玖足手帖-アニメブログ-

富野由悠季監督、出崎統監督、ガンダム作品を中心に、アニメ感想を書くブログです。

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#Gレコ 女の役割について監督と揉めた完結編 ノレドが笑った理由

 基本的に僕はテレビ版のGのレコンギスタを肯定する立場だし、テレビ版が分からないという一般的な意見には反対の立場をとるオタクだ。わからなかったら分かるまで見たらいいだけじゃん。


 それはそれとして、富野由悠季監督が「女性の復元力を描きたい」とテレビ版でテーマに据えていて、最終回のエピローグでベルリ・ゼナムが「女の人ってすごいな」と発言したことについて、放送終了直後の富野由悠季監督の講演会の後のサイン会で噛みついてもめごとになった。

nuryouguda.hatenablog.com

 飲み会の席で女性に「ねえ、グダちんさん、『女の人ってすごい』ってどういう意味なんですか?わたし女なんですけどよくわからないです。」と言われたのだ。


 その女性からは「いや、女ってそんなにすごくないし。自覚が無いです。男からそう言われてもちょっとよくわかんないです」と言われてしまった。



 そこで、僕のサインの時に
「なんでベルリは最終回に『すごいなぁ、女の人って』と言ったんですか?」と、35年前に「なんでアムロは最終回に『僕の大好きなフラウ』って言ったんですか?」と言って怒られたような質問を投げかけてみた。


 それに、富野監督が「女性の復元力を描きたい」と言っても、そのテーマを主人公のベルリ君にセリフで代弁させるのはちょっとシナリオとして雑なんじゃないのかな、って思った。なので、聞いてみた。


 普通に聞いたら「お前は童貞だからわかんねーんだよ!死ね!」って怒られるに決まっているのだが、「いや、監督、先日僕が一緒に飲んだ女性が最終回についてわからないって言ってるんで教えてあげてくださいよ」と、テクニカルに質問してみた。いや、女性の疑問に答えてあげるのは大事なことだよね?フェミニストだからさ。


 で、サインを書いてもらいながら僕が質問すると富野監督はいつもの調子でこういったものだ。
「え~、ですからそれはこういうわけです。ベルリ君と言うのは、色んな不幸なことを引きずっているわけです。でも、女性と言うものは次のステージにパッパと切り替えて進んでいくことができるんです」
そうおっしゃるのは分かっていたんです。
「でも、僕が会った女性はそんな実感はないと言うのですよ、監督」
「うるせー!俺は女じゃないんだからわかんねーよ!」(追記;顔は笑ってらっしゃいましたよ)
「ですよね。女もいろいろですよね…」



 という、不毛な喧嘩をしてしまった。なんで30代独身男性と70代既婚男性が女性観について公衆の面前で議論するんだろう。本当に富野監督といると不思議なことが起こりますね。
 さすがに他のお客様もいらっしゃったので、「富野監督の女性観は間違ってるんですよ!」とか「テーマを主人公にそのまま語らせるなんて下手くそですね!」とか「女性の気持ちを分かる努力をしないで女性キャラクターを書いてるんですか?」などと面と向かって酷いことを言うのは差し控えて、「女性もいろいろいるんですね。僕も色んな女性と会って勉強したいと思います」みたいに言ってその場を後にした。
 とりあえず、富野監督には「女性を描いているけど73歳にして女性のことは分からない」という「気づき」を得て次回作に生かしてくれたら、ファンとしては富野監督の人生経験と言うか脳のネットワークに一石を投じることができたかなあ、と思うんだよね。

 ひどいファンだなあ。わからないことは分かるまで見るけど、それでも分からんかったら作者にダイレクトに聞きに行く。
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 というわけで、劇場版が完結するエピローグのベルリ・ゼナム君のセリフが「女の人ってすごいなあ」という女性賛美から「ラ・グー総裁はフラミニアさんを外交官にするんだ」というセリフに変わっていたことを、とても重視したい。
 

 「女の人ってすごい」と言って一方的に女性を賛美するのも逆にセクハラなのでは?とか思うわけで。


 じゃあ、フェミニズム運動ってなんなのかっていうと、結局、個人としての女性が女性であることを理由にやりたいことを制限されるべきではない、という自由主義だと思うのだが。


 そういうわけで、フラミニア先生やミック・ジャックやクン・スーンが女性としてさっぱりと次のステージに行ってるというわけではなく、女性だからではなく、そいつがそういう奴だからそうしている、という風に変わった劇場版は、僕の「そんなに女性を女性だから単純にすごいっていうのもどうかな」という疑問に答えてくれたように思う。(オタクは自分が監督とやり取りしていると思い込んでいる)(でも、同時にオタクなので自分みたいなチンピラに左右されずに富野監督は偉大であってほしいとも思う)


 フラミニア先生はクレッセント・シップの医師でありつつ金星のラ・グー総裁を裏切ったGIT団に内通して、月のトワサンガでドレット家に負けたレイハントン家の元家臣たちのレジスタンスに浸透していて、ドレット軍の命令でG-セルフを地球に下ろしたラライヤ・アクパールとも親交が深かった多重スパイ(ややこしい)だったんだけど。(GIT団はドレット家と対立していたトワサンガのハザム政権とも内通している)
 劇場版ではフラミニア先生はスパイだから悪人だとか、断罪すべきだ、というわけではなく、むしろスパイだったので金星のGIT団にもクレッセント・シップにもトワサンガのレイハントン家派にも、メガファウナ一行の地球人にも広く顔が利く人になっていたので、ラ・グー総裁としては罪一等を免じて外交官に取り立てて働かせることで忠誠心を持たせつつ彼女の人脈を活かすという政治手腕が見れる。
 いや、スパイを許すラ・グーがすごいというより、もっと単純に、「人材は適材適所」という話だと思う。たしかに、地球と月と金星のほぼ全勢力と顔見知りのフラミニア・カッレさんは外交官として適任すぎる。


 アイーダ・レイハントンさんもテレビ版ではクレッセント・シップのラストの絵から、地球を一周した後、金星まで戻ってレイハントン家を女王として再興するのでは?という富野監督が企画で目指していた「女王誕生の物語」を予感させるものだったのだが。


 劇場版ではラ・グー総裁とテレビ版以上に深く語り合って地球圏や人類の問題を考えていたようだが、実際にやったことは「戦争も終わったので女子大生に戻る」という滅茶苦茶普通の行動だった!


 えっ?女王誕生の物語はどこへ?


 いや、まあ、ベルリが「僕は金星まで行ったけど学校の先輩に嫌われていたことにも気付かないようなぼんくらだったので、反省して足元を見つめなおすために地球一周の旅に出る」ということをしたわけで。
 アイーダ・レイハントンさんも、義父の死を乗り越えて指揮をして、戦争を終わらせたり、すごくかっこいい衣装を着て世界をクレッセント・シップで巡っていたけど、いきなり女王になるというわけではなく「とりあえず大学は出とく」という普通の行動をした。


 女はすごいので女王になる、という劇的な女性賛美ではなく、いや、19歳なんだから大学に戻る方が普通だろ。普通のことを普通にするよ。っていう劇場版のアイーダさんは一見、ダウンサイジングされたように見えるけど、でも、普通のことを普通にして大学で普通の学生として勉強してから大人になるという地道さの方が「ちゃんとしている」感じはする。ドラマとしては、レイハントン家を再興する女王になる!という方がスケールが大きい感じがするけど。アイーダさんの人生としてはとりあえず大学はちゃんと出ておく、という選択の方がキチンとしている気がする。(歴史政治学を勉強する話をカットされたノレドさんの要素がこっちにスライドしているとも)
 いきなり高貴な女王になるわけでもなく、毎回モビルスーツに乗るたびに髪をまとめていたシュシュを何となく忘れてケルベス・ヨー中尉みたいな気遣いができる男に探してもらう、みたいな普通っぽさが大事。(ずっとどうやって長い髪をまとめていたのか謎だったけど、ラストに明かされる衝撃の事実!まあ、シュシュは忘れっぽいけどまとめる作業自体は自分でやるっぽい)
 GのレコンギスタってSFマインドがすごくあるしメカとか巨大宇宙構造物とかすごい丁寧に描かれていたけど、ガンダムみたいな「宇宙に出たから人間はニュータイプに進化するんだ!」みたいな突飛な話ではなく、「宇宙海賊まで突っ走ったアイーダさんは普通の女子大生に戻ってまじめに勉強するし、二階級飛び級したベルリは2年は余裕があるので地球を歩いて回って見聞を広める」という、足元をちゃんと見るということの大事さを教えてくれる作品だった気がする。メカ戦闘や宇宙旅行など、映像的にはカラーリング・バイ・G-レコという感じで艶やかになっていたけど、物語の帰結としてキャラクターが選ぶ進路は地味。
 GのレコンギスタのGはGroundのGとかだし。


 クリム・ニックも自由人に見えて、大統領のように子どもを道具にするような親にならないために、子どもと妻と一緒に海を冒険して足元の人生をリアルに生きていこう、って感じだし。すごいまじめだな。
 

 なんか、金星まで行ってすごい冒険をしたので、今後の人生もすごいことをする、というわけではなく、地道に足元をちゃんと見ることが大事、というのがテレビ版のベルリの旅から描かれていたわけだけど。劇場版ではアイーダさんもいきなり女王になるのではなく、普通の女学生としての勉強を先にする方を優先する、っていう普通の人生だ。
 ∀ガンダムのキエル・ハイムお嬢様は大学では決まり切ったことしか教えてくれないのでグェン・サード・ラインフォードの秘書に就職して、女王になったけど。まあ、∀ガンダムの時代の感覚とリギルド・センチュリーの感覚ではGレコの時代の方が(地球にもコンピューターがあるので)教育機関としての大学はちゃんと機能してそうではある。アメリア帝国のニューアークは植物に覆われていて、∀ガンダムのビシニティやノックスより廃墟感があるけど。


 いや、別にテレビ版のGレコがダメだったとまでは言いたくないのだが。
 というか、テレビ版の直後に夏コミの同人誌に寄稿したGレコの評論文で「ヒーローや王子様になる必要はないのだ」ということを僕は評価していましたからね。

 作者や親の想定した範囲の外に出てほしい、というメッセージは子ども達に対する富野監督の熱いエールのように見える。また、少子化の現代において、親は子に過大に期待したり干渉するものだ。そんな自分の子を王子様やお姫様扱いして玩具や服やアニメやモビルスーツを買い与える現代のオタク世代の親に対して、『Gレコ』は痛烈な批判になっている。「私は私自身で見つけて、成し遂げます!」と宣言するアイーダと、王子様として期待された役割を脱却するベルリを通して、「王子や姫という役割を親や社会から与えられたからと言って従う必要はない」という自由なメッセージが込められている。

nuryouguda.hatenablog.com

 上記の評論文ではテレビ版のベルリの近親相姦は中途半端な描写だったと書いているが、劇場版G-レコの第三部では近親相姦の好意をベルリに向けられたアイーダのリアクションが追加されていて、より、納得できるものになっている。


 僕はあんまり劇場版G-レコについて「わかりやすさ」を価値としたくないのだが。(テレビ版が分からなかったら分かるまで見ればいいだけなので)
 劇場版は「分かりやすい」というより、個人的には「納得しやすい」という、似ているようでちょっと違う感じがする。


 劇場版は納得しやすい話に微調整されているので、普通は派手になりがちなテレビアニメの劇場版だけどG-レコの場合はラストで地に足のついた行動と、それを選ぶ選択の自然さが描かれているように見える。


 まあ、ラストは地に足がついて大地に立つ話だけど、それまでが金星まで宇宙船でカチコミするとか大気圏突入した流れのままモビルスーツで激闘を繰り広げるというハチャメチャに空中戦をしていた話ではある。


 なので、フラミニア先生やアイーダさんが「すごい女性の復元力」というちょっとふわっとした富野監督の理想像としての女性ではなく、「人脈があるので外交官になる」とか「戦争が終わったので学業に復帰する」という普通っぽい地に足がついた帰結になるのがいいと思う。「女性だからすごい」というより、「こういう人はこうするよね」という納得感が劇場版では増していると思った。


 適材適所というか、やりたいこととやるべきことをちゃんとやるっていう銀河美少年みたいな。


 ルイン・リーとマニィ・アンバサダのカップルもラストはテレビ版とあんまり変わってないんだけど、劇場版を見たら、なんかルインって意外と「ベルリに負けたと思ってない」のでは?と思った。たまたまG-セルフはカバカーリーと違ってコア・ファイターが付いていたので逃げやがった、と思うまである。(両足と飛行機能を失ったG-セルフに対して、両腕と飛行機能を失ったけど、両足と胸部バルカン砲があるカバカーリーの方がマシンとして勝ち目がある。全方位レーザーを撃つバッテリーはG-セルフにはなさそうだし)
 テレビ版では「勝負、懸けた!」ってジャブローの遺跡でG-セルフに撃ち込みに行くけど、劇場版では「いぶりだしてやる!」ってセリフに変更されていて、G-セルフのベルリがカバカーリーのライフル光に反射的に発砲してしまうのを誘っているので、試合運びはルインの方が優勢だったかもしれない。


 なのでルインも納得しているようだ。


 クリム・ニックも単に自由人だから南の島に美女としけこむというわけではなく、大陸間戦争を経験した大統領の息子の軍人として、反省したようだ。毒親にならないように自分の子どもを地球の海の自然に触れさせて狭いアメリアの国の国益とかメンツとか出世とかそういう役割に囚われない人間に育てたいし、自分もそういう男になりたいという動機の納得感が増している。


 また、劇場版で追加されたクリム・ニックのセリフとしては「ベルリ・レイハントンくんかい」という呼びかけだけど、ベルリは嫌そうにしている。でもベルリを皇子として担ぎ上げたいロルッカとミラジ以外で「ベルリ・レイハントン」と呼んだのはクリム・ニックだけ。(ロルッカとミラジも「ベルリ・レイハントン」とは発音してない)
 他の人は気を遣ってベルリがレイハントンの息子だと、あんまり言ってない。ハッパさんは技術屋として遠慮がないのでレイハントン・コードについてベルリに言って、ベルリは泣いてしまう。
 クリム・ニックも遠慮がない奴だし、むしろクリム・ニックは「他の人はどうせ言わないだろうから俺が言う」みたいな自覚がありそうなんだけど。クリム・ニックって偽名なんですよね。本名は「クリムトン・ニッキーニ」という大統領の御曹司らしい名前だけど。
 まあ、「ズッキーニ・ニッキーニ大統領」という名前も野菜か?って感じだが。


 クリム・ニックというニックネームを名乗っている男が「ベルリ・レイハントンくん」といってわざと嫌な気分にさせるのって、逆に「お前も本名が気に入らなかったら好きに名乗ったらいいんだ」と先輩として言ってる気がする。クリム・ニックって腕白なアホの天才バカに見えて、人間観察をすごいしているし、大統領の息子というエリートに生まれたからか人心掌握術やコミュニケーション能力も高い。怒りやメンツに任せて暴走しないで、引くときは引くし。
 大統領の息子だからと親の七光りで偉ぶるのではなく、自分の地位は自分の武勲で昇進するというプライドがあるし。(まあ、そのために滅茶苦茶殺すし、戦争は拡大させるけど)


 勝手に好きな名前を名乗っているクリム・ニックがベルリ・レイハントンくんと言っていやな気分にさせるのも、「名前なんて希望でしょ」ということと被っている。名付けた人のレールに乗らないで好きな自分になっていいということ。


  • 大人の役割

 クリム・ニックって脳天気な天才バカに見えて、「自分の親がやった間違いを自分の子どもには体験させたくない」という繊細な反省で子育てプランを考えている男。なので、彼は大学に行って勉強するというよりは広い世界を見に行くし、精神的にはもう親になる覚悟ができている男だし、大人になっている。天才なのでたぶん、アイーダさんみたいに大学には行かなくてもいいだろう。大隊指揮官の大尉にまでなったし。


 そんなクリム・ニックの生き方がベルリに旅に出る決意をさせる影響を与えたようになっているけど。モテモテで序盤はラライヤなど女の子を平気で道具にするような所もあったクリム・ニックが親になる覚悟をしたのは、大統領を潰したこともあるけど、妊娠したクン・スーンとクレッセント・シップで交流があったということも影響していると思う。
 クリム・ニックとミック・ジャックはクン・スーンを殺そうとしたし、実際にクン・スーンのバディだったチッカラ・デュアルを殺しているんだけど。なんとなくローゼンタールも受け入れられたし、ミック・ジャックは殺しかけたクン・スーンと親しくなった。クリム・ニックはミックと違って、殺しあったクン・スーンと直で顔を合わせてないのかもしれないけど。
 

 それで、クン・スーンが地球人であるメガファウナ陣営と行動を共にしたのは、やっぱりベルリ・ゼナムがクン・スーンを殺さないように頑張って「地球には、あんな奴もいるんですよ」と夫のキア・ムベッキに見せて、キア・ムベッキが死ぬ原因になったベルリに対して納得したというのも理由だと思う。
 なので、クリム・ニックがベルリ・ゼナムに地球を旅する動機を与えたように見えるけど、クリム・ニックが親になることを考えたのはベルリがきっかけなのかもしれない。


 と、同時にテレビ版よりも尺が割かれていたのが「ウィルミット・ゼナム運行長官とベルリの再会」だ。テレビ版はどうしても時間の尺があってせわしない感じだったけど、劇場版ではウィルミット・ゼナム運行長官が戦い終わったベルリ・ゼナムを抱きしめるシーンが追加されていた。
 テレビ版ではウィルミット・ゼナム運行長官とベルリ・ゼナムの再会はキャピタル・タワーの軍事基地になったナットの中で果たされていて、そこでは「キャピタル・アーミィに負けてしまった情けない母」とか、「金星までベルリは行ったのに、地球のタブーに頑固でベルリの旅を考えていない母」というネガティブで富野作品の手癖っぽいディスコミュニケーションだったのだが。
 劇場版ではあえてキャピタル・タワーでベルリとウィル長官が再会しないで、最後の戦闘の後に再会して、「ビーナス・グロゥブまで行って…」と息子を抱きしめる追加シーンになる。しかも、劇場版ではウィルミット・ゼナム運行長官がずっと結んでいた髪の毛をバラバラにほどかしているんですね。
 リギルド・センチュリーはトランスジェンダーも普通にある世界だけど、ウィルミット・ゼナム運行長官はやっぱりアーミィの男たちにババァとやっかまれていた女傑なんですが。なので、彼女が髪を結んでいたのはある意味、男社会に対する武装という面もあると思う。
 (まあ、キャピタル・タワー管制官は男女比は割と半々くらいなので女性だから出世しにくいというわけでもない感じだけど)
 その武装してきっちりしていた髪の毛を振り乱して、つまり公職の長官であるという社会的地位や仕事の体面を捨てて、母として息子を抱きしめるウィルミット・ゼナム運行長官の愛情を、劇場版ではクン・スーンが見る。なので劇場版では「地球にはあんな奴もいるんですよ」がベルリだけでなくウィル長官にもかかっていて、それがクン・スーンに母親になる自覚を持たせたのかもしれないとまで考えられる。


 劇中では結局、グシオン・スルガン総監とウィルミット・ゼナム運行長官がなぜ孤児を引き取ったのかという理由はよくわからないままだったのだが。
 里子であってもグシオンとウィルは子どもをキチンと愛していた。そして、その子どもを愛する親の大人としての役割を果たす姿をクン・スーンに見せて、クン・スーンもキア・ムベッキ・Jrをちゃんとひとり親で育てていこうという決心がついたのだろう。という納得感が劇場版では強まっている。


 ベルリはレイハントン家の再興という役割に縛られないで出奔して、それでいいんだけど。人は自由にやっていいのだけど。最低限、「親は子を愛する」という役割を見せることの連鎖が、ウィル長官を見たクン・スーンからクリムを通じて、ベルリが自由な旅に出るきっかけになっている構図に、劇場版はなっている。


 まあ、アイーダさんが大学に行くのと同じでウィルミット・ゼナム運行長官が息子を抱きしめることも「自分がやるべきことをちゃんとする」ということなのだろう。
 テレビ版で割と各話においてブツ切れだったり散漫だったり尺が足りてない部分を、映画にするにあたって、「浮ついたことをするより、やるべきことをやる」という一貫性でまとめているようだ。


  • ノレドと歴史政治学と恋

 そういうわけで、富野監督の当初の「女王誕生」という大仰なテーマは劇場版ではうやむやになったのだが。(ヒミコヤマトでやるんですかねえ)


 それと同時に、みんなが注目したのはやっぱり、ラストシーンでのノレド・ナグさんだろう。
 で、ウィルミット・ゼナム運行長官がベルリとキャピタル・タワーで再会しなかったのと同じく、テレビ版では印象的だったノレド・ナグさんが看護師のキラン・キムさんに「あなたは歴史政治学をやりなさい」と言われたシーンが劇場版ではカットされている。
 テレビ版ではモビルスーツに乗るとか看護の仕事をするとかいう戦場で目に見えて役に立つことではなく、長期的に歴史政治学を勉強しなさいということの方が教訓的に見えたのだが。
 でも結局G-ルシファーには砲手として乗るんですけど。


 そして、やっぱり看護師をするより歴史政治学をしなさいというのはちょっと、教訓的過ぎるというか押しつけがましいとか、お説教臭い感じもする。新型コロナウィルス感染症の流行の前にG-レコの劇場版の絵コンテは書き終わっていたらしいが、歴史政治学の方が看護師などエッセンシャルワーカーより偉い、ということもない。
 まあ、僕はテレビ版については「ノレド・ナグさんは元々セントフラワー学園で歴史政治学を学んでいたので、ちょっと海賊船に乗ったくらいで進路を変えるのはよくない」という風に解釈していたのだが。セントフラワー学園もなんだかんだ言ってあの世界の中心であるキャピタル・テリトリィの名門校であることには違いないと思うので。ノレド・ナグさんもチアリーディング部だけをやってるわけではなくちゃんと学生として勉強はしてたと思う。


 でも、やっぱり歴史政治学をやりなさいというのは、テレビ版のころの富野監督がハンナ・アーレントにハマっていたのが見えている感じでもある。なので、ハンナ・アーレントのような学者になったノレド・ナグさんが若いころを振り返ってGのレコンギスタという物語を青春の日の思い出として追想する、という文学的な構図も富野監督の中にあったのかなあと思うが。


 劇場版ではそういう文学的構図より、ライブ感が強調されているようだ。


 で、多くの観客が「劇場版でノレドが報われた」と感想をネットに書いているのを見たけど、僕は違うと思う。


 ヒロインは主人公と結ばれることで報われる、という価値観はヒロインに対して失礼な気がする。別に十代の恋が成就することだけが幸せじゃないし、だいたい十代の恋愛なんて上手くいかないもんです。


 ただ、劇場版では「やるべきことをきちんとする」というのが重視されたいたと思う。
 で、ノレド・ナグさんにとって本当に「やるべきこと」とは何だろうかと考えたのだが。まあ、一応、セントフラワー学園での学科は歴史政治学専攻だとして、それは学籍という身分に過ぎない。
 本質的にノレド・ナグさんがどういう人かというと、ラライヤ・マンディの世話をアーミィに押し付けられたのに率先してやっているし、劇場版第一部の追加カットからもそれは強調されていたので、「人の面倒を見るのが好きな子」だと思う。輪るピングドラム劇場版と同じく、困っている子を放っておかない子。
 (記憶喪失の子を転校させて世話を女子高生に丸投げするアーミィはギャングみたいなものだな)


 人の面倒を見る人や奉仕する人は割と保育士とか下男下女とかエッセンシャルワーカーのように軽視されがちなのだが、困っている人を放っておかない、というのも人間の美徳だと思う。で、ラライヤ・アクパールさんが強い戦士に戻り、戦争も終わって、という時点でノレドさんが誰の面倒を見たいと思うのかというとチュチュミィの世話をするのではなく、ベルリだろ。あの時点で誰が一番困っているか、もしくは困ったことになりそうなのかというと、ほぼノープランで地球一周という蛮行に出たベルリ。


 だって、ベルリ、金星まで行ったと言っても基本的にモビルスーツや宇宙船の中だし。体一つで旅をすることについては初心者だし。そのくせ、地球を一周して地球の大きさを確かめる旅のルートに、よりにもよって「ゴビ砂漠」を選ぶ。いや、人が多いけどマレー半島からインドに行った方がいいと思うのだが。ゴビ砂漠、夏は40度を超えて、冬は零下40度を下回る過酷な土地。なんでそんなところを通るのかな?
 アホなのかな?そして次に行くのはたぶん「タクラマカン砂漠(「死」とか「入ったら帰れない土地」という意味)」アホなのかな?
 なんか動物の頭蓋骨とか転がってるけど。死ぬやん。


 ベルリは「僕はG-セルフのことしか知らなかった!」と大反省して「地球のことを知るぞ!」って飛び出していったけど、やっぱり基本的に飛び級生だし「自分は有能だし何となくそこそこうまくやれるだろう」というナメた気分はある。そういうベルリの自分を過信するところが劇中の戦争でベルリを窮地に追いやってメンタルをガンガン削っていったのだが。


 ベルリは一人旅初心者のくせにゴビ砂漠を選ぶ。そして、シャンクに後付けで砂漠用ブーツを履かせたり腕をつけて日よけを兼ねて太陽光パネルを屋根にして、その他にもゴテゴテと色んな部品をつけてる。
 ベルリは「G-セルフのことしか知らなかった!」って反省してシャンクで冒険の旅に出たけど、やっぱりG-セルフのバックパックみたいにシャンクに外付けの部品をつけて拡張するー。まあ、それはそれで工夫は見られるしベルリらしいと言えばベルリらしいんだけど。太陽光発電パネルを日よけにするのはスコード教のタブーがあんまりないかもしれない、キャピタル・テリトリィから地球の裏側の日本とか中国大陸を通って学んだことかもしれないけど。(日本人は富士山が何回噴火しても意地でも東海道に新幹線を走らせる。中山道・・・)
 やっぱりね、男の子はメカが好きなので…。


 でもベルリがいかに有能で、その土地の人(富野由悠季監督みたいな農家の頑固っぽいお父さんとか)と円滑にコミュニケーションをできて、シャンクを土地に合わせて改造できたとしても、初心者のくせにゴビ砂漠を通ることを選ぶのはアホとしか言いようがないので、そんな奴は放ってはおけないでしょう。死ぬので。面倒見のいいノレドさんにとっては放っておけないと思う。


 だから、ノレドがベルリと結ばれて報われたって言うんじゃなくて、ノレドが「私は人を助けるのが好きだから、やりたいことをする!」ってベルリを助けてくれたんだと思う。なんだかんだ言ってベルリも寂しくなってきたころっぽくて嬉しそうに手を振ってたし。ていうか一人だと死んでたと思う。ほっとしたと思う。


 だから、ノレド・ナグさんは笑ったんですよ。僕はあの笑い声は「やりたいことをやってやった!ざまーみろ!勝ったな!」という笑いだと思った。エッチな意味というより、やり遂げた満足。自分を振ったつもりで出て行った男でも放っておかない!という気持ちで、「人の世話をしたいという、自分のやりたいことを一貫してやってやった」という満足感だと思う。


 フラミニア先生が外交官になったり、アイーダさんが大学生に戻ったり、クリム・ニックやクン・スーンやウィルミット・ゼナム運行長官が親としての役割を自覚したり、「やりたいこととやるべきことを一致させる」という適材適所で生きるというのを見せたのも、ノレド・ナグさんが単に好きな男についていったというだけじゃなくて、ノレド・ナグさんは「人の面倒を見てやるのが好きな人」ということを納得させるための作劇の一貫性なんじゃないかなーって。


 それに、確実に機械に頼っているベルリより、さっそうとラクダを乗りこなしているノレド・ナグさんの方がサバイバル能力が高いと思う。日傘はあんまり意味ないと思うけど、余裕があるんだと思う。(まあ数千年後の未来なので現在のゴビ砂漠よりは気温が低いという設定もあるらしいが)


 だから、Gのレコンギスタという映画の総括としては、世界の謎を解き明かすために金星まで大冒険したり、戦争に決着をつけるのも大事だけど、本質的には人は自分の得意なことや立場に応じてやるべきことや、やりたいことを一貫してやるのがいいし、「やりたいことをやろう!」という話、だと思いました。
 女だからすごいとかそういう概念的な話ではなくて、人は自分に合ったことをやるのがいいよねって言う。


(これ、第五部を見た日に思い付いた感想なんですけど、まあ、体調を崩したりゲームをしたり、体調を崩しながらもブログを書くよりも劇場公開しているうちに映画館に何回も行ったりすることを優先していて、結局一か月近く書けなくて、すみませんね)


 まあ、テレビ版ではいろいろと辛い目にあったベルリが、いろんなしがらみをすべて捨てて一人で旅をするっていうところには爽快感を感じたけど。
 劇場版では男に捨てられてもアホな男の面倒を見るために追いかけてやるっていうノレドさんの勝利の笑いに爽快感を感じました。
 まあ、いろいろと役割とか適正はあるんだけど、若者はやりたいことをやるのが一番!


  • 半日

 これは妄想なんですけど、ハンティング能力の高いノレド・ナグさんが半日もゴビ砂漠でボケーっと男を待っているわけがないと思う。
 多分、モンゴリアン・デス・ワームとも言われた砂漠の蛇とかトカゲとかをパチンコでバリバリ狩ってた気がする。そして干物を作る。だから、多分ラストのテントの中ではベルリに爬虫類を食わせて、ベルリがすごい顔をしたので爆笑したのかもなーって、そういうゴールデンカムイみたいなところもあるんじゃないかなって。(ベルリは現代っ子っぽいしリギルド・センチュリーは保存食が発達しているので軽量高カロリーの食事を溜めてそうだけど。ノレドさんはハンターなので食い物は現地調達)


 パチンコでベルリを食わすパチプロ(物理)ノレドさん…。

 

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↑グダちん用


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