのを黙って見ている。
つまり、オスカルがマリー・アントワネットを守って踊るということは、アウトローが貴族からマリー・アントワネットを守る戦いであると同時に、オスカルがフェルゼンとの友情を破棄してマリー・アントワネットとの恋の邪魔をする叛逆行為である。
この二重性!

  • 清々しい卑怯者

「ありがとうオスカル。君が正装で現れなければ、私はきっとアントワネット様と踊りあかしてしまった」
「今、私にできるのはただ一つだけだ。あえて、あの方に対して卑怯者になることだ。私は逃げる。遠く数千マイルの彼方へ」
雨が上がり、朝日を浴びて清々しい顔で逃げ出す!
迷いを振り切って死地に向かう男は、たぶん、気持ちいい。卑怯だが。その卑怯者になることが心地いい。
アウトローとしてマリー・アントワネットを一晩中抱いて踊っているオスカルを見続け、朝つゆの光を浴びるフェルゼンはオスカルからのアウトロー同士としての何かの気持ちを受け取り、そして心が浄化され、原作のように恋に苦しんだ顔ではなく、晴れ晴れとした表情で死地に向かう!また、この時のフェルゼンは野沢那智が代演している。どろろ百鬼丸からの出崎統とのつながりを感じさせる。百鬼丸タナトスの衝動で死地に向かうところがあった。
この、晴れ晴れとして死のうとする、生物としての原則に反する快感!アウトローの美学として非常に心に響く。

そして、フェルゼンがアメリカに行く日、アンニュイな時間を共有するオスカルとアンドレ。
アンドレ「アメリカか・・・思い切ったな、フェルゼンも。・・・送りに行かなくていいのか・・・遠征軍の出発は今日だぞ」
アニメ版のアンドレ、男同士としてフェルゼンの気持ちを分かっているし、客観的な事実をオスカルに述べるのは男性的だ。が、そう言うことでオスカルに「フェルゼンとの恋は苦しいだろ?」と示し、苦しめ、「だから俺を見て欲しい」と、当てつけるのは単なる男性の論理性ではなく、恋愛テクニックを使っている。アンドレは「愛する人の幸せを願うべき」というルールを逸脱する点で、身分を越える事以上にアウトローなのかもしれない。
アンドレ「今日は蹄鉄を取り替える日だ」とさりげない口実を使って、席を外しながら、ちら、とオスカルを振り返る。出崎統編になってから広がったこの男の背中。愛情を感じる。愛情と同時に、一人になった時のオスカルがどんな表情でフェルゼンとの恋に苦しんでいるか見たい、という男性が女性に抱く嫉妬心や嗜虐心、そして寂しさも、この背中には背負われている。
アンドレから一人で悲しむ時間を与えられたオスカルは「死ぬな、フェルゼン」と・・・。


しかし、僕は彼女いない歴=年齢だし、無職だし、親もいないアウトローで、しかもアニメの中の美しい人々ではなく、汚れた画面の外の三次元人だ。
そんな僕が出崎統アニメのキャラクターたちの恋愛心理について語るのは、非常にアウトサイダーだよな。
しかも、不眠症だからさっさと寝る準備をしないといけないのに、時間という法則すら忘れてアニメ感想に没頭している。
俺は、アウトローだ。