玖足手帖-アニメブログ-

富野由悠季監督、出崎統監督、ガンダム作品を中心に、アニメ感想を書くブログです。

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機動戦士クロスボーン・ガンダム ゴースト第12巻(完結) いのち

 機動戦士クロスボーン・ガンダム ゴーストは主人公がオタク眼鏡ということもあり非常に僕の中で大切な作品になった。
 そういうわけで、最終巻は発売と同時に買ったのだが、これまでの11冊を読み返して感想を書こうと思ったところ体調の悪化やGレコの復習などで時間がかかり、その間に長谷川裕一先生はダストを出してしまうという体たらく。


 しかし、読み返して思うのだが、やはり大切な作品になったと思う。機動戦士Vガンダムと同じ宇宙戦国時代を描いた作品だが、Vガンダムと言えば人が死にまくるという評価が多い。僕もVガンダムリアルタイム世代で、これはこれでVガンも大切なガンダムの原体験なのだが。
 クロスボーン・ガンダム ゴーストの最終巻は「命」を力強く描いたと思う。人がコロコロ死ぬVガンダムに対抗するかのように。
 すべての登場人物が決死の戦いの中で生きようとしていて、(生存するというだけでなく死んでも自分の意地を通すという意味でも)命のエネルギーを感じた。
 特に、前巻でキゾ中将の暴力に服従させられた脇役のパーマの髪でメガネの男性が命がけでキゾにやり返していて、感動した。一人一人は脇役でも駒でも戦闘単位でもなく、意識を持って生きている人間なんだっていう当たり前のことを真正面から、時に違う角度から、描いていた。
 戦って殺すことで自分の意地を取り戻そうとしていたキゾは戦争の中での他人の死を当たり前のことだと思い、自分の命も投げ出す。
 逆に主人公のフォント・ボーは命の重さに押しつぶされたり、時にヒロインの命ですら忘れたり、命を軽視するキゾに激怒したり、いろいろと命に向き合う。そして、色々なメカニックの機能でロボット戦闘を盛り上げていた今作だが、最後に爪とヒートナイフで互いのコックピットを削り合うという泥臭い決着を迎えた。
 普通の学生だったフォントが戦争に巻き込まれて、人を殺したり殺されないように頑張ったりするのが特徴的だったこの作品。ジャブローで飛行MSの名も知らぬ戦士を殺害した時に「あのパイロットにも好きな人がいたのだろうか」とか思ったり、敵だったジャックと向き合ったり、殺す相手の命の重さも実感していくのが特徴的な作風だった。
 そんなラストバトルで、ビームではなく実体の剣で生々しく敵の腹をえぐり、互いにコックピットハッチを吹き飛ばされて見つめ合い、殺した実感を体感する。苦い。
 人間も宇宙の摂理に従って弱肉強食をしないといけない、と主張するキゾ。彼は悪漢である。しかし、弱肉強食の論理のキゾを敵として打倒する主人公は悪人を殺して勝つ、だけでは弱肉強食の論理に飲み込まれるだけだ。だから、殺して、その重さを背負う。勝っても殺したことは弱肉強食で正しいなんて思えない、そして、自分も愚かで弱い不完全な人間なんだ、と辛さを飲み込んで反省しつづけることで、弱肉強食を盲信する考えとは決別しようとする。それはつらいことなのだが。
 この宇宙に対する人間の不完全さはVガンダム外伝の頃から長谷川裕一先生のガンダムSFに続いている。
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 クロスボーン・ガンダムシリーズは面白い。しかし、アニメではないし、原作者の一人だった富野監督は第一作以降降板した。長谷川裕一先生は原作をリスぺクトして様々な二次創作をしてきた人だが、リスぺクトしているからこそ「オフィシャルではございませんぞ!」という自分のガンダムが偽物だと意識しているように見える。
 これはクロスボーンガンダムだけでなくZガンダムハーフなどにも共通している。今作の主人公メカのファントムやゴーストガンダムも正当なガンダムではなく、木星帝国の残党がガンダムやFシリーズを真似て作ったMSがたまたまガンダムと呼ばれるようになっただけの偽物だ。(これはF91Vガンダムとも共通なのだが)ロボットの見た目としてもちぐはぐな装備だったり、つぎはぎだらけだ。そもそも主役メカが幽霊で幻影だ。伝説でもなく風説の類だ。しかし、それでも本人にとって彼らの人生は確かに存在したって思えるんだ。

 そして、脳をフル回転させて刻を見たフォント・ボーもニュータイプではなく、人工知能やコンピューターに判断の一部をアウトソーシングして思考を効率化している疑似ニュータイプでつぎはぎで偽物だ。
 フォントが最後に直面する未来の現実も、決して機動戦士ガンダムUCのラストのように「完全なニュータイプに覚醒した」とは言えない。どこか中途半端で煮え切らないし、間抜けで意味がないかもしれない。
 どこか脱力するようなところもある。


 しかし、ニュータイプへの進化も含めて、人間が自分で進化して行くことは、つぎはぎの積み重ねで、決して完ぺきではないし格好良くもない、それが人間なんだ。という主張もある。


 親子関係や世代交代がこの作品のキーだったと思うが、なんとラストでフォントが直面することになると予想されていた両親との手紙やベルナデットがもっている依存対象のぬいぐるみは宇宙に偶然放り出される。ガンダムは大人になることがテーマの一つだ、と語られることも多い。しかし、明確なイニシエーションや親を乗り越えるイベントがなく、なんとなくなし崩しにフォントとベルは大人というか世界に放り出される。でも、それが自然なのかもな。愛されて祝福されて送り出される子供が正しい大人になるのは結構なことだが、そうなれずになんとなく時間が過ぎてしまうのも自然な生き物としての人間の仕方なさなのかも。フォントが両親の手紙を見なくても、劇のバランス感覚としては両親が前巻のソーラ・システムに協力しただけで愛情は伝わるし。
 カーティス・ロスコとベルナデット・ドゥガチの関係も、決して劇的な開示ではなく、彼女はとっくに分かっていた。だけど、けじめとしてカーティスがベルに告げるのは大事だった。しかし、親が愛していても約束が100%果たされるわけでもない、という達観と間抜けさがある。だが、そんな不完全な生き物でも人間は愛おしいんだ、という温かみもある。
 この人間観はとても大事にしたい。


 そして、何も見えてなくても、ニュータイプや進化が一時の気の迷いにすぎなくても、人生に何の意味もなくても、人間は生きる。


 あったけえ・・・。真空の宇宙にぬくもりの炎をまとって行け、ゴースト!


 しかし、鋼鉄の七人で完結したのに、しぶしぶ始めた作品だったゴーストをここでダストに直結させるって、ちょっと思いつかない発想で度肝を抜かれるな。



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