前回のあらすじ
nuryouguda.hatenablog.com
ゾンビランドサガ リベンジの最終回に感動したのでブログを書いたらそこそこ反響があった。反論も。まあ、言わんとすることはわかる。
最終回だけ流し見したけど、佐賀県庁とかが協力するところで「けっ」と悪態ちついてしまった僕は、まだ「社会は敵!」というセカイ系の毒から抜け出せてないんだと思う。 / “ゾンビランドサガ リベンジ最終回 がシン・エヴァンゲリオンを超えた - 玖足手帖-アニメブログ-” https://t.co/5ZJ8aXn7HI
— あままこ(天原誠) (@amamako) 2021年6月28日
シン・エヴァンゲリオンを超えたと僕が書いたのは、ゾンビィがシン・エヴァのアヤナミレイ(仮)のようにおばさんや子供と交流したあと限界を迎えるとか、似たような筋書きの構成だったわりに、ゾンビランドサガRの方が外交的で、よりわかりやすい王道物になっていたからということなんですが。
どうも、もっと単純に、僕がグノーシス主義者なので「理不尽で間違っている神や悪魔に、人間の想像力から生まれたイデア(この場合はゾンビやアイドルの伝説)で反逆する」という個人的な傾向として持っている宗教的なモチーフに惹かれたのではないかという感じもある。
まあ、グノーシス主義も実はウソなんですけど。神や仏や創造主が間違っていて人間に苦難を強いるのは事実だけど、グノーシス主義における救いである間違っていないイデア界があるのかというと、やっぱりそれは阿弥陀如来とかキリストと同じく、「設定トーク」に過ぎないんじゃないかと思う。
いや、ゾンビランドサガはB級ゾンビアニメなので、そこまで宗教的な厳密さを考える必要はないと思うけど。
イデアというのは真実の要素でもあるけど、それを現実のものにできず想像するしかない人間にとっては、やはりウソでもある。
- ウソのゾンビ映画のコピーのコピー
コピーのコピーというのがエヴァンゲリオンなんですが。シン・エヴァンゲリオンでも昔の特撮映画の音楽が鳴ったりする。
ゾンビランドサガでも色んなものをパクっている。ボヘミアン・ラプソディもパクっている。
というか、チェンソーマンとかもそうだけど、ゾンビ映画という物自体が色んなもののパクリであることが多い。
(なんか最近、パクリをしたジャンプマンガが炎上したらしいけど)
そういう点では、先日復刻されたFate/GOの徐福ホラーイベントが参考になると言うか、いろんなホラー映画(とアイドルもの)のシチュエーションのパッチワークでパクリなのがゾンビランドサガ。エヴァンゲリオンもそういうところがある。
なので、ゾンビ映画らしく、破局的な災害は特に理由もなく(なんか嘘くさい予言とかによって)発生する。避難場所は当然、ショッピングモールだ。ゾンビものだから。(学校ゾンビというジャンルもあるけど、まあ、基本はショッピングモールだ)
というか、佐賀を救うとかいうトンチキな設定自体が嘘だから。
佐賀を救うというふわっと漠然とした嘘くさい題材を本当らしく見せるために公務員とか知事とか出すけど、別に「社会システムが県民を救う」ということはテーマではないと思う。
社会の正しさを描きたいんじゃなくて、むしろフランシュシュを「伝説」(という、やはりふわっとした嘘くさいよくわからないもの)にするために、巽幸太郎が使えるものは何でも利用する、という必死さというか非道さの表現としての佐賀県庁だったと思う。
というか、ゾンビランドサガは1期から実際の佐賀県の企業や場所や芸能人とコラボレーションしていたが。そういう本当のものはゾンビというウソに現実感を与えると同時に、やっぱり違和感というか、ウソくささの方も強調されている。
だから、ゾンビランドサガはエヴァンゲリオンがただの絵であると同じ程度には嘘の話。
アンコールに盛り上がる巽幸太郎の「いい大人が泣いとるんじゃい!」という号泣も感動的であるが、吐血をごまかすためのウソでもある。
その一個前の巽の「俺は永遠に持ってる男なんじゃい!」というのも、感動的だがウソである。永遠に生きるゾンビ(どうやらフランシュシュは腐らない系のゾンビらしい)に対して、呪いに蝕まれているただの人間である乾くんはいつか死ぬ。でも、源さくらには「お前たちがいる限り、俺は永遠に持ってる男なんじゃい」と言いたいというのが男。
ラストのUFOもゾンビ映画(とエヴァンゲリオン)によくあるテンプレートのウソ予告のためのクソ伏線要素のパクリだと思う。
- ウソで感動できるのか?
ウソで感動するかどうかが、ゾンビランドサガRに乗れるかどうかだと思う。ゾンビがアイドルをするっていう初期設定自体が嘘だし、そしてフランシュシュはファンに嘘をついているし、災害で大変なときにアイドルのライブに集まるというのもみんなが一致団結するというのもウソです。
だから、東日本大震災などと重ねた感動ポルノっぽいつくり、というのもウソです。現実には誰も救われません。これはただのアニメです。(まあ、ゾンビランドサガRの終盤の豪雨は東日本大震災に比べたら毎年よくある水害だろう。なので、僕は震災以降のアニメ、という風にはゾンビランドサガRを見ていない)
ただ、東日本大震災を云々するというより、「伝説」っぽさの盛り上がりを強調するためにフランシュシュというゾンビだけでなく、死に体の田舎の佐賀県自体も復活するという要素、舞台装置としての災害の展開はやはり必要だったのだと思う。まあ、災害から現実的に復興するというより、感情的に立ち上がるという面が大きいが。なぜならこれはアイドルアニメなので。
(過疎化っていうだけだとわかりにくいし。ただ、水害の被害が大きかったのも佐賀県のインフラの予算がしょぼいから、というふうにも見える。衛星電話が新聞社にないし。災害についての取材もしたらしいとエンドロールに乗っていた。まあ、水害で実際に死んだ人とかを見せるとゾンビよりもそっちに注目が行くのであまり描写されなかったが)
そういうわけで、現実の企業コラボや史実要素など本物要素を入れることで、ウソ要素も強調してきたのがゾンビランドサガだと思う。
結構これはクリティカルな話題で、ゾンビ以前にアイドルという偶像芸能人もウソっぽいものだ。そして、アニメキャラクターも、もちろんただの絵をたくさん並べて動いているふりを「アニメートで」させているだけでゾンビと同じようなウソの生き物です。
なので、ウソで感動できるかどうかっていうのはアニメやアイドルっていう日本ではやっているポップカルチャーに感動できるのか?って言うところにもつながってしまう。
そうなんですが。なので、もうここからは個人的な好みの問題になるんですが。
僕はアニメが嘘だとわかった上で愛好しているオタクなので、ウソは好きですね。僕自身も嘘くさい人間なので。
まあ、ゾンビランドサガは色々と嘘くさい部分もあるので、そこに対して鼻白む人も当然いるでしょうね。
嘘だとしても、ゾンビランドサガRの終盤を見たときに感じた個人的なエモーションは本物だと思う。自分の感情も嘘だと思ったら、それはもう生きていても仕方がないということになるので。結局、感動は個人のものです。
ていうか、この作品は所詮B級ホラー映画のオマージュでしかないB級アニメだし、そこまで真面目になる必要もない。でも、それを好きだと思うかどうかは個人の自由です。
おわり。
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