玖足手帖-アニメブログ-

富野由悠季監督、出崎統監督、ガンダム作品を中心に、アニメ感想を書くブログです。

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アイドルマスター劇場版 感想4 演出法〜 中編 鏡と愛の心理学(コフート、フロム)

演出面において、誰が見てもわかるとおり、劇場版THE IDOLM@STER 輝きの向こう側へ!は「鏡」の使い方が効果的だった。
その全編に配置されている鏡のメタファーは映画の構成としても効果的であると同時に、アイマス的でもあり、コフート心理学的でもある。
他人を映し鏡にして自己愛を充たす――汎用適応技術研究


アイドルマスター劇場版 感想4 鏡の映画演出法〜 前編 春香がリーダーでプロデューサー! - 玖足手帖-アニメ&創作-
本稿前編では、「リーダー春香にはプロデューサーの代理の像が投影されている」
「春香にその試練を与えたのは社長であり、春香がリーダーとしてプロデューサー的行動をする中で、精神的に成長することを期待していた」
「また、春香がリーダーとして選ばれたのは、TVアニメの頃から無自覚にプロデューサーの補佐をしてメンバー同士の心理的ケアをしてきたから」
「春香がプロデューサーの補佐を自然にしてきたのは、春香の性格として個性と自覚が薄く、そのため他人と共感する力が強いから」
「春香は自分に対する自覚が薄いが、他人の痛みを自分の痛みとして感じる傾向がある。そのため、他人の問題が自分の修羅場として実感され、リーダーとして理屈ではなく感覚的に責任感が強い」
「テレビ版の終盤で悩んだ春香は、765プロの仲間たちに似た幼稚園児に出合い、幼稚園児の頃の自分の”アイドルへのあこがれ”と”仲間との団結”を再認識した。そして一度春香に助けられた千早が765プロメンバーに春香の気持ちを伝え、仲間が春香を迎えて、春香は復活した」
と、書いた。
そう言うわけで、天海春香さんが劇場版THE IDOLM@STER 輝きの向こう側へ!で、リーダーに抜擢されるのは単にゲーム時代から平均的センターキャラクターで、メインアイドルだから、と言うだけではなく物語の中での社長とプロデューサーからの評価や、春香の性格と経験から必然である。
しかし、私は指摘したいのだが、テレビ版の春香が千早を助けた時も、春香には「仲間とプロデューサー」との分かちがたい絆、「いっしょにいるのが自然な仲間」を守りたいという意識が先にあり、春香が「自覚」して「行動」しようという理性はなかったと言いたい。テレビ版の終盤で春香が自分を見失ったときも、春香が幻視したのは「幼稚園児の頃からアイドルに憧れていた自分」であり「アイドルとしての自分自身の姿」であり、春香は他人とは向き合っていない。テレビ版終盤の春香に千早を筆頭とした765プロメンバーが呼びかけたが、それも春香が千早にした行動の繰り返しであり、765プロの仲間は春香にとって自分との境界線があいまいな仲間なので、やはり春香は他人と向き合っていなかったと言える。
テレビ版の春香は色んな大会やオーディションや仕事で、天然の明るさ、楽天的な性格でメンバーを励ましたり、困っているメンバーやプロデューサーにいち早く気づいて助けて上げる、と言う行動をしていて、それはアニマスの春香はプロデューサー補佐みたいなポジション、ともいえるんだが。アニマスの春香の人助けはあまりに天然なので、「自覚しての行動」とは言えないのである。
春香はすごくよく転ぶし、自分の足場や自己像の自覚が曖昧な子である。だから、他人を助けるのも他人を他者として扱う理性的行動と言うより、「自分が痛い時に自分を反射的に庇う」みたいな感じで、反射的なのだ。


コフート心理学を専攻しているらしいはてな村の精神科医のシロクマ先生も紹介している。

学童期〜思春期にかけては、自分とよく似た境遇や才能を持った仲間と出会い、つるむことによって[3.自分とよく似た対象を通して自己愛を充たす]が仲間内で成立しやすい。
仲間内での共同作業や切磋琢磨がうまくいきやすくなり、共通した困難(例えば受験勉強、スポーツ大会のような)にも立ち向かいやすくなる。


 この年頃の男女の行動のなかには、いわゆる“連れション”のように、一見すると意味不明のようにみえる集団行動がみられがちだが、あれもそれなりに必要な確認行為なんだということが理解しやすくなる。
自分に似た対象を介して自己愛を充たす――汎用適応技術研究

春香さんの765プロの仲間に対する認識はまさに、こういう「自分と同じような仲間と同じことをすることで自己愛(精神的健康)を安定させる」という志向。だから春香は千早が20話「約束」で引きこもった時には自分の身を切られるように感じ、自分の痛みを治すために千早を助けたんだと思う。
劇場版はそこからもう一歩踏み込んで、自己ではなく他者と向き合う春香を描いて、その成長を描いたんだと思う。
それが、この映画の普遍的な魅力だ。


他のブログさんでも春香さんの無個性ぶりや無自覚ぶりについて言及しているのを見つけたので、引用する。

案外春香さんってなんだか正体不明なのである。
それぞれ考えてみてほしい。


 ほら、無印のときは延々どうだってよい友情相談をしてた記憶しかないし、2だとなんかリーダーの心構えみたいな話をしてたような・・・みたいなレベル。あの子実際のところ相当うすぼんやりしたキャラクターだぞ。


どうもアニマスの春香さんはそこから進んで大正義正統派アイドル概念と化してしまった。アニマスだと気になったけど劇場版だとそうでもなかったってことはいよいよ概念化の強度が増してるっぽい。僕も騙されつつある。怖い。
アイマス劇場版を見てきた - はじめてのC お試し版

アニマス春香は何を得て何を失ったか - はじめてのC お試し版
アニマス春香の本質(立脚するところ)はまさに団結感覚そのものなんじゃないか。


■無印春香の穴ぼこ

 翻ってゲーム由来の春香さんはどうか。

 実際のところよく分からない子だった。少なくとも無印アイドルマスターまでの彼女の中心に確かに何かがあったかと問われれば言葉を濁さずにはいられない。


 つまり、ゲーム春香さんのメインストーリーは清々しいくらいに無味乾燥だった。自然、当時の春香さん(少なくとも2007年の秋頃まで)は人気どうこう以前に存在感がなかった。


■アイドル春香さんの喪失
 ゲーム版春香さんの結末にあった唐突なアイドル性。それは確かに真っ当なものではあったけれど、同時にどうしようもなく寂しく感じられた。この穴ぼこを塞ぐために、アニマスが彼女の中心に置いたのが団結感覚なんじゃないかと思う。


 そうして真ん中に団結を据えた結果、春香さんが他の何でもなく団結感覚の権化になってしまったのはアニマスの数少ない、しかし相当重大な弱点ではないかしらん。


 実際に、みんなにそっぽを向かれたと感じた春香さんは、アイドルとしてやっていく意義を見失ってしまうのだ。春香が気を取り直すために必要だったのは、ファンの思いでもなんでもなく、仲間の妥協だった。これはまずい。たぶん、この姿はアイドルじゃないからだ。


■何を得て、何を失ったのか

 よく語られるアイドルとしての結末のもう片面で、ゲーム春香さんには豊かな日常シーンがあった。おもしろおかしい豊穣の春香コミュである。
 春香さんはこっそり特別扱いされていたのだ。なんでもない女の子だけど、ドラマも特にないけど、確かにアイドルだったのだ。

 本当につまんない普通の女の子だったけれど、アイドルだったのだ。

 そういう意味で、劇場版で春香さんが『リーダー』になったのは、象徴的なことではないかと思う。

天海春香という存在は、アイドルマスターの世界を
一番ニュートラルに映す鏡のような存在で、
それを覗き込む人の数だけその姿がある。だから彼女は、
設定で定められた主人公ではなく、時間を掛けてみんなが
その場所に押し上げた主人公なのだ、みたいな事を
いつだったかの黒生の放送内でお話しした事があります。


そんな春香を、他者を映す鏡であった春香を、
今回は中心において、観客に見せる必要がある。
そのために必要な、かつて春香が担っていたポジションに、
劇場版では千早がいるのかなって。


この映画は、ずっと千早の視点で語られてる気がしました。
だから新しい趣味としてカメラを手にして、その事が
前例のない形でわざわざ描写されたのかなと。
赤ペンPの添削日記 劇場版アイマスを見てきました<ネタバレあり>

『THE IDOLM@STER MOVIE 輝きの向こう側へ!』 感想【ネタバレ注意】 - F!T!W!
春香さんは,他のアイドルと違って,自分の目的のためのアイドルではなく、「アイドル」のためにアイドルになったから。でも、アニマスの春香さんはそうじゃない。どんなにつらい思いをしていても、理想と違う扱いであっても、春香さんにとっての「アイドル」っていうのはずっと揺らいでないように思える。唯一、アニメの最終盤を除いて。


きっと、春香さんにとって、「アイドル」という形は最初から決まってなかった。だから、きっと、自分がアイドルになった、そこから、春香さんの「アイドル」の中身というのは作られていったのではないか。春香さんにとって「アイドル」とは理想なんかじゃなかった。ただ、自分の中にその存在だけあって、全肯定すべきもの。だから、揺らぎようがない。春香自身がアイドルであること自体が春香の中の「アイドル」を形にしていっているのだから。そりゃ凡庸な個性なんて出てくるはずがない。春香さんの個性っていうのはつまり「アイドル」であること、それだけなんです。それだけでいいんです。


春香さんのエピソードがアニメの最終盤に来てる意味は何なのでしょうか。それは、そこまでのエピソードによって、春香さんにとっての「アイドル」が形作られていたからにほかなりません。もちろん、プロデューサーに大怪我をさせてしまったという事実はショッキングでしたが、春香さんの挫折は、それ以上に、それまで春香さんが実際のアイドル活動を通して積み上げてきた「アイドル」が崩れかけてしまったという描かれかたをされていました。だから、春香さんはもう一度自分の中での肯定すべき「アイドル」を見つめなおして、事務所のみんなの力も借りて、復活します。でも、結局、春香さんにとっての「アイドル」は最後まできちんと言葉にはされなかった。


(劇場版のアリーナで)春香さんが自分にとっての「アイドル」を初めて、形に出来た、表明できたことの感動、だったのではないでしょうか。あそこで、春香さんは自分の中で存在だけあった「アイドル」をついに言語化出来たわけです。それは、春香さんが頑張って、頑張って、ついに見つけた、自分自身の表明でもあるわけです。それが深い感動を生んでいる。


こういう何となく本能で「みんな団結!」って行動していた無自覚でぽっかりと自意識に穴の空いたような、というか人格的に自我が未成熟で思春期の「普通すぎる」女の子の春香さんが、自分の中のアイドル像への自覚と、自分の行動への自覚を持つにいたるのがこの映画の盛り上がりだという事です。
17歳の少女の春香さんが人間としての自我を獲得する成長譚にもなっていて、単にトップランクのアイドルとして完成された先輩アイドルが未熟な後輩を導くというだけの話でもないのです。
後輩を導くことによって、自分の立ち位置がいつもフラフラですぐに転ぶ春香さんが自分の居場所を見つめ直して自覚するに至る人間ドラマなのです。


そして、それは精神分析家エーリッヒ・フロムの「愛するということ(愛の技術)」に通じる。

自意識が、孤独への恐怖を生んでいると考えました。この孤独の恐怖を解消するために人は他者との一体化をめざす。それが愛の本質だとフロムは言います。
現代人は常に大きな孤独を抱えている精神的に極めてもろい存在なのだ。しかし正しい愛のためには、自我の確立が欠かせない。
名著30 フロム「愛するということ」:100分 de 名著

エーリッヒ・フロム『愛するということ』を83ツイートで読む : 八嶋聡ブログ
人間は孤立感から逃れるために、「祝祭的な興奮状態」「集団等への同調」「創造的な活動」といった方法をとるが、完全な答えは人間どうしの一体化、他者との融合、すなわち「愛」にある。
自分以外の人間と融合したいというこの欲望は、人間の最も強い欲望である。


(フロム愛10)
愛は人間のなかにある能動的な力である。
人を他の人びとから隔てている壁をぶち破る力であり、人と人とを結びつける力である。
愛によって、人は孤独感や孤立感を克服するが、依然として自分自身のままであり、自分の全体性を失わない。


(フロム愛11)
愛においては二人が一人になり、しかも二人でありつづけるというパラドックスが起きる。


(フロム愛26)
幼稚な愛は「愛されているから愛する」という原則にしたがう。
成熟した愛は「愛するから愛される」という原則にしたがう。
未成熟な愛は「あなたが必要だからあなたを愛する」と言い、成熟した愛は「あなたを愛しているからあなたが必要だ」と言う。


(フロム愛79)
愛するということは、なんの保証もないのに行動を起こすことであり、こちらが愛せばきっと相手の心にも愛が生まれるだろうという希望に全面的に自分を委ねることである。
愛とは信念の行為であり、わずかな信念しか持っていない人は、わずかしか愛することができない。


(フロム愛80)
愛の習練にあたって欠かすことのできない姿勢、それは能動性である。
能動とは、内的能動、つまり自分の力を生産的に用いることである。
愛は能動である。

愛するということ

愛するということ

ほんと、劇場版アイドルマスターで春香さんが可奈や仲間たちに対してやったことって、まさにこの「愛を自覚する」過程なのである。フロムの原著は読んだことが無いが、フロムについてのインターネットの情報を読むと、劇場版の春香さんの行動に当てはまることが多い。
春香さんは他のメンバーよりもアイドルを目指した動機が薄い普通の女の子だ。何かのためにアイドルをするのではなく、「アイドルになりたいからアイドルになった子」なのだ。そして、アイドルとは、愛を与える人です。恋愛とかじゃなくて、まさにフロムの言うような、人類愛のような大きな愛です。
テレビ版までの春香さんの愛のステージは、まだ未成熟でした。(思春期だからな)
「自分が大事だから自分を愛する」「アイドルが好きだからアイドルになった自分を愛する」「アイドルが好きだから自分に似た仲間を愛する」という自己愛の満たし方をしていた。
だが、劇場版ではほとんど素人みたいな矢吹可奈たちアイドル候補生の後輩、同じステージに立つが、千早や他のメンバーのような密接な仲間ではない、「他者」と春香が向き合い、愛を自覚してそれを行動に移すまでを描いた人間ドラマだ。
そのことで、春香の自我は発達し精神的に少し成長した、という。思春期の女の子の人間的成長を丹念に描いた映画なんだよ!春香は劇場版で他者(主に可奈)と向き合って一体化しつつ、同時に自分自身を見つめなおす。もともと他人との境界線があいまいな性格だった春香が、もう一度他人と触れ合って、愛による一体化と同時に自己の確立の両方を得て、人間的に成長する。
発達心理学的に、すごく王道で、劇場版THE IDOLM@STERはファンムービーやライブショーだけでなく、ストーリー的にも、天海春香という一人の思春期の女の子の成長の道筋として重要なのだ。
テレビ版もきれいにまとまっていて、「プロデューサーさんが入院しても、春香たちアイドルが仲間の力でライブを成功できてよかったね」でもハッピーエンドなのだが、劇場版はその延長として「仲間未満の後輩ともいっしょにライブを成功させる」という事で、春香の成長と、成長に対する戸惑いとか痛みとかを描いている。決して劇場版はデカいスクリーンでライブショーを見せるだけのサービス映画ではなく、劇場版は春香と言う女の子の成長譚の人生のエピソードのピースとして、ピタリとはまるのだ。
(もちろんライブショーは楽しいし、むしろ劇場アニメーションでのライブショーの作画やCGの重みや、現実に横浜アリーナで行われたTHE IDOLM@STER7thライブの迫力に吊り合うために、ストーリーにも同じくらいの重みを持たせて作ったのだと思う。そう言うわけで、歌劇ショーとストーリーのバランスが良い)


この映画は、恋愛要素のない映画であるが、人類普遍の「愛」を描いた映画なのである!
だから、普遍的な感動を与える映画になっている。だから、アイドルマスターのキャラクターを知らない人にも、普段アニメを見ない人にも「人間ドラマ」として見てほしい、と、私は何度も言いたい!
「他者との一体化は愛であるが、それは自覚を伴わなければいけない。」
自覚の薄い春香が、自分に似た後輩との交流を通じて、本能や感情に寄ってではなく、自覚的に行動できるようになるのが、今回の劇場版の心理的筋書なのだ。これはアイドルマスターというゲーム作品やアイドル映画とか萌えキャラ映画の枠を超えて人間ドラマとしての普遍性を獲得している。



だからこそ、アイマス文化圏の中の人だけでなく、人間ドラマとしてゲームやテレビ版を知らない人にも、みんなに見てほしいです。
なんとか好評で3月からは上映館が増えて全国全都道府県で上映が決まりました。でも、まだまだです。目指せ、ロングラン!トップアイドル!

  • ここまでが前置きのつもりだったが

では、劇中での鏡のメタファーが、春香の成長に対してどう映画的な効果を出しているのか、という事を具体的に説明しようと思ったが、いくらなんでも長すぎたので、前後編のつもりでしたが、中編に分けます。
「劇場版は春香さんの人間的成長を描いた!」という一言を言いたいだけなのに、コフートとかフロムとか心理学とかゲームの歴史とかを引用して長くなりすぎた。
話が長くなるのは僕の悪い癖だ。
後編では具体例を書きます。
このブログを書くために、6回目の鑑賞をする時は、映画館の暗闇の中で蓄光時計を見ながら手帳にレイアウトとセリフと時間を描きこんで簡易絵コンテを逆算するという、寄稿に走ってしまった…。
ディズニーのバンビを模写した手塚治虫先生よりはまだまだマシです。大丈夫、大丈夫。
それくらいの労力を使いたくなるくらい、僕にとって劇場版THE IDOLM@STER MOVIE 輝きの向こう側へ!は素敵な作品だという事です。
うーん。
損得で考えたらこんなことをしないで真面目に働けばいいんですけど、私は社会人である前にアニメブロガーだから。
私の全てをブログにぶつけたい!